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第20話「黒幕だった少女の、幸せな選択」
しおりを挟む世界の終わりは、とりあえず来なかった。
空はちゃんと青いし、
村の朝はパンの匂いがするし、
広場では子どもたちが今日も全力で走っている。
――それだけのことが、
信じられないくらい尊くて、愛しい。
◇
「リュミエ、パン追加で焼けるか?」
朝の店先。
バルドおじさんが額の汗を拭きながら、
オーブンの前でもう一枚天板を構えている。
「王都の兵士がまた来るってよ。
“世界を救った英雄の店のパンが食べたい”だとさ」
「やめてくださいその紹介の仕方!!」
トングを持った手が思わず止まる。
「パン屋の看板に“世界救った”とかいりませんよ!?
“焦げ率高いけど味はいいです”くらいで十分です!」
「それ看板にしたら誰も来ねぇだろ」
バルドは豪快に笑った。
「いいじゃねえか英雄パン屋。
看板娘が勇者パーティ公認なんて、客が増えるに決まってる」
「勇者パーティ公認とか聞いてませんけど!?」
「アレンがさっき言ってたぞ。“ここのパンは世界一”って」
「いやあれ、ほぼ小麦とバルドさんの腕の力ですからね?」
口ではそう言いつつ、
胸のあたりが、じわっと温かくなる。
――黒幕だった頃。
世界中の人間を“数字”で見ていた自分が、
今は、パンの個数を数えながら、
誰かの「美味しい」のために息をしている。
あまりにも別世界すぎて、
たまに自分の人生がバグってるのではと思う。
でも、その“バグ”が、
今は誇らしくて仕方ない。
◇
昼過ぎ。
店が一段落した頃、
リュミエは裏口からこっそり抜け出した。
丘へ。
村を見下ろせる、いつもの場所。
草の上に腰を下ろして、
風を胸いっぱいに吸い込む。
「……静か」
びっくりするほど、静かだった。
頭の中が。
前は、
国境や戦場や魔物の気配が、
常に“情報”として頭の隅でざわめいていた。
あの黒い糸が、
世界中から情報と魔力を引き寄せてきて、
勝手に“盤面”を組み上げていた。
今は――ない。
世界は、自分の目に映る範囲にしかない。
そこからちょっとだけ想像を伸ばせばいい程度の、
“手で触れられる大きさ”になった。
(……不便って言えば、不便なんだろうな)
前みたいに、
数十手先の戦争の行方なんて見えない。
でも、それで十分だと思う。
最適解なんて、もういらない。
誰かが泣かなくていい未来を、
ひとつひとつ“マシな選択肢”で埋めていければ、それでいい。
草をいじりながら、
リュミエは、ゆっくりと目を閉じた。
――わたしは、どれだけ多くの人を傷つけてきたんだろう。
イリス=ノワールとしての記憶は、
あの糸を切ったときに少し霞んだ。
それでも、
戦場の煙の匂いや、
泣き叫ぶ声や、
崩れた街の輪郭は、
ちゃんと残っている。
あの日、あの瞬間、
自分の計算一つで死んでいった人たちがいた。
名前も、顔も、知らないまま。
“被害想定”の数字の中に雑に押し込んで、
「これは必要な犠牲です」とレポートに書いて、
それで終わりにしていた命。
「最低だよね、ほんと」
苦笑が漏れる。
その“最低”が、
今もどこかで誰かの心の中をえぐり続けているのはわかっている。
イリスとしての罪は、
一生消えない。
だからこそ――
(それでも、今わたしがどれだけ多くの人に救われてるかも、忘れちゃいけない)
小さく息を吸って、数えるみたいに、
ひとりひとり思い浮かべる。
初めてパンをくれたバルドおじさん。
隣で笑ってくれたミナ。
村の子どもたち。
名前を呼んでくれる人たち。
そして、勇者パーティの四人。
アレン。
セイル。
ロウ。
カグラ。
前世のわたしを、一番恨んでいてもおかしくない人たちが、
今、誰よりも近くでわたしを“リュミエ”として見てくれている。
わたしが泣いていたら、
真っ先に駆け寄ってくれる。
わたしが笑えば、
それを見て笑ってくれる。
黒幕としての才能じゃなくて、
村娘としての癖や、
日常の口癖や、
小さな好き嫌いを知ろうとしてくれる。
本当に、世界ってやつは、
たまに気まぐれすぎる。
「……イリス」
自分の中の、もうひとつの名前を呼んでみる。
前世のわたし。
感情を奪われて、
役割だけで生きて、
誰からも求められずに死んだ少女。
あの子はきっと、
最後まで“自分の人生”を選べなかった。
選ぶという発想自体が、与えられなかった。
だから、あのとき願った。
『次は、誰かに必要って言われたい』
あの一言が、
たぶんすべての始まりだ。
「――叶ってるよ」
リュミエは、空を見上げた。
「わたし、今、ちゃんと必要って言われてる」
勇者として。
賢者として。
聖騎士として。
暗殺者として。
それぞれの立場から、
“世界のために”じゃなく、
“自分のために”って顔で、
「一緒に生きたい」と言ってくれた人たちがいる。
真っ直ぐに。
迷いながら。
不器用に。
あの夜の広場の光景が、
何度思い出してもこそばゆい。
(四人から真正面から求婚されるとか、
普通の村娘の人生シナリオに絶対ないよね)
でも、そうなってしまった以上、
もう誤魔化せない。
――わたしは、愛されている。
その事実から目を背けてしまったら、
イリスに対してあまりにも失礼だ。
だって、
“次こそ誰かに必要と言われたい”と願ったあの子が、
今のこの状況を見たら――
(絶対、泣く)
わたしも今、泣きそうだし。
◇
「――ここにいたか」
振り向かなくても、誰かはわかる。
アレンの声。
「やっぱり丘でしたか」
少し遅れてセイル。
「バルドが“裏からこっそり抜け出したぞ”って言ってた」
ロウ。
「監視の手間が省けた」
カグラ。
「監視って言い方やめません?」
「習慣だ」
振り返ると、
四人がそれぞれの距離感で立っていた。
アレンは隣に座る気満々の勢いで近づいてきて、
セイルは少し離れたところに腰を下ろし、
ロウは背後の木にもたれ、
カグラは半分影に隠れる位置を陣取る。
そのフォーメーションが、妙に落ち着くから腹が立つ。
「サボりですか?」
セイルが穏やかに笑う。
「仕事の前に心のメンテナンスしてるんです」
「立派な理由ですね」
「褒められてる気がしません」
アレンが、膝を抱えて空を見上げた。
「なあ、リュミエ」
「なんですか」
「王都の人たち、すげぇこと言ってたぞ」
彼はどこか誇らしげに続ける。
「“黒幕の残党”じゃなくて、“黒幕の遺した地獄を終わらせた英雄”だってよ」
「やめてくださいほんとにその肩書き」
顔を覆いたくなる。
「ニ、三個くらい単語削れません?
“黒幕”のとこだけ綺麗に消して“パン屋の看板娘”にしません?」
「それはそれで物足りねぇけどな」
アレンは笑って肩をすくめる。
「でもさ、ちゃんと世界が“見方”を変え始めてるってことだろ」
セイルも静かに頷く。
「罪は消えません。
イリスとしての所業がなくなるわけではない。
ですが、“それでも何をしたか”も、
歴史は見てくれるようになった」
「……うん」
リュミエは膝にあごを乗せた。
確かに世界は、
少しずつわたしを“黒幕の亡霊”じゃない何かとして見始めている。
ただ、その“何か”のラベルは、
まだ自分の中でも定まっていない。
「――ねぇ」
夜風に乗せるみたいに、
リュミエは声を出した。
「わたし、ひとつ正直に言います」
四人の視線が、こちらへ向く。
「求婚の件ですか」
セイルがいきなり核心を刺してきた。
「そうですけど、さらっと言わないでもらえます?」
「いえ、そろそろ“はぐらかし方のパターンが尽きてるな”と思いまして」
「やめてください解析しないで!」
アレンも、ロウも、カグラも、
わずかに身構えた空気になる。
(ああ、やっぱり。ちゃんと向き合わないと)
逃げ続けていたら、
結局どこかでまた“役割”に逃げてしまう。
それは、イリスと同じだ。
だから――
「……すぐに答えを出せないのは、本当です」
リュミエは、ひとりひとりの顔を見た。
「アレンさんのことも、
セイルさんのことも、
ロウさんのことも、
カグラさんのことも、
みんな大事で、
誰か一人を選んで“ここだけ”って切り取るのが、今はまだ怖いです」
アレンが、少しだけ肩の力を抜く。
「まあ、だろうな」
ロウも静かに頷いた。
「軽々しく決めるべきことではない」
カグラも、視線をそらさずに聞いている。
セイルは、少し切なそうに笑った。
「“一番”を選べとは言いません。
ただ、“嘘をつかない”でほしいだけです」
「はい。だから――ちゃんと言います」
胸が、どくどくとうるさい。
でも、その音を怖がらないと決めた。
「すぐに答えは出せません。
でも、ひとつだけ言えることがあります」
夜風が、そっと頬を撫でていく。
それに背中を押されるように、
ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わたし――生まれ変わってよかった」
四人の目が、ほんの少し大きくなる。
「イリスとして生きていたとき、
誰からも求められなくて。
“役割のために存在してる”って感覚しかなくて。
最後にやっと、“次は誰かに必要って言われたい”って思って死んで」
あの真っ暗な終わりが、
今では遠い前世の夢みたいに感じる。
でも、その痛みは、
今もちゃんと胸のどこかに残っている。
「それが、今」
リュミエは、にじんでくる視界の中で、
四人を見た。
「あなたたちに出会えて――
“一緒に生きたい”って真正面から言ってもらえて。
愛されて、
愛してみたいって、
初めて思えたから」
喉の奥が熱くなる。
“愛してみたい”という言葉を口にするのが、
こんなにも怖くて、
こんなにも温かいなんて、知らなかった。
アレンが、目を見開いたまま息を呑む。
セイルの指が、膝の上で小さく震える。
ロウは、いつもより強く拳を握る。
カグラは、影の中で視線を落として、
ほんの少しだけ口元を緩めていた。
「誰か一人を選ぶかどうかも、
今はまだ決めきれていません」
それは、
彼らにとってもわたしにとっても、
優しい言葉ではない。
でも、嘘じゃないからこそ、
ちゃんとここで言っておきたい。
「けど――これから一緒に悩んでいく未来も含めて、
“わたしの意志で選ぶ人生”を、歩いていきたいです」
イリスにはできなかったこと。
与えられた役割に従うんじゃなくて、
自分で選んで、自分で間違えて、自分で笑って泣く人生。
それを今、やっと手に入れた。
アレンが、ゆっくりと笑う。
「じゃあ、俺たちは“悩む時間”も全部セットで欲しがるわ」
「え?」
「お前が迷って、悩んで、うじうじしてるのも含めて、
“リュミエの人生”だろ?」
ふざけてるみたいで、
でもどこまでも真剣な言い方。
セイルも静かに頷いた。
「答えを急かすのは、賢者のやることではありません。
観測には、時間が必要です」
「また観測って言った」
「ええ。
あなたがどんな選択肢を選び、
どんな後悔をして、
どんな幸せを抱えるのか――
一生かけて見ていたい」
ロウが、短く告げる。
「お前が“決めたい”と思ったときに、
決められるように。
そのときまで、
俺は隣で剣を握っている」
カグラは、影の中でぼそりと。
「悩んでる間、何度でも言ってやる」
「何をですか」
「“お前はここにいていい”」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
イリスの白い部屋とは正反対の言葉。
閉じ込めるためじゃなく、
居場所を示すための言葉。
それを何度もくれる人が、
今、こんなにそばにいる。
◇
夜空を見上げる。
かつてイリスが情報伝達に使っていた黒い糸は、
もうどこにも見えない。
星が散らばっている。
ただそれだけの、当たり前の空。
でも、その当たり前が、
今は信じられないくらい愛おしい。
星と星を勝手に線で繋いで、
「ここを動かせば世界が揺れる」なんて考えていた頃とは違う。
今は――
「きれい」
ただ、それだけを素直に言える。
世界を操る力は、もう手放した。
代わりに手の中に残っているのは、
パンの粉と、
剣の柄の感触と、
本のページのざらつきと、
屋根の上のお茶の温度と――
そして、四人が差し出してくれた「一緒に生きたい」の重み。
黒幕だった少女がようやく掴み取ったのは、
世界を思い通りにする力じゃない。
世界と、たった数人を、
心から愛する力だった。
それは、
どんな魔法よりも、
どんな戦略よりも、
よっぽど強くて、よっぽど面倒で、よっぽど尊い。
リュミエは、そっと目を閉じて、
小さく笑った。
「――これから、たくさん幸せになります」
それは、誰に向けた言葉でもあって、
誰に向けた言葉でもない。
前世のイリスへ。
今の自分へ。
隣にいる四人へ。
そして、まだ見ぬ未来へ。
黒幕として世界を操っていた少女が、
やっと自分の人生の舵を握った。
泣きながら、笑いながら、悩みながら。
それでもきっと、
たくさんの幸せに手を伸ばしていける。
そう信じられるくらいには、
彼女はもう、愛されていて。
そして、ちゃんと愛そうとしている。
夜空には、
黒い糸ではなく星の軌跡が流れていた。
新しい物語は、
ここからまた始まっていく。
世界を壊す黒幕ではなく、
世界と誰かを愛しながら生きていく、ひとりの少女として。
9
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