奪う人たちは放っておいて私はお菓子を焼きます

タマ マコト

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第17話 嫉妬という名の違和感


扉の鈴の音が、今日は少し遠くに聞こえた。

チリン。

音は同じはずなのに、シルヴァンの耳にはいつもより薄く届く。
数日ぶりに戻った領都の空気は、王都よりずっと軽い。
軽いのに、胸の奥だけが重い。

王都の紅茶は完璧だった。
完璧で、味が足りなかった。
だから戻ってきた。
必要な仕事を終え、必要な礼儀を終え、必要な言葉を終え、戻ってきた。

戻ってきた、というより——
戻らずにはいられなかった。

それを認めるのは、まだ怖い。

シルヴァンは外套の襟を整え、敷石で靴底を軽く払う。
土が落ちるほど汚れていないのに、いつもの癖が手を動かす。
癖で整えた動作が、彼の呼吸を整える。

扉を押す。

店の中は、甘い匂いで満ちていた。
バター。砂糖。焼けた小麦。
そして、午後の光がその匂いを持ち上げるみたいに揺れている。

——ああ。

胸の奥が、静かにほどけかけた。

けれど同時に、別のものが刺さる。

窓辺の席。
いつもの席は、空いていなかった。

そこに座っているのは、シルヴァンではない。
見知らぬ男——年は二十代の終わりか三十前半。身なりは良く、笑い方が軽い。
クラリスと向かい合って、カップを持ち、楽しそうに話している。

シルヴァンは一歩、店内へ足を入れたところで止まった。
空気の温度が、ほんの少しだけ変わる。

クラリスが笑った。

いつもの控えめな笑いではない。
ふっと、軽くほどけるような笑い。
客が言った何かに、心から反応した笑い。

その笑いを見た瞬間、胸がざわついた。

ざわつきは怒りではない。
熱くなるわけでも、目が細くなるわけでもない。
ただ、胸の奥に小さな波が立つ。
波が立つと、足元が少しだけ揺れる気がする。

——何だこれは。

シルヴァンは自分の呼吸を探した。
吸って、吐く。
王都で身についた“崩さない呼吸”は、こういう時に役に立つ。
顔には出さない。
表情は整える。
整えたまま、心臓だけが勝手に動く。

クラリスはまだ、シルヴァンに気づいていない。
忙しい時間帯。客が多い。
店の奥で子どもが袋を抱えて走り回り、老婦人が棚を覗き込んでいる。

その中で、窓辺だけがやけに目立つ。

シルヴァンは自分が窓辺の席を“常連席”だと思っていることに気づいてしまった。
誰にも宣言していないのに。
誰にも認めさせていないのに。
自分の中だけで、その席が“自分の場所”になっている。

その場所に、別の人が座っている。

胸がざわつく。

——いや、違う。

席の問題ではない。
と、思いたい。

シルヴァンは視線を落とし、棚の焼き菓子を眺めるふりをした。
バタークッキー。紅茶葉入り。小さなスコーン。
どれも香りが生きている。驚きがある。後味が残る。

味はここにある。

なのに、胸の渋みが取れない。

渋みは言語化できる。
茶葉の渋みなら、舌の上のどこに残るか、喉にどう落ちるか、温度でどう変わるか説明できる。

でも、この渋みは違う。
舌ではなく胸に残る。
胸に残って、時間差で疼く。
気づいた瞬間に遅れて痛む。

——何だこれは。

クラリスの声が聞こえる。

「じゃあ、ルカ。いつものは少しだけ薄くするね」

ルカ。

客の名前。

クラリスが、自然に名前を呼んだ。
その呼び方が、家族にするみたいに自然で、距離が近い。

呼ばれた男——ルカが笑う。

「さすが。わかってる。今日、朝から甘いの食べたくてさ」

「それ、昨日も言ってました」

「昨日は昨日。今日は今日」

「わがまま」

言い合いのリズムが軽い。
軽いのに温かい。
言葉の端が、柔らかい。

シルヴァンの胸が、またざわつく。

小さな差が刺さる。

——自分は、名前で呼ばれたことがない。

「シルヴァン」と呼ばれたことはある。
あるけれど、それは“名乗ったから”だ。
こちらが差し出したから、彼女は受け取っただけ。

彼女が自分から、呼びかけるように名を言ったことは、まだない。
「シルヴァン、いつもの?」みたいな軽さで。
「シルヴァン、これどう思う?」みたいな距離で。

それが、今、目の前で起きている。
別の男に対して。

シルヴァンは自分の手が、無意識に外套の袖口を撫でているのに気づいた。
整える癖。
乱れた気持ちを、布で整えようとしている。

——馬鹿みたいだ。

そう思うのに、胸は静かに揺れる。

居場所が揺れる。

この店に居る自分が、突然薄くなる。
透明になる。
窓辺の席の光が、別の誰かに落ちているように見える。

シルヴァンは喉の奥で、息を飲んだ。

クラリスがようやく顔を上げた。
そして、シルヴァンを見つける。

「あ」

短い声。
驚きではなく、見つけた声。

それだけで胸がほどけかける自分が、また悔しい。

クラリスは慌てない。
笑顔の温度を変えない。
ただ、いつもの声で言う。

「おかえりなさい」

おかえり。

城では言われない言葉。
王都では言われない言葉。

その言葉が胸に落ちた瞬間、渋みが一瞬甘くなる。
でも、窓辺の席の景色がまだ刺さっている。

「ただいま」

シルヴァンは答えた。
自分でも驚くほど、自然に。

クラリスはルカに言う。

「ルカ、少しだけ待ってて。常連さんが来た」

常連さん。

その呼び方が、今は妙に胸に痛い。

ルカが視線を向けて、軽く会釈する。

「どうも」

シルヴァンは会釈を返した。
礼儀は崩さない。
崩せない。

クラリスは焼き菓子を袋に詰め、他の客の会計を終え、少しずつ店内の波を落ち着かせていく。
その手際が、数日見ない間にさらに滑らかになっている気がした。

——彼女の生活が、回っている。

自分がいなくても回っている。
それは良いことだ。
良いことのはずだ。

なのに胸が渋い。

やがて客が減り、ルカも袋を抱えて立ち上がった。
窓辺の席を離れる時、椅子が軽く鳴る。
その音に、シルヴァンの心臓が反応してしまう。

ルカはクラリスに笑う。

「また明日な」

「明日も来るんですか」

「来る。甘いのある限り」

「……じゃあ、焼きます」

「頼む」

ルカは扉へ向かい、チリンと鈴を鳴らして出ていった。

店内が静かになる。
午後の光が、少しだけ傾いている。

クラリスが窓辺の席を拭く。
丁寧に。いつも通り。
そして、何も言わずにカップを二つ並べた。

“元に戻す”動作が、自然すぎて胸が痛い。
戻すということは、そこが元だったということ。
自分の席だったと、店が認めているみたいで。

認められて嬉しいのに、
さっきの揺れがまだ残っているのが自分でも分からない。

クラリスが言う。

「今日はいつもより早いですね」

「……王都が合わない」

「でしょうね」

返しが軽い。
軽いのに、優しい。

シルヴァンは紅茶の香りを吸い込んだ。
足りない日々を抜けて、香りが胸に落ちる。

甘さが戻る。
驚きが戻る。
後味が戻る。

それなのに、渋みがまだ残っていた。

シルヴァンは自分の中の渋みを、舌の上の渋みみたいに扱おうとする。
言語化すれば消える。
分析すれば整う。
整えば安全。

でも整わない。

整わないまま、口が勝手に動いた。

「……あの人は、あなたに近すぎる」

言った瞬間、店の空気が一瞬止まった。

クラリスが目を瞬かせる。
驚いた顔。
怒るわけでも笑うわけでもない、純粋な驚き。

「……珍しいですね。そんなこと言うなんて」

シルヴァンは、そこで初めて自分の言葉を聞いた。
自分の耳が、今の言葉を拾って、遅れて刺す。

近すぎる。
何を言っている。

彼は咳払いで誤魔化そうとした。
でも咳が出ない。
誤魔化すための動作が、今日はうまくできない。

クラリスは責めない。
いつも通りの温度で問い返す。

「ルカのこと、ですか」

シルヴァンは頷くしかなかった。
頷くと、さらに自分が滑稽になる。

「……そう」

「ただの常連さんですよ」

「常連」

シルヴァンは単語を繰り返した。

常連という言葉は便利だ。
便利すぎて、胸の渋みを隠す。

クラリスが少しだけ首を傾げる。

「シルヴァン、どうしたんですか」

名前。

彼女が今、自然に名を言った。
呼びかけるように。
距離が近い言い方で。

それだけで、胸の渋みが一瞬揺らぐ。
そして、さっき刺さった小さな差が別の形を取る。

——欲しかったのは、席じゃない。

——自分の名前を、彼女の口から自然に落としてほしかった。

それは独占欲だ。
独占欲という言葉は知っている。
でも、自分のものにしたいという乱暴な欲とは違う気がする。
クラリスを閉じ込めたいわけではない。
笑うなと言いたいわけでもない。

ただ。

自分がいない場所で、彼女が誰かと笑っているのを見た時、
自分の居場所が揺れた。

揺れるのが怖かった。

怖かったから、言葉が尖った。

シルヴァンはカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
渋み。香り。温度。
舌の上のものは分かる。
でも胸の中のものは、まだ分からない。

「……信用できないわけではない」

ぽつりと言うと、クラリスが目を細めた。

「そういう言い方、しますね」

「……ただ」

ただ、の後が続かない。
続かないから、彼は苦しい。

クラリスは静かに言った。

「私、ルカのことも大切にしますよ。お客さんだから」

「分かっている」

分かっている。
分かっているのに、胸が揺れる。
その揺れが、自分でも扱えない。

シルヴァンはようやく気づき始めた。

自分が守りたいのは、この店の看板ではない。
この店の制度でもない。
この店の評判でもない。

——クラリスを含む、この静かな世界だ。

午後の光が似合う台所。
粉が舞う空気。
かつん、と鳴るカップの音。
「常連さん」と言う声。
「おかえりなさい」と言う声。

その全部の中心に、クラリスがいる。

中心が揺れた時、自分も揺れた。

シルヴァンは視線を落とした。
自分の心を見ないふりは、もうできない。

クラリスが言う。

「……ねえ、シルヴァン」

柔らかい声。
呼びかける声。

シルヴァンは顔を上げた。

「はい」

クラリスは笑った。
さっきルカに向けた笑いとは違う。
もっと静かで、もっと近い笑い。

「今日は紅茶、少し濃いめにします?」

その問いかけが、救いだった。
感情の正体を言えなくても、ここにいていい、と言われた気がした。

シルヴァンは息を吐いた。
渋みが少し薄まる。

「……お願いします」

午後の光は傾いている。
窓辺の席に、二つのカップが並ぶ。

居場所が揺れた。
でも揺れたことで、居場所の形が見えた。

それが嫉妬という名の違和感だと、彼はまだ呼ばない。
呼べない。

ただ、確かに理解し始めていた。

自分はこの静かな世界を守りたい。
その世界の中心にいる彼女を、守りたい。
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