仙人様、小間使いいりませんか?

タウタ

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膝の上に巻子を広げ、一字ずつ指でたどっていく。少しは読書にも慣れたと思っていたが、遊明と暮らしている間に元に戻ってしまったようだ。今は薬効がある植物の図鑑を読んでいる。解説の隣に絵が描かれているが、どれも初めて目にする植物ばかりだ。
満月の日に一晩だけ咲く花の花粉は眼病に効くらしい。目が悪くなってからでは取りにいけないな、と思った。
「駄目だぞ」
 膝をつついて餌をねだる鶏を手で追いやったら、どこを読んでいたかわからなくなってしまった。璃央は軽く息をつき、空を見上げた。
 この空の下には、何人くらい仙人がいるのだろう。皇帝の権力をもってしても見つからないのだから、きっと少ないに違いない。どこかに璃央を歓迎してくれる仙人がいないかと考えたこともあったが、そんな都合のいい仙人は璃央の足で行ける範囲にはいなさそうだ。どんなに気難しくても、士鵠が一番近くにいる。
「ここでがんばるしかないよな」
「そうだ、がんばれがんばれ」
「うわっ」
 視界いっぱいに人の顔が広がり、璃央は後ろへひっくり返った。老人はおかしそうに笑い、起き上がった璃央の背をはたいてくれた。
「驚いたか」
「そりゃ驚きますよ。そうだ、この前はありがとうございました。おじいさんが元気づけてくれたから、士鵠様と話せました」
「士鵠様は聞いてくれただろう」
「なんとか追い出されずにすんでます。おじいさんは許してもらえたんスか」
「いや、それは、うん」
 老人は忙しなく髭を撫でて目を逸らした。
「士鵠様いませんよ。朝から出かけてます」
「知っておる。だから来たのだ」
 許してもらう気はなさそうだ。早く謝った方がいいと思ったが、士鵠を怒らせ続けている璃央に偉そうなことは言えない。
「ところで、何を読んでいる。ほほう、懐かしいなぁ。おれも何遍も読んだ。璃央は植物が好きか」
「好きってほどじゃないっす。でも、薬草に詳しくなったらもっと士鵠様の手伝いができるかもしれないし、役に立てたら金丹をもらえるかもしれないじゃないですか」
「おまえ、自分で金丹を作ろうとは思わんのか」
 老人はことんと首を傾けた。想像もしなかった問いかけに、璃央は一瞬呆気にとられた。
「そんなの無理っすよ」
 金丹の材料は主に鉱物で、植物よりもさらに璃央にはなじみがない。仮に材料を理解できたとしても、集める資金も手立てもない。しかも、金丹は書物に記された通りに作っても完成しないらしい。秘伝中の秘伝なので隠語や暗号が多用されているそうだ。すべてを解読しても、口伝される決定的な一点がわからなければ意味がない。士鵠が言っていた。
「俺には難しすぎます。師匠だっていないのに」
「士鵠様に弟子入りしてはどうだ」
 璃央は信じられない思いで老人を見上げた。さっきから突拍子もない話ばかりだ。
「なあ、おれの弟弟子にならんか。おれが手取り足取り面倒を見てやるぞ」
 老人はさも璃央が弟子になれるように話すが、なれるはずはない。璃央は首を振った。
「こんな何もできない弟子いらないですって。それに、俺は金丹もらったら皇帝陛下に献上するんです。士鵠様が許してくれるはずないっすよ」
 無能な弟子よりは有能な小間使いとして働いて、士鵠から金丹をもらう方がよほど可能性がある。
「いかんいかん、もっと大きく物事を見よ。若いうちから縮こまってどうするのだ」
 大きく、なんて言われても困る。目の前にある書物を読むので精一杯だ。物事を大きく見るという意味さえよくわからないし、仮に大きく見えてもどうにもできない。璃央にはなんの力もない。
「帰りたいか」
 老人は妙にやさしい声で聞いた。小さな丸い目がきらきらと光っている。
「帰りたいけど、帰れないです」
 金丹がなければ帰れない。
「帰りたいのはよいことだ。心を据える場所がある」
 璃央はうなずけなかった。董の家で心を据えられた記憶はない。塀の内側はいつも息苦しい。誰も彼もが璃央をまともに見ないが、誰も彼もが璃央をにらんでいる。帰りたいはずなのに、董家に帰ると思うと心が重くなる。金丹がないからだ。金丹さえ手に入れば、きっと意気揚々と帰れるだろう。
「たのもう!」
 大きな声が響き、璃央は反射的に立ち上がった。首を伸ばすと、門を塞ぐような大男が立っている。
「士鵠様はおいでか!」
「おう、おるぞおるぞ。入るがよい」
 璃央が止める間もなく、老人が勝手に返事をする。
「これは士鵠様! あのときは世話になり申した!」
 男は大股に歩いてきた。息が詰まるような獣の匂いがする。男が着ている毛皮のせいではなく、背に担いだ猪が原因だろう。中庭の真ん中に置かれた猪は丸々と太っていた。鼻先から尻まで、何尺何寸あるだろう。とても一人で運べるようには見えないが、男は疲れた素振りもなく笑っている。
「今朝仕留めたばかりです。血抜きは終わっております。これで恩返しになりましょうや」
「なるもならぬも、あと三度、いや、五度は助けてやらねばなぁ。脚の具合はどうだ」
「この通り!」
 男はぱんと小気味よい音を立てて腿を叩いた。
「そうかそうか。ならばよい。なんぞあれば呼べよ。この辺りにいれば聞こえるだろうて」
「心強いお言葉! しかし、あんな痛い思いはもう御免です」
「はっはっは、そうだろうな」
 男は老人に何度も頭を下げ、最後はちょっと璃央にも頭を下げて去っていった。璃央はわけもわからず猪と老人を見比べた。
「崖から落ちて脚をやられたのを助けてやったのよ。そのときちょいと士鵠様の名を拝借してな。そうしたら怒らせてしまった」
「それくらいで士鵠様が怒ると思えないっすけど」
「うん、まあ、そういうのを二度三度とやったからな」
 呆れた。なぜ自分の名を名乗らないのだろう。
「俺が言うのも変だけど、早く謝った方がいいっすよ」
 あまりに呆れたせいか、黙っていたものがもれた。
「うん、そうだな。だが、今日のところは退散しよう」
 老人はちらりと空に目をやり、袖を振った。つむじ風が起こり、砂ぼこりが舞う。璃央は咄嗟に目をつぶった。風が収まって辺りを見回すと、老人の姿はなくなっていた。猪だけが同じ場所にある。猟師は老人に食べてもらおうと猪を獲っただろうに、食べずに行ってしまうのか。何より、大きな獣をどうにかするのに手を貸してほしかった。
 璃央は猪の周りをぐるりと歩いた。どうすればいいだろう。璃央が捌いた経験のある一番大きな動物は犬だが、市場では頭も内臓も皮もない状態で売られていた。毛皮をまとった猪なんて手も足も出ない。璃央は猪をもう一周した。とにかく皮を剥ごうと思って厨から包丁を持ってきたが、とても歯が立たず鉈や斧を追加する。ここまで大きな動物の場合、皮より先に四肢を落とすのが正解かもしれない。
「何をしている」
 やってみなければ始まらないとばかりに斧を振り上げたとき、士鵠が中庭へ入ってきた。
「おかえりなさい、士鵠様」
「その猪、どうしたんだ」
「もらいました」
 老人の話を出すと士鵠が不機嫌になるかもしれないので、以前士鵠の薬で助かった猟師が置いていったと濁しておく。麓の村だけでなく、近辺に住む人々は何らかの形で士鵠の薬の世話になっているだろう。士鵠は眉根を寄せたが追求はしなかった。
「血抜きは終わっているのか。わかった。できるだけ大きな壺や皿を持ってこい。筵もいるな。それから、桶に水を入れてこい」
 璃央が言われたものを取ってくると、ちょうど士鵠が自室から出てきた。袖をまとめ、鞘にも柄にも珍しい彫刻を施した小刀を持っている。士鵠が鞘を払うと銀色の刃が光った。刃先数寸にわたって細かな溝がついている。士鵠は猪の喉に小刀を刺し、腹側へ向かって切り込みを入れた。包丁ではどうしようもなかった皮も肉もさくりと切れる。顔と首へ別の切り込みを入れると、士鵠は小刀を置いた。慌てて目を背けた璃央の耳に、バキン、と嫌な音が響いた。
「おい、腹を上にするから手伝え」
 恐る恐る顔を戻すと、地面に置かれた猪の頭と目が合った。なるべくそちらを意識しないように、璃央は猪の脚を持った。猪が倒れないよう固定する。仰向けになった猪の腹に小刀が入り、布を断つようにまっすぐ開かれていく。そこを持っていろと指され、璃央は脂で光る猪の皮を押さえた。白いのは骨だろうか。
「動物の内臓を使う薬もあるんですよね。本で読みました」
 気を落ち着けるため、なんでもいいから話をしたかった。
「肝や心臓はときどき俺も使う」
「動物も捌けなきゃいけないなんて、仙人って大変っすね」
 動物の捌き方を覚えたら士鵠の役に立つだろうかと考えたが、先ほどのバキンが耳の奥で再生された。覚える前から挫けそうだ。
「いけなくはないし、できない仙人もいるだろう。少なくともお師様はできない。いつも俺に寄越していく」
「お師様?」
「会っただろう。白い着物を着た長い髭の老人だ。あれが俺の師匠、泛蕩(はんとう)仙人だ」
 璃央は目を見開いた。
「え、あのおじいさん、士鵠様の弟子って言ってましたけど」
「そういう冗談が好きなんだ、あの人は」
「冗談?」
 冗談にしては行き過ぎていないだろうか。振り返れば一ヶ月以上騙されている。
「どうして騙されるんだ。どう見たって仙人の格好をしているだろう」
「そりゃ、すごく仙人らしいなって思いましたけど、初めて会ったおじいさん疑うわけないじゃないっすか」
 反論したが、声は次第に小さくなった。見た目以外も、老人はとても仙人らしかった。誰もいない山道に急に現れたし、飲み干されてしまったはずの水筒が満ちていた。急に姿を消したり、細い枝に立ったりした。今になって、騙される方がおかしな気がしてきた。
「ちょ、ちょっと待って。おじいさんが仙人でお師匠なら、士鵠様は」
「俺は仙人じゃない」
 頭が真っ白になった。士鵠にも騙されていたのか。
「言っておくが、俺は嘘をついていないからな。お師様といっしょにするなよ」
「でも、仙人って、違うって、言ってない」
 話す力がこそげ落ちたようだ。それ以上の言葉は出てこず、璃央は岸に打ち上げられた魚のように口を開けたり閉じたりしていた。
「訂正しなかっただけだろう。嘘はついていない」
 士鵠は仙人ではなかった。確かに仙人だと名乗られた覚えはない。真っ白だった頭の中でこの一ヶ月の記憶が走り出す。決意とともに旅立った。なんとか小間使いにしてもらって、怒らせても呆れさせてもしがみついてがんばってきた。
「き、金丹は? 金丹は、ある?」
 仙人でないなら、士鵠は金丹を飲んでいない。金丹はあるのか。ないのか。なかったらどうしよう。ないものは持ち帰れない。旅費を無心してもらい、倉庫の仕事も休み、最終的に誤報だったなんてどうして言えるだろう。しかも一ヶ月もそれと知らずに小間使いをしていたなんて、父はどう思うだろう。愛してもらえるどころか、馬鹿な璃央をますます疎ましがるに違いない。
「最初に言った通り、作っている最中だ」
「ほ、ほんとっすか」
 声が震える。信じていいかもわからない。
「信じられないなら信じなくていい」
 士鵠は冷たく言い放ち、かすかに湯気を立てる臓腑を口の広い壺に押し込んだ。突き放されて鼻の奥がツンとしたが、淡々とした士鵠の声を聞いているうちに、璃央は平静を取り戻した。
「どうして今まで教えてくれなかったんスか」
 璃央はずっと士鵠を仙人だと思って接していた。士鵠が気づいていないはずはない。何度も訂正の機会はあっただろう。
「必要なかったからだ。どうせすぐいなくなると思っていた」
 案外粘り強かった、と士鵠は褒めているのか迷惑がっているのかあいまいな口振りで付け加えた。背骨に沿って小刀を進めていく。
「動かすなよ」
 肋骨に行き当たり、士鵠は小刀を斧に持ち換えた。一本ずつ断ち割っていく。頭を落としたときほどではないが、硬質な音がするたび璃央は身がすくむ思いだった。
「俺が獣を捌けるのは、たぶん餓鬼の頃に仕込まれたからだ」
 士鵠は残っている内臓を寄せ、血で汚れた手を拭った。
「俺はどうも西の高山地帯の出身らしい」
 帝国の西には険しい岩山が連なっている。遊牧と高山耕作で生計を立てる少数民族が複数住んでいる。彼らが作る野菜は珍しく、羊の毛は上等だ。どちらも都の市場で高値で取引きされる。
 士鵠は顔立ちから平原の出身ではないと思っていたが、案の定だ。遊牧を生業にしていれば、幼い頃から獣の捌き方を教わるだろう。それにしても、らしい、とは。
「自分のことなのに、はっきりしないんですか」
「俺には、お師様に拾われた日より前の記憶がない。計算すると五、六歳だから物心はついていたはずなんだが」
 山羊と羊を飼っていたのは覚えている、と士鵠は言った。両親がいて、兄と姉が何人かいたそうだ。弟や妹はわからないらしい。家にいたら叫び声が聞こえた。近くに住む同じ民族の男の声だった。女の叫びも聞こえた。
「父親が最初に立ち上がった気がする」
 士鵠は斧を振り下ろした。
「母親か姉に手を引かれて、頭から布を被せられて、大きな山羊の背に乗せられた。何か恐ろしいことが起こっていると思ったときには、山羊は走り出していた」
 幼い士鵠は、振り落とされないように山羊にしがみついて目をつぶっていた。
「布と山羊の首にかかっていた紐と、両方つかんでおくのが難しかったのだけ、やたら鮮明に覚えている」
 やがて山羊の歩みがゆるやかになり、立ち止まって草を食べ始めたらしい。
「布の中から外を見たら、夕刻だった。そそり立つ岩山の間に太陽が沈んでいくのを、俺はぼうっと見ていた」
 パキン、と最後の肋骨が折れ、士鵠は小刀で肉を割き始めた。
「お師様と出会ったのはそのすぐあとだ。俺は自分の名前すら憶えていなくて、士鵠という名もお師様がつけた」
「名前も忘れちゃったんですか」
「精神的な衝撃が大きすぎると、そういうことが起こるらしい。俺の家族が運河の造営のために連れ去られたのや、みんな死んだのは、何年か経ってから聞かされた」
 運河は古くから通っていたが、治水はうまくいっていなかった。先代の皇帝の時代に川幅が広げられ、距離もぐんと伸びた。交易が活性化し、帝国はますます栄えた。歴代の皇帝の偉業のひとつとして、璃央は董家で習った。
「それ、変っすよ。労役は成人男性に一定って決まってます。臨時の徴集があったとしても、帝国の外で人を誘拐するなんて聞いたことない」
「南の戦争のために急いだんだろう。お師様の受け売りだが」
 運河の拡張は交易を活性化させ、南方の領土拡大にも多大な影響を与えた。先代は史上もっとも功績ある皇帝だと、璃央は教えられた。
「俺の家族だけじゃなかったらしい。帝国内部でも、土地が悪くて作物が育たない村がいくつか根こそぎ連れていかれたそうだ」
 みぞおちを締め上げられたようだった。納税にも種類があるが、米や麦などの穀物が主となる。璃央が都で日々量を測っていたものだ。いくら入ってきたか、いくら出ていったか。璃央の意識に上る穀物はそういうものだった。入ってこないとき何が起こっているかなんて、考えもしなかった。
 璃央もその穀物を食べた。拡張された運河を通って届いた米で作った餅や、麦の粥だ。董家の豪勢な食卓が思い浮かぶ。あの肉も、酒も、そうだったかもしれない。義母が好んだ真っ赤な織物も異国の品と聞いている。冬になると兄たちが着こむ毛皮も。あらゆるものが運河を通って都へ運ばれる。士鵠から家族を奪った運河を通って。
「手を放していいぞ」
 いつしか猪は真っ二つになっていた。璃央が手を放すと、地面にごろりと転がる。
「そういうわけで俺は仙人じゃない。年はお前より少し上だろうが、そう変わらないはずだ。二十三とか四とか、そのくらいだろう」
 士鵠は小刀の血を桶の水で流し、後ろ脚の付け根に刺した。
「士鵠様」
「なんだ」
「すみませんでした」
「それは、何に対しての謝罪だ」
「俺、ずっと都に住んでました。ずっと、運ばれてくる麦や米を」
「それ以上言ったら刺すぞ」
 璃央は口をつぐんだ。士鵠は後ろ脚の肉を切り、小刀を一度抜いた。肉の間を確かめ、再び刺して力を籠める。士鵠は胴から離れた後ろ足を筵の上へ置いた。
「お前に謝られたくなんかない。俺の家族を連れて行った兵や、それを命じた奴や、その上の奴や、皇帝になら謝られてもいいけどな。お前の領分じゃない。踏み越えるな」
 すいません、と舌先まで出かかったのをなんとか飲みこむ。
「領分外のことまで謝っていたら、一生何もかもに謝りながら生きていかなければならなくなる。やめておけ。それより肋骨を肉から離すのを手伝え」
 猪の内側はまだ温かかった。士鵠の手本を真似て切り込みを入れ、肋骨を浮かせて外す。なかなか力のいる作業だ。一本ずつ黙々と骨を外す。泛蕩は物事を大きく見よと言ったが、こうして目の前の作業に没頭している方が穏やかでいられる。大きく見ると、運河のように知りたくないものまで見えてしまう。知らなければいけないのはわかる。ただ、勇気がない。
「俺が仙人じゃなくてがっかりしたか」
 顔を上げると、いつしか猪は両方の後ろ脚を失い、残っていた内臓もなくなっていた。士鵠も肋骨外しを始めていて、璃央に追いつこうとしている。
「すごく驚いたけど、がっかりはしてないっす。士鵠様が金丹作ってるのは本当だから」
「だいぶ怯えていたようだがな」
「怖かったに決まってるじゃないですか。二人で俺を騙して、金丹も嘘だったらどうしようって思いました」
 士鵠がわずかに口角を上げる。この人も笑うのだと、璃央は妙な気分で士鵠を見ていた。
「様々な調合で丹薬を試すのがお師様の道楽のひとつだ。同時にあれこれ試したいが、手が足りないから弟子を使っていると言っていた。こんな家をいくつも持っていて、それぞれに弟子を住まわせているらしい」
 ついでに、弟子を取るのも道楽のひとつだそうだ。
「こんな家がいくつも……金のかかる道楽っすね」
「時間もだ。仙人だから時間は度外視なんだろうな」
 道楽と呼ぶにはあまりに規模が大きい。いくら無限に時間があるとはいえ、弟子が多ければ指導が大変だ。不老不死の泛蕩には必要ないのに、希少な材料を集めて家まで建てて金丹を作らせている。完成したあとはどうするのだろう。必要ないなら、譲ってほしい。
「もしかして、今作っている金丹って士鵠様の分っすか」
 仙人でないなら、士鵠はまだ金丹を飲んでいない。どんなに璃央が働いても、自分用に作っている金丹を大嫌いな皇帝のために譲ってくれるとは思えない。可能性があるとすれば、次の金丹だ。今の金丹はいつ完成するだろう。次はいつになるだろう。
「俺のじゃない。俺は不老不死なんか興味ない」
「仙人になるために弟子になったんじゃないんスか」
「行く当てもなかったし、何をすればいいかもわからなかったから、言われるまま弟子になっただけだ。たぶん、腹が減っていたんだ。目の前の白いじいさんが何を言っているかなんて理解していなかっただろう」
 士鵠は他人事のように言い、外した肋骨を置いた。次の肋骨の脇に切っ先を当て、手が止まる。
「生かしてもらったから、生きなきゃいけないとは思っている。だが、それは永遠じゃなくていい」
 再び動き出した手を、璃央はじっと見ていた。士鵠に獣の捌き方を教えたのは父親だろうか。珍しい文様の小刀を与えたのは兄だろうか。愛されていたから逃がされた。きっと士鵠も家族を愛していただろう。
「士鵠様」
「なんだ」
 考え方が合わないと思った。仙人だから仕方がないと諦めた。間違いだった。
「すみませんでした」
「何に対しての謝罪だ」
「士鵠様には俺の気持ちはわからないって言いました」
 士鵠は猪から目を上げた。黒い双眸がひたと璃央を見据える。
「人の心がないって言いました」
 士鵠も璃央も幼くて、どうにもならなかった。軍隊を相手に武器を取って戦えるはずはなく、明日の食事にも困る生活で薬が手に入るはずはなかった。一瞬で何もかも奪われた士鵠と、じわじわとその日が近づくのに怯えていた璃央。どちらが幸福でどちらが不幸か比べる意味はない。
「ひどい人だって言いました」
「そう思ったから言ったんだろう。謝る必要はない」
「でも、これは俺の領分だから」
 士鵠は思い切り嫌な顔をした。
「謝らせるために昔の話をしたんじゃない」
「じゃあ、どうして話してくれたんですか」
 士鵠は答えず、肋骨をはがした。いつの間にか士鵠の方が作業が進んでいる。璃央は慌てて手を動かした。
「お前の話を聞いたとき、俺と同じだと思った」
 無力だった。何もできなかった。
「違った。お前は自分の領分を広げようと手を伸ばす。俺は、手を伸ばすのをやめたんだ」
 手を伸ばしたらもっといろいろできると思うのは、璃央に心があるからだ。遊明を、母が死んだ日の自分と同じにしたくなかった。士鵠が手を伸ばさないのも、心があるからだ。山羊の背に乗せられた日を再現したくなかった。
「お前の気持ちがわからないのは事実だ。父親に愛されたいというお前の望みは、俺からすれば馬鹿々々しい。だが、俺には馬鹿々々しい望みすらない。お前の方が立派だよ」
 璃央は顔を上げたが、士鵠が肉を切っていたので解体に戻った。ふたり、黙々と刃を動かす。士鵠は前足の骨をはずしている。璃央は士鵠の指示に従い、胴の肉をいくつかに切り分けた。猪はもはや猪とは呼べない肉塊になっていた。この肉塊が猪だったと知っているのは、士鵠と自分だけだと思うと不思議な気分だった。
「士鵠様には、なんか望みとかないんスか」
「ない。強いて言えば、金丹がうまくできればいいと思っている」
「金丹ができたあとは?」
「お師様が新しい課題を持ってくる」
「そうじゃなくて」
 士鵠は怪訝そうに璃央を見たが、手は止めなかった。
「お師様とは関係なく、士鵠様がやりたいと思うことはないんスか」
 人の欲望は限りない。大きな家に住み、ごちそうを腹いっぱい食べ、美しい着物を着て、やわらかな寝台で眠り、絶世の美女を侍らせ、子宝に恵まれ、最後まで健康で安らかに死ぬ。
「ない」
 士鵠は考える素振りもなく言い切った。そんなはずはない、と璃央は思う。だって、士鵠は仙人ではなく人間なのだ。
「じゃあ、もし士鵠様がやりたいこと見つけたら教えてください」
「どうしてお前に教えなきゃならないんだ」
「知りたいと思ったから」
 士鵠は眉根を寄せて璃央を見た。桶の水で小刀の血を流し、こびりついた脂を筵の端でごしごし拭う。ため息。
「どうしてお師様がお前を気に入ったのかわかった気がする」
「俺、気に入られたんですか」
 璃央はこれまでの泛蕩とのやり取りを思い返した。特に気に入られる要素が見当たらない。水をくれと言われて応じたからだろうか。初対面からおじいさんと呼んだり、早く謝った方がいいと意見したり、無礼の方が多いと思う。なんだか不安になってきた。
「お師様は一度気に入ると人でも物でも近くに置きたがる。だから、俺はお前を追い出せない。安心したか」
 以前、士鵠が璃央の意思で出ていく分にはとやかく言われないと言っていた。誰に何をと聞きそびれていたが、泛蕩を指していたようだ。
 士鵠の口振りからして簡単には追い出されないだろうが、釈然としない。泛蕩よりも、士鵠は璃央をどう思っているのだろう。璃央は士鵠の小間使いだ。士鵠にも気に入ってもらいたい。
「肉は数日中に食べる分を残して塩浸けにしろ」
 士鵠は立ち上がって伸びをしながら言った。筵の上には、骨をすべて外されて適当な大きさに切り分けられた肉が並んでいる。四本の脚の肉が、足先と付け根を交互にして置かれていた。塩を塗りこんで風通しのいい場所へ吊るしておこう。ここ数日の晴天が続けば、すぐに干し肉ができる。士鵠は内臓をまとめて入れていた壺から肝や心臓を取って少しずつ切り分け、使っていない皿に置いた。残りは壺に戻してしまう。
「後片付けをしておけ。俺はこれを山に撒いてくる」
 本来は森の獣たちのものだからと付け加え、士鵠は壺と猪の頭を持ち上げた。猪と目が合いそうになり、璃央は士鵠を見上げてうなずいた。
「骨は明日にする。内臓の方が匂いが濃いから、狼どもも一日くらいは気を取られてくれるだろう。皮は放っておいていい。そのうちお師様が持っていく」
 まずは肉を厨へ運ばなければならない。筵ごと引きずっていけたら楽だろうが、璃央一人では動かせそうにない。皿を使って往復するしかないだろう。血を吸った筵は料理のときにかまどで燃やすとして、汚れた砂を掃く必要がある。頭の中で片付けの算段をしつつ、璃央は肉の一部を皿に移した。
「璃央」
「はい」
「夕餉は何を作る」
「汁物にしようと思ってます」
 肉がやわらかいうちに細かく叩いて炒め、麦や野菜といっしょにたっぷりの湯で煮る。脂を混ぜれば冷めにくいし、身体も温まる。
「そうか。楽しみにしている」
 士鵠は生臭くないようにしろと言わなかった。魚と違って獣の臭いは平気らしい。璃央は厨へ皿を運んだ。
「あ、名前」
 肉を調理台へ置いたところで気がついた。
 初めて呼ばれた。
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蔵屋
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 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。