婚約者に捨てられた夜、異世界で猫と運命が再起動!猫がいるので全部うまくいきます

タマ マコト

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第16話:あかりは迎える側になる

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 縁の書庫の朝は、昨日の続きをちゃんと連れてくる。
 痛みも、安心も、寝ぼけたまま部屋の隅に座っていて、
 「おはよう」と言えば、どっちも少しだけおとなしくなる。

 あかりは胸元の護符を指で押さえた。
 棄却の裂け目はまだある。
 でも黒は、もう“底なしの黒”じゃない。
 縁が淡い金ににじんで、光が生まれる余白ができている。

「……これ、私の色なんだ」

 独り言は、書庫の静けさに吸われる。
 吸われるのに、消えない。
 ここでは言葉が整列する。
 だから、独り言も自分の中に棚として残る。

 台所へ向かう廊下で、ミラの笑い声が聞こえた。
 いつも通りの勢い。
 でも最近、ミラの笑い声には少しだけ“根”が増えた気がする。
 恐怖の影は消えていない。
 それでも、影の下に小さな土ができている。
 そこに日常が根を張り始めている。

「おはよー! あかりさん! 今日の顔、昨日より生きてる!」

「それ褒め方ひどい」

「褒めてる! 人間は生きててナンボ!」

 パンを焼く匂いが広がる。
 湯気が白い。
 ルゥはいつもの席――ミラの足元――に陣取り、当然のように喉を鳴らした。

「この猫、あかりさんより私のこと好きじゃない?」

「それはない」

「即答!」

 あかりが言うと、ルゥがちらっとこっちを見た。
 金色の目が、少しだけ柔らかい。

「猫は、好きの種類が違う」

「言い訳くさい!」

 ミラが笑って、鍋の蓋を鳴らす。
 あかりはスープを飲み、息を吐いた。
 昨日の祭壇の光景が、まだ目の裏に薄く残っている。
 でも、その残り香はもうあかりを引きずらない。
 あかりは戻ってきた。
 ここに。

 そのときだった。

 廊下のほうから、急いだ足音がした。
 司書見習いたちの足音は静かで、慌ただしくても規則的なのに、
 その足音は規則を知らない。
 焦りと迷いが混ざった、ばらばらな音。

 そして――匂い。

 棄却の匂い。
 酸っぱくて冷たい。
 でも、あかりの匂いとは違う。
 別の裂け目の匂い。
 別の“捨てられた夜”の匂い。

 あかりのスプーンが止まった。
 ミラも息を止める。
 ルゥの耳がぴんと立った。

「……来た」

 ルゥが小さく言った。
 その声には警戒より、確認があった。
 “縁の波が入ってきた”という報告。

 台所の入口に、人影が立っていた。

 女性。
 二十代半ば。
 髪は黒に近い茶で、後ろでひとつに束ねているのに、ほどけた毛が頬に貼りついている。
 目は大きい。明るい形をしているのに、目の下に疲労の影が薄く落ちている。
 笑おうとすると笑える顔なのに、笑いの裏に“寝不足”みたいな薄い諦めがある。

 服装は――現代。
 薄いコートにスニーカー。
 そして、胸元の奥に見える、黒い裂け目の気配。

 護符を持っていない。
 だから匂いがそのまま漏れている。
 冷たくて、痛い匂い。

「……すみません」

 声が震えていた。
 でも、言葉はちゃんと形になっている。
 震えながらでも礼儀を残せる人は、壊れてない。

「ここ、どこですか。えっと……図書館、ですか?」

 言い方が現代口調で、あかりの喉の奥がつんとした。
 懐かしい。
 でも、それ以上に痛い。
 現代の人だ。
 異界人だ。
 棄却の匂いだ。

 ミラが反射的に前へ出そうとして、止まった。
 怖い匂いに引っかかる。
 捨てられる恐怖が動く。
 でも、それでもミラは彼女を追い払う顔をしない。

「え、えっと……うち、図書館だけど、普通の図書館じゃないやつ!」

「説明雑すぎ」

 あかりが小声で突っ込むと、ミラが焦って頷く。

「でもほんと! 普通じゃない! あの、あなた、怪我してない?」

「怪我は……ない、です」

 女性はそう言って、小さく笑った。
 笑ったのに、笑いの裏の疲労が濃くなる。
 笑う癖で、自分を守ってきた人の匂い。

 あかりは椅子から立ち上がった。
 足が動く。
 昨日までなら、動けたとしても“抱え込む動き”だった。
 今は違う。
 迎えるために動く。
 迎えるって、背負うことじゃない。
 境界線を持ったまま近づくことだ。

「名前、聞いていい?」

 あかりが言うと、女性は一瞬ためらって、でも答えた。

「朝霧……すずです。朝霧すず。二十四です」

 二十四。
 あかりより三つ下。
 笑っているのに疲れがあるのは、その三年分の重さじゃない。
 もっと別の何か。
 捨てられる恐怖より、捨てられ慣れた諦めが匂いに混じっている。

「私は柊木あかり。二十七」

 名乗ると、すずの肩が少しだけ落ちた。
 安心の匂い。
 “同じ言葉のリズム”を聞けた安心。

 ルゥがすずの足元に行き、鼻先を近づけた。
 すずが息を呑む。

「猫……喋る?」

「喋るよ」

 ルゥが即答した。
 ミラが「即答やめて怖い!」と小声で騒ぐ。

 すずは、泣きそうな笑い方をした。

「……なんか、全部夢みたい」

「夢じゃない」

 あかりが言うと、すずの顔が少しだけ歪んだ。
 歪みは、涙の前兆だ。
 その匂いが、酸っぱさの奥で甘くなる。

 あかりの胸の裂け目が、淡い金の縁を揺らした。
 同じ匂いを持つ人が目の前にいると、傷は共鳴する。
 でも共鳴は“抱え込め”じゃない。
 “分かる”という合図でもある。

「すずさん、ここに来た経緯、話せる?」

 あかりがそう言うと、すずは頷きかけて、途中で止まった。
 怖いのだ。
 話したら、確定してしまう。
 自分が捨てられた事実が、言葉の形になる。

 でもすずは、ちゃんと口を開いた。

「……私、捨てられました」

 その一言が、台所の空気を少しだけ冷やした。
 ミラの匂いが苦くなる。
 ルゥの尻尾が揺れる。
 あかりの胸が静かに痛む。

「仕事も、恋も、なんか全部。
 私、頑張るのが得意で、それで……“便利”って言われて。
 最後は『ありがとう』って言われて終わりました。
 あの言葉、優しいのに、刃物みたいで」

 すずの言葉は現代的で、でも感情が丁寧だった。
 頑張るのが得意。
 便利。
 ありがとうで終わる。
 それは、捨てられ方のパターンだ。
 優しさの皮をかぶった切断。

 あかりは息を吐いた。
 分かる。
 分かりすぎる。
 だからこそ、危ない。

 ――放っておけない。
 その衝動は、あかりの癖を呼ぶ。
 抱え込む癖。
 自己犠牲で自分を罰する癖。

 でも、あかりは今、それを見分けられる。
 自分の鎖を見つけた。
 自分の物語の席を譲らなかった。
 だから、今は迎える側として“条件”を出せる。

 あかりはすずの目を見て、言った。

「すずさん。ここで暮らすなら、ルールがある」

 すずが目を瞬いた。
 驚きの匂い。
 でも同時に、少しだけ安心が混じる。
 ルールは境界線。
 境界線は安全でもある。

 ミラが「おお……」と小声で感心する。
 ルゥが「あかり、成長」と言いたげに目を細めた。

 あかりは続けた。

「まず、書庫の外に勝手に出ない。
 次に、棄却の印を隠す護符をつける。
 あと……ここにいる人を“道具”にしない」

 すずが喉を鳴らした。
 “道具”。
 その言葉が刺さった匂い。

「私は全部は背負わない」

 あかりは最後に、はっきり言った。
 声が震えない。
 震えないのが怖いくらい、静かに言えた。

「助けるけど、潰れない距離でやる。
 それが私のルール」

 すずは、しばらく黙っていた。
 沈黙の中で、匂いが揺れる。
 恐怖。恥。安心。
 ぐちゃぐちゃのまま、でも確かに動いている。

 そして、すずはぽろっと泣いた。
 涙が頬を伝い、匂いが甘くなる。
 泣く匂いは、弱さじゃない。
 やっと緊張がほどけた匂いだ。

「……それでも」

 すずの声が震える。

「それでも……助けて」

 あかりの胸が痛んだ。
 痛む。
 でも、その痛みは昔みたいに“鎖”にならない。
 痛みは、ただ痛みとしてそこにある。
 それだけでいい。

 あかりは一度だけ目を閉じた。
 ルゥの背中の温度を思い出す。
 ミラの笑い声を思い出す。
 セレスの冷静な目を思い出す。

 “助ける”は、抱え込むことじゃない。
 “助ける”は、道具になることじゃない。
 “助ける”は、相手の人生を修理することじゃない。
 “助ける”は、一緒に息ができる場所を作ること。

 あかりは目を開けて、頷いた。

「うん。助ける」

 すずの肩が震えた。
 泣きながら、でも息が深くなる。
 初めて、酸っぱい棄却の匂いの奥に、白い匂いが混じる。
 正直の匂い。
 生きたい匂い。

 ミラが慌てて布を持ってきた。

「はい! 泣くならこれ! 台所の布は優しい! 顔拭いて! あとスープ飲んで! 泣いたら塩分抜けるから!」

「ミラ、医学雑すぎ」

「でも正しい!」

 すずが泣きながら笑った。
 笑いの裏の疲労が、ほんの少しだけ薄くなる。
 笑いが“鎧”じゃなく、“息”になる。

 セレスがいつの間にか台所の入口に立っていた。
 相変わらず気配が薄い。
 でも目は全部見ている。

「条件を出したな」

 セレスが淡々と言う。
 それは褒め言葉の代わりだ。

「……出した。怖かったけど」

「怖いのは正常だ。境界線は最初、痛い」

 あかりは胸元の護符に指を当てた。
 裂け目の縁の淡い金が、微かに温かい。
 新しい縁を結ぶほど淡くなる――古記録の言葉が、今、肌感覚になる。

 ルゥがすずの膝に前足を乗せ、短く言った。

「ここは、捨てない」

 ミラが「猫が言うと説得力えぐい!」と叫ぶ。
 すずがまた泣き、今度は少しだけ笑って泣いた。

 あかりはすずの前にしゃがみ、視線を合わせた。
 抱きしめない。
 でも離れもしない。
 潰れない距離で、迎える。

「すずさん。最初にひとつだけ、練習しよ」

「……え」

 すずが涙を拭きながら首を傾げる。
 あかりは小さく笑った。

「欲しいもの、言う練習」

 ミラが「出た! 欲しい練習!」と嬉しそうに両手を上げる。
 すずが困った顔で笑う。

「……今、欲しいもの」

 すずの匂いが揺れる。
 怖い。恥ずかしい。
 でも、少しだけ勇気。

「……眠りたい。安心して」

 その言葉が落ちた瞬間、台所の空気が少しだけ白くなる。
 願いが願いとして形になる。
 縁の芽が生まれる。

 あかりは頷いた。

「それ、叶えよう。条件付きでね」

「条件?」

「寝る場所は用意する。護符も付ける。
 でも、私が全部背負うわけじゃない。
 すずさんも、ルールを守る。守れないなら、助け方を変える」

 すずは涙をこぼしながら、何度も頷いた。
 その頷きの匂いは白い。
 嘘が少ない匂い。

 あかりは立ち上がった。
 迎える側になるって、背負うことじゃない。
 境界線を持って、手を差し出すこと。
 差し出した手を、自分の骨で支えられる形にすること。

 胸の裂け目の縁の金が、少しだけ明るくなる。
 あかりはそれを感じながら、静かに息を吐いた。

 捨てられた者として来たあかりは、
 今、捨てられた者を迎える側になっている。
 でももう、自分を捨ててまで迎えない。
 潰れない距離で、灯りを渡す。

 それが、あかりの新しい選択だった。
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