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第10話「最初の陥落」
しおりを挟む重い扉が開くたび、貴族院の空気は古い書庫みたいにむせ返った。皮表紙の議事録、赤い絨毯に染み込んだ年月、鉄と墨と人間の野心。半円形の議場は階段状にせり上がり、中央の円卓に置かれた砂時計だけが、平等に砂を落としていた。
王太子エドワードは、白い手袋の指先を組んで座る。蜂蜜色の髪は今朝も完璧に整い、笑顔は均整を失っていない。だが頬のひきつりは、絵筆で塗り重ねた絵の具の下から覗く亀裂のように薄く見える。背後の席に聖騎士アラン、さらに離れて宮廷魔導士ルシアン。傍聴席には商人、市井の代表、新聞社の記者、そして市場で私の紙芝居を見た顔がいくつも混じっている。目が多い。目は、刃だ。
召喚の名目は“弁明の機会”。実態は処分決定の前段階。議場の左右からは貴族たちの囁きが、湯気のように立ちのぼる。貴族院議長が槌を打つと、波が一旦凪いだ。
「王太子殿下。近時、一部寄付金の扱いならびに代官任命に関する不正が取り沙汰されております。殿下のお言葉を」
エドワードは立ち上がり、手袋の口を整えた。声はいつも通り、滑らかだ。
「私はただ、皆のために最善を尽くしてきた。慈善の輪を広げ、困窮する者へ手を――」
「“皆のため”」
私は一歩前に出て、彼の言葉を切った。扇を開く音が、議場の真ん中で小さく跳ねる。視線が集まる。私は背筋を伸ばし、胸元の内ポケットから三通の封書を取り出した。王太子府の寄付金横領の台帳コピー。“姉の治療費”名目の偽口座の控え。禁呪密輸の出荷日リスト。今まで“見せるだけ”だった封――今日は、切る。
「封を、開きます」
私は蝋に刃を入れた。刃はよく研いである。乾いた音。蝋の香り。紙の繊維がほどける感触。開かれた口から、数字が空気に溶け出す。私は傍らの台の上に図表を広げた。青鷺紙舗製の厚紙。右下の耳印が朝の光を拾う。
矢印が一本に繋がっている。寄付箱→王太子府代官室→“孤児救済会”→“点線”→“戻る”。点線の下に、偽の横画がひょーんと延びた署名。別の線は、菓子商組合の“慶事費”から王太子府“御用達選定祝”へ。そこからロジエ窯の運搬人へ。さらに裏道を通って代官室へ。封緘印の角度の違いを示す小さな図。旧代官は反時計回り四度、新代官は時計回り十二度。同日付に両方の封。
議場の空気が、一気に冷える。凍った水面に亀裂が走る音が、私には聞こえた。誰かが息を呑む。誰かが咳払いを飲み込む。ノアが傍聴席の影で、灰の瞳を細くした。準備は万端。今は刃をまっすぐ押し込むだけ。
「殿下。こちらは“寄付の道の図”です。“皆のため”に流れるはずのお金が、どこで壁にぶつかり、どこで壁の裏の小道に逸れているか。点線は“書類の上だけで動いている”印。――ここで止まる」
私は矢印の一点を扇先で軽く叩く。扇の骨が硬い音を立てる。その音は議場の壁に刺さり、跳ね返って耳に戻る。
「言い訳は“皆のため”。実行は“自分たちのため”。その距離が、数字の中で膨らみ続けた結果が、今の図です」
「根拠は」
貴族院の重鎮が短く問う。声に焦りはない。だが、目にはある。私は二枚目の紙を広げた。王太子府の代官室出納帳――“写し”。原本は代官室にある。だが、コピーは十分に鋭い。封緘印の癖。横画の伸び。月末にだけ濃い朱。説明は端的に。
「封。角度。筆圧。日付。――それから、もうひとつ」
私は視線を民衆席へ投げた。パン屋の娘、魚屋の女将、鍛冶屋の少年。彼らの目が、私の手元に落ちる。
「市場で学びました。“見える化”。家計簿で言えば、パン三枚、薪二束、灯油一瓶。王太子府は“合計”だけを並べ、“内訳”を隠した。隠す理由がないとき、人は隠さない。隠す理由があるときだけ、人は隠す」
「私が隠したとでも?」
エドワードの笑みが細い刃に変わる。声はまだ柔らかいが、弦が一本切れている。
「代官が、勝手に――」
「その“勝手”を選んだのが殿下です。任命権者。責任は、上から下へ流れる。お金と同じ」
私は三枚目、禁呪の出荷リストを持ち上げた。赤い印形の写し。投影で露呈した“妨害の痕”。ルシアンが頬杖をつき、退屈そうに天井を見る。視線だけが私の手元に落ちている。彼は賢い。賢い者の沈黙は、時に証言より雄弁だ。
議長が槌を打つ。「王太子殿下、反論があれば」
「私は……」
エドワードの口角が引きつる。彼は議場の中央から、ひとつ視線を外へ逃す。逃した先に、誰もいない。いつもは“観客”がいるのだ。舞踏会の大広間、芝居の桟敷、祝祭日のバルコニー。今はない。ここは、台本より数字が強い場所。
「僕は……皆のために」
最弱の盾。私は扇を閉じ、音なく置いた。言葉を選ぶ。冷たく、しかし過不足なく。
「“皆のため”は、誰の口からも出せる最弱の正義です」
空気が、刃の背で撫でられたみたいにざわめく。貴族の何人かが顔をしかめ、商人の何人かが頷き、市井の者が小さく拍手した。拍手は静かに広がり、すぐに野次と混じる。野次は熱を上げ、拍手は一定のリズムで床を叩く。議場の音は、熱と冷の交錯だ。
「殿下」
私は最後の一押しを置く。声は柔らかく、しかし止めを刺す向きで。
「あなたは“耳”を持っている。なら、“目”も持ってほしい。透明性を“検討”するのではなく、“設置”してほしい。委員会。音楽家。職人。書記官。――王太子殿下、あなたの手で」
王太子は立ち尽くす。彼の喉仏が上下し、額に小さな汗が光る。手袋の中の指が、わずかに軋む。彼はこの瞬間、初めて“観客ではない”目を受けている。目は、赦しもしないが、見捨ても、しない。ただ見て、数える。
議長が合図をした。陪席の法務卿が立ち、定型文を読み上げる。声のリズムは寒天のように冷たい。
「王太子エドワード殿下に対し、貴族院は以下を決する。――一、爵位の停止。王太子の称号の一時停止。二、謹慎。三、婚約の保留。委員会設置の後、精査の結果により復位の可否を審査する」
砂時計が、最後の砂を落とした。音はしないのに、終わりの匂いが広がる。蜂蜜の香りにわずかな焦げが混じる。私は直立し、視線を正面に据えた。
エドワードの膝が、ほんの一瞬だけ、折れかけた。すぐに持ち直す。誰もが見た。私も見た。彼は崩れる。ここが、最初の陥落。ざまあの刃は、最初の血を吸った。温い。私の舌の上には、甘さも苦さもない。ただ、現実の温度。
「殿下」
沈黙の中、エミリアのか細い声が落ちる。彼女の手は祈りの形を取っているが、指は固く結べていない。彼女の目は、私とエドワードの間で泳ぐ。被害者役の面が、きしきしと鳴る。目は、役に馴染まず、皮膚が擦れて痛んでいる。
「私は……殿下を信じています」
信じる、という言葉の軽さを、私は知っている。信じると言えば、本人の中の大切なところを覗かなくて済む。私は彼女を責めない。責めないが、救いもしない。救いは、掴む手がある人のものだ。
議場の背後、傍聴席の上段から、いくつかの声が重なった。市場で会った人々だ。
「“見える化”を!」
「家計簿の字でいいから!」
「大きい字で!」
笑いが混じる。笑いは、救いの出口を作る。私は静かに扇をたたみ、胸に寄せた。王太子は唇を噛む。血の色が白い顔に似合わない。華やかな顔は、痛みに脆い。
議長が閉会の槌を打つ。音が、石に沈んだ。人々は立ち上がり、議場の外へ流れ出す。記者が走り、紙屋の主人が耳印の位置を確認し、商人が隣人と頷き合う。貴族たちは小さな塊になって囁き、ルシアンは椅子に座ったまま天井の割れ目を数える。アランは立ち尽くして、拳を握り、開き、握り直す。
私は円卓の脇で、ほんの一拍だけ目を閉じた。心臓は静かだ。勝利の叫びは出ない。勝ちは、封を切って、針を刺して、結論が紙に残ったときだけ、半分やって来る。今、それは来た。半分。
「レティシア様」
灰の声。ノアが近づく気配。彼は人と人の間を水のように通り抜け、私の隣に並んだ。人波は彼を押さない。押す前に、風の角度が変わるから。
彼は囁く。「次は、騎士ですね」
私は目を開け、彼の横顔を見た。灰の瞳が静かに燃えている。火は小さいが、消えない火。
「ええ。――彼は自分で“語る”準備がある」
「昨夜、供述書の下書きをしていました。紙の角に爪の跡。迷いの跡」
「迷える騎士は、堕ち方も選べる」
「落ちる、ではなく?」
「降りる、に変えられる」
ノアが小さく頷いた。「教育です」
「あなた、ほんとにそれ好きね」
「あなたが好きなものは、だいたい伝染します」
私は笑い、扇を軽く彼の肩に当てた。彼は目を細める。ごく僅かに。人の体温に弱いくせに、よくここまで影でいられる。灰は、風に似る。
背後で足音。ベラが小走りで寄ってきて、小さな紙片を差し出した。文字は急いでいるのに乱れていない。
〈新聞社、号外の準備。見出しは“王太子、爵位停止”。副見出しに“見える化委員会、設置へ”〉
「いい見出し」
「青鷺紙舗、紙足りるって。耳印、増産」
「耳印が、今夜から“信頼の記号”になる」
ベラが目を輝かせる。「市場、今日の夕方には大騒ぎですね」
「騒ぎは風。風は火を大きくも小さくもする。――ノア」
「はい」
「風の管理、引き続きお願い」
「職務です」
エドワードが立ち上がり、側近に支えられて退席する。彼は一度だけ、私を見た。目の奥に、憎しみはない。まだ、ない。そこにあるのは、信じていた自分の物語が破れたことへの驚きと、途方のない疲労だ。私は見返す。私が破ったのではない。数字が破った。私は、見せただけ。
人が捌けた議場は、急に広く見える。砂時計は新しい砂へ取り換えられていた。砂は同じ速さで落ちる。誰にとっても。
「行くわ」
「どこへ?」
「市場。――紙芝居。“委員会って、なにするところ?”」
ベラが「はい!」と元気に返事をし、ノアが「護衛を増やします」と低く添える。私は足を踏み出した。絨毯が柔らかく、靴の音を飲む。扉の前で一度だけ、振り返る。半円の席。空の椅子。空の椅子は、人に“座り方”を教える。次に座る者が、同じ姿勢でいられるかどうか。
通路に出ると、冷たい石が熱を吸っていった。私は胸の内で、短く数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。怒りはもう、手綱の中にいる。歓喜も、手綱の中。私は今、まっすぐ歩けている。
階段を降りながら、私は自分の指先の小さな傷に気づいた。封を切ったときの紙の端に刺されたのだ。痛い。だが、この痛みはいい。封を切る者の痛み。嘘を暴くための小さな血。私は舌先で少しだけ鉄の味を確かめ、口の中にしまった。
「ねえ、ノア」
「はい」
「今、私、勝った顔してる?」
「いいえ。――“働く顔”です」
「なら、上出来」
外は光が強い。王宮の高い壁を越えて、空が広い。風が髪を揺らし、遠くで鐘が一度だけ鳴った。最初の陥落。鐘は常に、次を呼ぶ。私は裾を持ち上げ、石畳へ足を下ろした。世界は、これから、もっとうるさく、もっと速く、もっと眩しくなる。
それでも、私は歩く。
“皆のため”の最弱の正義を、数字で押し返しながら。
そして、誰かが自分のために選べる場所を、増やしていく。
――次は、騎士ですね。
灰の声が耳に残る。私は頷く。
陥落の音は、まだ続く。だが、それは、崩壊の歌ではない。
組み替えの、前奏曲だ。
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