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第14章
ルートグーヴァが王国に戻ってから一ヶ月ほど経った。「好きなだけ休んでよい」という王の言葉に甘え、本当に好きなだけ休んでいる。岩の隙間の家にはだいぶ砂が入り込んでいた。掃除をするのも億劫で、毎日うとうとしている。割れた香水瓶を外へ出す以外は何もしていない。何年も前に浅い海で拾ったものだ。気に入っていたのに、腕が当たって割ってしまった。帰ってきてから、利き腕が妙な動きをするようになった。痙攣したりうねったり勝手に壁に張りついたりする。体調が悪いのかもしれないが、どうでもいい。
フィンはどうしているだろう。宝玉盗難の容疑者にされていないだろうか。カモメが隠していた先生の手紙は読んだだろうか。またオムレツばかり食べているのだろうか。チョウザメの観察は順調だろうか。ルートグーヴァは漏斗から水を吐き出した。考えても仕方がないのに止まらない。最後に見たフィンの表情が、声が、心臓を締めつける。
義務を果たしただけだ。結界は修復され、火山は再び封印された。海の危機は回避された。誇るべき事実を前にしても、ルートグーヴァの気分は晴れなかった。
フィンに会いたい。
会えないとわかっているのに、どうして同じ脳から会いたいという気持ちが生まれるのだろう。ルートグーヴァはもう一度漏斗から水を吐き出した。眠ってしまおう。意識があるから、余計なことを考えるのだ。
どれくらい眠っていたのか。腕が勝手に何かをつかんで目が覚めた。やわらかい。いい匂いと味がして、急に空腹を思い出す。イカの腕だ。大きさからしてダイオウイカだろう。ルートグーヴァの意思とは別に、もう二本、腕がイカに伸びていく。硬いものに触れた。曲がった金属だ。辿っていった先の、これは鎖だろうか。軽く引っぱってみる。
「かかった!」
ハイドラストイエの声が聞こえ、ぐっと引っぱられた。船の錨にダイオウイカの腕がくくりつけられているようだ。ハイドラストイエはルートグーヴァを釣り出す気らしい。外には出たくないが、腹は減っている。ルートグーヴァは鎖を引っぱり返した。
「うおっ、抵抗する気か! いいのか! お前んちの入口狭いんだからな! 入口に引っかかって怪我するかもしれないぞ! オレが! 友だちの鱗が剥がれてもいいのかよ!」
嫌な脅し方をする。ハイドラストイエが諦めるまで引っぱり合いを続けてもいいが意味はない。ルートグーヴァは家の壁に張りついた吸盤をはがした。ずるずると外へ引き出される。
「釣れた釣れた。おい、何抜け駆けして食ってんだよ。半分はオレのだぞ」
「おいしい」
「さっき狩ったばっかりだからな。オレは見てただけだけど。だから食うなって! 半分にするから一回食うのやめろ!」
ハイドラストイエは錨の返し部分でイカの腕を二つにし、太い方をルートグーヴァに渡した。
「何日食ってなかった」
「二十日くらいだと思う」
「いくらクラーケンが丈夫だからって、死ぬぞ」
「私は海では死ねない」
ハイドラストイエににらまれ、ルートグーヴァは失言に気づいた。す、と視線を逸らす。
「オレ、その話許してないからな」
気が抜けていたのだと思う。宝玉を取り戻して王国へ帰る途中、ハイドラストイエに魔女との交換条件を話してしまった。ハイドラストイエは怒った。ルートグーヴァが無断で魔女と取引をしたと怒り、親友の自分に一言の相談もなく運命を差し出したと怒り、そのすべてを黙っていたと怒った。二百年のつき合いの中で、こんなに怒らせたのは初めてだった。
ハイドラストイエが腹立ちまぎれに方々で言いふらしたので、ルートグーヴァが海で死ねない話は皆が知っている。長老たちにもレヴィアタンにも任務遂行を褒められると同時に叱られた。王は始終難しい顔をしており、ルートグーヴァは報告の間、身の置き所がなかった。
「まあ、生きてるからいいけどよ。いや、やっぱよくねぇ。オレに黙ってたのが一番よくねぇ。思い出したら腹立ってきた」
「思い出さないでくれ」
さらに墓穴を掘らないよう、ルートグーヴァは黙ってイカを食べた。帰ってきたときと水の気配が違う。深海の水温は年中変わらないが、ピンと引き伸ばしたような感触がある。これから冬に向かうのだろう。冬になればカニが活発になる。イカも好きだが、カニの方が好きだ。
「あいつな、あの人間。ちょいちょい近くまで来てるらしい。見たって奴がたくさんいる」
フィンが近くに来ている。もしかしたら、今もすぐそこにいるかもしれない。ルートグーヴァは頭上に視線を向けたが、海は暗く深く、潜水艇らしきものは見えなかった。
「なあ、オレたちが帰ってくるとき、別に後つけられてなかったよな。オレたちがぼーっとしてて尾行されたって言う奴がいるんだ」
「尾行などされていない。不可能だ」
あれからすぐにフィンが目を覚ましたとしても、潜水艇の準備をしなければならない。
「フィンは、たぶん計算したんだ」
事故でエンジンが止まった瞬間の計器の数値を覚えていれば、座標がわかる。当日の海流の情報があれば、どの方向にどれくらい流されたか割り出せる。結果を組み合わせれば、宝玉の柱の位置だ。
「マジで。そんなのできんのか。人間やべぇな。でも、オレたちのせいじゃなくてよかった。今度あいつらに会ったら、オレたちのせいじゃねぇってはっきり言ってやる」
近くに来ても、結界の力でフィンには王国もルートグーヴァの姿も見えない。影響はないはずだ。王も同じ見解らしく、排除の命令は出ていないらしい。
フィンは宝玉を取り返そうとしているのだろうか。ハイドラストイエを見て、人魚の都市が現存すると思ったのかもしれない。先生の仮説を裏づけるために、きっと必死になっている。
「会いたいなんて言うなよ」
「言わない」
会いたいけれど、会えないし、会う勇気もない。嫌われてしまった。
「忘れろと言わないんだな」
「言わねぇよ。オレが何回失恋しても、お前はオレに忘れろって言わなかったからな」
「そうだったか」
「そーだよ。だからオレも、お前が失恋したときは言わないって決めてたんだ」
ハイドラストイエは得意そうに笑う。
「ラス」
「んぁ?」
「ありがとう」
「いいってことよ」
王国では種族ごとに役割が決まっている。人魚と半魚人は記録に携わり、ヒッポカムポスは王の車を引く。飛び抜けた能力があれば別の業務に抜擢されるが、基本的には各種族が代々担っている役目に就く。クラーケンは国境警備だ。ルートグーヴァは同僚といっしょに宝玉の柱から柱へと見回りをしていた。
ひとりでいると、どうしてもフィンのことを考えてしまう。仕事をしていた方が気が紛れてよかった。少しずつ、手放していかなければならない。今はまだ忘れてしまうのがさびしい。いつか、さびしささえ忘れられるだろうか。
「待て。どこへ行く」
若いマッコウクジラが国境を超えて王国に入ろうとしていた。同僚が声をかけると、マッコウクジラは一瞬狩りの体勢に入ったが、こちらが身構えるとすぐに諦めた。聞けば、道に迷ったらしい。腕を伸ばして方角を示してやると、マッコウクジラは素直に泳いでいった。
「異常なし」
国境警備は結界の警備でもある。宝玉が柱に安置され、正常に王の魔力を宿しているか確認する。中心からこぼれる光が魔力の証だ。宝玉がすべてそろい、結界は正常に機能していた。
「どうしたんだ、ルートグーヴァ。次に行くぞ」
勝手に利き腕がうねる。ルートグーヴァは腕を胴に引き寄せ、進み始めた同僚を追った。ふと、何かが体を這い回るような感覚があった。同僚も感じたらしい。動きを止め、ルートグーヴァに向き直る。腕を持ち上げて海水を探ったが、妙な匂いも味も感じられない。
「宝玉が」
振り返ると、柱に据えられた宝玉が明滅していた。宝玉の光が揺らぐなんて、前代未聞だ。宝玉は媒介にすぎないが、ひとつでも異常があれば結界全体に影響を及ぼす。
「王宮に戻って報告しよう。何かが起こっている」
「了解」
ルートグーヴァと同僚は水を吸い込み、漏斗から勢いよく吐き出した。水の噴射を使っての移動は体力を消耗するが、今は緊急事態だ。王宮に帰りついた頃には心臓が跳ねるように鳴っていた。王宮前の広場にもエントランスにも王国の民が大勢集まっている。忙しなくえらを動かして酸素を取り込みながら、ふたりは群集をすり抜けた。
「ルート!」
「ハイドラストイエ、何があった。宝玉がおかしな光り方を」
「いいからこっちに来い。王様がお前を探してる」
ハイドラストイエについて謁見の間に入ると、すべての目が一斉にルートグーヴァに注がれた。レヴィアタンがいる。人魚と半魚人の長、グルグラーケン族とノルラーケン族の長老も整列している。ルートグーヴァは重臣たちの間を這い進み、玉座から少し離れた位置で止まった。
「グルグラーケン族のルートグーヴァ、御前に参上いたしました」
「口上はよい。まずは聞け」
レヴィアタンは常よりいくらか早口にルートグーヴァを遮った。
「結界が壊れた」
ルートグーヴァは絶句した。
「そなたが取り戻した宝玉の内部に傷が認められた。微少でも傷は傷。王の魔力を受けるには不適よ」
「傷? まさか、そんなはずは」
傷つけないように、腕でくるんで持ち帰った。ぶつけても落としてもいない。いつ、どうやって傷が、それも表面ではなく内側についたのだろう。
王に呼ばれ、ルートグーヴァは玉座の下まで這っていった。右の前から二番目の腕を指され、王へと伸ばす。利き腕だ。最近妙にうねるので、粗相をしないかと緊張した。王はルートグーヴァの腕に触れ、細く長く水を吐いた。静かに、呪われていると告げる。
細心の注意を払わなければわからないほど弱い力で、利き腕だけが呪われているそうだ。誰が呪ったかなど考えるまでもない。取引の際、魔女の黒真珠に腕を置いた。あのときしかない。
「魔女はなぜ私を呪ったのでしょうか」
王はルートグーヴァの問いに答えず、呪いについて話した。触れた物に伝播して内側から破壊する呪いだそうだ。魔力は生命エネルギーに起因する。健康な生物や魔力を宿した物なら、ある程度防げる。裏を返せば、弱っている生物や魔力が宿っていない物には影響がある。
ルートグーヴァは香水瓶を思い出した。ただのガラス瓶だ。魔力が宿っていないから壊れた。魔女が香水瓶のために呪いをかけるはずはない。
――王国が滅びる? 結構じゃないか。みんな不幸になっちまえ。死んじまえばいいのさ。
「宝玉は、王の魔力が抜けていたから呪いの影響を受けたのですか」
王はうなずいた。
「呪いが弱く傷もごく小さかった故、これまで耐えられたのだろう」
レヴィアタンが後を引き継ぐ。
「人間の体のときは、何かを壊すようなことはありませんでした」
「人間とクラーケンでは肉体の構造が異なる。そなたの腕が人の身でも腕だったとは限らぬ。あるいは、遅効性の呪いか。そこまでは、呪いをかけた当人でなければな」
王はルートグーヴァのせいではないと言ったが、ルートグーヴァにはそうは思えなかった。知らなかったとはいえ、宝玉を壊したのは自分だ。
――あたしは借りは作らないのさ。お前の運命に見合うだけのものはくれてやる。
お前の運命という言葉には、腕の呪いも含まれていたのだろう。もっと怪しむべきだった。どうして魔女はあんなに色々な薬をくれたのか。親切なまでに薬の効果と期限について教えてくれたのか。魔女は初めから、ルートグーヴァを利用して宝玉を破壊するつもりでいた。結界を無効化し、王国を滅ぼすために。
「では、魔女はなぜ私に薬をくれたのでしょう。初めから取引をしなければいいはずです」
「そなたは運命と薬を取り換えたのであったな」
レヴィアタンは、運命とは糸のようなものだと言った。
「世界は数え切れぬ糸で織り成されている。ときにほころびがあり、ときに結び目がある。ほころびとは決して訪れぬ未来だ。どうあがいても辿り着けぬ境地。結び目は、必ず到来する未来を言う」
あのとき、魔女は舌打ちした。結び目か、と。
「宝玉の奪還が結び目だったのかもしれぬ」
魔女とルートグーヴァが取引をしなくても、誰かが別の方法で宝玉を取り戻し、結界は修復される。
魔女は考えたはずだ。どうしたら、修復された結界をもう一度壊せるか、と。
「故に、魔女は宝玉奪還後の未来に罠をしかけたのだろう」
――先払いだ。腕を置きな。そうさね、利き腕がいい。
ルートグーヴァが利き腕で宝玉に触ると、魔女は未来を見て知っていた。最初から、すべて仕組まれていた。血が逆流して吐きそうだ。
「ルートグーヴァ、そなたはよくやった。己を責めるな」
「しかし」
「そなたの呪い、我らには解けぬだろう。弱いが、複雑に縫い込まれている。王ならばもちろん可能だが、今はそのお力もない。悪く思うな」
レヴィアタンの言葉を引き継ぐように、王は静かにルートグーヴァに詫びた。
「なぜ王が謝られるのですか。すべては魔女の陰謀です。魔女が」
王はルートグーヴァを制し、訥々と話し始めた。
かつて、心優しい人魚の娘がいたそうだ。
「王よ、その話は」
レヴィアタンが遮ろうとしたが、王は耳を貸さなかった。
娘は人間の漁師に恋をしたが、二人の寿命はあまりに違った。娘は一人残され、心を病んだ。苦しみは憎悪になり、娘を狂気に駆り立てた。娘はすべての生き物の不幸を願い、王の殺害を企てた。王の死によって結界を崩壊させ、火山を噴火させようとしたのだ。計画は未遂に終わり、娘は捕えられた。重臣たちは娘の死刑を提言したが、娘を不憫に思った王は死を免じた。恋人から贈られた黒真珠だけを握りしめ、娘は海溝へ追放された。千年前の話だ。
王は、再び沈痛な面持ちでルートグーヴァに謝った。ルートグーヴァはなんと返していいかわからなかった。千年前の王の恩情がめぐりめぐってルートグーヴァの運命を狂わせ、呪いをもたらしたと言われてもピンと来ない。その頃、ルートグーヴァは影も形もなかったのだ。
「私は」
ルートグーヴァは王の手から腕を引いて後ずさった。ゆっくりと水を吐き、床に伏せる。
「私は王の臣です」
王はルートグーヴァに頭を下げ、皆に避難するよう命じた。火山から少しでも遠ざかるように、と言葉を重ねる。火山は間もなく噴火し、ヘドロは海底を埋めるだろう。結界なしで火山を封じる力は、もはや王にはない。結界を直そうにも、媒介となる宝玉が失われてしまった。
重臣たちは散会し始めた。うなだれ、ひれを畳み、のろのろと退室していく。ヒッポカムポスたちが王の周囲に集まりうながしたが、王は玉座から動かなかった。皆が逃げるまではと言い、ヒッポカムポスたちに先に逃げるよう諭している。
「ルート、行こうぜ。逃げろって言われただろ」
いつの間にかハイドラストイエが隣にいる。
「お前のことだから責任感じてるだろうけどさ、死んじまったらどうしようもねぇよ。命に代わりはないんだ。行こうぜ。オレたちがぐずぐずしてると王様も逃げらんねぇだろ」
「代わりがあればいいんだ」
「いや、だから代わりはねぇって。命は一個だけだぞ」
「命の話じゃない。王、失礼いたします」
王宮の広間は記録や宝物を避難させようとしている人魚や半魚人でごったがえしていた。外の広場でも様々な生物が集い、どこへ逃げるか、逃げたあとはどうするかと話し合っている。ルートグーヴァは漏斗から水を噴き出した。
「どこ行くんだよ。そっち火山だぞ」
ハイドラストイエの方が泳ぐのは速い。すぐに追いつかれた。
「魔女が宝玉と同じくらいの大きさの黒真珠を持っていた。代わりになるかもしれない」
「マジかよ。ホントに使えるのか」
王国の結界は宝玉を媒介とし、王の魔力を巡らせて成り立っている。宝玉自体が魔力を生み出しているのではない。途切れた循環を修復できれば、結界を復活させられるはずだ。
「黒真珠と言ったが、真珠を核にした魔女の力の塊だ。試してみる価値はある」
何もしないで逃げるのは嫌だ。
「うーん、そっか。そりゃ、やってみないとだな。で、どうすんだ。また取引するのか」
「奪う」
「ばば様から? 嘘だろ。呪われたらどうすんだよ」
「もう呪われている。ひとつもふたつも同じだ」
「同じじゃねぇ! オレまだ一個も呪われてねぇし!」
「なんでついてくる前提なんだ」
「なんでついてかない前提なんだよ。オレだってなあ、あんときいっしょにばば様んとこ行ってたら、お前にバカなことさせなかったのにとか、色々悩んだんだぞ! んで、お前がまたばば様んとこ行くのについてかなかったら、もう一回悩まなきゃいけないだろ!」
ハイドラストイエは怒ってみせたが、怯えているようだった。当然だ。間もなく火山が噴火するのに、魔女の棲み処に殴り込みに行こうとしている。怒っているのは自分の方だ、とルートグーヴァは思った。魔女は皆の期待も希望もルートグーヴァの努力も愚弄した。許せなかった。ハイドラストイエは怒っていない。素直に逃げればよかったのに、友だちだからとついてきた。
「ラス、お前は馬鹿だけどいいやつだな」
「気づくのが二百年遅ぇんだよ。あと、バカだけどってのは取り消せ」
市街から離れるにつれて海底は凹凸が増え、生物が姿を消す。クジラ岩と呼ばれる大岩の向こうは荒野だ。地殻変動と潮流によって作られた奇岩が乱立している。どれも先端が尖り、高さは優に十数メートルあった。
漏斗から水を吐き出すたび、塵と砂が舞って視界が曇る。地面が揺れ、驚いたエビが体を二つに折って逃げていく。異臭がしている。噴火はまだだが、水温が上がっているようだった。
「オレさ、ばば様にそんな過去があったなんて知らなかった」
「私もだ」
世間では、魔女の力が強大で殺せず、仕方なく追放したと言われている。口から口へ、千年の間に事実は歪んだ。泡になってしまった少女の事件が歪曲に拍車をかけただろう。レヴィアタンの反応を見るに、当時を知る者たちは積極的には情報を修正しなかったようだ。
「なあ、王様のこと怒ってるか」
「怒っていない」
怒る怒らない以前に、告げられた事実をどう飲みこめばいいかわからない。
「よかったー。さっき王宮でさ、お前がぶち切れて王様絞め殺そうとしたらどうしようかと思った」
黙っていればいいのに、王はすべてを話してしまった。ハイドラストイエの言うような事態になったらどうするつもりだったのだろう。重臣たちもやきもきしていたに違いない。
「王様って、ちょっとバカだよな」
「不敬だぞ。誠実な方なんだ」
誠実で慈悲深い王だからこそ、海を治められるのだろう。
「王様絞め殺したくなったら、先にオレに言えよ。オレ、がんばってお前を説得するからさ」
「たぶんならないが、頼りにしている」
荒野の先に、黒々と横たわる裂け目が見えてきた。
「ルート、腕握ってていいか」
「その腕は駄目だ。呪われていないのにしてくれ」
皮膚を通してハイドラストイエの恐怖が流れ込む。同調してしまわないよう、ルートグーヴァは深く水を吸いこんだ。海溝を降りていく。ハイドラストイエが腕にしがみついてくる。幾度目かの地鳴りが起こり、海溝全体が共鳴するように震えた。
ホヤが剥がれて舞うのも構わず、ルートグーヴァは魔女の洞窟に飛び込んだ。魔女は膝に置いた黒真珠をのぞきこんでいたが、二人を認めてタイガーシャークから身を起こした。
「やらないよ! 渡すもんか!」
魔女はこちらを監視していたらしい。黒真珠を抱え込む。縮れた髪が広がり、こけた頬がむき出しになった。ハイドラストイエが息を呑み、ルートグーヴァの後ろに隠れる。
「しかしまあ、よく帰ってこられたもんだ。王子様とはずいぶん楽しく過ごしたようだねぇ」
魔女は笑い、ふいにねっとりと撫でるようなやさしい声を出した。
「ああ、かわいそうにねぇ。あんたが助けてやったのに。隣の国のお姫様ってやつはとんだ悪党じゃあないか」
「なんの話だ」
「な、んの……? そうだ。あんたじゃない。違う。ちがう? あんたは違うのかい。金庫破りが上手な坊や」
魔女の顔から表情が抜け落ちる。ひとつきりの目は焦点が合っていない。底知れぬ不気味さに腕の一本が出口へ這っていく。ルートグーヴァは腹に力を入れ、逃げる腕を引き寄せた。
「いいや、同じさ。人間なんか好きになって、馬鹿な子だよ。どうせ幸せになれやしないんだ。かわいそうに、あの娘は泡になって消えちまった。あんたも同じさ。不幸になるんだ」
ルートグーヴァが黒真珠に腕を伸ばすと、魔女髪を逆立てた。魔女の目の中で貝の裏のような光彩がきらめく。水の塊が正面からぶつかってきて、腕が押し戻された。魔女は黒真珠に顔を伏せ、頬ずりした。うめき声が反響し、歌っているように聞こえる。水が次第に重くなる。どろどろとして、吸い込めない。
「どうして人間なんかに恋したんだ。おかげで未来が狂っちまった。お前は海に帰れないはずだった。みんな死ぬはずだった。みんな不幸になるはずだった」
えらがうまく動かない。ハイドラストイエが胴にもたれてきた。じっとりと、息苦しさが伝わる。魔女は黒真珠を抱いて肩を震わせていた。ひきつれた声は、笑っているようにも泣いているようにも聞こえる。
「かわいそうな坊や。人間は死ぬよ。すぐに死ぬ。お前が恋したあの子もすぐに死ぬ」
わかっていても、フィンがこの世から消えてしまうと考えるだけで切り刻まれるような痛みを感じた。今頃どうしているだろうと想う時間は、あと数十年だ。その先には、想うことさえ無為な時間が待っている。だからと言って、黙って憐れまれるつもりはない。
「勝手に私を不幸にするな。自分がかわいそうかどうかくらい、自分で決める」
「お前は不幸だ。不幸でなきゃならない。みんな不幸になるんだ。あたしばっかり不幸だなんておかしいじゃないか」
魔女は顔を上げた。
「坊や、人間は死ぬんだよ」
噛んで含めるようにくり返す。
「だから、なんだ」
人間に限った話ではない。生あるものはいつか死ぬ。幸せになりたくてフィンを好きになったのではないし、フィンを好きになって不幸になったとも思わない。
「人間は死ぬんだ! あの人もそうだった!」
黒真珠が光り、魔女の顔から皺が消えた。白く滑らかな肌に、つやつやとした唇。もつれていた髪が解け、軽やかに水に舞う。幻想は一瞬で霧散し、魔女は年老いた人魚に戻った。
「渡さない。あの人がくれたんだ。あたしのものだ」
魔女は覆いかぶさるように黒真珠を抱え込んだ。渡さない、渡さない、と自らに言い聞かせるようにつぶやく。見開いた目はルートグーヴァを突き抜けて虚空に向けられていた。
「結び目じゃないんだ。やってやる。そうだ。やってやる。殺してやる。みんな殺してやる。不幸にしてやる。あたしが決めた。そう決めたんだ」
「結び目じゃないんだな」
魔女の視線がルートグーヴァの上で焦点を結んだ。結び目でないのなら、未来はまだ定まっていない。
「つまり、お前から真珠を奪って結界を修復する未来もあり得るわけだ」
魔女の狂気が剥がれ、怯えが垣間見えた。水の粘性がわずかに揺らぐ。ルートグーヴァは腕をしならせ、魔女の側頭部に打ちつけた。洞窟の壁に叩きつけられ、魔女の目がぐるりと白くなった。水の重さも粘性も消え失せる。
ルートグーヴァは呪われていない腕で黒真珠をつかんだ。
「はぁ……苦しかった。死ぬかと思った」
ハイドラストイエが胴の後ろから顔をのぞかせた。昏倒している魔女を見て口を歪める。
「あのさ、一応女だし、年寄りだぜ」
「女性だろうがお年寄りだろうが、敵は敵だ。倒す」
「お前、そういうとこホント思い切りいいよな」
洞窟から出て水の噴射を使いながら岩壁を這い上る。地震の間隔が短くなっていた。荒野を王宮へと急ぐ。際限なく現れる奇岩のために、まったく進んでいる気がしない。
突如、海そのものが持ち上がったような衝撃が起こった。ルートグーヴァとハイドラストイエは焼き尽くすような輝きに目を覆った。生温かい水が押し寄せ、息が詰まるような異臭に腕の先がきゅっと丸くなった。火山の天辺から小さな光が飛び散り、尾を引きながら消えていく。
「噴火しちまった。間に合わなかったんだ」
火口は心臓が血液を送り出すようにヘドロの混じった溶岩を流していた。溶岩は冷えて固まるが、ヘドロは固まらない。溶岩を乗り越え、火山を下っていく。
「ルート、どうする」
「変更はない。王に黒真珠を届ける。噴火は止められなかったが、ヘドロは止められる」
揺れる海底を這い進む。鈍い音がして、再び火山から溶岩があふれた。王宮は遠く、市街さえまだ見えない。ハイドラストイエが全力で泳いだ方が速い。宝玉をあずけようとハイドラストイエを見上げたとき、まっすぐな光の筋が暗い海を割いた。
「あれ、王様だよな」
ずいぶん上を泳いでいて顔はわからないが、確かに王だ。王は火口の真上で静止した。
「王様あんなとこで何してんだ。ってか、どーすんだよ。宮殿行っても王様いないんじゃ結界直してもらえないぞ」
「直接王のもとへ行く必要があるな」
「オレはいいけど、お前ずっと浮いてられないだろ。溶岩にぶち当たって死ぬぞ」
「では、お前が王に宝玉を」
ざわりと皮膚が波立ち、ルートグーヴァは反射的に水を噴いて逃げた。ハイドラストイエもついてくる。振り返ると、後方で朧(おぼろ)な光が揺れていた。近づいてくる。もつれた髪を振り乱し、ねじくれた指で海水を掻き分け、近づいてくる。ぼろぼろの尾ひれは今にも千切れそうだ。一つきりの目はどこも見ていない。裂けた口から燐光が漏れ出ている。
「ばば様ウソだろ!」
「あの尾ひれでどうやって泳いでいるんだ!」
明らかにルートグーヴァより速い。追いつかれるのは時間の問題だ。
「オレ、一個気になってんだけどよ」
「それは今必要な話か」
「ばば様って未来が見えるんだろ。なんで逃げなかったんだ。オレだったら、お前が来るってわかってたら逃げる。だって勝てねぇもん」
開口一番、魔女は「やらない」と叫んだ。ルートグーヴァとハイドラストイエが黒真珠を奪いに来ると知っていた。魔女の魔法は厄介だったが、ルートグーヴァは無傷だ。あの程度の抵抗しかできないなら、黒真珠を持って逃げる方が賢明だっただろう。
「まだ勝算があるのか」
魔女が直前までどんな未来を見ていたかはうかがい知れないが、逃げないという選択に意味があったのだろう。
「ラス、真珠を持って全力で王の元へ行け。魔女は私が抑えておく」
「待てよ、ばば様が欲しいのは真珠だろ。そんなのオレ狙ってくるじゃん!」
「だから、私が抑えておくと言っている」
「それはそれでお前が危ないだろ!」
一瞬、皮膚が聞きなれない音を拾ったが、構ってはいられない。ルートグーヴァはハイドラストイエに黒真珠を押しつけた。魔女の目がハイドラストイエに向く。ハイドラストイエはひぃっと情けない声を出し、速度を上げて泳ぎ始めた。ルートグーヴァは追いかけてくる魔女に対峙した。王が生かした者を殺めるのは気が引けたが、魔女は生きている限り黒真珠を取り戻そうとするだろう。ルートグーヴァは覚悟を決め、獲物に狙いを定めた。
ふいに、水の動きが変わった。一方向に流れ始め、次第に強くなっていく。ルートグーヴァは吸盤で海底に張りついた。おかしい。深海でこんな海流が起こるはずはない。魔女は流されかけていたが、まだ目を剝き、炎のように揺らめく光を吐きながら前進している。
「ルート! やばい! オレもう無理!」
ハイドラストイエは岩のひとつに黒真珠ごと抱きついていた。足が浮いている。手が離れる間際、ルートグーヴァは腕を伸ばしてハイドラストイエをつかまえた。再び水流に混じって聞きなれない音が聞こえた。上の方で何か光ったような気がしたが、確かめる余裕はない。
「何なんだよ、この水流!」
「わからないが、いいか悪いかで言ったら確実に悪い」
「どういう意味?」
「魔女が来ている」
「お前、抑えとくって言っただろ!」
「お前が助けろと言ったからだ!」
「助けろなんて言ってねぇ! やばいって言っただけだ!」
「同じだ! 助けなくてよかったのか!」
「ううん、マジでやばかった。助けてくれてありがとな」
海底の砂が巻き上がる。轟々と鳴る水流に魔女の唸りが混じる。髪をなびかせ、もがくように腕を振り回しながら近づいてくる。
「なんでこんな流れの中で泳げるんだよ。怖ぇよ。やっぱりばば様は化物なんだ」
「ラス、真珠を離すな」
ルートグーヴァは近くの岩に腕を巻きつけ、体を固定した。魔女が射程に入るのを待つ。腕を伸ばそうとしたとき、ルートグーヴァは先ほどから聞こえていた音の正体に気がついた。まばゆい光が魔女を横から照らし、次いで潜水艇が魔女にぶつかった。衝撃と水流で魔女が流されていく。潜水艇が傾く。ルートグーヴァはマニピュレータの付け根に腕を巻きつけた。もはやこんな大きな鉄の塊でさえ、まっすぐに航行できないほどの水流だ。
「あの人間なんで、あ、結界がねぇんだ」
操縦席のフィンは腰を浮かせて耐圧殻のガラスに手をつき、魔女が流された方向を見ていた。驚いているようだ。偶然当たってしまったのだろう。飲みこむことも吐き出すこともできない感情が渦巻いて、ルートグーヴァは潜水艇から目を逸らした。とにかく魔女は撃退した。あとは水流が止まれば動けるようになるはずだ。
小さな石や貝の欠片が暗い海を狂ったように舞う。ルートグーヴァは海底に這わせていた腕をもう一本岩に回した。小魚が必死に泳ぎながらも流されていく。
「そうか。吸いこんでいるんだ」
塵も砂も小石も行きつく先は火山だ。ヘドロが辺りを曇らせながら火口へ飲みこまれている。
「王の力だ。そうでもなければこんな不自然な水流ができるはずがない」
「出ちまったヘドロを片付けてるのか」
「恐らく。しかし、結界を張れないほど消耗なさっているはずだ。こんな大掛かりな力の使い方をしたら、いくら王でも死ぬぞ」
ヘドロの匂いは薄まっていたが、いくらヘドロを吸い込んでも、火山を封じられなければまたあふれてしまう。王はどう事態を収拾するつもりだろう。思案している間にも水流は激しさを増し、ルートグーヴァは三本目の腕を岩に回した。
「かえせ」
ぞわ、と皮膚がうねった。潜水艇の向こうに燐光が見えた。裂けた口から牙がのぞいている。口しか見えないと思ったら、皮膚が黒くなっていた。まるで体がねじれて二つに折れてしまったロブスターのようだ。背骨が変形し、不自然に盛り上がっている。甲殻類のような棘だらけの肢が左右十数本ずつ生えていた。肢は細く長く、魔女の背より高い位置で一度折れ曲がっている。それらがわさわさと動き、腹這いになった魔女を前方へ押し出していた。
「かえせ。かえせかえせ」
魔女の肢が擦れ、カシャカシャと気味の悪い音がする。
「かえせかえせかえせかえせかえせかえせ」
逃げられない。腕を離せば水流に引きずられる。ハイドラストイエが黒真珠を強く抱きしめた。魔女が体に這い上がってくる。肢の棘が刺さって痛い。魔女がルートグーヴァの胴を乗り越える。ハイドラストイエが身をよじり、腕を伸ばして黒真珠を遠ざける。ルートグーヴァは海底に這わせていた腕の一本を持ち上げた。体が浮きそうになる。残った腕に力を込める。
「かえせかえせかえせかえ、せ、か、えせ」
ルートグーヴァはハイドラストイエに迫った魔女をつかまえ、胴から引きはがした。呪われた腕でつかんだのはせめてもの仕返しだ。魔女が暴れ、棘が肉に食い込む。握りつぶそうとしたが魔女の皮膚は硬く、棘がますます深く刺さっただけだった。
「ルート、それ、どーすんだ」
「今から考える。痛っ」
棘とは違う痛みに目をやると、魔女の歯が腕に食い込んでいた。引きちぎられた肉片が流されていく。魔女は狂ったようにルートグーヴァの腕に噛みつき、爪を立てて暴れている。
「おい、ルート、なあ、食われてる!」
「見ればわかる」
「どーすんだよ!」
「今考えてる!」
幸か不幸か魔女の歯はそれほど強くも鋭くもない。痛みさえ我慢すれば、しばらくは耐えられる。その間に次の行動を起こさなければならない。残った腕を少し動かしてみる。潜水艇がバランスを崩し、地面にぶつかった。慌てて振り返る。フィンは無事のようだ。
「ルート、ばば様離してみろよ。水流強くなったし、うまく流されてくれるかもだぞ」
「無理だ。棘が深く入りすぎていて抜けない」
「マジか。ってか、なんでそれ、その鉄の、なんだ、潜水艇か、つかんでんだ。離せって。そうすれば腕一本空くし、ばば様の棘も抜けるだろ」
「いやだ」
「嫌だじゃねぇ。ガキか。このままじゃお前もオレも危ないんだぞ。オレなんか黒真珠持ってんだぞ。人間と黒真珠とどっちが大事なんだよ」
ルートグーヴァは返事をしなかった。ハイドラストイエの言う通りだ。あと一本腕があれば魔女の棘を抜ける。しかし、そのためにフィンを放り出す気にはなれなかった。黒真珠は大切だ。ハイドラストイエも大切だし、フィンも大切だ。腕が足りない。
水流がさらに激しくなる。潜水艇といっしょに腕が引っぱられて痛い。魔女の歯が吸盤に突き刺さり、ルートグーヴァはうめいた。こんな姿になっても魔女には知性が残っている。ルートグーヴァの腕を食い千切ろうとはしない。食い千切る前につかまる場所を確保しなければどうなるか、魔女はわかっている。
「ラス、潜水艇の前方に丸い蓋がある」
ルートグーヴァは腕の先まで使って魔女をがんじがらめにした。力を込め、棘をさらに深く刺す。魔女が暴れたが、すでに魔女自身にも棘は抜けなくなっている。
「その中に剣が入っている。出せるか」
「やってみる」
ハイドラストイエは黒真珠をルートグーヴァの吸盤に押し当てた。ルートグーヴァはハイドラストイエと黒真珠をつかんだまま、腕を潜水艇へ伸ばす。
「ルート、これどうやって開けるんだ」
「中で操作すれば開くはずだ」
「おい、人間! ここ開けろ! 剣が入ってるとこ! 違ぇよ、剣! 剣だって!」
ハイドラストイエが耐圧殻を叩き、腕を振り回す。剣のジェスチャーをしているようだが、フィンには伝わっていない。ハイドラストイエの焦りが伝染したようで、フィンはコンソールのあちこちに触った。つかんでいたマニピュレータが急に動き、危うく腕を離しそうになる。
「だから、それじゃねぇって! これ! ここ! この下の丸いとこ!」
ハイドラストイエが必死に指し、フィンが一生懸命のぞきこんでいる。
「開いた! あった! で、それから?」
「それで私の腕を切り落とせ」
ハイドラストイエが目と口を丸くする。
「何言ってんだ。うちは代々書記官だぞ。知ってんだろ。剣とか使ったことねぇし。無理」
「非常事態になれば文官も戦闘要員だ」
「だって、お前、それ、腕、絶対痛いじゃん」
「今も痛いし、覚悟はしている」
「絶対オレのこと恨むだろ」
「恨まない」
「ほんとか。絶対だぞ。絶対恨むなよ。絶対痛いからな。痛くても恨むなよ」
「わかったから早くしろ」
ハイドラストイエは剣先をルートグーヴァの腕に当てた。なるべく根元からとルートグーヴァが指示すると、おとなしく位置を調整する。
「オレが何したってんだよ。なんで友だちの腕斬り落とさなきゃならないんだよ」
腕の付け根には神経節があり、脳と平行して腕を制御している。すべて思い通りにはならないが、切り離してもしばらくは生きて魔女の動きを封じられる。
「ばば様、ごめんなさい。でも、あんたはもう生きてちゃいけないんだ」
魔女は目だけでハイドラストイエを見上げていた。ルートグーヴァの肉片を牙に引っかけたまま、かえせかえせと喚いている。
「ルート、いくぞ」
ルートグーヴァは剣が突き刺さる瞬間を見なかった。魔女の歯も棘も、神経を貫く衝撃の前にはないも同然だった。何度も剣を突き立てられ、切り裂かれる。ぷち、ぷつ、と筋線維が一本ずつ切れる音がする。最後は水流で引きちぎられた。ぶつん、と嫌な音が体全体に響いた。
魔女が吼える。意味を成さない喚き声は水流に呑まれ、すぐに途切れた。皮膚を撫でる水流がくすぐったい。痛みで感覚がおかしくなってしまったらしい。ルートグーヴァは残った腕に力をこめた。
ふ、と水流がゆるんだ。次の瞬間、すべてを消し飛ばすような閃光がほとばしり、荒野が真っ白に塗りつぶされた。すぐにいつもの暗さに戻ったが、目がちかちかして周囲の状況がわからない。やがて火山の稜線が判別できるようになった。溶岩の輝きは見えない。噴火は収まったのだろうか。水流は徐々にゆるやかになり、力を抜いても流されなくなった。
安堵の間もなく地鳴りがした。つかまっていた岩が崩れ、ルートグーヴァは急いで腕を引いた。体の下に大きなひびが走り、地面が陥没する。潜水艇が沈む。奇岩が降ってくる。
ルートグーヴァは黒真珠とハイドラストイエを抱き込んだ。潜水艇の耐圧殻に覆いかぶさる。ガラスにひびでも入れば、圧力のバランスが崩れて耐圧殻は一瞬のうちに壊れてしまう。次々に石が落ちてくる。塵と砂が舞い上がる。大きな岩が胴に当たり、吐きそうになった。岩が積み重なり、視界が閉ざされる。なおも石が降ってくる。
地鳴りが収まっても、ルートグーヴァはじっとしていた。どうやら第二波は来なさそうだ。
「ラス、生きているか」
「うん。でも息できてねぇから早く出して」
岩の隙間から腕ごと引きずり出すと、ハイドラストイエは大袈裟に深呼吸をした。黒真珠には傷ひとつない。安堵しつつハイドラストイエにあずける。
「腕、平気か」
切り落とされた腕の付け根からはまだ血が出ていた。今になってようやく痛みを痛みとして感じられるようになった。
「痛い。お前、本当に下手なんだな。少し恨みそうになったぞ」
「待てよ、恨まないって言ったよな。約束したよな!」
「恨まない」
ルートグーヴァは体の上の石や砂を落とした。見上げると、対岸はほぼ無傷だが、王国側の崖は広範囲にわたって抉れていた。ひとまず落ちてくるものはなさそうだ。ルートグーヴァは潜水艇から降りた。耐圧殻は球形を保っていたが、別の問題が目に入る。
「噴火止まったみたいだな。真珠どうする。ルート?」
コンソールに灯っているランプの数が少ない。以前、フィンと乗ったときにはもっと多かった。傾いた艇内でフィンが辺りを見回している。スイッチを押してもハンドルを動かしても何も起こらない。ルートグーヴァは耐圧殻の中をのぞき込み、ぞっとした。
コンソールの中央には、バッテリーの残量を示す目盛りがある。四角い光が十本並んでいるはずだ。上から三本ごとに緑、黄色、オレンジ、十本目は赤。クラーケンの姿では色がわからないが、最後の光が今にも消えそうに揺らいでいる。
「どうした。故障か」
「充電切れだ」
「どういう意味?」
「燃料がないから動かない」
「やべぇやつじゃん」
おかしい。家の裏の砂浜からここまで、水流に巻き込まれた時間を考慮しても、バッテリーがなくなるほどは経っていないはずだ。フィンはほぼ正確に王国の場所を算出していた。道に迷ってエネルギーを浪費したとは考えにくい。
――毎日少しずつ、充電が空にならないように潜りました。
――先生とふたりで、時間が短いので、炭酸ガスのフィルターもそのままで。
あれは笑い話ではなかったのか。
「なんでそんな馬鹿なことをしたんだ」
ルートグーヴァは潜水艇の側面を探った。充電が切れると安全装置が働き、バラストが切り離されて浮上する。片方は引っかかっているだけだったので、少し揺すると外れた。潜水艇は傾いたが、浮くには至らない。もう片方のバラストは接続部分がひしゃげて外れない。
「フィン、中からどうにかできないか」
呼びかけても届かないが、呼びかけずにはいられなかった。完全に充電が切れれば酸素供給が止まる。耐圧殻の中に二酸化炭素が充満する。フィンは窒息するしかない。
「何かないのか。先生が改造したんだろう。非常時に備えて耐圧殻だけ切り離せるスイッチとか、そういうものは?」
フィンは計器をじっと見つめ、スイッチを一つ押した。何も起こらない。別のスイッチを押す。ルートグーヴァは息をひそめて待った。潜水艇は沈黙したままだ。フィンは不確かに明滅するバッテリーの目盛りに触れた。そこで動きが止まってしまう。
「何かあるだろう。フィン、思い出してくれ」
フィンは一度覚えたことは忘れない。でも、もしかしたら一つくらい、忘れている解決策があるかもしれない。完全な生物など存在しない。フィンの記憶力にも欠陥があっていいはずだ。ルートグーヴァはフィンの次の手を待った。フィンはサンゴのようにじっとしている。
ふいにフィンはコンソールから顔を上げ、耐圧殻に手をついた。息を吹きかけ、ガラスを曇らせる。ハイドラストイエがそっと隣に来た。
「なんて書いてるんだ」
指で書いても、フィンは字が下手だった。ルートグーヴァは鏡映しになった文字をひとつずつ辿っていく。
「あいたかった……さびしかった……」
フィンはルートグーヴァを見つめている。ルートグーヴァはフィンのてのひらに腕の先を重ねた。ガラスが邪魔だ。何もわからないし、何も伝わらない。バッテリーの目盛りは今にも消えてしまいそうだった。フィンはもうコンソールを見ない。
「フィン、本当にどうしようもないのか」
フィンはまばたき一つせず、ルートグーヴァを見つめている。ルートグーヴァもフィンを見つめていた。時間が止まったようだった。目を離したらフィンが死んでしまう気がして、怖くて、もしも時間が止まっているのなら、世界の終わりまでこのままでいいと思った。
時間は無情に過ぎていく。刻一刻と酸素を奪い、フィンの命を削り取る。ルートグーヴァは耐圧殻から離れ、潜水艇の周囲に落ちている石や岩を海溝へ放り込んだ。フィンが窒息していく様を黙ってながめているだけなんて、耐えられない。
フィンはルートグーヴァの行動を不思議そうに目で追っている。死ぬかもしれないというのに、フィンは静かだった。彼の心に生死の別はないのかもしれない。以前、お祈りを終えたフィンは、死んだサバにどう接していいか「答えられない」と言った。自分の死についてはどう思っているのだろう。こんなときまで、フィンを知りたい。
ルートグーヴァは耐圧殻に腕を絡め、他の腕を海底に張りつけた。
「何やってんだよ」
「陸まで運ぶ」
「はぁ? できるわけねぇだろ。前のとき、二人か三人で運んだんじゃなかったか」
「バラストが半分ないから、あのときよりは軽い」
ルートグーヴァは潜水艇を腕で引っぱり、漏斗から水を吐き出した。地面は岩盤だ。泥や砂に埋もれているわけではない。邪魔な石や岩は取り除いている。単純に動かすだけだ。
水を吸い直し、また吐く。伸ばした腕で自身の体ごと潜水艇を引き寄せる。少し動いた気がしたが、気がしただけだった。
「お前、腕ちぎれてんだぞ。ちぎったのオレだけど。まだ血出てるだろ」
ハイドラストイエの言う通り傷は塞がっていない。力むと痛いが、ためらっている暇はない。
「普通に無理だろ。諦めろよ」
「いやだ」
「またそれか。わがまま言ってんじゃねぇ。ってか引っぱる方向逆じゃね? そっち海溝だぞ」
「いいんだ」
クラーケンは浮袋を持たないので、魚のように水中で静止できない。海溝まで行けばもちろん落下するが、海底がなくなるので、浮いている状態にもなる。そこから泳いで運べれば、海底を引きずっていくより速いはずだ。
ず、と潜水艇が動いた。勢いを殺さないように続けて腕を伸ばす。少しずつ、海溝が近づいてくる。
「無理だって。沈むって。そんな重いの運べねぇよ」
腕の先が崖にかかった。体を引きやすくなる。岩壁に沿って垂直に腕を伸ばしていく。小さな引っかかりがあって緊張したが、止まらず乗り越えられた。
「ルート、やめろ」
ハイドラストイエは黒真珠を放り出し、ルートグーヴァの腕をつかんで潜水艇から引きはがそうとした。
「やめろって!」
ルートグーヴァは胴を海溝に投げ出し、自重で潜水艇を引っぱった。潜水艇が崖の縁を超え、船尾が浮いた。潜水艇がのしかかってくる。ルートグーヴァは沈みながらも体の位置を入れ替えた。重い。腕が千切れそうだ。
水を吸い、勢いをつけて吐く。少しだけ上昇する。やめれば沈む。絶対に止められない。脈がどんどん速くなる。鼓動が体中に響いて、一個の大きな心臓になってしまったようだった。脈と呼吸が噛み合わなくて苦しい。
ルートグーヴァは崩れた崖を見上げた。遠いな、と思った。陸はもっと遠い。
「なんで何も言わないんだよ」
ふいに、ぐんと上昇できた。潜水艇の下で水を蹴るハイドラストイエの足が見える。
「こういうときは、手伝ってとか助けてとか言うもんだろ。二百年も友だちやってんのに、お前そういうとこホント薄情だよな」
「幸せになれないから味方しないんじゃなかったのか」
「友だちが沈みそうになってんのに見捨てられるか」
ハイドラストイエがこうだから、二百年も友だちでいられたのだと思う。
「さっきも、今も、嫌だ嫌だって、そんなにこの人間が大事なのか」
「……うん」
「あー、もう、しょーがねぇなぁ。いっしょに行ってやるよ」
潜水艇の重量に比べれば半魚人一人の浮力など微々たるものだが、確実に軽くなった。それだけで陸まで行ける気がするのだから、我ながら単純だと思う。
陸を目指し、暗い海をひたすら泳ぐ。崩れた奇岩を避けながら荒野を抜ける。市街は障害物が多いので迂回した。大昔に冷えて固まった溶岩の坂を登って進むと、海底が泥混じりの砂地に変わった。勢いよく水を吸ったら砂もいっしょに吸いこんでしまい、ルートグーヴァは咳き込んだ。潜水艇が傾く。無理に水を吐いて高度を上げる。えらが裂けそうだ。腕が潜水艇をつかんだ形で凝り固まってしまったようだった。
大きな岩にウミシダが密集している。海底の色が少しずつ白く変わっていく。泥や塵が減り、純粋な砂地になりつつあった。水温が徐々に高くなる。起伏は少なく、ゆるやかな上り坂が続いている。息が苦しい。あとどれくらいで陸だろうか。フィンは無事だろうか。振り返りたかったが、もしもと思うと確かめるのが怖い。
「ラス、後ろに何か見えるか」
張り詰めた神経が異臭を拾った。
「後ろ? 何も。ってか砂でよくわかんねぇ。どうした」
「嫌な臭いがする」
近づいてくる。気にかかるが、止まっていられない。何が近づいてきているにせよ、まずはフィンだ。新鮮な空気があるところへ連れていかなければならない。
通り過ぎた岩場には海藻が生えていた。眠っていた小魚の群れが散り、鱗がきらめく。昼間でもないのに、何を反射しているのだろう。海は次第に浅くなり、とうとう潜水艇が海底に触れた。砂が舞って視界が曇る中、ひたすら浅い方へ向かう。
泡沫の精霊たちの声が聞こえ、ルートグーヴァは水面の向こうに満月を見上げた。砂浜まではまだ距離があるが、潜水艇の耐圧殻は海面に出ている。伸び上がって水面に頭を出すと、浜辺に潜水艇を運ぶ台車が見えた。
「あんたたち、何連れて来たのよ!」
「怖い。追い払って」
嫌な臭いが濃くなっていた。精霊たちが怯えている。
「フィンが先だ」
ルートグーヴァは耐圧殻上部のくぼみに腕の先を入れて円形のカバーを外した。ハンドルを回すと勢いよくハッチが開く。フィンはぐったりとして目を開けない。心臓が止まるような思いだったが、かすかな呼吸を確かめ、ルートグーヴァは安堵した。
「ルート、後ろ!」
ハイドラストイエに腕をつかまれた。ルートグーヴァは視野の後方に注意を向けたが、波間に月光が揺れているだけだ。
「今、何かいた」
「私も見たわ。でも、潜っちゃった」
海に沈めている腕が強張る。殺気だ。狙われている。嫌な臭いの主は、じっくりとこちらとの距離を測っているようだった。この感覚はよく知っている。サメだ。
「ラス、フィンをつれて陸に上がれ」
ルートグーヴァはフィンをハイドラストイエに託した。人間にこの水温は低すぎる。フィンの体が心配だが、少しでもサメから遠ざけたい。ハイドラストイエは沖を気にしながらじりじりと後ずさった。
「なあ、陸って安全?」
「少なくとも、水中よりは。フィンが溺れないよう気をつけてくれ」
「わかってる」
ハイドラストイエはフィンを抱きかかえ、水を蹴った。浜には数秒で着くはずだ。その間、殺気の主を引きつけておかなければならない。ルートグーヴァは潜水艇から海へ降りた。待っていたかのように殺気の主が動いた。速い。一気に距離を詰めてくる。ずらりと並んだ白い牙が眼前に迫る。優に四メートルはあるだろう。巨大なタイガーシャークだった。
ルートグーヴァは漏斗から水を噴き出してサメの牙をかわした。サメは浅瀬を腹ですべり、三日月型の尾ひれで水を跳ね上げる。サメの左の眼窩は空洞だった。魔女の洞窟にいたタイガーシャークだ。死体ではなかったのか。いや、今も死臭は感じる。サメは死んでいる。サメの動きが鈍くなり、横腹から甲殻類のような肢が十数本ずつ生えてきた。魔女と同じ肢だ。
タイガーシャークは胸びれが砂に埋もれようがお構いなしでルートグーヴァに向かってくる。右目は黒く、かすかに貝の裏のような光彩を放っている。魔女と同じ目。魔女の力は完全には失われていない。まだ、眼球ひとつ分残っている。
肢がある分、浅瀬ではサメの方が小回りが利く。ルートグーヴァは次第に波打ち際に追い詰められた。体力的にも限界が近い。わずかに引きそびれた腕の先十数センチを食いちぎられた。気にかける間もなく襲われ、すんでのところで避ける。サメは血の匂いで興奮状態に陥り、ますます激しくルートグーヴァを追い立てた。
ルートグーヴァは腕を振って砂をかき混ぜた。サメは目が悪く、狩りのほとんどを嗅覚に頼る。砂で視界が遮断された状態なら、なおさらだ。ルートグーヴァからもサメの姿は見えないが、位置は特定できる。不揃いに動く肢で寄せる波に乱れが起こる。その中心にサメがいる。
ルートグーヴァはサメから距離を取り、食いちぎられたばかりの腕を長く伸ばした。波の乱れが収まりかけた瞬間、ルートグーヴァはまっすぐに後退した。背後に伸ばした腕が潜水艇に触れた。吸盤で固定する。体を引き寄せ、ルートグーヴァは潜水艇の裏に滑り込んだ。
鈍い音が響く。サメはうまく潜水艇にぶつかってくれたらしい。ルートグーヴァは動きの止まったサメをつかまえ、渾身の力で締め上げた。サメは体を激しく振って暴れたが、ルートグーヴァはサメを離さなかった。えらに腕を突き入れる。二本、三本と腕を押し込み、吸盤でえらを絡め取る。
ルートグーヴァはサメのえらをつかんだまま、思い切り腕を振った。サメは陸に打ち上げられ、おびただしい血で砂浜を黒く染めながらもがいている。魔女と同じ目から燐光が閃く。腕に残ったえらの残骸を捨て、ルートグーヴァはサメを追った。
サメは肢で体勢を立て直し、ルートグーヴァに突進した。まともに体当たりを受けて波打ち際に押し倒される。並んだ牙が月光を受けて不気味に白い。なんとかサメを押しとどめたが、浮力がなくて腕が重い。二本しか持ち上がらない。その腕にもだんだん力が入らなくなってきた。食い殺される、と思った。サメは嫌いだ。子どもの頃から大嫌いだった。
腕の先が何かに触れた。上がらない腕が無意識のうちに波打ち際を這っていたらしい。人工的な造形。台車だ。ルートグーヴァは荷台を探った。割れたブイらしきもの、空き缶、空き瓶。フィンはいつものようにゴミ拾いをしていたようだ。ふわふわしたものが腕をくすぐる。干からびた肉の匂いがする。角度を考え、しっかりと握る。
サメがのしかかってきた。口を開け、血を吐き、牙を剥く。ルートグーヴァはつかんだものを離さないように、強く握りすぎて壊さないように、注意深く腕を振り上げた。あとは重力が味方してくれるだろう。
狙うはサメの右目だ。たった一つ残った、魔女の残骸。
死んだカモメのくちばしがサメの目玉に突き刺さる。サメは痙攣し、大量の血を吐いた。ルートグーヴァはサメを押しのけ、すぐに潜れる位置まで後退した。サメの肢がぎゅっと縮こまり、ばらばらと抜け落ちる。肉が剥がれ始める。まるで見えない生き物に食い荒らされているようだ。骨に残った肉が乾き、骨がひび割れ、崩れるように砕けた。そのかけらも、あっという間に塵になって砂に紛れた。
干からびたカモメの死体だけが、ぽつんと残っている。
サメは海に成ったのだろうか。それとも、成りそこなったのだろうか。
「すごいすごい! 勝ったじゃない!」
「なんだったの。あの目、サメの目じゃないわよね」
泡沫の精霊たちが騒ぎ、ルートグーヴァは我に返った。
「フィンは」
「あっち。ハイドラストイエがそばにいるわ」
「ねえ、ちょっと待って。えらの中に入ってあげるから」
ルートグーヴァは砂浜を這った。疲労で考えがまとまらないが、とにかくフィンの無事を確かめたかった。
「お疲れ。お前、すげぇな」
ハイドラストイエが胴に触れて話しかけてくる。サメに蹴られてできた細かな切り傷が、今になってぴりぴりと痛い。フィンは砂浜に横たわっていた。
「息してるぞ。死んでない」
確かに、フィンは呼吸をしている。ルートグーヴァはフィンの頬に触れた。
「冷たい」
「大変! 人間って冷たいと死んじゃうのよ!」
「えっ、マジで」
「ハイドラストイエ! あんた何してたのよ! バカ!」
精霊の声が外套膜の中で響く。ルートグーヴァはフィンを抱え、家に向かった。心は急くが、陸上では体がうまく動かない。ハイドラストイエが砂に足を取られながらついてくる。
浴室に続くガラス戸を叩き割るのにためらいはない。内側に腕を入れて鍵を外した。浴室に落ちたガラスの破片が腕に刺さったが、痛みが鈍い。ルートグーヴァは浴槽にフィンを入れ、溺れてしまわないよう縁にもたれさせた。水道の栓をひねって先生が書いた目印に合わせると、最初は冷たかった水が次第に温かくなった。
「ねえ、水が流れちゃってるわ。栓をしなきゃ。栓はどこ」
「それじゃない? 蛇口の横の」
泡沫の精霊たちが四人がかりで栓をしてくれて、浴槽に湯が溜まり始めた。湯はフィンの足を浸し、潜水艇用の防寒着に染みていく。ルートグーヴァは腕の外側でフィンの頬を撫で、呆けたようにフィンを見ていた。飽き性の腕がのろのろと動き出し、体からガラスの破片を抜いては浴室の隅にまとめている。
ハイドラストイエが一歩ごとに跳びはねながら追いついてきた。浴槽の縁に腰かけ、ルートグーヴァにもたれかかる。ガラスを踏んでしまったらしく、足の裏を点検している。
「生きてんだよな」
「うん」
フィンは生きている。息をしている。脈がある。わかっているのに、実感が薄い。蛇口を中心に湯が波を作り、壊れたドアから流れこむ潮騒と重なって本物の海のようだった。
「オレな、ルートがクラーケンでよかったと思ったんだ」
ハイドラストイエは唐突だった。
「やっぱさ、うちの一族は誰かひとりを好きになるとダメなんだよ。ばば様も、泡になっちまった女の子もさ、新しく好きなやつを作ればよかったんだ」
「クラーケンでも狂うときは狂うぞ」
「まあな。でも、ルートは大丈夫だろ。ってか、ルートはもし半魚人でも、ばば様みたいにならねぇだろうな。ん? それなら別にクラーケンじゃなくてもいいのか」
「ならなかったのではなく、なれなかったのかもしれない」
泡になった少女は故郷を捨てた。魔女は故郷を破壊しようとした。二人とも、何かとてつもない力で動いていた。ルートグーヴァにはその力がなかっただけだ。
「私の感情は、そこまでではないんだ。きっと」
「いや、そこまで行ったから二人ともああなったんだろ。行かないのが正解だって。それに、そこまでじゃなくてもお前の気持ちはだいぶ重いぞ」
「重いか」
「自覚ねぇのかよ。おっ」
フィンのまぶたが震え、ハイドラストイエがフィンに顔を近づける。フィンは何度かまばたきをして、目を開けた。しばしぼんやりしていたが、ハイドラストイエに焦点が合うとびくりと肩を跳ねさせた。ハイドラストイエも驚いたようで、うしろにひっくり返りそうなほど上体を反らしている。
「フィン、大丈夫だ。敵じゃない」
頬に触れ、皮膚を通して人間の言葉で話しかけるとフィンが振り向いた。ルートグーヴァが差し出した腕に、恐る恐る片手を乗せる。フィンは困惑しているようだった。喜んでもいるし、怖がってもいる。少し、焦っている。何か言おうとして口をつぐみ、すがるようにルートグーヴァを見つめる。たくさんの複雑な感情が入り混じっている。
「ごめんなさい」
小さく掠れた声でつぶやき、フィンはうつむいた。その一言に詰め込まれた感情をひとつひとつ解きほぐして返事をするのは難しそうだ。
「フィンが無事でよかった」
ルートグーヴァは素直に感じたままを伝えた。フィンは顔を上げ、かすかに目を細めた。ようやく、フィンが生きている実感がわいてきた。ルートグーヴァは別の腕を伸ばし、フィンのもう一方の手を取った。
「嘘をついていてすまない。私たちにとって、あの宝玉はとても大切なものなんだ。どうしても必要だが、人間に私たちの存在を知られるわけにはいかない。今こうして話をしているのも、本当はよくない。秘密にしてくれるか」
「はい」
他に何を言わなければいけないだろう。フィンは人間だから、触れるだけでは伝わらない。
「フィンが死んでしまうかと思って、怖かった。会いたかったと言ってくれて、うれしかった」
事務的な調子になってしまったが、フィンはうなずいてくれた。
「ずっといっしょにいたいと思っていた。それだけは嘘じゃない。今も、そう思っている」
フィンはまたうなずいた。呆気なく言葉が尽きる。想いは頭の中を巡るばかりで形にならない。ルートグーヴァはフィンの手に腕を巻きつけ、そっと力を込めた。フィンがことんと首を傾げる。同じく体を傾けたルートグーヴァを見て、くすくす笑う。楽しいのかおかしいのかうれしいのか、判別できない。フィンはどこまでも透明で果てがない。
「で、話ついた?」
ハイドラストイエが胴にのしかかってくる。気配がちょっぴりよそよそしい。気を遣って触れずにいてくれたらしい。
「必要な話は終わった」
フィンは秘密にすると約束してくれたし、もう宝玉を探しはしないだろう。
「そっか。じゃあ、帰るぞ」
「ルート、帰っちゃうんですか」
フィンはルートグーヴァの腕を引き寄せて抱きしめた。
「いやです。そんなの、いやです」
「こいつ、なんて言ってる」
「嫌だ、と」
ルートグーヴァはハイドラストイエに海の言葉で答えた。
「嫌とかそういう話じゃないんだって。オレたちは陸じゃ生きられねぇんだよ。体が乾いてかぴかぴになっちまうだろ」
「でも、ルートに会いたかったです。ルートに会えました。僕、さびしいです。いやです」
フィンは片言の海語でハイドラストイエに訴えた。表情は変わらないが、感情が暗く沈んでいく。フィンはハイドラストイエからルートグーヴァに目を移し、力なく首を振った。
「……いやです」
火山、王、結界、避難している一族、置き去りにしてきた黒真珠。気になる事柄をあげれば切りがない。それらは結局、王への忠誠であり、責任感であり、長老たちの期待に対する義務感だ。疑いもなく抱えて生きてきた。捨て去れないが、見て見ぬふりはできる。
「ラス、私は陸に残る。帰らない」
「はぁ?」
フィンの悲しみを見て見ぬふりはできない。
「フィンといっしょにいる」
自分がいなくても、後始末は他の誰かがやる。やらねばならないからだ。不忠、無責任と誹りを受けてもいい。フィンといっしょにいたかった。
「ちょっと待て。帰んないって何。え、それ、お前、何、どーすんの。王様になんて言うんだよ。王様生きてるかどうかわかんねぇけど」
「追放でも願い出ておいてくれ」
「追放って自分からお願いするものか。違くねぇか。ってか、王様よりお前んとこのじーさんたちの方が問題じゃね? え、何、オレ、それやばくね? 絞め殺されるやつだろ。オレ死ぬじゃん」
「長老たちは理由なくよその種族に乱暴したりはしない。たぶん」
「理由がめちゃくちゃあるじゃねぇか! あと、たぶんってなんだ! たぶんって!」
「お願いします。ルートはここにいます。あなたがルートを連れていきます。いやです」
「連れてきたくても連れてけねぇよ。こいつの方がでかいし重いし力も強いし、それに」
ハイドラストイエはふいに口をつぐんだ。えら蓋をいっぱいに開けて盛大にため息をつく。今まで尖っていた気配が干からびたイソギンチャクのようにしぼんでいった。
「帰るわ。朝になって人間に見られたらやべぇし。嬢ちゃんたち出てきな」
ハイドラストイエはルートグーヴァの外套膜を持ち上げた。
「何よぅ。せっかく素敵な恋のお話だったのに」
「自分が失恋してばっかりだからって、嫉妬はよくないわよ」
「うるせぇ! くっついたり別れたりがちょっと多いだけで失恋ばっかしてるわけじゃねぇし、嫉妬もしてねぇ!」
ハイドラストイエは割れたドアへ歩いていく。またガラスを踏んだらしく、足の裏を気にしている。戸口で振り返り、フィンを指して何か言った。触れていないので、ルートグーヴァには聞こえない。フィンが「はい」と返事をし、ハイドラストイエは海に帰っていった。
「ラスはなんと言ったんだ」
フィンに合わせて人間の言葉で問う。
「お前の味方はしない、と言ったと思います。どういう意味ですか」
「私の味方をしてくれるんだ」
ルートグーヴァは腕を伸ばし、フィンを抱き寄せた。
「私が、しあわせになれるから」
手の甲を撫でると、フィンは目を細めた。先ほどハイドラストイエが空中に向かって怒っていたのはなぜかと問われたので、ルートグーヴァは泡沫の精霊の話をした。
「僕も見てみたいです」
「資質が必要らしいから、難しいかもしれない」
「これも、秘密の話ですか」
「そうしてくれ」
精霊たちがいなくなると、すぐにえらが乾き始める。ルートグーヴァは水分を求めて浴槽に入った。湯があふれ、床のガラス片を押し流す。月光を受けてきらきらと光る。
「淡水です。水温も高すぎます」
「平気だ。海に棲んではいるが、クラーケンは淡水でも生きられる。耐えられる水温の幅も、フィンが想像しているよりは広いと思う」
フィンはうなずいたが、完全には信じていないようだった。腕の先を握ったまま、ルートグーヴァを観察している。タコやイカと比較しているのだろう。なまじ知識があるので、まったく違う生き物だと理解するには時間がかかるかもしれない。
「痛いですか」
何かと思ったが、すぐに切り落とした腕の話だと思い至る。
「まだ少し。でも大丈夫だ。血は止まっている」
「生えてきますか」
タコの腕は再生する。その点はクラーケンも共通している。
「百年くらいかかるが、一応生えてくる」
「百年……ルートは長生きなんですね」
フィンは興味深そうにルートグーヴァの腕を撫でた。ルートグーヴァはフィンが怪我をしないよう、体を探って残っていたガラスを抜いた。湯を止めると、潮騒だけになる。
「フィン、首を見せてくれ」
あの晩、加減して締めたつもりだったが、跡が残ったらと案じていた。細い首には喉仏が浮いているだけで、ルートグーヴァは安心した。
ルートグーヴァとハイドラストイエが宝玉を持ち去った後、目を覚ましたフィンは警備員に助けを求めたらしい。窃盗事件なので警察が介入したが、被害届を出しただけだそうだ。
「警察の人も、すぐにあきらめました。僕が、うまく話せなかったからです」
事実をありのまま話しても、きっと信じてもらえない。どうすればいいのかと悩んでいるうちに聴取が終わったらしい。
「それで、ひとりで宝玉を探そうと思ったのか」
「いえ、あの珠のことは、あまり考えていませんでした。ルートに会いたかったんです。同じ場所に行けば、会えると思いました」
予想通り、フィンは事故に遭ったときの計器の数値を元に王国の場所を割り出していた。ルートグーヴァに会って、その後どうするかは考えていなかったと言う。
「さびしかったんです」
冷たい感情が腕の先から流れこんでくる。過去のさびしさを反芻してしまっているようだ。ルートグーヴァはフィンを抱きしめた。
「今はさびしくないだろう」
フィンがこくんとうなずく。
「私もさびしかった。フィンに会いたかった」
「今は、さびしくないですか」
「ああ。フィンがいるから、さびしくない」
フィンは息を吐き、ルートグーヴァにもたれた。フィンは安らいでいる。疲れていて、少し眠いようだ。ルートグーヴァは吸盤が引っかからないよう注意してフィンの背を撫でた。
「セックスするんですか」
そういえば、背中を撫でたら合図だった。交わればもっとフィンを知れるだろう。知りたいと強く思ったが、クラーケンの体は人間とはあまりに違う。
「フィンが嫌ならしない」
フィンの戸惑いが感じられ、ルートグーヴァは腕を引いた。クラーケンは人間に比べてずいぶん大きい。自分より大きな相手に恐怖を覚えるのは、どんな動物にも共通した本能だ。
「嫌じゃないです。でも、ルートが死んでしまうのは、嫌です」
今度はすぐに察しがついた。種類にもよるが、多くのタコは交尾を終えると死んでしまう。
「フィン、クラーケンとタコは違う生物だ」
「死なないですか」
「死なない」
「じゃあ、大丈夫ですね」
やはりタコと混同されている。根気よく訂正するしかないだろうが、時間はある。もう月の満ち欠けに怯えなくていい。
フィンは濡れて張りつく衣類と奮闘していた。ルートグーヴァはフィンが脱いだ服を浴槽の外に出し、眼鏡を安全な場所に避難させ、靴にたまった湯を捨ててそろえて置いた。裸になったフィンの腰に腕を回して抱き寄せる。人間の姿であればキスをしただろうが、クラーケンの体ではできない。残念に思っていると、目の横にキスをされて驚いた。
「今、どうしてキスをしたんだ」
「したかったからです」
同じ気持ちだったと思うと面映い。フィンはルートグーヴァに頬ずりした。フィンの匂いがする。味もわかる。甘くも苦くも辛くもない。未知の味が興味深く、ルートグーヴァはフィンの肌をじっくりと探った。
ルートグーヴァの腕が気になるようで、フィンはあちこちに目を向ける。触れられても嫌ではないらしい。戸惑いがちに身をよじるが、ルートグーヴァの好きにさせてくれた。
首の後ろに腕を這わせると、フィンが小さく声をもらした。ルートグーヴァは吸盤をひとつずつ動かし、フィンの肌をまさぐった。腕の先が乳首を掠め、フィンの気配が変わった。
「ん……っ」
乳首に吸盤を当てて吸い上げる。押しつぶして、また吸いつく。揉むように愛撫しているうちに、ふにふにとた触感がこりこりしたものに変わり、ほんのりと甘い味がした。フィンからは恐怖や不安は感じられない。ルートグーヴァはすべての腕をフィンの身体へ回した。
フィンの性器はまだやわらかい。腕を絡めたが、ルートグーヴァは動かなかった。クラーケンの姿では力加減がわからない。痛い思いはさせたくなかった。擦る代わりに、這わせた吸盤を順に吸いつかせる。
「あ……んぁっ」
フィンはルートグーヴァの腕にしがみつき、鼻にかかった声をもらした。腰が揺れている。湯面が波立ち、ぱしゃぱしゃと軽い音がした。切れ切れに浮かんでいた月明かりがさらに細かく砕かれ、砂金のように光る。
ルートグーヴァはフィンの脚の間に腕を差し込んだ。ゆっくりと撫でさする。陰嚢の裏あたりがいいようだ。吸盤で吸いつくと、フィンはルートグーヴァの腕を太腿でぎゅっと挟んだ。
「苦しくないだろう」
フィンは小さくうなずいた。表情はすっかり溶けくずれ、潤んだ目で訴えるようにルートグーヴァを見つめている。フィンの肌から読み取れるのは快楽だけだった。もっと気持ちよくしたい。フィンのいいところすべてに触って、もっと感じさせたい。
ルートグーヴァは腕をさらに先へ進めた。後孔は固く閉じ、腕の先を少し入れるだけで精一杯だ。幾度も抜き差しをくり返しながら、少しずつ中へ入っていく。フィンの体内は皮膚よりずっと熱かった。ルートグーヴァは襞の間まで丹念に探り、フィンの中を味わった。
「ッぁ、あ、あ……っ!」
人間の体で交わったときに見つけた箇所は、記憶より浅い。吸盤で吸い上げると、フィンの匂いや味が溶け出すように湯に広がった。寄る辺を求めて伸ばされた手を取り引き寄せる。フィンは半ば目を伏せ、恍惚とした表情を浮かべていた。腕を抜き去ると、不安そうに首を振る。
「……やめたら、いやです」
「やめない。ちゃんとしたいだけだ」
改めて触れたフィンの後孔は縁がふっくらと腫れていた。抵抗もなく、ルートグーヴァの交接腕を飲みこんでいく。吸盤がない分、感覚は劣る。人間のような性的快楽は得られない。それでも、交わるなら性器がよかった。
半ばまで抜き、再び埋め込む。とろけた秘肉がルートグーヴァの腕を包み込み、絞り上げる。これまでより深くに達すると、ねだるように腕にからみついてくる。
「ん、んっ……あっ」
フィンは喉を反らして喘いだ。きゅう、と腕の先を締めつけられる。
徐々に深く腕を進めていく。とん、と奥に突き当たり、フィンは一瞬息を詰めた。強く目をつむり、肩で息をしている。ルートグーヴァは交接腕の動きを止め、フィンの背をさすった。苦しみや痛みは感じていない。混乱しているだけのようだ。汗で張りついた髪を横へ流してやる。
「フィン、ゆっくり息をして。つらくないだろう」
フィンは震えながらうなずき、目を開いた。まつげで堰き止められていた涙が頬を伝い落ちる。ルートグーヴァは腕の先でフィンの目元を拭った。フィンの涙はおいしかった。海のように複雑で、海よりずっとやさしい味がする。湯に溶けてしまうのがもったいない。
フィンはルートグーヴァの頭部に頬を寄せた。吐息がかかってくすぐったい。フィンの涙は止まらないが、呼吸は多少落ち着いたようだ。ルートグーヴァは挿入している腕を少し引き、再び奥へと押し込んだ。
「はぁっ、あ、ルート……ッ、あ……っ、あぁっ」
甘い喘ぎの合間に名前を呼ばれる。フィンは痛いとも気持ちいいとも言わない。すべてをルートグーヴァに明け渡し、委ねている。あの夜もそうだった。
人間の体で交わったときはフィンを食べたいという衝動があったが、今はほとんど感じない。あのときは時間が足りなかった。焦燥だけが燻っていた。フィンを知りたくて、フィンに知ってもらいたくて、愛したくて、愛されたくて、干上がる寸前の潮だまりでもがいているようだった。食べてしまえば手に入れられると勘違いしていたのかもしれない。
「ルート……ルート」
左目の横にキスをされる。フィンの唇はやわらかい。キスをされるのはうれしいが、返せないのでつまらない。腕の先で唇に触れると、フィンは薄く口を開いた。ルートグーヴァの腕の先端を口に含んで吸う。ルートグーヴァが舌先を絡め取って吸盤で吸いつくと、後孔がきゅうきゅうと締まった。
「んっ……んぅう……ッ」
フィンが堪えきれないといった様子で首を振った。すすり泣き、浅い呼吸をくり返している。
「フィン、我慢しなくていい」
性器に絡めた腕をゆるく動かし、その先をうながす。ルートグーヴァが与える快楽が、フィンを巡って返ってくる。こんなに違う体の構造をしているのに、同じ感覚を共有している。不思議で、とても愛おしい。昇り詰めていく感覚に神経が揺さぶられる。ルートグーヴァはフィンを抱く腕に力を込めた。
「あっ、ぁ、ルート……あぁっ……――ッ」
フィンは声もなく果てた。湯の中に広がる精は束の間ルートグーヴァの皮膚に甘い刺激をもたらして四散する。フィンは達しながら幾度も体を跳ねさせた。射精したばかりの性器をルートグーヴァの吸盤に押しつけ、腰を動かしている。
ルートグーヴァが少し身じろぐだけでフィンは感じてしまうようだった。行為の余韻に溺れながら、ルートグーヴァの腕にすがりついている。ルートグーヴァは交接腕を引き抜き、フィンの体に這わせていた腕をそっと解いた。すっかり力が抜けてしまったフィンを抱き上げ、浴槽の縁に座らせる。フィンがくたりともたれてくる。
フィンの体には、ルートグーヴァの吸盤の痕がたくさん残っていた。無理をさせたと反省しつつも、フィンが自分のものになった気がしてうれしい。
「ルート」
フィンは今にも眠ってしまいそうだ。まばたきをしても、もう涙は落ちてこない。
「今夜は、いっしょにいてくれますか」
掠れた声で、フィンは途切れてしまった時間の続きにルートグーヴァを誘った。「今夜」と言うところがフィンらしい。慣れたやり取りをしたいのだろう。それが二人だけの密やかな決まり事だった。
ルートグーヴァの答えは決まっている。これから先、どんなに月が満ちても欠けても変わらない。
「ずっといっしょにいる」
ルートグーヴァが答えると、フィンはうれしそうに笑った。
フィンはどうしているだろう。宝玉盗難の容疑者にされていないだろうか。カモメが隠していた先生の手紙は読んだだろうか。またオムレツばかり食べているのだろうか。チョウザメの観察は順調だろうか。ルートグーヴァは漏斗から水を吐き出した。考えても仕方がないのに止まらない。最後に見たフィンの表情が、声が、心臓を締めつける。
義務を果たしただけだ。結界は修復され、火山は再び封印された。海の危機は回避された。誇るべき事実を前にしても、ルートグーヴァの気分は晴れなかった。
フィンに会いたい。
会えないとわかっているのに、どうして同じ脳から会いたいという気持ちが生まれるのだろう。ルートグーヴァはもう一度漏斗から水を吐き出した。眠ってしまおう。意識があるから、余計なことを考えるのだ。
どれくらい眠っていたのか。腕が勝手に何かをつかんで目が覚めた。やわらかい。いい匂いと味がして、急に空腹を思い出す。イカの腕だ。大きさからしてダイオウイカだろう。ルートグーヴァの意思とは別に、もう二本、腕がイカに伸びていく。硬いものに触れた。曲がった金属だ。辿っていった先の、これは鎖だろうか。軽く引っぱってみる。
「かかった!」
ハイドラストイエの声が聞こえ、ぐっと引っぱられた。船の錨にダイオウイカの腕がくくりつけられているようだ。ハイドラストイエはルートグーヴァを釣り出す気らしい。外には出たくないが、腹は減っている。ルートグーヴァは鎖を引っぱり返した。
「うおっ、抵抗する気か! いいのか! お前んちの入口狭いんだからな! 入口に引っかかって怪我するかもしれないぞ! オレが! 友だちの鱗が剥がれてもいいのかよ!」
嫌な脅し方をする。ハイドラストイエが諦めるまで引っぱり合いを続けてもいいが意味はない。ルートグーヴァは家の壁に張りついた吸盤をはがした。ずるずると外へ引き出される。
「釣れた釣れた。おい、何抜け駆けして食ってんだよ。半分はオレのだぞ」
「おいしい」
「さっき狩ったばっかりだからな。オレは見てただけだけど。だから食うなって! 半分にするから一回食うのやめろ!」
ハイドラストイエは錨の返し部分でイカの腕を二つにし、太い方をルートグーヴァに渡した。
「何日食ってなかった」
「二十日くらいだと思う」
「いくらクラーケンが丈夫だからって、死ぬぞ」
「私は海では死ねない」
ハイドラストイエににらまれ、ルートグーヴァは失言に気づいた。す、と視線を逸らす。
「オレ、その話許してないからな」
気が抜けていたのだと思う。宝玉を取り戻して王国へ帰る途中、ハイドラストイエに魔女との交換条件を話してしまった。ハイドラストイエは怒った。ルートグーヴァが無断で魔女と取引をしたと怒り、親友の自分に一言の相談もなく運命を差し出したと怒り、そのすべてを黙っていたと怒った。二百年のつき合いの中で、こんなに怒らせたのは初めてだった。
ハイドラストイエが腹立ちまぎれに方々で言いふらしたので、ルートグーヴァが海で死ねない話は皆が知っている。長老たちにもレヴィアタンにも任務遂行を褒められると同時に叱られた。王は始終難しい顔をしており、ルートグーヴァは報告の間、身の置き所がなかった。
「まあ、生きてるからいいけどよ。いや、やっぱよくねぇ。オレに黙ってたのが一番よくねぇ。思い出したら腹立ってきた」
「思い出さないでくれ」
さらに墓穴を掘らないよう、ルートグーヴァは黙ってイカを食べた。帰ってきたときと水の気配が違う。深海の水温は年中変わらないが、ピンと引き伸ばしたような感触がある。これから冬に向かうのだろう。冬になればカニが活発になる。イカも好きだが、カニの方が好きだ。
「あいつな、あの人間。ちょいちょい近くまで来てるらしい。見たって奴がたくさんいる」
フィンが近くに来ている。もしかしたら、今もすぐそこにいるかもしれない。ルートグーヴァは頭上に視線を向けたが、海は暗く深く、潜水艇らしきものは見えなかった。
「なあ、オレたちが帰ってくるとき、別に後つけられてなかったよな。オレたちがぼーっとしてて尾行されたって言う奴がいるんだ」
「尾行などされていない。不可能だ」
あれからすぐにフィンが目を覚ましたとしても、潜水艇の準備をしなければならない。
「フィンは、たぶん計算したんだ」
事故でエンジンが止まった瞬間の計器の数値を覚えていれば、座標がわかる。当日の海流の情報があれば、どの方向にどれくらい流されたか割り出せる。結果を組み合わせれば、宝玉の柱の位置だ。
「マジで。そんなのできんのか。人間やべぇな。でも、オレたちのせいじゃなくてよかった。今度あいつらに会ったら、オレたちのせいじゃねぇってはっきり言ってやる」
近くに来ても、結界の力でフィンには王国もルートグーヴァの姿も見えない。影響はないはずだ。王も同じ見解らしく、排除の命令は出ていないらしい。
フィンは宝玉を取り返そうとしているのだろうか。ハイドラストイエを見て、人魚の都市が現存すると思ったのかもしれない。先生の仮説を裏づけるために、きっと必死になっている。
「会いたいなんて言うなよ」
「言わない」
会いたいけれど、会えないし、会う勇気もない。嫌われてしまった。
「忘れろと言わないんだな」
「言わねぇよ。オレが何回失恋しても、お前はオレに忘れろって言わなかったからな」
「そうだったか」
「そーだよ。だからオレも、お前が失恋したときは言わないって決めてたんだ」
ハイドラストイエは得意そうに笑う。
「ラス」
「んぁ?」
「ありがとう」
「いいってことよ」
王国では種族ごとに役割が決まっている。人魚と半魚人は記録に携わり、ヒッポカムポスは王の車を引く。飛び抜けた能力があれば別の業務に抜擢されるが、基本的には各種族が代々担っている役目に就く。クラーケンは国境警備だ。ルートグーヴァは同僚といっしょに宝玉の柱から柱へと見回りをしていた。
ひとりでいると、どうしてもフィンのことを考えてしまう。仕事をしていた方が気が紛れてよかった。少しずつ、手放していかなければならない。今はまだ忘れてしまうのがさびしい。いつか、さびしささえ忘れられるだろうか。
「待て。どこへ行く」
若いマッコウクジラが国境を超えて王国に入ろうとしていた。同僚が声をかけると、マッコウクジラは一瞬狩りの体勢に入ったが、こちらが身構えるとすぐに諦めた。聞けば、道に迷ったらしい。腕を伸ばして方角を示してやると、マッコウクジラは素直に泳いでいった。
「異常なし」
国境警備は結界の警備でもある。宝玉が柱に安置され、正常に王の魔力を宿しているか確認する。中心からこぼれる光が魔力の証だ。宝玉がすべてそろい、結界は正常に機能していた。
「どうしたんだ、ルートグーヴァ。次に行くぞ」
勝手に利き腕がうねる。ルートグーヴァは腕を胴に引き寄せ、進み始めた同僚を追った。ふと、何かが体を這い回るような感覚があった。同僚も感じたらしい。動きを止め、ルートグーヴァに向き直る。腕を持ち上げて海水を探ったが、妙な匂いも味も感じられない。
「宝玉が」
振り返ると、柱に据えられた宝玉が明滅していた。宝玉の光が揺らぐなんて、前代未聞だ。宝玉は媒介にすぎないが、ひとつでも異常があれば結界全体に影響を及ぼす。
「王宮に戻って報告しよう。何かが起こっている」
「了解」
ルートグーヴァと同僚は水を吸い込み、漏斗から勢いよく吐き出した。水の噴射を使っての移動は体力を消耗するが、今は緊急事態だ。王宮に帰りついた頃には心臓が跳ねるように鳴っていた。王宮前の広場にもエントランスにも王国の民が大勢集まっている。忙しなくえらを動かして酸素を取り込みながら、ふたりは群集をすり抜けた。
「ルート!」
「ハイドラストイエ、何があった。宝玉がおかしな光り方を」
「いいからこっちに来い。王様がお前を探してる」
ハイドラストイエについて謁見の間に入ると、すべての目が一斉にルートグーヴァに注がれた。レヴィアタンがいる。人魚と半魚人の長、グルグラーケン族とノルラーケン族の長老も整列している。ルートグーヴァは重臣たちの間を這い進み、玉座から少し離れた位置で止まった。
「グルグラーケン族のルートグーヴァ、御前に参上いたしました」
「口上はよい。まずは聞け」
レヴィアタンは常よりいくらか早口にルートグーヴァを遮った。
「結界が壊れた」
ルートグーヴァは絶句した。
「そなたが取り戻した宝玉の内部に傷が認められた。微少でも傷は傷。王の魔力を受けるには不適よ」
「傷? まさか、そんなはずは」
傷つけないように、腕でくるんで持ち帰った。ぶつけても落としてもいない。いつ、どうやって傷が、それも表面ではなく内側についたのだろう。
王に呼ばれ、ルートグーヴァは玉座の下まで這っていった。右の前から二番目の腕を指され、王へと伸ばす。利き腕だ。最近妙にうねるので、粗相をしないかと緊張した。王はルートグーヴァの腕に触れ、細く長く水を吐いた。静かに、呪われていると告げる。
細心の注意を払わなければわからないほど弱い力で、利き腕だけが呪われているそうだ。誰が呪ったかなど考えるまでもない。取引の際、魔女の黒真珠に腕を置いた。あのときしかない。
「魔女はなぜ私を呪ったのでしょうか」
王はルートグーヴァの問いに答えず、呪いについて話した。触れた物に伝播して内側から破壊する呪いだそうだ。魔力は生命エネルギーに起因する。健康な生物や魔力を宿した物なら、ある程度防げる。裏を返せば、弱っている生物や魔力が宿っていない物には影響がある。
ルートグーヴァは香水瓶を思い出した。ただのガラス瓶だ。魔力が宿っていないから壊れた。魔女が香水瓶のために呪いをかけるはずはない。
――王国が滅びる? 結構じゃないか。みんな不幸になっちまえ。死んじまえばいいのさ。
「宝玉は、王の魔力が抜けていたから呪いの影響を受けたのですか」
王はうなずいた。
「呪いが弱く傷もごく小さかった故、これまで耐えられたのだろう」
レヴィアタンが後を引き継ぐ。
「人間の体のときは、何かを壊すようなことはありませんでした」
「人間とクラーケンでは肉体の構造が異なる。そなたの腕が人の身でも腕だったとは限らぬ。あるいは、遅効性の呪いか。そこまでは、呪いをかけた当人でなければな」
王はルートグーヴァのせいではないと言ったが、ルートグーヴァにはそうは思えなかった。知らなかったとはいえ、宝玉を壊したのは自分だ。
――あたしは借りは作らないのさ。お前の運命に見合うだけのものはくれてやる。
お前の運命という言葉には、腕の呪いも含まれていたのだろう。もっと怪しむべきだった。どうして魔女はあんなに色々な薬をくれたのか。親切なまでに薬の効果と期限について教えてくれたのか。魔女は初めから、ルートグーヴァを利用して宝玉を破壊するつもりでいた。結界を無効化し、王国を滅ぼすために。
「では、魔女はなぜ私に薬をくれたのでしょう。初めから取引をしなければいいはずです」
「そなたは運命と薬を取り換えたのであったな」
レヴィアタンは、運命とは糸のようなものだと言った。
「世界は数え切れぬ糸で織り成されている。ときにほころびがあり、ときに結び目がある。ほころびとは決して訪れぬ未来だ。どうあがいても辿り着けぬ境地。結び目は、必ず到来する未来を言う」
あのとき、魔女は舌打ちした。結び目か、と。
「宝玉の奪還が結び目だったのかもしれぬ」
魔女とルートグーヴァが取引をしなくても、誰かが別の方法で宝玉を取り戻し、結界は修復される。
魔女は考えたはずだ。どうしたら、修復された結界をもう一度壊せるか、と。
「故に、魔女は宝玉奪還後の未来に罠をしかけたのだろう」
――先払いだ。腕を置きな。そうさね、利き腕がいい。
ルートグーヴァが利き腕で宝玉に触ると、魔女は未来を見て知っていた。最初から、すべて仕組まれていた。血が逆流して吐きそうだ。
「ルートグーヴァ、そなたはよくやった。己を責めるな」
「しかし」
「そなたの呪い、我らには解けぬだろう。弱いが、複雑に縫い込まれている。王ならばもちろん可能だが、今はそのお力もない。悪く思うな」
レヴィアタンの言葉を引き継ぐように、王は静かにルートグーヴァに詫びた。
「なぜ王が謝られるのですか。すべては魔女の陰謀です。魔女が」
王はルートグーヴァを制し、訥々と話し始めた。
かつて、心優しい人魚の娘がいたそうだ。
「王よ、その話は」
レヴィアタンが遮ろうとしたが、王は耳を貸さなかった。
娘は人間の漁師に恋をしたが、二人の寿命はあまりに違った。娘は一人残され、心を病んだ。苦しみは憎悪になり、娘を狂気に駆り立てた。娘はすべての生き物の不幸を願い、王の殺害を企てた。王の死によって結界を崩壊させ、火山を噴火させようとしたのだ。計画は未遂に終わり、娘は捕えられた。重臣たちは娘の死刑を提言したが、娘を不憫に思った王は死を免じた。恋人から贈られた黒真珠だけを握りしめ、娘は海溝へ追放された。千年前の話だ。
王は、再び沈痛な面持ちでルートグーヴァに謝った。ルートグーヴァはなんと返していいかわからなかった。千年前の王の恩情がめぐりめぐってルートグーヴァの運命を狂わせ、呪いをもたらしたと言われてもピンと来ない。その頃、ルートグーヴァは影も形もなかったのだ。
「私は」
ルートグーヴァは王の手から腕を引いて後ずさった。ゆっくりと水を吐き、床に伏せる。
「私は王の臣です」
王はルートグーヴァに頭を下げ、皆に避難するよう命じた。火山から少しでも遠ざかるように、と言葉を重ねる。火山は間もなく噴火し、ヘドロは海底を埋めるだろう。結界なしで火山を封じる力は、もはや王にはない。結界を直そうにも、媒介となる宝玉が失われてしまった。
重臣たちは散会し始めた。うなだれ、ひれを畳み、のろのろと退室していく。ヒッポカムポスたちが王の周囲に集まりうながしたが、王は玉座から動かなかった。皆が逃げるまではと言い、ヒッポカムポスたちに先に逃げるよう諭している。
「ルート、行こうぜ。逃げろって言われただろ」
いつの間にかハイドラストイエが隣にいる。
「お前のことだから責任感じてるだろうけどさ、死んじまったらどうしようもねぇよ。命に代わりはないんだ。行こうぜ。オレたちがぐずぐずしてると王様も逃げらんねぇだろ」
「代わりがあればいいんだ」
「いや、だから代わりはねぇって。命は一個だけだぞ」
「命の話じゃない。王、失礼いたします」
王宮の広間は記録や宝物を避難させようとしている人魚や半魚人でごったがえしていた。外の広場でも様々な生物が集い、どこへ逃げるか、逃げたあとはどうするかと話し合っている。ルートグーヴァは漏斗から水を噴き出した。
「どこ行くんだよ。そっち火山だぞ」
ハイドラストイエの方が泳ぐのは速い。すぐに追いつかれた。
「魔女が宝玉と同じくらいの大きさの黒真珠を持っていた。代わりになるかもしれない」
「マジかよ。ホントに使えるのか」
王国の結界は宝玉を媒介とし、王の魔力を巡らせて成り立っている。宝玉自体が魔力を生み出しているのではない。途切れた循環を修復できれば、結界を復活させられるはずだ。
「黒真珠と言ったが、真珠を核にした魔女の力の塊だ。試してみる価値はある」
何もしないで逃げるのは嫌だ。
「うーん、そっか。そりゃ、やってみないとだな。で、どうすんだ。また取引するのか」
「奪う」
「ばば様から? 嘘だろ。呪われたらどうすんだよ」
「もう呪われている。ひとつもふたつも同じだ」
「同じじゃねぇ! オレまだ一個も呪われてねぇし!」
「なんでついてくる前提なんだ」
「なんでついてかない前提なんだよ。オレだってなあ、あんときいっしょにばば様んとこ行ってたら、お前にバカなことさせなかったのにとか、色々悩んだんだぞ! んで、お前がまたばば様んとこ行くのについてかなかったら、もう一回悩まなきゃいけないだろ!」
ハイドラストイエは怒ってみせたが、怯えているようだった。当然だ。間もなく火山が噴火するのに、魔女の棲み処に殴り込みに行こうとしている。怒っているのは自分の方だ、とルートグーヴァは思った。魔女は皆の期待も希望もルートグーヴァの努力も愚弄した。許せなかった。ハイドラストイエは怒っていない。素直に逃げればよかったのに、友だちだからとついてきた。
「ラス、お前は馬鹿だけどいいやつだな」
「気づくのが二百年遅ぇんだよ。あと、バカだけどってのは取り消せ」
市街から離れるにつれて海底は凹凸が増え、生物が姿を消す。クジラ岩と呼ばれる大岩の向こうは荒野だ。地殻変動と潮流によって作られた奇岩が乱立している。どれも先端が尖り、高さは優に十数メートルあった。
漏斗から水を吐き出すたび、塵と砂が舞って視界が曇る。地面が揺れ、驚いたエビが体を二つに折って逃げていく。異臭がしている。噴火はまだだが、水温が上がっているようだった。
「オレさ、ばば様にそんな過去があったなんて知らなかった」
「私もだ」
世間では、魔女の力が強大で殺せず、仕方なく追放したと言われている。口から口へ、千年の間に事実は歪んだ。泡になってしまった少女の事件が歪曲に拍車をかけただろう。レヴィアタンの反応を見るに、当時を知る者たちは積極的には情報を修正しなかったようだ。
「なあ、王様のこと怒ってるか」
「怒っていない」
怒る怒らない以前に、告げられた事実をどう飲みこめばいいかわからない。
「よかったー。さっき王宮でさ、お前がぶち切れて王様絞め殺そうとしたらどうしようかと思った」
黙っていればいいのに、王はすべてを話してしまった。ハイドラストイエの言うような事態になったらどうするつもりだったのだろう。重臣たちもやきもきしていたに違いない。
「王様って、ちょっとバカだよな」
「不敬だぞ。誠実な方なんだ」
誠実で慈悲深い王だからこそ、海を治められるのだろう。
「王様絞め殺したくなったら、先にオレに言えよ。オレ、がんばってお前を説得するからさ」
「たぶんならないが、頼りにしている」
荒野の先に、黒々と横たわる裂け目が見えてきた。
「ルート、腕握ってていいか」
「その腕は駄目だ。呪われていないのにしてくれ」
皮膚を通してハイドラストイエの恐怖が流れ込む。同調してしまわないよう、ルートグーヴァは深く水を吸いこんだ。海溝を降りていく。ハイドラストイエが腕にしがみついてくる。幾度目かの地鳴りが起こり、海溝全体が共鳴するように震えた。
ホヤが剥がれて舞うのも構わず、ルートグーヴァは魔女の洞窟に飛び込んだ。魔女は膝に置いた黒真珠をのぞきこんでいたが、二人を認めてタイガーシャークから身を起こした。
「やらないよ! 渡すもんか!」
魔女はこちらを監視していたらしい。黒真珠を抱え込む。縮れた髪が広がり、こけた頬がむき出しになった。ハイドラストイエが息を呑み、ルートグーヴァの後ろに隠れる。
「しかしまあ、よく帰ってこられたもんだ。王子様とはずいぶん楽しく過ごしたようだねぇ」
魔女は笑い、ふいにねっとりと撫でるようなやさしい声を出した。
「ああ、かわいそうにねぇ。あんたが助けてやったのに。隣の国のお姫様ってやつはとんだ悪党じゃあないか」
「なんの話だ」
「な、んの……? そうだ。あんたじゃない。違う。ちがう? あんたは違うのかい。金庫破りが上手な坊や」
魔女の顔から表情が抜け落ちる。ひとつきりの目は焦点が合っていない。底知れぬ不気味さに腕の一本が出口へ這っていく。ルートグーヴァは腹に力を入れ、逃げる腕を引き寄せた。
「いいや、同じさ。人間なんか好きになって、馬鹿な子だよ。どうせ幸せになれやしないんだ。かわいそうに、あの娘は泡になって消えちまった。あんたも同じさ。不幸になるんだ」
ルートグーヴァが黒真珠に腕を伸ばすと、魔女髪を逆立てた。魔女の目の中で貝の裏のような光彩がきらめく。水の塊が正面からぶつかってきて、腕が押し戻された。魔女は黒真珠に顔を伏せ、頬ずりした。うめき声が反響し、歌っているように聞こえる。水が次第に重くなる。どろどろとして、吸い込めない。
「どうして人間なんかに恋したんだ。おかげで未来が狂っちまった。お前は海に帰れないはずだった。みんな死ぬはずだった。みんな不幸になるはずだった」
えらがうまく動かない。ハイドラストイエが胴にもたれてきた。じっとりと、息苦しさが伝わる。魔女は黒真珠を抱いて肩を震わせていた。ひきつれた声は、笑っているようにも泣いているようにも聞こえる。
「かわいそうな坊や。人間は死ぬよ。すぐに死ぬ。お前が恋したあの子もすぐに死ぬ」
わかっていても、フィンがこの世から消えてしまうと考えるだけで切り刻まれるような痛みを感じた。今頃どうしているだろうと想う時間は、あと数十年だ。その先には、想うことさえ無為な時間が待っている。だからと言って、黙って憐れまれるつもりはない。
「勝手に私を不幸にするな。自分がかわいそうかどうかくらい、自分で決める」
「お前は不幸だ。不幸でなきゃならない。みんな不幸になるんだ。あたしばっかり不幸だなんておかしいじゃないか」
魔女は顔を上げた。
「坊や、人間は死ぬんだよ」
噛んで含めるようにくり返す。
「だから、なんだ」
人間に限った話ではない。生あるものはいつか死ぬ。幸せになりたくてフィンを好きになったのではないし、フィンを好きになって不幸になったとも思わない。
「人間は死ぬんだ! あの人もそうだった!」
黒真珠が光り、魔女の顔から皺が消えた。白く滑らかな肌に、つやつやとした唇。もつれていた髪が解け、軽やかに水に舞う。幻想は一瞬で霧散し、魔女は年老いた人魚に戻った。
「渡さない。あの人がくれたんだ。あたしのものだ」
魔女は覆いかぶさるように黒真珠を抱え込んだ。渡さない、渡さない、と自らに言い聞かせるようにつぶやく。見開いた目はルートグーヴァを突き抜けて虚空に向けられていた。
「結び目じゃないんだ。やってやる。そうだ。やってやる。殺してやる。みんな殺してやる。不幸にしてやる。あたしが決めた。そう決めたんだ」
「結び目じゃないんだな」
魔女の視線がルートグーヴァの上で焦点を結んだ。結び目でないのなら、未来はまだ定まっていない。
「つまり、お前から真珠を奪って結界を修復する未来もあり得るわけだ」
魔女の狂気が剥がれ、怯えが垣間見えた。水の粘性がわずかに揺らぐ。ルートグーヴァは腕をしならせ、魔女の側頭部に打ちつけた。洞窟の壁に叩きつけられ、魔女の目がぐるりと白くなった。水の重さも粘性も消え失せる。
ルートグーヴァは呪われていない腕で黒真珠をつかんだ。
「はぁ……苦しかった。死ぬかと思った」
ハイドラストイエが胴の後ろから顔をのぞかせた。昏倒している魔女を見て口を歪める。
「あのさ、一応女だし、年寄りだぜ」
「女性だろうがお年寄りだろうが、敵は敵だ。倒す」
「お前、そういうとこホント思い切りいいよな」
洞窟から出て水の噴射を使いながら岩壁を這い上る。地震の間隔が短くなっていた。荒野を王宮へと急ぐ。際限なく現れる奇岩のために、まったく進んでいる気がしない。
突如、海そのものが持ち上がったような衝撃が起こった。ルートグーヴァとハイドラストイエは焼き尽くすような輝きに目を覆った。生温かい水が押し寄せ、息が詰まるような異臭に腕の先がきゅっと丸くなった。火山の天辺から小さな光が飛び散り、尾を引きながら消えていく。
「噴火しちまった。間に合わなかったんだ」
火口は心臓が血液を送り出すようにヘドロの混じった溶岩を流していた。溶岩は冷えて固まるが、ヘドロは固まらない。溶岩を乗り越え、火山を下っていく。
「ルート、どうする」
「変更はない。王に黒真珠を届ける。噴火は止められなかったが、ヘドロは止められる」
揺れる海底を這い進む。鈍い音がして、再び火山から溶岩があふれた。王宮は遠く、市街さえまだ見えない。ハイドラストイエが全力で泳いだ方が速い。宝玉をあずけようとハイドラストイエを見上げたとき、まっすぐな光の筋が暗い海を割いた。
「あれ、王様だよな」
ずいぶん上を泳いでいて顔はわからないが、確かに王だ。王は火口の真上で静止した。
「王様あんなとこで何してんだ。ってか、どーすんだよ。宮殿行っても王様いないんじゃ結界直してもらえないぞ」
「直接王のもとへ行く必要があるな」
「オレはいいけど、お前ずっと浮いてられないだろ。溶岩にぶち当たって死ぬぞ」
「では、お前が王に宝玉を」
ざわりと皮膚が波立ち、ルートグーヴァは反射的に水を噴いて逃げた。ハイドラストイエもついてくる。振り返ると、後方で朧(おぼろ)な光が揺れていた。近づいてくる。もつれた髪を振り乱し、ねじくれた指で海水を掻き分け、近づいてくる。ぼろぼろの尾ひれは今にも千切れそうだ。一つきりの目はどこも見ていない。裂けた口から燐光が漏れ出ている。
「ばば様ウソだろ!」
「あの尾ひれでどうやって泳いでいるんだ!」
明らかにルートグーヴァより速い。追いつかれるのは時間の問題だ。
「オレ、一個気になってんだけどよ」
「それは今必要な話か」
「ばば様って未来が見えるんだろ。なんで逃げなかったんだ。オレだったら、お前が来るってわかってたら逃げる。だって勝てねぇもん」
開口一番、魔女は「やらない」と叫んだ。ルートグーヴァとハイドラストイエが黒真珠を奪いに来ると知っていた。魔女の魔法は厄介だったが、ルートグーヴァは無傷だ。あの程度の抵抗しかできないなら、黒真珠を持って逃げる方が賢明だっただろう。
「まだ勝算があるのか」
魔女が直前までどんな未来を見ていたかはうかがい知れないが、逃げないという選択に意味があったのだろう。
「ラス、真珠を持って全力で王の元へ行け。魔女は私が抑えておく」
「待てよ、ばば様が欲しいのは真珠だろ。そんなのオレ狙ってくるじゃん!」
「だから、私が抑えておくと言っている」
「それはそれでお前が危ないだろ!」
一瞬、皮膚が聞きなれない音を拾ったが、構ってはいられない。ルートグーヴァはハイドラストイエに黒真珠を押しつけた。魔女の目がハイドラストイエに向く。ハイドラストイエはひぃっと情けない声を出し、速度を上げて泳ぎ始めた。ルートグーヴァは追いかけてくる魔女に対峙した。王が生かした者を殺めるのは気が引けたが、魔女は生きている限り黒真珠を取り戻そうとするだろう。ルートグーヴァは覚悟を決め、獲物に狙いを定めた。
ふいに、水の動きが変わった。一方向に流れ始め、次第に強くなっていく。ルートグーヴァは吸盤で海底に張りついた。おかしい。深海でこんな海流が起こるはずはない。魔女は流されかけていたが、まだ目を剝き、炎のように揺らめく光を吐きながら前進している。
「ルート! やばい! オレもう無理!」
ハイドラストイエは岩のひとつに黒真珠ごと抱きついていた。足が浮いている。手が離れる間際、ルートグーヴァは腕を伸ばしてハイドラストイエをつかまえた。再び水流に混じって聞きなれない音が聞こえた。上の方で何か光ったような気がしたが、確かめる余裕はない。
「何なんだよ、この水流!」
「わからないが、いいか悪いかで言ったら確実に悪い」
「どういう意味?」
「魔女が来ている」
「お前、抑えとくって言っただろ!」
「お前が助けろと言ったからだ!」
「助けろなんて言ってねぇ! やばいって言っただけだ!」
「同じだ! 助けなくてよかったのか!」
「ううん、マジでやばかった。助けてくれてありがとな」
海底の砂が巻き上がる。轟々と鳴る水流に魔女の唸りが混じる。髪をなびかせ、もがくように腕を振り回しながら近づいてくる。
「なんでこんな流れの中で泳げるんだよ。怖ぇよ。やっぱりばば様は化物なんだ」
「ラス、真珠を離すな」
ルートグーヴァは近くの岩に腕を巻きつけ、体を固定した。魔女が射程に入るのを待つ。腕を伸ばそうとしたとき、ルートグーヴァは先ほどから聞こえていた音の正体に気がついた。まばゆい光が魔女を横から照らし、次いで潜水艇が魔女にぶつかった。衝撃と水流で魔女が流されていく。潜水艇が傾く。ルートグーヴァはマニピュレータの付け根に腕を巻きつけた。もはやこんな大きな鉄の塊でさえ、まっすぐに航行できないほどの水流だ。
「あの人間なんで、あ、結界がねぇんだ」
操縦席のフィンは腰を浮かせて耐圧殻のガラスに手をつき、魔女が流された方向を見ていた。驚いているようだ。偶然当たってしまったのだろう。飲みこむことも吐き出すこともできない感情が渦巻いて、ルートグーヴァは潜水艇から目を逸らした。とにかく魔女は撃退した。あとは水流が止まれば動けるようになるはずだ。
小さな石や貝の欠片が暗い海を狂ったように舞う。ルートグーヴァは海底に這わせていた腕をもう一本岩に回した。小魚が必死に泳ぎながらも流されていく。
「そうか。吸いこんでいるんだ」
塵も砂も小石も行きつく先は火山だ。ヘドロが辺りを曇らせながら火口へ飲みこまれている。
「王の力だ。そうでもなければこんな不自然な水流ができるはずがない」
「出ちまったヘドロを片付けてるのか」
「恐らく。しかし、結界を張れないほど消耗なさっているはずだ。こんな大掛かりな力の使い方をしたら、いくら王でも死ぬぞ」
ヘドロの匂いは薄まっていたが、いくらヘドロを吸い込んでも、火山を封じられなければまたあふれてしまう。王はどう事態を収拾するつもりだろう。思案している間にも水流は激しさを増し、ルートグーヴァは三本目の腕を岩に回した。
「かえせ」
ぞわ、と皮膚がうねった。潜水艇の向こうに燐光が見えた。裂けた口から牙がのぞいている。口しか見えないと思ったら、皮膚が黒くなっていた。まるで体がねじれて二つに折れてしまったロブスターのようだ。背骨が変形し、不自然に盛り上がっている。甲殻類のような棘だらけの肢が左右十数本ずつ生えていた。肢は細く長く、魔女の背より高い位置で一度折れ曲がっている。それらがわさわさと動き、腹這いになった魔女を前方へ押し出していた。
「かえせ。かえせかえせ」
魔女の肢が擦れ、カシャカシャと気味の悪い音がする。
「かえせかえせかえせかえせかえせかえせ」
逃げられない。腕を離せば水流に引きずられる。ハイドラストイエが黒真珠を強く抱きしめた。魔女が体に這い上がってくる。肢の棘が刺さって痛い。魔女がルートグーヴァの胴を乗り越える。ハイドラストイエが身をよじり、腕を伸ばして黒真珠を遠ざける。ルートグーヴァは海底に這わせていた腕の一本を持ち上げた。体が浮きそうになる。残った腕に力を込める。
「かえせかえせかえせかえ、せ、か、えせ」
ルートグーヴァはハイドラストイエに迫った魔女をつかまえ、胴から引きはがした。呪われた腕でつかんだのはせめてもの仕返しだ。魔女が暴れ、棘が肉に食い込む。握りつぶそうとしたが魔女の皮膚は硬く、棘がますます深く刺さっただけだった。
「ルート、それ、どーすんだ」
「今から考える。痛っ」
棘とは違う痛みに目をやると、魔女の歯が腕に食い込んでいた。引きちぎられた肉片が流されていく。魔女は狂ったようにルートグーヴァの腕に噛みつき、爪を立てて暴れている。
「おい、ルート、なあ、食われてる!」
「見ればわかる」
「どーすんだよ!」
「今考えてる!」
幸か不幸か魔女の歯はそれほど強くも鋭くもない。痛みさえ我慢すれば、しばらくは耐えられる。その間に次の行動を起こさなければならない。残った腕を少し動かしてみる。潜水艇がバランスを崩し、地面にぶつかった。慌てて振り返る。フィンは無事のようだ。
「ルート、ばば様離してみろよ。水流強くなったし、うまく流されてくれるかもだぞ」
「無理だ。棘が深く入りすぎていて抜けない」
「マジか。ってか、なんでそれ、その鉄の、なんだ、潜水艇か、つかんでんだ。離せって。そうすれば腕一本空くし、ばば様の棘も抜けるだろ」
「いやだ」
「嫌だじゃねぇ。ガキか。このままじゃお前もオレも危ないんだぞ。オレなんか黒真珠持ってんだぞ。人間と黒真珠とどっちが大事なんだよ」
ルートグーヴァは返事をしなかった。ハイドラストイエの言う通りだ。あと一本腕があれば魔女の棘を抜ける。しかし、そのためにフィンを放り出す気にはなれなかった。黒真珠は大切だ。ハイドラストイエも大切だし、フィンも大切だ。腕が足りない。
水流がさらに激しくなる。潜水艇といっしょに腕が引っぱられて痛い。魔女の歯が吸盤に突き刺さり、ルートグーヴァはうめいた。こんな姿になっても魔女には知性が残っている。ルートグーヴァの腕を食い千切ろうとはしない。食い千切る前につかまる場所を確保しなければどうなるか、魔女はわかっている。
「ラス、潜水艇の前方に丸い蓋がある」
ルートグーヴァは腕の先まで使って魔女をがんじがらめにした。力を込め、棘をさらに深く刺す。魔女が暴れたが、すでに魔女自身にも棘は抜けなくなっている。
「その中に剣が入っている。出せるか」
「やってみる」
ハイドラストイエは黒真珠をルートグーヴァの吸盤に押し当てた。ルートグーヴァはハイドラストイエと黒真珠をつかんだまま、腕を潜水艇へ伸ばす。
「ルート、これどうやって開けるんだ」
「中で操作すれば開くはずだ」
「おい、人間! ここ開けろ! 剣が入ってるとこ! 違ぇよ、剣! 剣だって!」
ハイドラストイエが耐圧殻を叩き、腕を振り回す。剣のジェスチャーをしているようだが、フィンには伝わっていない。ハイドラストイエの焦りが伝染したようで、フィンはコンソールのあちこちに触った。つかんでいたマニピュレータが急に動き、危うく腕を離しそうになる。
「だから、それじゃねぇって! これ! ここ! この下の丸いとこ!」
ハイドラストイエが必死に指し、フィンが一生懸命のぞきこんでいる。
「開いた! あった! で、それから?」
「それで私の腕を切り落とせ」
ハイドラストイエが目と口を丸くする。
「何言ってんだ。うちは代々書記官だぞ。知ってんだろ。剣とか使ったことねぇし。無理」
「非常事態になれば文官も戦闘要員だ」
「だって、お前、それ、腕、絶対痛いじゃん」
「今も痛いし、覚悟はしている」
「絶対オレのこと恨むだろ」
「恨まない」
「ほんとか。絶対だぞ。絶対恨むなよ。絶対痛いからな。痛くても恨むなよ」
「わかったから早くしろ」
ハイドラストイエは剣先をルートグーヴァの腕に当てた。なるべく根元からとルートグーヴァが指示すると、おとなしく位置を調整する。
「オレが何したってんだよ。なんで友だちの腕斬り落とさなきゃならないんだよ」
腕の付け根には神経節があり、脳と平行して腕を制御している。すべて思い通りにはならないが、切り離してもしばらくは生きて魔女の動きを封じられる。
「ばば様、ごめんなさい。でも、あんたはもう生きてちゃいけないんだ」
魔女は目だけでハイドラストイエを見上げていた。ルートグーヴァの肉片を牙に引っかけたまま、かえせかえせと喚いている。
「ルート、いくぞ」
ルートグーヴァは剣が突き刺さる瞬間を見なかった。魔女の歯も棘も、神経を貫く衝撃の前にはないも同然だった。何度も剣を突き立てられ、切り裂かれる。ぷち、ぷつ、と筋線維が一本ずつ切れる音がする。最後は水流で引きちぎられた。ぶつん、と嫌な音が体全体に響いた。
魔女が吼える。意味を成さない喚き声は水流に呑まれ、すぐに途切れた。皮膚を撫でる水流がくすぐったい。痛みで感覚がおかしくなってしまったらしい。ルートグーヴァは残った腕に力をこめた。
ふ、と水流がゆるんだ。次の瞬間、すべてを消し飛ばすような閃光がほとばしり、荒野が真っ白に塗りつぶされた。すぐにいつもの暗さに戻ったが、目がちかちかして周囲の状況がわからない。やがて火山の稜線が判別できるようになった。溶岩の輝きは見えない。噴火は収まったのだろうか。水流は徐々にゆるやかになり、力を抜いても流されなくなった。
安堵の間もなく地鳴りがした。つかまっていた岩が崩れ、ルートグーヴァは急いで腕を引いた。体の下に大きなひびが走り、地面が陥没する。潜水艇が沈む。奇岩が降ってくる。
ルートグーヴァは黒真珠とハイドラストイエを抱き込んだ。潜水艇の耐圧殻に覆いかぶさる。ガラスにひびでも入れば、圧力のバランスが崩れて耐圧殻は一瞬のうちに壊れてしまう。次々に石が落ちてくる。塵と砂が舞い上がる。大きな岩が胴に当たり、吐きそうになった。岩が積み重なり、視界が閉ざされる。なおも石が降ってくる。
地鳴りが収まっても、ルートグーヴァはじっとしていた。どうやら第二波は来なさそうだ。
「ラス、生きているか」
「うん。でも息できてねぇから早く出して」
岩の隙間から腕ごと引きずり出すと、ハイドラストイエは大袈裟に深呼吸をした。黒真珠には傷ひとつない。安堵しつつハイドラストイエにあずける。
「腕、平気か」
切り落とされた腕の付け根からはまだ血が出ていた。今になってようやく痛みを痛みとして感じられるようになった。
「痛い。お前、本当に下手なんだな。少し恨みそうになったぞ」
「待てよ、恨まないって言ったよな。約束したよな!」
「恨まない」
ルートグーヴァは体の上の石や砂を落とした。見上げると、対岸はほぼ無傷だが、王国側の崖は広範囲にわたって抉れていた。ひとまず落ちてくるものはなさそうだ。ルートグーヴァは潜水艇から降りた。耐圧殻は球形を保っていたが、別の問題が目に入る。
「噴火止まったみたいだな。真珠どうする。ルート?」
コンソールに灯っているランプの数が少ない。以前、フィンと乗ったときにはもっと多かった。傾いた艇内でフィンが辺りを見回している。スイッチを押してもハンドルを動かしても何も起こらない。ルートグーヴァは耐圧殻の中をのぞき込み、ぞっとした。
コンソールの中央には、バッテリーの残量を示す目盛りがある。四角い光が十本並んでいるはずだ。上から三本ごとに緑、黄色、オレンジ、十本目は赤。クラーケンの姿では色がわからないが、最後の光が今にも消えそうに揺らいでいる。
「どうした。故障か」
「充電切れだ」
「どういう意味?」
「燃料がないから動かない」
「やべぇやつじゃん」
おかしい。家の裏の砂浜からここまで、水流に巻き込まれた時間を考慮しても、バッテリーがなくなるほどは経っていないはずだ。フィンはほぼ正確に王国の場所を算出していた。道に迷ってエネルギーを浪費したとは考えにくい。
――毎日少しずつ、充電が空にならないように潜りました。
――先生とふたりで、時間が短いので、炭酸ガスのフィルターもそのままで。
あれは笑い話ではなかったのか。
「なんでそんな馬鹿なことをしたんだ」
ルートグーヴァは潜水艇の側面を探った。充電が切れると安全装置が働き、バラストが切り離されて浮上する。片方は引っかかっているだけだったので、少し揺すると外れた。潜水艇は傾いたが、浮くには至らない。もう片方のバラストは接続部分がひしゃげて外れない。
「フィン、中からどうにかできないか」
呼びかけても届かないが、呼びかけずにはいられなかった。完全に充電が切れれば酸素供給が止まる。耐圧殻の中に二酸化炭素が充満する。フィンは窒息するしかない。
「何かないのか。先生が改造したんだろう。非常時に備えて耐圧殻だけ切り離せるスイッチとか、そういうものは?」
フィンは計器をじっと見つめ、スイッチを一つ押した。何も起こらない。別のスイッチを押す。ルートグーヴァは息をひそめて待った。潜水艇は沈黙したままだ。フィンは不確かに明滅するバッテリーの目盛りに触れた。そこで動きが止まってしまう。
「何かあるだろう。フィン、思い出してくれ」
フィンは一度覚えたことは忘れない。でも、もしかしたら一つくらい、忘れている解決策があるかもしれない。完全な生物など存在しない。フィンの記憶力にも欠陥があっていいはずだ。ルートグーヴァはフィンの次の手を待った。フィンはサンゴのようにじっとしている。
ふいにフィンはコンソールから顔を上げ、耐圧殻に手をついた。息を吹きかけ、ガラスを曇らせる。ハイドラストイエがそっと隣に来た。
「なんて書いてるんだ」
指で書いても、フィンは字が下手だった。ルートグーヴァは鏡映しになった文字をひとつずつ辿っていく。
「あいたかった……さびしかった……」
フィンはルートグーヴァを見つめている。ルートグーヴァはフィンのてのひらに腕の先を重ねた。ガラスが邪魔だ。何もわからないし、何も伝わらない。バッテリーの目盛りは今にも消えてしまいそうだった。フィンはもうコンソールを見ない。
「フィン、本当にどうしようもないのか」
フィンはまばたき一つせず、ルートグーヴァを見つめている。ルートグーヴァもフィンを見つめていた。時間が止まったようだった。目を離したらフィンが死んでしまう気がして、怖くて、もしも時間が止まっているのなら、世界の終わりまでこのままでいいと思った。
時間は無情に過ぎていく。刻一刻と酸素を奪い、フィンの命を削り取る。ルートグーヴァは耐圧殻から離れ、潜水艇の周囲に落ちている石や岩を海溝へ放り込んだ。フィンが窒息していく様を黙ってながめているだけなんて、耐えられない。
フィンはルートグーヴァの行動を不思議そうに目で追っている。死ぬかもしれないというのに、フィンは静かだった。彼の心に生死の別はないのかもしれない。以前、お祈りを終えたフィンは、死んだサバにどう接していいか「答えられない」と言った。自分の死についてはどう思っているのだろう。こんなときまで、フィンを知りたい。
ルートグーヴァは耐圧殻に腕を絡め、他の腕を海底に張りつけた。
「何やってんだよ」
「陸まで運ぶ」
「はぁ? できるわけねぇだろ。前のとき、二人か三人で運んだんじゃなかったか」
「バラストが半分ないから、あのときよりは軽い」
ルートグーヴァは潜水艇を腕で引っぱり、漏斗から水を吐き出した。地面は岩盤だ。泥や砂に埋もれているわけではない。邪魔な石や岩は取り除いている。単純に動かすだけだ。
水を吸い直し、また吐く。伸ばした腕で自身の体ごと潜水艇を引き寄せる。少し動いた気がしたが、気がしただけだった。
「お前、腕ちぎれてんだぞ。ちぎったのオレだけど。まだ血出てるだろ」
ハイドラストイエの言う通り傷は塞がっていない。力むと痛いが、ためらっている暇はない。
「普通に無理だろ。諦めろよ」
「いやだ」
「またそれか。わがまま言ってんじゃねぇ。ってか引っぱる方向逆じゃね? そっち海溝だぞ」
「いいんだ」
クラーケンは浮袋を持たないので、魚のように水中で静止できない。海溝まで行けばもちろん落下するが、海底がなくなるので、浮いている状態にもなる。そこから泳いで運べれば、海底を引きずっていくより速いはずだ。
ず、と潜水艇が動いた。勢いを殺さないように続けて腕を伸ばす。少しずつ、海溝が近づいてくる。
「無理だって。沈むって。そんな重いの運べねぇよ」
腕の先が崖にかかった。体を引きやすくなる。岩壁に沿って垂直に腕を伸ばしていく。小さな引っかかりがあって緊張したが、止まらず乗り越えられた。
「ルート、やめろ」
ハイドラストイエは黒真珠を放り出し、ルートグーヴァの腕をつかんで潜水艇から引きはがそうとした。
「やめろって!」
ルートグーヴァは胴を海溝に投げ出し、自重で潜水艇を引っぱった。潜水艇が崖の縁を超え、船尾が浮いた。潜水艇がのしかかってくる。ルートグーヴァは沈みながらも体の位置を入れ替えた。重い。腕が千切れそうだ。
水を吸い、勢いをつけて吐く。少しだけ上昇する。やめれば沈む。絶対に止められない。脈がどんどん速くなる。鼓動が体中に響いて、一個の大きな心臓になってしまったようだった。脈と呼吸が噛み合わなくて苦しい。
ルートグーヴァは崩れた崖を見上げた。遠いな、と思った。陸はもっと遠い。
「なんで何も言わないんだよ」
ふいに、ぐんと上昇できた。潜水艇の下で水を蹴るハイドラストイエの足が見える。
「こういうときは、手伝ってとか助けてとか言うもんだろ。二百年も友だちやってんのに、お前そういうとこホント薄情だよな」
「幸せになれないから味方しないんじゃなかったのか」
「友だちが沈みそうになってんのに見捨てられるか」
ハイドラストイエがこうだから、二百年も友だちでいられたのだと思う。
「さっきも、今も、嫌だ嫌だって、そんなにこの人間が大事なのか」
「……うん」
「あー、もう、しょーがねぇなぁ。いっしょに行ってやるよ」
潜水艇の重量に比べれば半魚人一人の浮力など微々たるものだが、確実に軽くなった。それだけで陸まで行ける気がするのだから、我ながら単純だと思う。
陸を目指し、暗い海をひたすら泳ぐ。崩れた奇岩を避けながら荒野を抜ける。市街は障害物が多いので迂回した。大昔に冷えて固まった溶岩の坂を登って進むと、海底が泥混じりの砂地に変わった。勢いよく水を吸ったら砂もいっしょに吸いこんでしまい、ルートグーヴァは咳き込んだ。潜水艇が傾く。無理に水を吐いて高度を上げる。えらが裂けそうだ。腕が潜水艇をつかんだ形で凝り固まってしまったようだった。
大きな岩にウミシダが密集している。海底の色が少しずつ白く変わっていく。泥や塵が減り、純粋な砂地になりつつあった。水温が徐々に高くなる。起伏は少なく、ゆるやかな上り坂が続いている。息が苦しい。あとどれくらいで陸だろうか。フィンは無事だろうか。振り返りたかったが、もしもと思うと確かめるのが怖い。
「ラス、後ろに何か見えるか」
張り詰めた神経が異臭を拾った。
「後ろ? 何も。ってか砂でよくわかんねぇ。どうした」
「嫌な臭いがする」
近づいてくる。気にかかるが、止まっていられない。何が近づいてきているにせよ、まずはフィンだ。新鮮な空気があるところへ連れていかなければならない。
通り過ぎた岩場には海藻が生えていた。眠っていた小魚の群れが散り、鱗がきらめく。昼間でもないのに、何を反射しているのだろう。海は次第に浅くなり、とうとう潜水艇が海底に触れた。砂が舞って視界が曇る中、ひたすら浅い方へ向かう。
泡沫の精霊たちの声が聞こえ、ルートグーヴァは水面の向こうに満月を見上げた。砂浜まではまだ距離があるが、潜水艇の耐圧殻は海面に出ている。伸び上がって水面に頭を出すと、浜辺に潜水艇を運ぶ台車が見えた。
「あんたたち、何連れて来たのよ!」
「怖い。追い払って」
嫌な臭いが濃くなっていた。精霊たちが怯えている。
「フィンが先だ」
ルートグーヴァは耐圧殻上部のくぼみに腕の先を入れて円形のカバーを外した。ハンドルを回すと勢いよくハッチが開く。フィンはぐったりとして目を開けない。心臓が止まるような思いだったが、かすかな呼吸を確かめ、ルートグーヴァは安堵した。
「ルート、後ろ!」
ハイドラストイエに腕をつかまれた。ルートグーヴァは視野の後方に注意を向けたが、波間に月光が揺れているだけだ。
「今、何かいた」
「私も見たわ。でも、潜っちゃった」
海に沈めている腕が強張る。殺気だ。狙われている。嫌な臭いの主は、じっくりとこちらとの距離を測っているようだった。この感覚はよく知っている。サメだ。
「ラス、フィンをつれて陸に上がれ」
ルートグーヴァはフィンをハイドラストイエに託した。人間にこの水温は低すぎる。フィンの体が心配だが、少しでもサメから遠ざけたい。ハイドラストイエは沖を気にしながらじりじりと後ずさった。
「なあ、陸って安全?」
「少なくとも、水中よりは。フィンが溺れないよう気をつけてくれ」
「わかってる」
ハイドラストイエはフィンを抱きかかえ、水を蹴った。浜には数秒で着くはずだ。その間、殺気の主を引きつけておかなければならない。ルートグーヴァは潜水艇から海へ降りた。待っていたかのように殺気の主が動いた。速い。一気に距離を詰めてくる。ずらりと並んだ白い牙が眼前に迫る。優に四メートルはあるだろう。巨大なタイガーシャークだった。
ルートグーヴァは漏斗から水を噴き出してサメの牙をかわした。サメは浅瀬を腹ですべり、三日月型の尾ひれで水を跳ね上げる。サメの左の眼窩は空洞だった。魔女の洞窟にいたタイガーシャークだ。死体ではなかったのか。いや、今も死臭は感じる。サメは死んでいる。サメの動きが鈍くなり、横腹から甲殻類のような肢が十数本ずつ生えてきた。魔女と同じ肢だ。
タイガーシャークは胸びれが砂に埋もれようがお構いなしでルートグーヴァに向かってくる。右目は黒く、かすかに貝の裏のような光彩を放っている。魔女と同じ目。魔女の力は完全には失われていない。まだ、眼球ひとつ分残っている。
肢がある分、浅瀬ではサメの方が小回りが利く。ルートグーヴァは次第に波打ち際に追い詰められた。体力的にも限界が近い。わずかに引きそびれた腕の先十数センチを食いちぎられた。気にかける間もなく襲われ、すんでのところで避ける。サメは血の匂いで興奮状態に陥り、ますます激しくルートグーヴァを追い立てた。
ルートグーヴァは腕を振って砂をかき混ぜた。サメは目が悪く、狩りのほとんどを嗅覚に頼る。砂で視界が遮断された状態なら、なおさらだ。ルートグーヴァからもサメの姿は見えないが、位置は特定できる。不揃いに動く肢で寄せる波に乱れが起こる。その中心にサメがいる。
ルートグーヴァはサメから距離を取り、食いちぎられたばかりの腕を長く伸ばした。波の乱れが収まりかけた瞬間、ルートグーヴァはまっすぐに後退した。背後に伸ばした腕が潜水艇に触れた。吸盤で固定する。体を引き寄せ、ルートグーヴァは潜水艇の裏に滑り込んだ。
鈍い音が響く。サメはうまく潜水艇にぶつかってくれたらしい。ルートグーヴァは動きの止まったサメをつかまえ、渾身の力で締め上げた。サメは体を激しく振って暴れたが、ルートグーヴァはサメを離さなかった。えらに腕を突き入れる。二本、三本と腕を押し込み、吸盤でえらを絡め取る。
ルートグーヴァはサメのえらをつかんだまま、思い切り腕を振った。サメは陸に打ち上げられ、おびただしい血で砂浜を黒く染めながらもがいている。魔女と同じ目から燐光が閃く。腕に残ったえらの残骸を捨て、ルートグーヴァはサメを追った。
サメは肢で体勢を立て直し、ルートグーヴァに突進した。まともに体当たりを受けて波打ち際に押し倒される。並んだ牙が月光を受けて不気味に白い。なんとかサメを押しとどめたが、浮力がなくて腕が重い。二本しか持ち上がらない。その腕にもだんだん力が入らなくなってきた。食い殺される、と思った。サメは嫌いだ。子どもの頃から大嫌いだった。
腕の先が何かに触れた。上がらない腕が無意識のうちに波打ち際を這っていたらしい。人工的な造形。台車だ。ルートグーヴァは荷台を探った。割れたブイらしきもの、空き缶、空き瓶。フィンはいつものようにゴミ拾いをしていたようだ。ふわふわしたものが腕をくすぐる。干からびた肉の匂いがする。角度を考え、しっかりと握る。
サメがのしかかってきた。口を開け、血を吐き、牙を剥く。ルートグーヴァはつかんだものを離さないように、強く握りすぎて壊さないように、注意深く腕を振り上げた。あとは重力が味方してくれるだろう。
狙うはサメの右目だ。たった一つ残った、魔女の残骸。
死んだカモメのくちばしがサメの目玉に突き刺さる。サメは痙攣し、大量の血を吐いた。ルートグーヴァはサメを押しのけ、すぐに潜れる位置まで後退した。サメの肢がぎゅっと縮こまり、ばらばらと抜け落ちる。肉が剥がれ始める。まるで見えない生き物に食い荒らされているようだ。骨に残った肉が乾き、骨がひび割れ、崩れるように砕けた。そのかけらも、あっという間に塵になって砂に紛れた。
干からびたカモメの死体だけが、ぽつんと残っている。
サメは海に成ったのだろうか。それとも、成りそこなったのだろうか。
「すごいすごい! 勝ったじゃない!」
「なんだったの。あの目、サメの目じゃないわよね」
泡沫の精霊たちが騒ぎ、ルートグーヴァは我に返った。
「フィンは」
「あっち。ハイドラストイエがそばにいるわ」
「ねえ、ちょっと待って。えらの中に入ってあげるから」
ルートグーヴァは砂浜を這った。疲労で考えがまとまらないが、とにかくフィンの無事を確かめたかった。
「お疲れ。お前、すげぇな」
ハイドラストイエが胴に触れて話しかけてくる。サメに蹴られてできた細かな切り傷が、今になってぴりぴりと痛い。フィンは砂浜に横たわっていた。
「息してるぞ。死んでない」
確かに、フィンは呼吸をしている。ルートグーヴァはフィンの頬に触れた。
「冷たい」
「大変! 人間って冷たいと死んじゃうのよ!」
「えっ、マジで」
「ハイドラストイエ! あんた何してたのよ! バカ!」
精霊の声が外套膜の中で響く。ルートグーヴァはフィンを抱え、家に向かった。心は急くが、陸上では体がうまく動かない。ハイドラストイエが砂に足を取られながらついてくる。
浴室に続くガラス戸を叩き割るのにためらいはない。内側に腕を入れて鍵を外した。浴室に落ちたガラスの破片が腕に刺さったが、痛みが鈍い。ルートグーヴァは浴槽にフィンを入れ、溺れてしまわないよう縁にもたれさせた。水道の栓をひねって先生が書いた目印に合わせると、最初は冷たかった水が次第に温かくなった。
「ねえ、水が流れちゃってるわ。栓をしなきゃ。栓はどこ」
「それじゃない? 蛇口の横の」
泡沫の精霊たちが四人がかりで栓をしてくれて、浴槽に湯が溜まり始めた。湯はフィンの足を浸し、潜水艇用の防寒着に染みていく。ルートグーヴァは腕の外側でフィンの頬を撫で、呆けたようにフィンを見ていた。飽き性の腕がのろのろと動き出し、体からガラスの破片を抜いては浴室の隅にまとめている。
ハイドラストイエが一歩ごとに跳びはねながら追いついてきた。浴槽の縁に腰かけ、ルートグーヴァにもたれかかる。ガラスを踏んでしまったらしく、足の裏を点検している。
「生きてんだよな」
「うん」
フィンは生きている。息をしている。脈がある。わかっているのに、実感が薄い。蛇口を中心に湯が波を作り、壊れたドアから流れこむ潮騒と重なって本物の海のようだった。
「オレな、ルートがクラーケンでよかったと思ったんだ」
ハイドラストイエは唐突だった。
「やっぱさ、うちの一族は誰かひとりを好きになるとダメなんだよ。ばば様も、泡になっちまった女の子もさ、新しく好きなやつを作ればよかったんだ」
「クラーケンでも狂うときは狂うぞ」
「まあな。でも、ルートは大丈夫だろ。ってか、ルートはもし半魚人でも、ばば様みたいにならねぇだろうな。ん? それなら別にクラーケンじゃなくてもいいのか」
「ならなかったのではなく、なれなかったのかもしれない」
泡になった少女は故郷を捨てた。魔女は故郷を破壊しようとした。二人とも、何かとてつもない力で動いていた。ルートグーヴァにはその力がなかっただけだ。
「私の感情は、そこまでではないんだ。きっと」
「いや、そこまで行ったから二人ともああなったんだろ。行かないのが正解だって。それに、そこまでじゃなくてもお前の気持ちはだいぶ重いぞ」
「重いか」
「自覚ねぇのかよ。おっ」
フィンのまぶたが震え、ハイドラストイエがフィンに顔を近づける。フィンは何度かまばたきをして、目を開けた。しばしぼんやりしていたが、ハイドラストイエに焦点が合うとびくりと肩を跳ねさせた。ハイドラストイエも驚いたようで、うしろにひっくり返りそうなほど上体を反らしている。
「フィン、大丈夫だ。敵じゃない」
頬に触れ、皮膚を通して人間の言葉で話しかけるとフィンが振り向いた。ルートグーヴァが差し出した腕に、恐る恐る片手を乗せる。フィンは困惑しているようだった。喜んでもいるし、怖がってもいる。少し、焦っている。何か言おうとして口をつぐみ、すがるようにルートグーヴァを見つめる。たくさんの複雑な感情が入り混じっている。
「ごめんなさい」
小さく掠れた声でつぶやき、フィンはうつむいた。その一言に詰め込まれた感情をひとつひとつ解きほぐして返事をするのは難しそうだ。
「フィンが無事でよかった」
ルートグーヴァは素直に感じたままを伝えた。フィンは顔を上げ、かすかに目を細めた。ようやく、フィンが生きている実感がわいてきた。ルートグーヴァは別の腕を伸ばし、フィンのもう一方の手を取った。
「嘘をついていてすまない。私たちにとって、あの宝玉はとても大切なものなんだ。どうしても必要だが、人間に私たちの存在を知られるわけにはいかない。今こうして話をしているのも、本当はよくない。秘密にしてくれるか」
「はい」
他に何を言わなければいけないだろう。フィンは人間だから、触れるだけでは伝わらない。
「フィンが死んでしまうかと思って、怖かった。会いたかったと言ってくれて、うれしかった」
事務的な調子になってしまったが、フィンはうなずいてくれた。
「ずっといっしょにいたいと思っていた。それだけは嘘じゃない。今も、そう思っている」
フィンはまたうなずいた。呆気なく言葉が尽きる。想いは頭の中を巡るばかりで形にならない。ルートグーヴァはフィンの手に腕を巻きつけ、そっと力を込めた。フィンがことんと首を傾げる。同じく体を傾けたルートグーヴァを見て、くすくす笑う。楽しいのかおかしいのかうれしいのか、判別できない。フィンはどこまでも透明で果てがない。
「で、話ついた?」
ハイドラストイエが胴にのしかかってくる。気配がちょっぴりよそよそしい。気を遣って触れずにいてくれたらしい。
「必要な話は終わった」
フィンは秘密にすると約束してくれたし、もう宝玉を探しはしないだろう。
「そっか。じゃあ、帰るぞ」
「ルート、帰っちゃうんですか」
フィンはルートグーヴァの腕を引き寄せて抱きしめた。
「いやです。そんなの、いやです」
「こいつ、なんて言ってる」
「嫌だ、と」
ルートグーヴァはハイドラストイエに海の言葉で答えた。
「嫌とかそういう話じゃないんだって。オレたちは陸じゃ生きられねぇんだよ。体が乾いてかぴかぴになっちまうだろ」
「でも、ルートに会いたかったです。ルートに会えました。僕、さびしいです。いやです」
フィンは片言の海語でハイドラストイエに訴えた。表情は変わらないが、感情が暗く沈んでいく。フィンはハイドラストイエからルートグーヴァに目を移し、力なく首を振った。
「……いやです」
火山、王、結界、避難している一族、置き去りにしてきた黒真珠。気になる事柄をあげれば切りがない。それらは結局、王への忠誠であり、責任感であり、長老たちの期待に対する義務感だ。疑いもなく抱えて生きてきた。捨て去れないが、見て見ぬふりはできる。
「ラス、私は陸に残る。帰らない」
「はぁ?」
フィンの悲しみを見て見ぬふりはできない。
「フィンといっしょにいる」
自分がいなくても、後始末は他の誰かがやる。やらねばならないからだ。不忠、無責任と誹りを受けてもいい。フィンといっしょにいたかった。
「ちょっと待て。帰んないって何。え、それ、お前、何、どーすんの。王様になんて言うんだよ。王様生きてるかどうかわかんねぇけど」
「追放でも願い出ておいてくれ」
「追放って自分からお願いするものか。違くねぇか。ってか、王様よりお前んとこのじーさんたちの方が問題じゃね? え、何、オレ、それやばくね? 絞め殺されるやつだろ。オレ死ぬじゃん」
「長老たちは理由なくよその種族に乱暴したりはしない。たぶん」
「理由がめちゃくちゃあるじゃねぇか! あと、たぶんってなんだ! たぶんって!」
「お願いします。ルートはここにいます。あなたがルートを連れていきます。いやです」
「連れてきたくても連れてけねぇよ。こいつの方がでかいし重いし力も強いし、それに」
ハイドラストイエはふいに口をつぐんだ。えら蓋をいっぱいに開けて盛大にため息をつく。今まで尖っていた気配が干からびたイソギンチャクのようにしぼんでいった。
「帰るわ。朝になって人間に見られたらやべぇし。嬢ちゃんたち出てきな」
ハイドラストイエはルートグーヴァの外套膜を持ち上げた。
「何よぅ。せっかく素敵な恋のお話だったのに」
「自分が失恋してばっかりだからって、嫉妬はよくないわよ」
「うるせぇ! くっついたり別れたりがちょっと多いだけで失恋ばっかしてるわけじゃねぇし、嫉妬もしてねぇ!」
ハイドラストイエは割れたドアへ歩いていく。またガラスを踏んだらしく、足の裏を気にしている。戸口で振り返り、フィンを指して何か言った。触れていないので、ルートグーヴァには聞こえない。フィンが「はい」と返事をし、ハイドラストイエは海に帰っていった。
「ラスはなんと言ったんだ」
フィンに合わせて人間の言葉で問う。
「お前の味方はしない、と言ったと思います。どういう意味ですか」
「私の味方をしてくれるんだ」
ルートグーヴァは腕を伸ばし、フィンを抱き寄せた。
「私が、しあわせになれるから」
手の甲を撫でると、フィンは目を細めた。先ほどハイドラストイエが空中に向かって怒っていたのはなぜかと問われたので、ルートグーヴァは泡沫の精霊の話をした。
「僕も見てみたいです」
「資質が必要らしいから、難しいかもしれない」
「これも、秘密の話ですか」
「そうしてくれ」
精霊たちがいなくなると、すぐにえらが乾き始める。ルートグーヴァは水分を求めて浴槽に入った。湯があふれ、床のガラス片を押し流す。月光を受けてきらきらと光る。
「淡水です。水温も高すぎます」
「平気だ。海に棲んではいるが、クラーケンは淡水でも生きられる。耐えられる水温の幅も、フィンが想像しているよりは広いと思う」
フィンはうなずいたが、完全には信じていないようだった。腕の先を握ったまま、ルートグーヴァを観察している。タコやイカと比較しているのだろう。なまじ知識があるので、まったく違う生き物だと理解するには時間がかかるかもしれない。
「痛いですか」
何かと思ったが、すぐに切り落とした腕の話だと思い至る。
「まだ少し。でも大丈夫だ。血は止まっている」
「生えてきますか」
タコの腕は再生する。その点はクラーケンも共通している。
「百年くらいかかるが、一応生えてくる」
「百年……ルートは長生きなんですね」
フィンは興味深そうにルートグーヴァの腕を撫でた。ルートグーヴァはフィンが怪我をしないよう、体を探って残っていたガラスを抜いた。湯を止めると、潮騒だけになる。
「フィン、首を見せてくれ」
あの晩、加減して締めたつもりだったが、跡が残ったらと案じていた。細い首には喉仏が浮いているだけで、ルートグーヴァは安心した。
ルートグーヴァとハイドラストイエが宝玉を持ち去った後、目を覚ましたフィンは警備員に助けを求めたらしい。窃盗事件なので警察が介入したが、被害届を出しただけだそうだ。
「警察の人も、すぐにあきらめました。僕が、うまく話せなかったからです」
事実をありのまま話しても、きっと信じてもらえない。どうすればいいのかと悩んでいるうちに聴取が終わったらしい。
「それで、ひとりで宝玉を探そうと思ったのか」
「いえ、あの珠のことは、あまり考えていませんでした。ルートに会いたかったんです。同じ場所に行けば、会えると思いました」
予想通り、フィンは事故に遭ったときの計器の数値を元に王国の場所を割り出していた。ルートグーヴァに会って、その後どうするかは考えていなかったと言う。
「さびしかったんです」
冷たい感情が腕の先から流れこんでくる。過去のさびしさを反芻してしまっているようだ。ルートグーヴァはフィンを抱きしめた。
「今はさびしくないだろう」
フィンがこくんとうなずく。
「私もさびしかった。フィンに会いたかった」
「今は、さびしくないですか」
「ああ。フィンがいるから、さびしくない」
フィンは息を吐き、ルートグーヴァにもたれた。フィンは安らいでいる。疲れていて、少し眠いようだ。ルートグーヴァは吸盤が引っかからないよう注意してフィンの背を撫でた。
「セックスするんですか」
そういえば、背中を撫でたら合図だった。交わればもっとフィンを知れるだろう。知りたいと強く思ったが、クラーケンの体は人間とはあまりに違う。
「フィンが嫌ならしない」
フィンの戸惑いが感じられ、ルートグーヴァは腕を引いた。クラーケンは人間に比べてずいぶん大きい。自分より大きな相手に恐怖を覚えるのは、どんな動物にも共通した本能だ。
「嫌じゃないです。でも、ルートが死んでしまうのは、嫌です」
今度はすぐに察しがついた。種類にもよるが、多くのタコは交尾を終えると死んでしまう。
「フィン、クラーケンとタコは違う生物だ」
「死なないですか」
「死なない」
「じゃあ、大丈夫ですね」
やはりタコと混同されている。根気よく訂正するしかないだろうが、時間はある。もう月の満ち欠けに怯えなくていい。
フィンは濡れて張りつく衣類と奮闘していた。ルートグーヴァはフィンが脱いだ服を浴槽の外に出し、眼鏡を安全な場所に避難させ、靴にたまった湯を捨ててそろえて置いた。裸になったフィンの腰に腕を回して抱き寄せる。人間の姿であればキスをしただろうが、クラーケンの体ではできない。残念に思っていると、目の横にキスをされて驚いた。
「今、どうしてキスをしたんだ」
「したかったからです」
同じ気持ちだったと思うと面映い。フィンはルートグーヴァに頬ずりした。フィンの匂いがする。味もわかる。甘くも苦くも辛くもない。未知の味が興味深く、ルートグーヴァはフィンの肌をじっくりと探った。
ルートグーヴァの腕が気になるようで、フィンはあちこちに目を向ける。触れられても嫌ではないらしい。戸惑いがちに身をよじるが、ルートグーヴァの好きにさせてくれた。
首の後ろに腕を這わせると、フィンが小さく声をもらした。ルートグーヴァは吸盤をひとつずつ動かし、フィンの肌をまさぐった。腕の先が乳首を掠め、フィンの気配が変わった。
「ん……っ」
乳首に吸盤を当てて吸い上げる。押しつぶして、また吸いつく。揉むように愛撫しているうちに、ふにふにとた触感がこりこりしたものに変わり、ほんのりと甘い味がした。フィンからは恐怖や不安は感じられない。ルートグーヴァはすべての腕をフィンの身体へ回した。
フィンの性器はまだやわらかい。腕を絡めたが、ルートグーヴァは動かなかった。クラーケンの姿では力加減がわからない。痛い思いはさせたくなかった。擦る代わりに、這わせた吸盤を順に吸いつかせる。
「あ……んぁっ」
フィンはルートグーヴァの腕にしがみつき、鼻にかかった声をもらした。腰が揺れている。湯面が波立ち、ぱしゃぱしゃと軽い音がした。切れ切れに浮かんでいた月明かりがさらに細かく砕かれ、砂金のように光る。
ルートグーヴァはフィンの脚の間に腕を差し込んだ。ゆっくりと撫でさする。陰嚢の裏あたりがいいようだ。吸盤で吸いつくと、フィンはルートグーヴァの腕を太腿でぎゅっと挟んだ。
「苦しくないだろう」
フィンは小さくうなずいた。表情はすっかり溶けくずれ、潤んだ目で訴えるようにルートグーヴァを見つめている。フィンの肌から読み取れるのは快楽だけだった。もっと気持ちよくしたい。フィンのいいところすべてに触って、もっと感じさせたい。
ルートグーヴァは腕をさらに先へ進めた。後孔は固く閉じ、腕の先を少し入れるだけで精一杯だ。幾度も抜き差しをくり返しながら、少しずつ中へ入っていく。フィンの体内は皮膚よりずっと熱かった。ルートグーヴァは襞の間まで丹念に探り、フィンの中を味わった。
「ッぁ、あ、あ……っ!」
人間の体で交わったときに見つけた箇所は、記憶より浅い。吸盤で吸い上げると、フィンの匂いや味が溶け出すように湯に広がった。寄る辺を求めて伸ばされた手を取り引き寄せる。フィンは半ば目を伏せ、恍惚とした表情を浮かべていた。腕を抜き去ると、不安そうに首を振る。
「……やめたら、いやです」
「やめない。ちゃんとしたいだけだ」
改めて触れたフィンの後孔は縁がふっくらと腫れていた。抵抗もなく、ルートグーヴァの交接腕を飲みこんでいく。吸盤がない分、感覚は劣る。人間のような性的快楽は得られない。それでも、交わるなら性器がよかった。
半ばまで抜き、再び埋め込む。とろけた秘肉がルートグーヴァの腕を包み込み、絞り上げる。これまでより深くに達すると、ねだるように腕にからみついてくる。
「ん、んっ……あっ」
フィンは喉を反らして喘いだ。きゅう、と腕の先を締めつけられる。
徐々に深く腕を進めていく。とん、と奥に突き当たり、フィンは一瞬息を詰めた。強く目をつむり、肩で息をしている。ルートグーヴァは交接腕の動きを止め、フィンの背をさすった。苦しみや痛みは感じていない。混乱しているだけのようだ。汗で張りついた髪を横へ流してやる。
「フィン、ゆっくり息をして。つらくないだろう」
フィンは震えながらうなずき、目を開いた。まつげで堰き止められていた涙が頬を伝い落ちる。ルートグーヴァは腕の先でフィンの目元を拭った。フィンの涙はおいしかった。海のように複雑で、海よりずっとやさしい味がする。湯に溶けてしまうのがもったいない。
フィンはルートグーヴァの頭部に頬を寄せた。吐息がかかってくすぐったい。フィンの涙は止まらないが、呼吸は多少落ち着いたようだ。ルートグーヴァは挿入している腕を少し引き、再び奥へと押し込んだ。
「はぁっ、あ、ルート……ッ、あ……っ、あぁっ」
甘い喘ぎの合間に名前を呼ばれる。フィンは痛いとも気持ちいいとも言わない。すべてをルートグーヴァに明け渡し、委ねている。あの夜もそうだった。
人間の体で交わったときはフィンを食べたいという衝動があったが、今はほとんど感じない。あのときは時間が足りなかった。焦燥だけが燻っていた。フィンを知りたくて、フィンに知ってもらいたくて、愛したくて、愛されたくて、干上がる寸前の潮だまりでもがいているようだった。食べてしまえば手に入れられると勘違いしていたのかもしれない。
「ルート……ルート」
左目の横にキスをされる。フィンの唇はやわらかい。キスをされるのはうれしいが、返せないのでつまらない。腕の先で唇に触れると、フィンは薄く口を開いた。ルートグーヴァの腕の先端を口に含んで吸う。ルートグーヴァが舌先を絡め取って吸盤で吸いつくと、後孔がきゅうきゅうと締まった。
「んっ……んぅう……ッ」
フィンが堪えきれないといった様子で首を振った。すすり泣き、浅い呼吸をくり返している。
「フィン、我慢しなくていい」
性器に絡めた腕をゆるく動かし、その先をうながす。ルートグーヴァが与える快楽が、フィンを巡って返ってくる。こんなに違う体の構造をしているのに、同じ感覚を共有している。不思議で、とても愛おしい。昇り詰めていく感覚に神経が揺さぶられる。ルートグーヴァはフィンを抱く腕に力を込めた。
「あっ、ぁ、ルート……あぁっ……――ッ」
フィンは声もなく果てた。湯の中に広がる精は束の間ルートグーヴァの皮膚に甘い刺激をもたらして四散する。フィンは達しながら幾度も体を跳ねさせた。射精したばかりの性器をルートグーヴァの吸盤に押しつけ、腰を動かしている。
ルートグーヴァが少し身じろぐだけでフィンは感じてしまうようだった。行為の余韻に溺れながら、ルートグーヴァの腕にすがりついている。ルートグーヴァは交接腕を引き抜き、フィンの体に這わせていた腕をそっと解いた。すっかり力が抜けてしまったフィンを抱き上げ、浴槽の縁に座らせる。フィンがくたりともたれてくる。
フィンの体には、ルートグーヴァの吸盤の痕がたくさん残っていた。無理をさせたと反省しつつも、フィンが自分のものになった気がしてうれしい。
「ルート」
フィンは今にも眠ってしまいそうだ。まばたきをしても、もう涙は落ちてこない。
「今夜は、いっしょにいてくれますか」
掠れた声で、フィンは途切れてしまった時間の続きにルートグーヴァを誘った。「今夜」と言うところがフィンらしい。慣れたやり取りをしたいのだろう。それが二人だけの密やかな決まり事だった。
ルートグーヴァの答えは決まっている。これから先、どんなに月が満ちても欠けても変わらない。
「ずっといっしょにいる」
ルートグーヴァが答えると、フィンはうれしそうに笑った。
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