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第8章
いつだったか、ハイドラストイエに聞かれた。
「腕八本もどうやって動かしてんの」
どうやって、と言われると困ってしまう。一々意識などしないし、意識とは裏腹に動くこともある。王宮の広間など開けた場所にいると、一本くらいは暗くて狭い場所を探してさまよい始める。意識すれば引っ込められるが、引っ込めるまでにほんの少し空白がある。無意識と意識の狭間、一秒にも満たない無の時間だ。フィンを好きだと自覚した夜から、その時間がずっと続いているようだった。
「何か進展があったんですか」
ロッカールームを出ようとしたら、フィンに声をかけられた。ルートグーヴァは何食わぬ顔で振り返ったが、肋骨の内側では心臓が跳ねている。
「ルートはいつも午後しか自分の研究をしないのに、一昨日から午前中もしています。新しい発見があったんですか」
「いや、ちょっとした思いつきを裏づけようとしているだけだ」
「何を思いついたんですか」
「まだ説明が難しい」
ルートグーヴァはフィンから逃れるように廊下へ出た。宝玉は一人で見つけると決めた。フィンに宝玉の在処を聞きたくない。敷地内の建物の配置はおおよそ把握しているし、各建物の見取り図も作っている。不可能ではないはずだ。調べていくうちに、研究内容の重要度によっては仮の許可証でも借りられる鍵があるとわかった。見取り図の空白もじきに埋まるだろう。
ルートグーヴァはカフェテリアでクッキーを買い、テラス席へ向かった。芝生が海面のように輝いている。太陽は日に日に力を増すが、まだ夏の頂点には至っていない。隅の椅子に座ってクッキーを砕いていると、早速ハトがやってくる。カモメは海鳥なので協力的だが、他の鳥と話をするには手土産が必要だ。
ハトにはテラスや屋外の休憩スペースでの情報収集を頼んでいた。カモメは人の傍に寄るには大きすぎる。人間の方が警戒して立ち去ってしまうので、もっぱら空からの見張りに徹している。
「何か聞いたか」
一頻りクッキーを堪能したハトに声をかける。
「なんにも。ねえ、そのおっきいナッツのとこちょうだい」
「近いうちに都から偉い人が来るらしい」
「尾羽に黒い筋の入ってるカモメが意地悪するんだ。なんとかしてよ」
「ウミガメのおばあちゃん元気になったんだって」
「ウミガメのおばあちゃん?」
足のピンク色が一際鮮やかなハトがくーくーと鳴いた。ルートグーヴァが大きなかけらを差し出すと、彼女は翼で仲間を牽制しながらあっという間に平らげた。
「研究所で一番年寄りのウミガメだよ。ずっと病気で違うところにいたんだけど、元気になったから元の場所に戻ったんだって」
「元の場所とはどこだ」
「あそこ」
ハトは灯台のような円筒形の建物をくちばしで差した。灯台よりもずいぶんと太い。一度入ったが、建物と同じ形の巨大な水槽があっただけで生き物はいなかったはずだ。
鉄の扉は施錠されておらず、簡単に入れた。低い機械の音が聞こえる。以前にはなかった音だ。水槽に巻きついた螺旋階段を登っていく。頂上は天井に触れそうな高さだ。水槽に蓋はなく、アオウミガメが水面から顔を出していた。
「グルグラーケン族のルートグーヴァだ。王国の結界を成す宝玉が盗まれたので、探している。研究所のどこかに保管されているはずだが、知らないか」
アオウミガメはひれをゆったりと動かしながら、ルートグーヴァを見上げている。しばらく待ったが返事がない。聞こえなかったのだろうか。ルートグーヴァは水槽の縁に手を置いてかがみこんだ。
「何を憂いているのかしら」
瓶に貝を入れて振ったような声だった。
「何も。それより宝玉について知らないか」
「出会ったばかりなのに、もう嘘をつくの」
「嘘はついていないし、私の話はどうでもいい。宝玉について知っていたら教えてほしい」
「この世にどうでもいい命なんてないのよ」
ルートグーヴァは腕を組み、アオウミガメをななめに見下ろした。受け答えができているので耳は聞こえている。ルートグーヴァの言葉も理解している。ただ、彼女はどうあっても彼女の望む方向へ話を持っていきたいらしい。
「私はあなたについて何も知らない。あなたが教えてくれれば、私も教えるわ。それがあなたの役に立つかどうかはわからないけれど」
「知ってどうするつもりだ」
「知りたいだけよ。知りたいと思うのは、そんなにいけないことかしら」
ハトがおばあちゃんと呼んだようにアオウミガメは高齢だったが、まるで少女のようだ。純真無垢で、天真爛漫。悪意なくルートグーヴァを翻弄する。ルートグーヴァはため息をついた。こういったおしゃべりは苦手だ。ハイドラストイエがいれば何とかしてくれるだろうが、今は望むべくもない。
「どうして私が嘘をついていると判断できる」
「経験と勘よ」
「根拠として弱い」
「そうかしら。私は海で泳いでいた時間よりも、ここで人間たちと過ごした時間の方が長いの。他には何もいないから、人間ばかり見てきたわ。あなたが人間の姿をしている限り、私の経験と勘は何より役に立つでしょう」
黒く濡れた目に自分の影が映って居心地が悪い。ルートグーヴァはアオウミガメから目を逸らした。
「何を憂いているの」
「名前は」
「エマよ」
「エマ、誰かを好きになった経験はあるか。その……恋愛感情、という意味だが」
「私は誰を好きになればいいのかしら」
エマは言うが早いか水に潜った。ひれを大きく使って潜行していく。薄暗い水の底をかすめて、軽やかに浮かび上がる。人間が作った小さな海に、彼女はひとりで暮らしている。窮屈で退屈だろう。代わりに、心を煩わせるものは何もない。
「あなたは恋をしているの」
「不本意ながら」
「なぜ不本意なの。恋は楽しいんでしょう。ええと、そう、うきうきするのよね?」
むしろ苦しいと答えようとして、ルートグーヴァは少し迷った。フィンが好きだと自覚するまでは、こんなに苦しくなかった。
「楽しいときも、楽しくないときもある」
「あなたは楽しくないのね」
「そうだな」
「どうして。恋人とうまくいっていないの」
「恋人じゃない」
「あら、違うの」
「私が好きなだけで、彼は違う」
一方的な感情では恋人と呼べないだろう。
「彼? お相手は殿方?」
「おかしいと思うか」
「いいえ。あなたがおかしいなら、アメフラシはどうなってしまうの。クマノミは? ハナヒゲウツボは?」
アメフラシは雌雄同体だ。クマノミもハナヒゲウツボも性転換をする。いずれも子孫を残すための方策だ。海では珍しくない。
「彼らと私では意味合いが違う。私は種の存続のために彼を好きになったんじゃない」
「では、イルカは?」
イルカは同性でもつがいになる。
「二つの性を持って恋をする。性を変えて恋をする。性を変えないまま恋をする。恋をしているのに違いはないわ」
「詭弁だ」
「そうかしら」
エマは挑むように、同時に愉快そうにルートグーヴァを見ている。狭い水槽に閉じ込められているというのに、エマの精神は驚くほど自由でのびやかだ。
「どうして好きだと言わないの」
「任務に影響がある」
人間にも同性のつがいはいるが、少数だそうだ。社会的、心理的な嫌悪感が強いらしい。受け入れられる可能性は低いだろう。
「関係を悪化させるわけにはいかない」
「また嘘をつくのね」
エマは抑揚なく言った。
「事実だ」
「ええ、でも真実ではないわ」
ハイドラストイエといい、エマといい、なぜ他人の心の内を暴こうとするのだろう。放っておいてほしい。何もかも抱えたまま、腕を縮こめて岩の隙間に閉じこもっていたい。
「拒絶されたくない。このままがいいんだ」
どうせ最後には嫌われてしまうのだから、少しでも長く今の関係を保ちたい。悪あがきでもいい。あがける間はあがきたい。
エマはくしゃ、とまばたきをした。目の縁から雫がひとつ落ちる。大きな目が星空のように輝いている。
「人間たちは一番北の建物に大切なものをしまっているわ。あなたの探し物もそこにあるかもしれない」
「ありがとう。調べてみる」
「ルートグーヴァ」
「なんだ」
「あなたは恋が楽しくないと言ったけれど、私はあなたがうらやましい」
ルートグーヴァは返す言葉を見つけられなかった。エマはルートグーヴァを置き去りにして水槽の底へと潜っていった。
エマが教えてくれた建物は途中から丘に飲みこまれていた。丘を掘って建てたのか、建ててから土を盛ったのか、奇妙な建物だ。両開きの扉は施錠されていた。ルートグーヴァは建物の陰で待ち、他の研究員が鍵を開けたところを見計らっていっしょに入った。
「俺たち一時間くらいかかりますけど、もっといます? それなら鍵わたすんで、総務に返しといてください」
「いえ、確認だけなのですぐに出ます」
男女二人組の研究員は別の鍵を使って近くの部屋へ入っていった。ルートグーヴァは通路の奥へ向かった。窓がひとつもなく、ほこりっぽい匂いがする。左右に並んだドアのプレートにはアルファベットと数字が書かれている。どの部屋も鍵が掛かっていた。
二階は一階と同じ構造だった。二階のドアもひとつも開かない。通路の突き当りで螺旋階段を見つけて登ってみると、天井に円形の切れ目が入っていた。錆びかけた留め具を外して扉を押し上げる。海風が吹きつけた。日の光がまぶしい。
「ルート?」
影が差し、フィンと目が合う。声こそ出なかったものの、一瞬息が止まったかと思った。
「何をしているんですか」
「あ、いや、その」
隠れようにも見つかってしまった後だ。なんとか誤魔化さなければならない。
「知らない建物だったから、探検していた」
「資料庫です。貴重な文献や標本がしまわれています。鍵がないと何も見られません。先生に聞いていないんですか」
「ああ、ここがそうなのか。聞いてはいたが、場所まではわからなかった」
ルートグーヴァはできるだけ平静を装って外へ出た。扉を中心にタイルが敷き詰められ、幾何学模様が描かれている。赤、青、白、黄色、様々な色が散らばっていて、目がちかちかした。タイルの隙間から雑草が生えている。
「どうやって入ったんですか」
「ちょうど入っていく人がいたから、いっしょに」
「僕もたまにやります。でも、本当はいけないんです。総務部に見つかると叱られます」
「気をつける」
タイルの外は地面が見えないほど雑草が生い茂っていた。狭い土地だ。東と北は少し歩くだけで崖に行き当たる。崖下をのぞくと、岩肌に波が打ちつけていた。東の崖の手前には錆びた鉄のベンチが据えられていた。ルートグーヴァが見つけた扉以外、出入り口らしきものは見当たらない。
「フィンはどうしてここに? ここはどういう場所なんだ。見たところ管理されていないようだが、何かの観測地か。どうやって来たんだ」
「あの、あ……どうして……どう……どうやって、が先ですか」
「すまない。急ぎすぎた」
やましさから、つい矢継ぎ早に話してしまった。フィンは疑問詞が二つより多いと答えられない。
「どういう順番でもいいんだが、どうやってが一番知りたい」
「あちらの坂から登ってきました」
フィンは海と反対、西の方を指した。確かに資料庫正面の斜面よりはゆるやかだが、登るとなれば一苦労だろう。フィンは思いの外体力があるのかもしれない。
フィンによると、昔は小規模な天体観測所があったそうだ。落雷で観測器が壊れ、東の崖の一部も崩れて危険だからと撤去された。資料庫が丘にめり込んでいる理由はフィンも知らないと言う。
「防犯のためではないかと推測します」
「なるほど。それで、フィンはどうしてここに来たんだ」
「この場所が好きだからです」
フィンは雑草の間をジグザグに歩き、ベンチに座った。ルートグーヴァを振り返る。呼ばれているのだろうか。ルートグーヴァはフィンと同じ道をたどり、フィンの隣に腰かけた。
「ここは先生のお気に入りの場所です。ベンチを運んだのも先生です。夜中に、誰にもないしょで、こっそり持ってきたと言っていました」
研究に行き詰まると、先生はベンチで思索に耽るそうだ。フィンを連れてきて、仮説を語って聞かせることもあるらしい。
「フィンも考え事をしていたのか」
「いいえ、僕は、寄生虫が見つからなかったので来ました。先生の仮説によれば、サバの肝臓にいるはずなんです」
「気分転換を邪魔してすまない」
フィンは海に視線を向けたまま首を振った。
腕が短すぎる。数も少ない。目も口も頭の位置さえクラーケンとは違う。どこからどう見ても、フィンは人間だ。外見だけなら、ハイドラストイエに紹介されたコウモリダコの方が美しかった。見目でフィンを好きになったのでない。では何が、と考えるとわからなくなる。きっと考えない方がいいのだろう。考えて、仮に答えが出たとしても、どうにもならない。
ふいに、腹に響くような音が長く続いた。目を移せば、遠く水平線に船が浮いている。
「汽笛か。ずいぶん響くんだな」
「港に入る船は、たいていあそこを通ります。先生のヨットもです。もうすぐ帰ってくるかもしれません。帰る前は、先生は手紙を書かないんです」
先生はまだ帰らないだろう。帰るとなれば、ルートグーヴァに連絡が来るはずだ。フィンは毎日先生の手紙を待っている。手紙は引き続きカモメが巣で保管している。
「先生がいなくてさびしいか」
「少し。でも、ルートがいるから平気です」
フィンははにかんだような笑みを見せた。うれしいはずなのに、うまく喜べない。あと一ヶ月もすれば、ルートグーヴァはクラーケンに戻る。フィンは独りぼっちになってしまう。
フィンはじっと水平線を見つめていた。ルートグーヴァは引き寄せられるようにフィンの髪に触れた。フィンが驚いた様子でルートグーヴァを振り返る。フィン以上に、ルートグーヴァが驚いていた。たった二本しかない腕の制御もできないなんて、どうかしている。
「虫が、とまっていた」
「ありがとうございます」
フィンは疑いを知らない。貝を失ったヤドカリのように無防備だ。海にいたら、あっと言う間に食べられてしまうだろう。
いつからか、フィンは目を逸らさなくなっていた。ルートグーヴァが望んだ距離感だ。フィンの警戒心を解いて、仲良くなって、宝玉の在処を聞き出す。そういう計画だった。絶好の機会だろう、とルートグーヴァは他人事のように思った。ちょうど資料庫の上にいる。どんな資料が保管されているのか、フィンが見つけた宝玉もあるのか、と聞けばいい。
「私はそろそろ戻るが、フィンはどうする」
「僕もいっしょに行きます」
宝玉は一人で見つけると決めた。砂でざらつく取っ手を握って円形の扉を引き上げる。フィンを先に通し、ルートグーヴァは後から螺旋階段を下りた。扉を閉め、留め具は掛けない。これで、外からでも開けられる。
八月最初の日曜日、ルートグーヴァは部屋で研究所の見取り図をながめていた。諸々の情報を総合すると、宝玉はエマが教えてくれた資料庫にある可能性が高い。問題は、ゴカイの肢のように並んだ部屋のどれが当たりか、鍵をどうするかだ。
ノックが聞こえ、ルートグーヴァは見取り図を伏せた。フィンは白いシャツを着て、濡れた砂の色のズボンを履いていた。フィンの服装に平日と休日の区別はない。いつも長袖で暑くないのだろうか。
「市場へ行くので、ついてきてくれませんか」
市場は月に一回、噴水の広場で開かれる。市場と宝玉は無関係だろうが、見取り図をにらんでいても宝玉の在処は判明しない。ルートグーヴァはフィンの申し出にうなずいた。
フィンは厚手の布袋を折り畳んで通勤用のショルダーバッグにしまい、ルートグーヴァを見た。出かける準備ができたようだ。空はよく晴れ、日向と日陰にくっきりと境界線が引かれていた。まぶしすぎて目の奥が痛い。
「何を買うんだ?」
「卵と、玉ねぎと、オレンジと」
フィンは十種類以上の食品や日用品をすらすらと諳んじた。
「それから、チョコレートを買います」
チョコレートが何かはわからないが、市場で売っているのだから、日用品か食べ物だろう。
海沿いをしばらく歩き、大通りを渡って住宅街へ入る。路地は煉瓦で舗装され、溝に砂がたまっていた。道幅が狭く、白い壁と赤茶色の屋根が両側に迫っている。
広場には屋台が隙間なく並んでいた。様々な音と匂いが混じり合い、水族館より多くの人間が行き交っている。フィンはショルダーバッグから布の袋を取り出して広げたが、周囲を見回すばかりで動こうとしなかった。
「行かないのか」
「いえ……行きます」
フィンはかろうじて聞き取れる声で言い、突進するように人ごみへ入っていった。
市場は物であふれていた。レシピの本でしか知らない野菜が並んでいる。値札には等しくトマトと書かれているが、赤も黄色もオレンジ色もある。細長かったり、小さかったりする。刺激的な匂いのする小さな粒、使い道が思いつかないほど大きなフォーク、瓶詰にされたニシン。ありとあらゆる品の間を、フィンは顔を伏せて歩いていく。前を見ないので何度か人にぶつかったり、ぶつかりそうになったりした。
「フィン、危ない」
今も、ルートグーヴァが腕をつかんで止めなければ、前から来た男性とぶつかっていただろう。フィンは大人しく止まったが、うつむいたまま再び歩き始める。物を買うときにも、相手の顔をほとんど見ない。コーヒー屋の店主はどこへ笑顔を向けるべきか迷ったようで、ルートグーヴァを見てにっこりと笑った。
「私が持つ」
ルートグーヴァは膨らんできた布の袋をフィンから受け取った。財布も預かり、指示されたものを指示されただけ買う。持つものがなくなったフィンの両手はショルダーバッグの紐を強く握っていた。何かから身を守るように肩を丸めている。
「この子、大丈夫なの?」
ふっくらとした頬の肉屋は心配そうにフィンを見て、ソーセージを二本おまけしてくれた。フィンはルートグーヴァの会計を待たず、足早に歩き出す。急に方向を変えた女性を避けるため、ルートグーヴァはショルダーバッグの紐をつかんでフィンを引きとめた。
「フィン、前を見ないと本当に……聞いているのか」
「あら、海辺の子たちのお友だちじゃない」
「何してるの。お買い物?」
複数の影が横切り、甲高い笑い声が耳元で弾けた。噴水に住む泡沫の精霊だ。海辺の精霊は朝が来ると姿を隠してしまうが、噴水の彼女たちは昼間でも活動しているらしい。
「今は話していられない」
フィンに置いていかれてしまう。
「なによぉ。お料理手伝ってあげたじゃない」
「それについては感謝しているが、今は取込み中だ」
フィンはどんどん市場の奥へ入り込んでいく。何かを食べながら歩いている人間が増え、複雑な料理の匂いがする。火を使っている屋台の前を通ると、熱気が吹きつけた。泡沫の精霊たちは、火は嫌いだ、髪に匂いが移るとぶつぶつ言いながらついてくる。
フィンが足を止めた屋台では、ひどい癖毛の男性が本を読みながら店番をしていた。木と布で作られた折り畳み式の椅子に座っている。彼の足元からは低いモーター音が聞こえていた。
「やあ、こんにちは」
挨拶をされ、フィンはびくりと肩を震わせた。男性はフィンの反応に動じた様子もなく、にこにこしている。
ガラスケースには小さな固形物が等間隔に並べられていた。直方体、球体、巻貝などの形をしている。ガラスケースの上に黒板が置かれ、丸みを帯びた字で「おいしいチョコレート」と書かれている。これがチョコレートか。食べ物には見えないし、味の想像がつかない。強いて言えば苦そうだ。死んだ魚のはらわたの色をしている。
「決まったら声をかけて」
「……あ、あの」
「何?」
男性が立ち上がり、フィンはひゅっと喉を鳴らして後ずさった。男性は苦笑し、手を後ろに回す。
「大丈夫。好きなだけ選んで」
フィンは足元をにらみ、体を強張らせていた。しゃっくりのような変な呼吸をしている。具合が悪そうだ。
「ねえ、この子つらそう」
「あんた助けてあげなさいよ」
泡沫の精霊が騒ぎ立てるが、どうすればいいかわからない。王国には病気になる者がほとんどいない。長命種が多く、百年も生きれば粗方の抗体が得られるためだ。クラーケンの場合、病気は口やえらからの感染症か皮膚病に限られる。感染症の場合は投薬が必要だが、皮膚病であれば該当箇所を清潔に保てば自然に治癒する。長老たち曰く、「擦れば治る」。
ルートグーヴァはフィンの背中に手を置いた。上から下へ、一定のリズムで撫でる。脊椎が浮いていて、ごりごりする。跳びはねがちなフィンの呼吸をなだめるため、ルートグーヴァはつとめてゆっくりと手を動かした。泡沫の精霊たちもいっしょになって撫でる。やがて、凝り固まっていたフィンの体がわずかに弛緩した。
「……これと、これを、ふたつずつください」
「はい。ちょっと待ってね」
男性はガラスケースの裏を開け、フィンが指したチョコレートを箱に入れた。金色のリボンをかけている。ルートグーヴァが代金を払おうと背から手を離すと、フィンが袖をつかんだ。
「フィン、離してくれ。支払いができない」
フィンはうつむいたまま首を振る。
「貸して」
男性はルートグーヴァから財布を受け取り、親指と人差し指でコインを二枚取り出した。最後に両手を開いてみせたのは、余計には取っていないという意味だろう。
「はい、どうぞ」
ルートグーヴァは財布とチョコレートを受け取った。フィンはまだ袖を離してくれない。ルートグーヴァはフィンの指を一本ずつ開いて解き、どこもつかまれないように手を握った。
「ねえ、彼は多分ヤマアラシなんだ。でも、君には懐いているみたいだよ」
男性は目を細めた。椅子に腰かけ、読書に戻ってしまう。
ヤマアラシ。同じ名前の魚が遠い南の海にいる。フィンは棘を持っているようには見えない。
「フィン、行こう」
ルートグーヴァはフィンの手を引いて歩き出した。
「どこか休める場所は?」
小声で精霊たちに問うと、一番近くにいた精霊が腰に手を当てて頬を膨らませた。
「さっきまで散々邪険にしたくせに、調子がいいんじゃなくって?」
「噴水にいらっしゃいよ。きれいよ」
「あんた甘いわねぇ」
「まあまあ、いいじゃないの。私たち、水浴びしなきゃ。髪からカレーの匂いがするもの」
透き通った肌をきらめかせながら、泡沫の精霊たちが飛んでいく。ルートグーヴァは人の間を縫って後を追った。
「道案内のお礼はお話がいいわ」
「海の底のお話をしてね。人魚が出てくるお話じゃなきゃダメ」
フィンは手を引かれるまま、大人しくついてくる。ショルダーバッグの紐を拳が白くなるほど握り締めている。名前を呼んだが、顔を上げない。人間の体がもどかしい。クラーケンの姿であれば、もう少しフィンの状態がわかるはずだ。思考までは読み取れなくても、息苦しいのか、どこか痛むのかくらいは推測できるだろう。人間の皮膚は鈍感すぎる。
水の音が聞こえ、屋台が途切れた。庇がなくなり、太陽の光が直接目に差し込んだ。精霊たちは我先に噴水に飛び込んでいく。ルートグーヴァは噴水の縁にフィンを座らせた。
「どこか痛むのか」
フィンは首を振った。頬の赤みが抜け落ちている。まぶたが重そうで目も潤んでいた。
「病院に行くか」
フィンはもう一度首を振った。休めばよくなるとくり返す。不安は残るが、人間の体についてルートグーヴァは素人だ。フィンの意見に従うしかない。
「他に買うものは?」
「チョコレートが、最後です」
「では、休んだら帰ろう」
ルートグーヴァは布の袋を右から左の肩に換え、腕を組んだ。フィンがまぶしそうにしているので、自分の影が落ちるように横へ移動する。フィンの隣では、老婦人が膝に子犬を抱いていた。子どもが二人、汗を光らせながら噴水の周囲を駆け巡っている。
「僕は」
話し始めてすぐ、フィンは口をつぐんだ。うつむき、せっかく離していたショルダーバッグの紐をまた握る。
「……僕は、市場が怖いんです」
フィンの声がどんどん小さくなっていくので、ルートグーヴァは身を屈めて顔を近づけた。
「市場に来ると、色々なことが、押し寄せてきて、いつも、息ができなくなります。歩いているうちに、道がわからくなります。どこか、知らない、ところに、連れていかれる気がして、怖くなるんです」
「前にも来ていたんだろう」
「いつもは、こんなに奥まで来ません」
屋台の場所は基本的に毎月変わらないらしい。フィンは買いたいものを記憶して、最短距離で買い物を済ませる。同じものを売っている屋台もあるので、なるべく外周で買うそうだ。
「息ができなくなる前に、逃げます」
逃げるという表現が、フィンの心の声なのだろう
「そんなに嫌なら来なければいいんじゃないか」
「駄目です。練習なんです」
「練習?」
「先生が、言ったんです。市場くらいひとりで行けるようにならないといけないよ、って。だから、練習しているんです」
先生はフィンが感じているほど重い意味を込めて言ったのではないはずだ。
「無理をする必要はないだろう。先生は、ひとりで市場に行けないからといってフィンを責めたりしない」
「知っています。僕が練習したいんです。僕が先生に、褒めてもらいたくて、しているんです」
先生の発言はフィンの行動を大きく左右する。まるで魔法だ。フィンにしか効かない、とても強力な魔法。ルートグーヴァには解けない。フィンと先生が過ごした時間の長さや、フィンが先生に寄せる信頼は覆せない。
「ひとりで市場に行く練習なのに、どうして私を連れてきたんだ」
「実験をしたかったんです。ルートを実験台にしました」
心臓が跳ねる。いつ、どんな実験をされたのだろう。正体はばれていないだろうか。
「先生と市場に行くと、ひとりのときより息が苦しくないので、奥の方までいけます。ルートも同じではないかと思って、試しました」
他愛ない実験にルートグーヴァは胸を撫で下ろした。それにしても心臓に悪い。まだ脈が速いままだ。
「怒りましたか」
「怒ってはいないが、面白くはない」
「ごめんなさい」
そう素直に謝られると困ってしまう。
「それで、実験は成功したのか」
「はい。僕の仮説は実証されました。ルートといっしょだと、先生と同じように市場の奥まで行けます。チョコレートも買えました」
「しかし、息は苦しくなるんだろう」
「それは先生といっしょでも同じです。どうしようもありません」
水族館や研究所は人が多くても息苦しくならないそうだ。何が違うのか、フィンにもわからないらしい。ルートグーヴァは市場を振り返った。噴水を中心に、屋台が円形の広場を埋め尽くしている。避けては帰れない。
「もう少し休むか」
「いいえ、平気です」
フィンはそう言ったが、落ち着かない様子でショルダーバッグの紐を蛇腹に折ったり元に戻したりしている。本当に平気なのだろうか。歩けないほど具合が悪くなったら背負うしかないが、フィンの体重も、今の自分の体がどれくらいの重量を支えられるのかもわからない。海と違って浮力がないし、バランスを取りにくそうだ。
「ルート」
「なんだ」
「あの、さっきみたいに、手、を、つないでほしいです。もし、ルートが嫌でなければ……」
ルートグーヴァが差し出した手を、フィンは不思議そうに見ていた。恐る恐るといった様子で手を重ねる。ルートグーヴァが軽く引っぱると、フィンは立ち上がった。細い手だ。掌の肉が薄く、甲には青く血管が透けている。人間の血は赤いのに、なぜ青く見えるのだろう。
「もう行っちゃうの?」
「お話、忘れないでね。今夜遊びに行くから」
泡沫の精霊たちが耳元で囁いたので、ルートグーヴァはうなずいた。再び屋台の庇の下に入る。話し声、笑い声、蜂蜜の匂い、ひるがえる緑色のスカート、腰の辺りを駆け抜けていく茶色の頭。フィンが言った通り雑多な情報が押し寄せてくる。処理しきれないし、情報が多すぎてすべてを感知するのは不可能だ。
フィンを引く手が少し重くなったので、ルートグーヴァは歩調をゆるめた。手をぎゅっと握られる。振り返ったが、フィンはうつむいていて表情が見えなかった。ルートグーヴァはフィンの手を握り返した。クラーケンの体であれば、と思う。周囲には情報があふれているのに、知りたいことは何一つわからない。
市場を抜けて壁に挟まれた路地に入り、ようやくフィンの手から力が抜けた。頬には赤みが戻っている。
「気分はどうだ」
「よくなりました」
来たときと違う路地に入ったようだ。薄紫色の花が垂れ下がっている窓がある。行きよりも舗装が悪く、ところどころ煉瓦が欠けて穴が空いていた。
「今日の実験で、ひとつ想定していなかった結果がありました」
まさか。ルートグーヴァは再び身構えた。
「ルートが背中を撫でてくれると、息がとても楽になります。先生もたまに背中を撫でてくれますが、ルートほど楽にはなりません」
「そうか」
素っ気ない返事をしてしまったが、本当はとてもうれしかった。ひとつ、先生に勝っているところが見つかった。表情に出てしまいそうで、ルートグーヴァはわざとフィンと反対に顔を向けた。
煉瓦の溝に砂が増え始める。ナイフを入れたように道の先が輝き、潮騒が耳をくすぐる。市場からずっと手をつないだままだった。ルートグーヴァに不都合はないし、フィンも何も言わない。たぶん、フィンはまだ手をつないでいたいのだろう。少なくとも、ルートグーヴァはまだ手をつないでいたかった。
「腕八本もどうやって動かしてんの」
どうやって、と言われると困ってしまう。一々意識などしないし、意識とは裏腹に動くこともある。王宮の広間など開けた場所にいると、一本くらいは暗くて狭い場所を探してさまよい始める。意識すれば引っ込められるが、引っ込めるまでにほんの少し空白がある。無意識と意識の狭間、一秒にも満たない無の時間だ。フィンを好きだと自覚した夜から、その時間がずっと続いているようだった。
「何か進展があったんですか」
ロッカールームを出ようとしたら、フィンに声をかけられた。ルートグーヴァは何食わぬ顔で振り返ったが、肋骨の内側では心臓が跳ねている。
「ルートはいつも午後しか自分の研究をしないのに、一昨日から午前中もしています。新しい発見があったんですか」
「いや、ちょっとした思いつきを裏づけようとしているだけだ」
「何を思いついたんですか」
「まだ説明が難しい」
ルートグーヴァはフィンから逃れるように廊下へ出た。宝玉は一人で見つけると決めた。フィンに宝玉の在処を聞きたくない。敷地内の建物の配置はおおよそ把握しているし、各建物の見取り図も作っている。不可能ではないはずだ。調べていくうちに、研究内容の重要度によっては仮の許可証でも借りられる鍵があるとわかった。見取り図の空白もじきに埋まるだろう。
ルートグーヴァはカフェテリアでクッキーを買い、テラス席へ向かった。芝生が海面のように輝いている。太陽は日に日に力を増すが、まだ夏の頂点には至っていない。隅の椅子に座ってクッキーを砕いていると、早速ハトがやってくる。カモメは海鳥なので協力的だが、他の鳥と話をするには手土産が必要だ。
ハトにはテラスや屋外の休憩スペースでの情報収集を頼んでいた。カモメは人の傍に寄るには大きすぎる。人間の方が警戒して立ち去ってしまうので、もっぱら空からの見張りに徹している。
「何か聞いたか」
一頻りクッキーを堪能したハトに声をかける。
「なんにも。ねえ、そのおっきいナッツのとこちょうだい」
「近いうちに都から偉い人が来るらしい」
「尾羽に黒い筋の入ってるカモメが意地悪するんだ。なんとかしてよ」
「ウミガメのおばあちゃん元気になったんだって」
「ウミガメのおばあちゃん?」
足のピンク色が一際鮮やかなハトがくーくーと鳴いた。ルートグーヴァが大きなかけらを差し出すと、彼女は翼で仲間を牽制しながらあっという間に平らげた。
「研究所で一番年寄りのウミガメだよ。ずっと病気で違うところにいたんだけど、元気になったから元の場所に戻ったんだって」
「元の場所とはどこだ」
「あそこ」
ハトは灯台のような円筒形の建物をくちばしで差した。灯台よりもずいぶんと太い。一度入ったが、建物と同じ形の巨大な水槽があっただけで生き物はいなかったはずだ。
鉄の扉は施錠されておらず、簡単に入れた。低い機械の音が聞こえる。以前にはなかった音だ。水槽に巻きついた螺旋階段を登っていく。頂上は天井に触れそうな高さだ。水槽に蓋はなく、アオウミガメが水面から顔を出していた。
「グルグラーケン族のルートグーヴァだ。王国の結界を成す宝玉が盗まれたので、探している。研究所のどこかに保管されているはずだが、知らないか」
アオウミガメはひれをゆったりと動かしながら、ルートグーヴァを見上げている。しばらく待ったが返事がない。聞こえなかったのだろうか。ルートグーヴァは水槽の縁に手を置いてかがみこんだ。
「何を憂いているのかしら」
瓶に貝を入れて振ったような声だった。
「何も。それより宝玉について知らないか」
「出会ったばかりなのに、もう嘘をつくの」
「嘘はついていないし、私の話はどうでもいい。宝玉について知っていたら教えてほしい」
「この世にどうでもいい命なんてないのよ」
ルートグーヴァは腕を組み、アオウミガメをななめに見下ろした。受け答えができているので耳は聞こえている。ルートグーヴァの言葉も理解している。ただ、彼女はどうあっても彼女の望む方向へ話を持っていきたいらしい。
「私はあなたについて何も知らない。あなたが教えてくれれば、私も教えるわ。それがあなたの役に立つかどうかはわからないけれど」
「知ってどうするつもりだ」
「知りたいだけよ。知りたいと思うのは、そんなにいけないことかしら」
ハトがおばあちゃんと呼んだようにアオウミガメは高齢だったが、まるで少女のようだ。純真無垢で、天真爛漫。悪意なくルートグーヴァを翻弄する。ルートグーヴァはため息をついた。こういったおしゃべりは苦手だ。ハイドラストイエがいれば何とかしてくれるだろうが、今は望むべくもない。
「どうして私が嘘をついていると判断できる」
「経験と勘よ」
「根拠として弱い」
「そうかしら。私は海で泳いでいた時間よりも、ここで人間たちと過ごした時間の方が長いの。他には何もいないから、人間ばかり見てきたわ。あなたが人間の姿をしている限り、私の経験と勘は何より役に立つでしょう」
黒く濡れた目に自分の影が映って居心地が悪い。ルートグーヴァはアオウミガメから目を逸らした。
「何を憂いているの」
「名前は」
「エマよ」
「エマ、誰かを好きになった経験はあるか。その……恋愛感情、という意味だが」
「私は誰を好きになればいいのかしら」
エマは言うが早いか水に潜った。ひれを大きく使って潜行していく。薄暗い水の底をかすめて、軽やかに浮かび上がる。人間が作った小さな海に、彼女はひとりで暮らしている。窮屈で退屈だろう。代わりに、心を煩わせるものは何もない。
「あなたは恋をしているの」
「不本意ながら」
「なぜ不本意なの。恋は楽しいんでしょう。ええと、そう、うきうきするのよね?」
むしろ苦しいと答えようとして、ルートグーヴァは少し迷った。フィンが好きだと自覚するまでは、こんなに苦しくなかった。
「楽しいときも、楽しくないときもある」
「あなたは楽しくないのね」
「そうだな」
「どうして。恋人とうまくいっていないの」
「恋人じゃない」
「あら、違うの」
「私が好きなだけで、彼は違う」
一方的な感情では恋人と呼べないだろう。
「彼? お相手は殿方?」
「おかしいと思うか」
「いいえ。あなたがおかしいなら、アメフラシはどうなってしまうの。クマノミは? ハナヒゲウツボは?」
アメフラシは雌雄同体だ。クマノミもハナヒゲウツボも性転換をする。いずれも子孫を残すための方策だ。海では珍しくない。
「彼らと私では意味合いが違う。私は種の存続のために彼を好きになったんじゃない」
「では、イルカは?」
イルカは同性でもつがいになる。
「二つの性を持って恋をする。性を変えて恋をする。性を変えないまま恋をする。恋をしているのに違いはないわ」
「詭弁だ」
「そうかしら」
エマは挑むように、同時に愉快そうにルートグーヴァを見ている。狭い水槽に閉じ込められているというのに、エマの精神は驚くほど自由でのびやかだ。
「どうして好きだと言わないの」
「任務に影響がある」
人間にも同性のつがいはいるが、少数だそうだ。社会的、心理的な嫌悪感が強いらしい。受け入れられる可能性は低いだろう。
「関係を悪化させるわけにはいかない」
「また嘘をつくのね」
エマは抑揚なく言った。
「事実だ」
「ええ、でも真実ではないわ」
ハイドラストイエといい、エマといい、なぜ他人の心の内を暴こうとするのだろう。放っておいてほしい。何もかも抱えたまま、腕を縮こめて岩の隙間に閉じこもっていたい。
「拒絶されたくない。このままがいいんだ」
どうせ最後には嫌われてしまうのだから、少しでも長く今の関係を保ちたい。悪あがきでもいい。あがける間はあがきたい。
エマはくしゃ、とまばたきをした。目の縁から雫がひとつ落ちる。大きな目が星空のように輝いている。
「人間たちは一番北の建物に大切なものをしまっているわ。あなたの探し物もそこにあるかもしれない」
「ありがとう。調べてみる」
「ルートグーヴァ」
「なんだ」
「あなたは恋が楽しくないと言ったけれど、私はあなたがうらやましい」
ルートグーヴァは返す言葉を見つけられなかった。エマはルートグーヴァを置き去りにして水槽の底へと潜っていった。
エマが教えてくれた建物は途中から丘に飲みこまれていた。丘を掘って建てたのか、建ててから土を盛ったのか、奇妙な建物だ。両開きの扉は施錠されていた。ルートグーヴァは建物の陰で待ち、他の研究員が鍵を開けたところを見計らっていっしょに入った。
「俺たち一時間くらいかかりますけど、もっといます? それなら鍵わたすんで、総務に返しといてください」
「いえ、確認だけなのですぐに出ます」
男女二人組の研究員は別の鍵を使って近くの部屋へ入っていった。ルートグーヴァは通路の奥へ向かった。窓がひとつもなく、ほこりっぽい匂いがする。左右に並んだドアのプレートにはアルファベットと数字が書かれている。どの部屋も鍵が掛かっていた。
二階は一階と同じ構造だった。二階のドアもひとつも開かない。通路の突き当りで螺旋階段を見つけて登ってみると、天井に円形の切れ目が入っていた。錆びかけた留め具を外して扉を押し上げる。海風が吹きつけた。日の光がまぶしい。
「ルート?」
影が差し、フィンと目が合う。声こそ出なかったものの、一瞬息が止まったかと思った。
「何をしているんですか」
「あ、いや、その」
隠れようにも見つかってしまった後だ。なんとか誤魔化さなければならない。
「知らない建物だったから、探検していた」
「資料庫です。貴重な文献や標本がしまわれています。鍵がないと何も見られません。先生に聞いていないんですか」
「ああ、ここがそうなのか。聞いてはいたが、場所まではわからなかった」
ルートグーヴァはできるだけ平静を装って外へ出た。扉を中心にタイルが敷き詰められ、幾何学模様が描かれている。赤、青、白、黄色、様々な色が散らばっていて、目がちかちかした。タイルの隙間から雑草が生えている。
「どうやって入ったんですか」
「ちょうど入っていく人がいたから、いっしょに」
「僕もたまにやります。でも、本当はいけないんです。総務部に見つかると叱られます」
「気をつける」
タイルの外は地面が見えないほど雑草が生い茂っていた。狭い土地だ。東と北は少し歩くだけで崖に行き当たる。崖下をのぞくと、岩肌に波が打ちつけていた。東の崖の手前には錆びた鉄のベンチが据えられていた。ルートグーヴァが見つけた扉以外、出入り口らしきものは見当たらない。
「フィンはどうしてここに? ここはどういう場所なんだ。見たところ管理されていないようだが、何かの観測地か。どうやって来たんだ」
「あの、あ……どうして……どう……どうやって、が先ですか」
「すまない。急ぎすぎた」
やましさから、つい矢継ぎ早に話してしまった。フィンは疑問詞が二つより多いと答えられない。
「どういう順番でもいいんだが、どうやってが一番知りたい」
「あちらの坂から登ってきました」
フィンは海と反対、西の方を指した。確かに資料庫正面の斜面よりはゆるやかだが、登るとなれば一苦労だろう。フィンは思いの外体力があるのかもしれない。
フィンによると、昔は小規模な天体観測所があったそうだ。落雷で観測器が壊れ、東の崖の一部も崩れて危険だからと撤去された。資料庫が丘にめり込んでいる理由はフィンも知らないと言う。
「防犯のためではないかと推測します」
「なるほど。それで、フィンはどうしてここに来たんだ」
「この場所が好きだからです」
フィンは雑草の間をジグザグに歩き、ベンチに座った。ルートグーヴァを振り返る。呼ばれているのだろうか。ルートグーヴァはフィンと同じ道をたどり、フィンの隣に腰かけた。
「ここは先生のお気に入りの場所です。ベンチを運んだのも先生です。夜中に、誰にもないしょで、こっそり持ってきたと言っていました」
研究に行き詰まると、先生はベンチで思索に耽るそうだ。フィンを連れてきて、仮説を語って聞かせることもあるらしい。
「フィンも考え事をしていたのか」
「いいえ、僕は、寄生虫が見つからなかったので来ました。先生の仮説によれば、サバの肝臓にいるはずなんです」
「気分転換を邪魔してすまない」
フィンは海に視線を向けたまま首を振った。
腕が短すぎる。数も少ない。目も口も頭の位置さえクラーケンとは違う。どこからどう見ても、フィンは人間だ。外見だけなら、ハイドラストイエに紹介されたコウモリダコの方が美しかった。見目でフィンを好きになったのでない。では何が、と考えるとわからなくなる。きっと考えない方がいいのだろう。考えて、仮に答えが出たとしても、どうにもならない。
ふいに、腹に響くような音が長く続いた。目を移せば、遠く水平線に船が浮いている。
「汽笛か。ずいぶん響くんだな」
「港に入る船は、たいていあそこを通ります。先生のヨットもです。もうすぐ帰ってくるかもしれません。帰る前は、先生は手紙を書かないんです」
先生はまだ帰らないだろう。帰るとなれば、ルートグーヴァに連絡が来るはずだ。フィンは毎日先生の手紙を待っている。手紙は引き続きカモメが巣で保管している。
「先生がいなくてさびしいか」
「少し。でも、ルートがいるから平気です」
フィンははにかんだような笑みを見せた。うれしいはずなのに、うまく喜べない。あと一ヶ月もすれば、ルートグーヴァはクラーケンに戻る。フィンは独りぼっちになってしまう。
フィンはじっと水平線を見つめていた。ルートグーヴァは引き寄せられるようにフィンの髪に触れた。フィンが驚いた様子でルートグーヴァを振り返る。フィン以上に、ルートグーヴァが驚いていた。たった二本しかない腕の制御もできないなんて、どうかしている。
「虫が、とまっていた」
「ありがとうございます」
フィンは疑いを知らない。貝を失ったヤドカリのように無防備だ。海にいたら、あっと言う間に食べられてしまうだろう。
いつからか、フィンは目を逸らさなくなっていた。ルートグーヴァが望んだ距離感だ。フィンの警戒心を解いて、仲良くなって、宝玉の在処を聞き出す。そういう計画だった。絶好の機会だろう、とルートグーヴァは他人事のように思った。ちょうど資料庫の上にいる。どんな資料が保管されているのか、フィンが見つけた宝玉もあるのか、と聞けばいい。
「私はそろそろ戻るが、フィンはどうする」
「僕もいっしょに行きます」
宝玉は一人で見つけると決めた。砂でざらつく取っ手を握って円形の扉を引き上げる。フィンを先に通し、ルートグーヴァは後から螺旋階段を下りた。扉を閉め、留め具は掛けない。これで、外からでも開けられる。
八月最初の日曜日、ルートグーヴァは部屋で研究所の見取り図をながめていた。諸々の情報を総合すると、宝玉はエマが教えてくれた資料庫にある可能性が高い。問題は、ゴカイの肢のように並んだ部屋のどれが当たりか、鍵をどうするかだ。
ノックが聞こえ、ルートグーヴァは見取り図を伏せた。フィンは白いシャツを着て、濡れた砂の色のズボンを履いていた。フィンの服装に平日と休日の区別はない。いつも長袖で暑くないのだろうか。
「市場へ行くので、ついてきてくれませんか」
市場は月に一回、噴水の広場で開かれる。市場と宝玉は無関係だろうが、見取り図をにらんでいても宝玉の在処は判明しない。ルートグーヴァはフィンの申し出にうなずいた。
フィンは厚手の布袋を折り畳んで通勤用のショルダーバッグにしまい、ルートグーヴァを見た。出かける準備ができたようだ。空はよく晴れ、日向と日陰にくっきりと境界線が引かれていた。まぶしすぎて目の奥が痛い。
「何を買うんだ?」
「卵と、玉ねぎと、オレンジと」
フィンは十種類以上の食品や日用品をすらすらと諳んじた。
「それから、チョコレートを買います」
チョコレートが何かはわからないが、市場で売っているのだから、日用品か食べ物だろう。
海沿いをしばらく歩き、大通りを渡って住宅街へ入る。路地は煉瓦で舗装され、溝に砂がたまっていた。道幅が狭く、白い壁と赤茶色の屋根が両側に迫っている。
広場には屋台が隙間なく並んでいた。様々な音と匂いが混じり合い、水族館より多くの人間が行き交っている。フィンはショルダーバッグから布の袋を取り出して広げたが、周囲を見回すばかりで動こうとしなかった。
「行かないのか」
「いえ……行きます」
フィンはかろうじて聞き取れる声で言い、突進するように人ごみへ入っていった。
市場は物であふれていた。レシピの本でしか知らない野菜が並んでいる。値札には等しくトマトと書かれているが、赤も黄色もオレンジ色もある。細長かったり、小さかったりする。刺激的な匂いのする小さな粒、使い道が思いつかないほど大きなフォーク、瓶詰にされたニシン。ありとあらゆる品の間を、フィンは顔を伏せて歩いていく。前を見ないので何度か人にぶつかったり、ぶつかりそうになったりした。
「フィン、危ない」
今も、ルートグーヴァが腕をつかんで止めなければ、前から来た男性とぶつかっていただろう。フィンは大人しく止まったが、うつむいたまま再び歩き始める。物を買うときにも、相手の顔をほとんど見ない。コーヒー屋の店主はどこへ笑顔を向けるべきか迷ったようで、ルートグーヴァを見てにっこりと笑った。
「私が持つ」
ルートグーヴァは膨らんできた布の袋をフィンから受け取った。財布も預かり、指示されたものを指示されただけ買う。持つものがなくなったフィンの両手はショルダーバッグの紐を強く握っていた。何かから身を守るように肩を丸めている。
「この子、大丈夫なの?」
ふっくらとした頬の肉屋は心配そうにフィンを見て、ソーセージを二本おまけしてくれた。フィンはルートグーヴァの会計を待たず、足早に歩き出す。急に方向を変えた女性を避けるため、ルートグーヴァはショルダーバッグの紐をつかんでフィンを引きとめた。
「フィン、前を見ないと本当に……聞いているのか」
「あら、海辺の子たちのお友だちじゃない」
「何してるの。お買い物?」
複数の影が横切り、甲高い笑い声が耳元で弾けた。噴水に住む泡沫の精霊だ。海辺の精霊は朝が来ると姿を隠してしまうが、噴水の彼女たちは昼間でも活動しているらしい。
「今は話していられない」
フィンに置いていかれてしまう。
「なによぉ。お料理手伝ってあげたじゃない」
「それについては感謝しているが、今は取込み中だ」
フィンはどんどん市場の奥へ入り込んでいく。何かを食べながら歩いている人間が増え、複雑な料理の匂いがする。火を使っている屋台の前を通ると、熱気が吹きつけた。泡沫の精霊たちは、火は嫌いだ、髪に匂いが移るとぶつぶつ言いながらついてくる。
フィンが足を止めた屋台では、ひどい癖毛の男性が本を読みながら店番をしていた。木と布で作られた折り畳み式の椅子に座っている。彼の足元からは低いモーター音が聞こえていた。
「やあ、こんにちは」
挨拶をされ、フィンはびくりと肩を震わせた。男性はフィンの反応に動じた様子もなく、にこにこしている。
ガラスケースには小さな固形物が等間隔に並べられていた。直方体、球体、巻貝などの形をしている。ガラスケースの上に黒板が置かれ、丸みを帯びた字で「おいしいチョコレート」と書かれている。これがチョコレートか。食べ物には見えないし、味の想像がつかない。強いて言えば苦そうだ。死んだ魚のはらわたの色をしている。
「決まったら声をかけて」
「……あ、あの」
「何?」
男性が立ち上がり、フィンはひゅっと喉を鳴らして後ずさった。男性は苦笑し、手を後ろに回す。
「大丈夫。好きなだけ選んで」
フィンは足元をにらみ、体を強張らせていた。しゃっくりのような変な呼吸をしている。具合が悪そうだ。
「ねえ、この子つらそう」
「あんた助けてあげなさいよ」
泡沫の精霊が騒ぎ立てるが、どうすればいいかわからない。王国には病気になる者がほとんどいない。長命種が多く、百年も生きれば粗方の抗体が得られるためだ。クラーケンの場合、病気は口やえらからの感染症か皮膚病に限られる。感染症の場合は投薬が必要だが、皮膚病であれば該当箇所を清潔に保てば自然に治癒する。長老たち曰く、「擦れば治る」。
ルートグーヴァはフィンの背中に手を置いた。上から下へ、一定のリズムで撫でる。脊椎が浮いていて、ごりごりする。跳びはねがちなフィンの呼吸をなだめるため、ルートグーヴァはつとめてゆっくりと手を動かした。泡沫の精霊たちもいっしょになって撫でる。やがて、凝り固まっていたフィンの体がわずかに弛緩した。
「……これと、これを、ふたつずつください」
「はい。ちょっと待ってね」
男性はガラスケースの裏を開け、フィンが指したチョコレートを箱に入れた。金色のリボンをかけている。ルートグーヴァが代金を払おうと背から手を離すと、フィンが袖をつかんだ。
「フィン、離してくれ。支払いができない」
フィンはうつむいたまま首を振る。
「貸して」
男性はルートグーヴァから財布を受け取り、親指と人差し指でコインを二枚取り出した。最後に両手を開いてみせたのは、余計には取っていないという意味だろう。
「はい、どうぞ」
ルートグーヴァは財布とチョコレートを受け取った。フィンはまだ袖を離してくれない。ルートグーヴァはフィンの指を一本ずつ開いて解き、どこもつかまれないように手を握った。
「ねえ、彼は多分ヤマアラシなんだ。でも、君には懐いているみたいだよ」
男性は目を細めた。椅子に腰かけ、読書に戻ってしまう。
ヤマアラシ。同じ名前の魚が遠い南の海にいる。フィンは棘を持っているようには見えない。
「フィン、行こう」
ルートグーヴァはフィンの手を引いて歩き出した。
「どこか休める場所は?」
小声で精霊たちに問うと、一番近くにいた精霊が腰に手を当てて頬を膨らませた。
「さっきまで散々邪険にしたくせに、調子がいいんじゃなくって?」
「噴水にいらっしゃいよ。きれいよ」
「あんた甘いわねぇ」
「まあまあ、いいじゃないの。私たち、水浴びしなきゃ。髪からカレーの匂いがするもの」
透き通った肌をきらめかせながら、泡沫の精霊たちが飛んでいく。ルートグーヴァは人の間を縫って後を追った。
「道案内のお礼はお話がいいわ」
「海の底のお話をしてね。人魚が出てくるお話じゃなきゃダメ」
フィンは手を引かれるまま、大人しくついてくる。ショルダーバッグの紐を拳が白くなるほど握り締めている。名前を呼んだが、顔を上げない。人間の体がもどかしい。クラーケンの姿であれば、もう少しフィンの状態がわかるはずだ。思考までは読み取れなくても、息苦しいのか、どこか痛むのかくらいは推測できるだろう。人間の皮膚は鈍感すぎる。
水の音が聞こえ、屋台が途切れた。庇がなくなり、太陽の光が直接目に差し込んだ。精霊たちは我先に噴水に飛び込んでいく。ルートグーヴァは噴水の縁にフィンを座らせた。
「どこか痛むのか」
フィンは首を振った。頬の赤みが抜け落ちている。まぶたが重そうで目も潤んでいた。
「病院に行くか」
フィンはもう一度首を振った。休めばよくなるとくり返す。不安は残るが、人間の体についてルートグーヴァは素人だ。フィンの意見に従うしかない。
「他に買うものは?」
「チョコレートが、最後です」
「では、休んだら帰ろう」
ルートグーヴァは布の袋を右から左の肩に換え、腕を組んだ。フィンがまぶしそうにしているので、自分の影が落ちるように横へ移動する。フィンの隣では、老婦人が膝に子犬を抱いていた。子どもが二人、汗を光らせながら噴水の周囲を駆け巡っている。
「僕は」
話し始めてすぐ、フィンは口をつぐんだ。うつむき、せっかく離していたショルダーバッグの紐をまた握る。
「……僕は、市場が怖いんです」
フィンの声がどんどん小さくなっていくので、ルートグーヴァは身を屈めて顔を近づけた。
「市場に来ると、色々なことが、押し寄せてきて、いつも、息ができなくなります。歩いているうちに、道がわからくなります。どこか、知らない、ところに、連れていかれる気がして、怖くなるんです」
「前にも来ていたんだろう」
「いつもは、こんなに奥まで来ません」
屋台の場所は基本的に毎月変わらないらしい。フィンは買いたいものを記憶して、最短距離で買い物を済ませる。同じものを売っている屋台もあるので、なるべく外周で買うそうだ。
「息ができなくなる前に、逃げます」
逃げるという表現が、フィンの心の声なのだろう
「そんなに嫌なら来なければいいんじゃないか」
「駄目です。練習なんです」
「練習?」
「先生が、言ったんです。市場くらいひとりで行けるようにならないといけないよ、って。だから、練習しているんです」
先生はフィンが感じているほど重い意味を込めて言ったのではないはずだ。
「無理をする必要はないだろう。先生は、ひとりで市場に行けないからといってフィンを責めたりしない」
「知っています。僕が練習したいんです。僕が先生に、褒めてもらいたくて、しているんです」
先生の発言はフィンの行動を大きく左右する。まるで魔法だ。フィンにしか効かない、とても強力な魔法。ルートグーヴァには解けない。フィンと先生が過ごした時間の長さや、フィンが先生に寄せる信頼は覆せない。
「ひとりで市場に行く練習なのに、どうして私を連れてきたんだ」
「実験をしたかったんです。ルートを実験台にしました」
心臓が跳ねる。いつ、どんな実験をされたのだろう。正体はばれていないだろうか。
「先生と市場に行くと、ひとりのときより息が苦しくないので、奥の方までいけます。ルートも同じではないかと思って、試しました」
他愛ない実験にルートグーヴァは胸を撫で下ろした。それにしても心臓に悪い。まだ脈が速いままだ。
「怒りましたか」
「怒ってはいないが、面白くはない」
「ごめんなさい」
そう素直に謝られると困ってしまう。
「それで、実験は成功したのか」
「はい。僕の仮説は実証されました。ルートといっしょだと、先生と同じように市場の奥まで行けます。チョコレートも買えました」
「しかし、息は苦しくなるんだろう」
「それは先生といっしょでも同じです。どうしようもありません」
水族館や研究所は人が多くても息苦しくならないそうだ。何が違うのか、フィンにもわからないらしい。ルートグーヴァは市場を振り返った。噴水を中心に、屋台が円形の広場を埋め尽くしている。避けては帰れない。
「もう少し休むか」
「いいえ、平気です」
フィンはそう言ったが、落ち着かない様子でショルダーバッグの紐を蛇腹に折ったり元に戻したりしている。本当に平気なのだろうか。歩けないほど具合が悪くなったら背負うしかないが、フィンの体重も、今の自分の体がどれくらいの重量を支えられるのかもわからない。海と違って浮力がないし、バランスを取りにくそうだ。
「ルート」
「なんだ」
「あの、さっきみたいに、手、を、つないでほしいです。もし、ルートが嫌でなければ……」
ルートグーヴァが差し出した手を、フィンは不思議そうに見ていた。恐る恐るといった様子で手を重ねる。ルートグーヴァが軽く引っぱると、フィンは立ち上がった。細い手だ。掌の肉が薄く、甲には青く血管が透けている。人間の血は赤いのに、なぜ青く見えるのだろう。
「もう行っちゃうの?」
「お話、忘れないでね。今夜遊びに行くから」
泡沫の精霊たちが耳元で囁いたので、ルートグーヴァはうなずいた。再び屋台の庇の下に入る。話し声、笑い声、蜂蜜の匂い、ひるがえる緑色のスカート、腰の辺りを駆け抜けていく茶色の頭。フィンが言った通り雑多な情報が押し寄せてくる。処理しきれないし、情報が多すぎてすべてを感知するのは不可能だ。
フィンを引く手が少し重くなったので、ルートグーヴァは歩調をゆるめた。手をぎゅっと握られる。振り返ったが、フィンはうつむいていて表情が見えなかった。ルートグーヴァはフィンの手を握り返した。クラーケンの体であれば、と思う。周囲には情報があふれているのに、知りたいことは何一つわからない。
市場を抜けて壁に挟まれた路地に入り、ようやくフィンの手から力が抜けた。頬には赤みが戻っている。
「気分はどうだ」
「よくなりました」
来たときと違う路地に入ったようだ。薄紫色の花が垂れ下がっている窓がある。行きよりも舗装が悪く、ところどころ煉瓦が欠けて穴が空いていた。
「今日の実験で、ひとつ想定していなかった結果がありました」
まさか。ルートグーヴァは再び身構えた。
「ルートが背中を撫でてくれると、息がとても楽になります。先生もたまに背中を撫でてくれますが、ルートほど楽にはなりません」
「そうか」
素っ気ない返事をしてしまったが、本当はとてもうれしかった。ひとつ、先生に勝っているところが見つかった。表情に出てしまいそうで、ルートグーヴァはわざとフィンと反対に顔を向けた。
煉瓦の溝に砂が増え始める。ナイフを入れたように道の先が輝き、潮騒が耳をくすぐる。市場からずっと手をつないだままだった。ルートグーヴァに不都合はないし、フィンも何も言わない。たぶん、フィンはまだ手をつないでいたいのだろう。少なくとも、ルートグーヴァはまだ手をつないでいたかった。
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