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三
士鵠の家は、中庭を取り囲むように部屋が配置されている。門を向いて左回りに客間、物置、貯蔵庫と続き、台所、主室と思われる広い部屋、祖廟、施錠された小部屋、書庫を経て厩、厠、士鵠の居室、門へと戻る。一人で住むには広く、家族で住むには狭い。どこもほとんど掃除されていなかった。主室の寝台は埃をかぶっていたし、台所には調味料がこびりついた壺が転がっている。物置の天井は蜘蛛の巣が何層にも垂れ下がり、客間は戸を開けるだけで咳き込むほどだ。小間使い璃央の最初の仕事は掃除に決まった。
どうやら士鵠は特定の場所しか使っていないようだった。貯蔵庫にはしなびた大根が放置されている反面、かまどの灰は処理されている。書庫も隅の方にこそ砂がたまっていたが、竹簡や本のほこりは払われていた。
「お前のご主人、変わってるよな」
厩の脇で薪を割りながら、璃央は老馬に話しかけた。小間使いになって数日経ったが、士鵠と会話らしい会話をしたのは初日だけだ。士鵠はあまり部屋から出てこない。菜園の植物――野菜ではなく、薬草らしい――を摘んだり平たいざるで干したり、書庫や厠へ行ったりするくらいだ。一度だけ半日ほど出かけた日があったが、どこへ行くともいつ帰るとも言わずに出ていった。目が合っても士鵠から声をかけてくることはない。返事はなくても璃央を見てときどき耳を動かす分、馬の方が話し相手にふさわしい。
「小間使いに客間使わせるなんて聞いたことないぞ。仙人には普通なのか」
物置か台所で寝起きすると思っていたのに、客間を使えと言われた。門から中庭への通路を挟み、士鵠の居室と向かい合っている。もちろん客間の方が広い。そもそも、士鵠が使用人部屋にいるのがおかしい。よほど使い勝手のいい部屋なのか。あるいは、他に何か理由があるのか。
斧を振り下ろす。カコン、と気持ちのいい音が響いて薪が割れる。璃央は次の薪を置きながら、士鵠の部屋へ目をやった。絶対に入るなと言われているので、中の様子はわからない。もうひとつ、祖堂と書庫の間の小部屋も入室を禁じられた。その部屋だけ壁が漆喰で塗り固められ、扉には鉄の錠がかかっている。改めて見ると、何かを守っているような様子だ。金丹だろうか。
老馬が鼻を鳴らす。
「開けないよ」
斧を振り上げる。
「子どもの頃、母さんの友だちが客取ってる部屋を開けてすげぇ怒られたんだ。だから、開けるなって言われたところは絶対開けない」
狙いが外れ、薪は斜めに割れた。
昼が近くなったので、璃央は食事の支度を始めた。この数日で選別した無事そうな青菜と干し肉を、同じく無事そうな醤で炒める。野菜は壊滅的だったのに、肉はきちんと処理され保存されているのが不思議だ。卵を溶いて湯に落とし、塩で味をつければ汁もできた。
「士鵠様、昼ご飯できました」
「置いておけ」
盆に載せて部屋の前で声をかけると、昨日と同じ返事だった。璃央は椅子に盆を置いてその場を離れる。椅子は客間から持ってきた。食事を地べたに置くのはどうにも気が引ける。子どもの頃は家が貧しく椅子さえなかったが、食べ物は必ず低い卓の上にあった。
「食べ物がないとあたしたちは生きられないんだよ。だから、食べ物は大事にするんだよ」
母はよくそう言っていた。
しばらくして様子を見にいくと、麦の一粒まできれいに食べられた食器が椅子の上に置いてあった。よかった。今日も口に合ったようだ。この調子なら少なくとも料理の不出来を理由に追い出されはしないだろう。
右を向いても左を向いても眠れない。目を開けたら真っ暗だった。腕を伸ばしたら寝台から飛び出て手が浮いた。胸の前で手を組んで体を丸める。ひとりだ。誰もいない。ひとりぼっちだ。ひとりは嫌だ。うまく息ができなくなる。璃央は上着をつかみ、履を引っかけて外へ飛び出した。
冷気が頬を刺した。こぼれそうなほどの星がぼんやりと辺りを照らしている。璃央は上着に袖を通し、履をきちんと履き直した。中庭を横切っていくと、老馬が顔を上げる。
「いっしょに寝ていいか」
情けない声に、老馬は鼻を鳴らしただけだった。璃央は横木をくぐり、寝藁を集めて腰を下ろした。老馬にもたれると、鼻先を押しつけられた。分厚い唇で髪や頬を食まれる。
「ありがとな。大丈夫だよ」
璃央はゆっくりと息を吐いた。強張っていた体から力が抜けていく。自分以外の呼吸と体温に不安が薄らいだ。目をつむるとすぐに睡魔がやってくる。
ガシャン、と金属の音が響いて目を覚ます。白い影が視界を横切っていく。寝ぼけた目では輪郭が定まらず、璃央は三度まばたきをして、ようやく影が士鵠だと認識した。
士鵠は髪を解いていた。背に流れる黒髪は夜を吸って重たげだ。手にした灯火が燃えるぶすぶすという音が聞こえる。
「何をしている」
士鵠は璃央に気づき、少し驚いたようだった。眉間の皺をさらに深くして、こちらへ歩いてくる。士鵠は素足だった。着物も昼間と違う。木綿の単衣で、いかにも仙人らしい格好だ。
「そんなにこいつが気に入ったのか」
「馬は好きっす。賢いし、やさしいから」
「お前に言ったんじゃない」
ぴしゃりと言われ、璃央は口をつぐんだ。自分でなければ誰にと思ったが、聞ける雰囲気ではない。老馬が鼻をすり寄せてくるので、撫でてやった。
「部屋を貸してやっただろう。どうして厩にいるんだ」
今度は璃央に話しかけているらしい。
「ひとりで寝るの苦手なんです」
十九にもなってひとりで眠るのが怖いと言うのは恥ずかしかったが、士鵠には適当な嘘が通用しなさそうだった。
「家でもよくこうして厩で寝てました」
「家でも? そんな奇行、家族がよく許したな。貴族の坊ちゃんなんだから、眠れないなら家妓でも使用人でも供寝させられるだろう」
「無理ですよ、俺なんか……あれ、どうして家のこと」
「勅書に素性が書かれていた。董家とやらがどれほどのものか知らないが、お前の父親の肩書を見ればだいたいの想像がつく」
董家は古くから皇帝の一族に仕え、政治の中枢を担ってきた。父の名を聞けばたいていの人間は居住まいを正す。十以上もある官位役職は飾りではない。父には実際に行使できる権力があり、財力がある。誰もが父の機嫌をうかがい、顔色を見ている。兄たちばかりか妾の子である璃央にまで媚びを売る官吏もいる。
璃央は新鮮な思いで士鵠を見上げた。士鵠は父が怖くないのだ。皇帝さえ恐れないのだから当然だろうが、璃央には天地が逆さまになるような衝撃だった。璃央は父が怖い。蔑むような冷たい目を向けられると、足がすくんで動けなくなる。いつも無言のまま叱責されている気がする。言葉をかけられたことはほとんどなく、今回の旅も出立前の挨拶に返事はなかった。
「お前、本当に貴族の息子か」
「本当ですってば。そう見えないかもしれないけど」
疑われるのも無理はない。士鵠が言う通り、貴族の息子は厩で寝ないだろう。士鵠の疑念を払わなければならない。せっかく小間使いになったのに、追い出されたら金丹から遠ざかってしまう。
「俺は士鵠様が考えているようなお坊ちゃんじゃないです。俺は元々」
「嘘をついていないならそれでいい。お前の身の上なんか聞きたくない」
強い口調で遮られ、璃央は黙るしかなかった。士鵠は踵を返し、戸の閉まる音が聞こえた。
「あーあ、失敗した」
士鵠から近づいて話してくれたのは初めてだ。何か気の利いた話ができれば、少しは好感を持ってもらえたかもしれない。
「お前のご主人、どんな話したらよろこぶんだ」
老馬は鼻を鳴らして首を振る。
「そうだよな、わかんないよな」
わかったとしても、うまく話せる気がしない。
掃除を終え、璃央は中庭に筵を敷いて腰を下ろした。膝の上に巻子を広げ、指先で一行ずつなぞりながら読み進める。文章を読むのは苦手だ。下っ端倉庫係の璃央に届く竹簡はすべて箇条書きなので、読むのに困らない代わりに練習にもならない。家にある書物は父と兄たちのもので、璃央は指一本触れられなかった。次兄のように難しい書をすらすら暗唱したり、美しい詩を作ったりできたらどんなにいいだろう。父も少しは興味を持ってくれるかもしれない。
巻子は書庫から借りてきた。はじめの数日は朝から晩まで掃除をしていたが、一通りほこりを払って床を磨いたら毎日大掃除をする必要はなくなった。今は馬の世話や料理の合間に勉強している。士鵠に薬作りの手伝いをさせてもらえなかったからだ。金丹のためにはもっと働かなければならないのに、知識不足を理由に断られてしまった。
「教えてもらえばできるようになります。がんばります」
「どうして俺がお前に教えてやらなければならないんだ」
「じゃあ、書庫の巻子とか竹簡とか貸してください」
問答の末、汚さない、壊さない、元の場所に戻す、小間使いの仕事を優先する、という四点を条件に書物の持出しは許された。
それほど読み進めないうちに首周りが痛くなり、璃央は空を見上げた。書物を前にするとどうしても体に変な力が入 ってしまう。
いい天気だ。風もなく、日の当たる場所は暖かい。目を凝らさないとわからないくらいの速度で雲が流れていく。あの雲の向こう、空のもっと高い場所に仙人の国がある。士鵠も行ったのだろうか。どうして地上へ帰ってきたのだろう。簡単に行き来ができるのだろうか。そう言えば、士鵠が空を飛んでいるところはまだ見ていない。一度くらい見てみたいが、頼んでも見せてくれないだろう。
璃央は伸びをして錠のかかった部屋を振り返った。金丹はあの部屋で作られているはずだ。仙人が鍵をかけてしまうほど大切なものと言えば、金丹に決まっている。士鵠の部屋も入室を禁じられているが、鍵はかけられていない。
金丹を作る部屋には香を絶やしてはいけないと巻子の頭の方に書かれていた。入室の前には身を清め、衣服や履物を新品にする必要があるそうだ。数日前の夜、士鵠は白い衣を着ていた。金丹作りの正装なのだろう。さらに部屋は東向きでなければならず、鶏や犬などに見られてはいけないらしい。
璃央はもう一度空を見上げた。太陽の位置を確かめ、部屋を振り返る。南向きだ。中庭では鶏が闊歩している。本当にあの部屋で金丹を作っているのだろうか。
「ごめんください」
門に人影が見え、璃央は巻子を置いて立ち上がった。籠を背負った野良着の男がお辞儀をする。籠には柴ときのこが入っていた。麓の村人だろう。
「お役人様、こんにちは。士鵠様はおるかね」
「います。ちょっと待っててください」
璃央が士鵠の小間使いになった話は、いつの間にか村中に知れ渡っていた。村から士鵠の家は決して近くないが、三日と空けず誰かがやってくる。皆、士鵠に薬を作ってもらっているらしい。
「士鵠様、村の人です」
いつしか、士鵠が来客に気づかないときは璃央が取り次ぐようになっていた。戸を叩くと士鵠が顔をのぞかせ、村人を見て部屋に引っ込んだ。蓋がついた素焼きの壺を持って出てくる。
「衛のやつのもいっしょに」
「わかった。待っていろ」
今度は口を縛った麻の袋だ。
「士鵠様、次はいつ村に来るかね」
「決めてはいないが、雪が降る前には一度行く」
「そりゃいい。みなに言わねば」
村人は士鵠に礼を言い、冬瓜をひとつ置いていった。士鵠の食料はこうしてまかなわれている。士鵠は村人が何を差し出しても黙って受け取る。麦が一握りでも、虫食いだらけの菜っ葉でもだ。無言で受け取られた冬瓜は、無言で璃央の手に渡った。立派な冬瓜だ。ずしりと重い。
「薬を渡すだけなら、俺やりますよ」
「不要だ」
「士鵠様がいないときはどうするんですか」
「みんな出直してくるから放っておけばいい」
簡単に言うが、村からここまで登ってくるのは大変だ。いくら芝刈りのついでとは言え、門前払いは心苦しい。
「士鵠様は空が飛べるからいいかもしれないけど、村の人たちは」
最後まで話す間もなく戸が閉まる。璃央は冬瓜を抱えて立ち尽くした。弟子の老人は士鵠をやさしいと言ったが、とてもそうは思えない。これまで士鵠ひとりのときは、村人たちは出直すしかなかった。今は璃央がいるのだから、不便を強いなくてもいいはずだ。
璃央は唇を尖らせた。士鵠は璃央に薬を触らせたくないのだろう。大嫌いな皇帝の使いで、何の知識もないよそ者だ。信用されないのも仕方ない。結局璃央にできるのは、たくさん書を読んで知識をつけ、士鵠の信用を得るために一生懸命働くことだけだ。果ての見えない道のりに心が沈むが、落ち込んでいても始まらない。璃央は冬瓜を抱えて貯蔵庫へ向かった。刃さえ入れなければ冬瓜は日持ちする。冬に備えて蓄えておこう。
どうやら士鵠は特定の場所しか使っていないようだった。貯蔵庫にはしなびた大根が放置されている反面、かまどの灰は処理されている。書庫も隅の方にこそ砂がたまっていたが、竹簡や本のほこりは払われていた。
「お前のご主人、変わってるよな」
厩の脇で薪を割りながら、璃央は老馬に話しかけた。小間使いになって数日経ったが、士鵠と会話らしい会話をしたのは初日だけだ。士鵠はあまり部屋から出てこない。菜園の植物――野菜ではなく、薬草らしい――を摘んだり平たいざるで干したり、書庫や厠へ行ったりするくらいだ。一度だけ半日ほど出かけた日があったが、どこへ行くともいつ帰るとも言わずに出ていった。目が合っても士鵠から声をかけてくることはない。返事はなくても璃央を見てときどき耳を動かす分、馬の方が話し相手にふさわしい。
「小間使いに客間使わせるなんて聞いたことないぞ。仙人には普通なのか」
物置か台所で寝起きすると思っていたのに、客間を使えと言われた。門から中庭への通路を挟み、士鵠の居室と向かい合っている。もちろん客間の方が広い。そもそも、士鵠が使用人部屋にいるのがおかしい。よほど使い勝手のいい部屋なのか。あるいは、他に何か理由があるのか。
斧を振り下ろす。カコン、と気持ちのいい音が響いて薪が割れる。璃央は次の薪を置きながら、士鵠の部屋へ目をやった。絶対に入るなと言われているので、中の様子はわからない。もうひとつ、祖堂と書庫の間の小部屋も入室を禁じられた。その部屋だけ壁が漆喰で塗り固められ、扉には鉄の錠がかかっている。改めて見ると、何かを守っているような様子だ。金丹だろうか。
老馬が鼻を鳴らす。
「開けないよ」
斧を振り上げる。
「子どもの頃、母さんの友だちが客取ってる部屋を開けてすげぇ怒られたんだ。だから、開けるなって言われたところは絶対開けない」
狙いが外れ、薪は斜めに割れた。
昼が近くなったので、璃央は食事の支度を始めた。この数日で選別した無事そうな青菜と干し肉を、同じく無事そうな醤で炒める。野菜は壊滅的だったのに、肉はきちんと処理され保存されているのが不思議だ。卵を溶いて湯に落とし、塩で味をつければ汁もできた。
「士鵠様、昼ご飯できました」
「置いておけ」
盆に載せて部屋の前で声をかけると、昨日と同じ返事だった。璃央は椅子に盆を置いてその場を離れる。椅子は客間から持ってきた。食事を地べたに置くのはどうにも気が引ける。子どもの頃は家が貧しく椅子さえなかったが、食べ物は必ず低い卓の上にあった。
「食べ物がないとあたしたちは生きられないんだよ。だから、食べ物は大事にするんだよ」
母はよくそう言っていた。
しばらくして様子を見にいくと、麦の一粒まできれいに食べられた食器が椅子の上に置いてあった。よかった。今日も口に合ったようだ。この調子なら少なくとも料理の不出来を理由に追い出されはしないだろう。
右を向いても左を向いても眠れない。目を開けたら真っ暗だった。腕を伸ばしたら寝台から飛び出て手が浮いた。胸の前で手を組んで体を丸める。ひとりだ。誰もいない。ひとりぼっちだ。ひとりは嫌だ。うまく息ができなくなる。璃央は上着をつかみ、履を引っかけて外へ飛び出した。
冷気が頬を刺した。こぼれそうなほどの星がぼんやりと辺りを照らしている。璃央は上着に袖を通し、履をきちんと履き直した。中庭を横切っていくと、老馬が顔を上げる。
「いっしょに寝ていいか」
情けない声に、老馬は鼻を鳴らしただけだった。璃央は横木をくぐり、寝藁を集めて腰を下ろした。老馬にもたれると、鼻先を押しつけられた。分厚い唇で髪や頬を食まれる。
「ありがとな。大丈夫だよ」
璃央はゆっくりと息を吐いた。強張っていた体から力が抜けていく。自分以外の呼吸と体温に不安が薄らいだ。目をつむるとすぐに睡魔がやってくる。
ガシャン、と金属の音が響いて目を覚ます。白い影が視界を横切っていく。寝ぼけた目では輪郭が定まらず、璃央は三度まばたきをして、ようやく影が士鵠だと認識した。
士鵠は髪を解いていた。背に流れる黒髪は夜を吸って重たげだ。手にした灯火が燃えるぶすぶすという音が聞こえる。
「何をしている」
士鵠は璃央に気づき、少し驚いたようだった。眉間の皺をさらに深くして、こちらへ歩いてくる。士鵠は素足だった。着物も昼間と違う。木綿の単衣で、いかにも仙人らしい格好だ。
「そんなにこいつが気に入ったのか」
「馬は好きっす。賢いし、やさしいから」
「お前に言ったんじゃない」
ぴしゃりと言われ、璃央は口をつぐんだ。自分でなければ誰にと思ったが、聞ける雰囲気ではない。老馬が鼻をすり寄せてくるので、撫でてやった。
「部屋を貸してやっただろう。どうして厩にいるんだ」
今度は璃央に話しかけているらしい。
「ひとりで寝るの苦手なんです」
十九にもなってひとりで眠るのが怖いと言うのは恥ずかしかったが、士鵠には適当な嘘が通用しなさそうだった。
「家でもよくこうして厩で寝てました」
「家でも? そんな奇行、家族がよく許したな。貴族の坊ちゃんなんだから、眠れないなら家妓でも使用人でも供寝させられるだろう」
「無理ですよ、俺なんか……あれ、どうして家のこと」
「勅書に素性が書かれていた。董家とやらがどれほどのものか知らないが、お前の父親の肩書を見ればだいたいの想像がつく」
董家は古くから皇帝の一族に仕え、政治の中枢を担ってきた。父の名を聞けばたいていの人間は居住まいを正す。十以上もある官位役職は飾りではない。父には実際に行使できる権力があり、財力がある。誰もが父の機嫌をうかがい、顔色を見ている。兄たちばかりか妾の子である璃央にまで媚びを売る官吏もいる。
璃央は新鮮な思いで士鵠を見上げた。士鵠は父が怖くないのだ。皇帝さえ恐れないのだから当然だろうが、璃央には天地が逆さまになるような衝撃だった。璃央は父が怖い。蔑むような冷たい目を向けられると、足がすくんで動けなくなる。いつも無言のまま叱責されている気がする。言葉をかけられたことはほとんどなく、今回の旅も出立前の挨拶に返事はなかった。
「お前、本当に貴族の息子か」
「本当ですってば。そう見えないかもしれないけど」
疑われるのも無理はない。士鵠が言う通り、貴族の息子は厩で寝ないだろう。士鵠の疑念を払わなければならない。せっかく小間使いになったのに、追い出されたら金丹から遠ざかってしまう。
「俺は士鵠様が考えているようなお坊ちゃんじゃないです。俺は元々」
「嘘をついていないならそれでいい。お前の身の上なんか聞きたくない」
強い口調で遮られ、璃央は黙るしかなかった。士鵠は踵を返し、戸の閉まる音が聞こえた。
「あーあ、失敗した」
士鵠から近づいて話してくれたのは初めてだ。何か気の利いた話ができれば、少しは好感を持ってもらえたかもしれない。
「お前のご主人、どんな話したらよろこぶんだ」
老馬は鼻を鳴らして首を振る。
「そうだよな、わかんないよな」
わかったとしても、うまく話せる気がしない。
掃除を終え、璃央は中庭に筵を敷いて腰を下ろした。膝の上に巻子を広げ、指先で一行ずつなぞりながら読み進める。文章を読むのは苦手だ。下っ端倉庫係の璃央に届く竹簡はすべて箇条書きなので、読むのに困らない代わりに練習にもならない。家にある書物は父と兄たちのもので、璃央は指一本触れられなかった。次兄のように難しい書をすらすら暗唱したり、美しい詩を作ったりできたらどんなにいいだろう。父も少しは興味を持ってくれるかもしれない。
巻子は書庫から借りてきた。はじめの数日は朝から晩まで掃除をしていたが、一通りほこりを払って床を磨いたら毎日大掃除をする必要はなくなった。今は馬の世話や料理の合間に勉強している。士鵠に薬作りの手伝いをさせてもらえなかったからだ。金丹のためにはもっと働かなければならないのに、知識不足を理由に断られてしまった。
「教えてもらえばできるようになります。がんばります」
「どうして俺がお前に教えてやらなければならないんだ」
「じゃあ、書庫の巻子とか竹簡とか貸してください」
問答の末、汚さない、壊さない、元の場所に戻す、小間使いの仕事を優先する、という四点を条件に書物の持出しは許された。
それほど読み進めないうちに首周りが痛くなり、璃央は空を見上げた。書物を前にするとどうしても体に変な力が入 ってしまう。
いい天気だ。風もなく、日の当たる場所は暖かい。目を凝らさないとわからないくらいの速度で雲が流れていく。あの雲の向こう、空のもっと高い場所に仙人の国がある。士鵠も行ったのだろうか。どうして地上へ帰ってきたのだろう。簡単に行き来ができるのだろうか。そう言えば、士鵠が空を飛んでいるところはまだ見ていない。一度くらい見てみたいが、頼んでも見せてくれないだろう。
璃央は伸びをして錠のかかった部屋を振り返った。金丹はあの部屋で作られているはずだ。仙人が鍵をかけてしまうほど大切なものと言えば、金丹に決まっている。士鵠の部屋も入室を禁じられているが、鍵はかけられていない。
金丹を作る部屋には香を絶やしてはいけないと巻子の頭の方に書かれていた。入室の前には身を清め、衣服や履物を新品にする必要があるそうだ。数日前の夜、士鵠は白い衣を着ていた。金丹作りの正装なのだろう。さらに部屋は東向きでなければならず、鶏や犬などに見られてはいけないらしい。
璃央はもう一度空を見上げた。太陽の位置を確かめ、部屋を振り返る。南向きだ。中庭では鶏が闊歩している。本当にあの部屋で金丹を作っているのだろうか。
「ごめんください」
門に人影が見え、璃央は巻子を置いて立ち上がった。籠を背負った野良着の男がお辞儀をする。籠には柴ときのこが入っていた。麓の村人だろう。
「お役人様、こんにちは。士鵠様はおるかね」
「います。ちょっと待っててください」
璃央が士鵠の小間使いになった話は、いつの間にか村中に知れ渡っていた。村から士鵠の家は決して近くないが、三日と空けず誰かがやってくる。皆、士鵠に薬を作ってもらっているらしい。
「士鵠様、村の人です」
いつしか、士鵠が来客に気づかないときは璃央が取り次ぐようになっていた。戸を叩くと士鵠が顔をのぞかせ、村人を見て部屋に引っ込んだ。蓋がついた素焼きの壺を持って出てくる。
「衛のやつのもいっしょに」
「わかった。待っていろ」
今度は口を縛った麻の袋だ。
「士鵠様、次はいつ村に来るかね」
「決めてはいないが、雪が降る前には一度行く」
「そりゃいい。みなに言わねば」
村人は士鵠に礼を言い、冬瓜をひとつ置いていった。士鵠の食料はこうしてまかなわれている。士鵠は村人が何を差し出しても黙って受け取る。麦が一握りでも、虫食いだらけの菜っ葉でもだ。無言で受け取られた冬瓜は、無言で璃央の手に渡った。立派な冬瓜だ。ずしりと重い。
「薬を渡すだけなら、俺やりますよ」
「不要だ」
「士鵠様がいないときはどうするんですか」
「みんな出直してくるから放っておけばいい」
簡単に言うが、村からここまで登ってくるのは大変だ。いくら芝刈りのついでとは言え、門前払いは心苦しい。
「士鵠様は空が飛べるからいいかもしれないけど、村の人たちは」
最後まで話す間もなく戸が閉まる。璃央は冬瓜を抱えて立ち尽くした。弟子の老人は士鵠をやさしいと言ったが、とてもそうは思えない。これまで士鵠ひとりのときは、村人たちは出直すしかなかった。今は璃央がいるのだから、不便を強いなくてもいいはずだ。
璃央は唇を尖らせた。士鵠は璃央に薬を触らせたくないのだろう。大嫌いな皇帝の使いで、何の知識もないよそ者だ。信用されないのも仕方ない。結局璃央にできるのは、たくさん書を読んで知識をつけ、士鵠の信用を得るために一生懸命働くことだけだ。果ての見えない道のりに心が沈むが、落ち込んでいても始まらない。璃央は冬瓜を抱えて貯蔵庫へ向かった。刃さえ入れなければ冬瓜は日持ちする。冬に備えて蓄えておこう。
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日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。