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10-1 ロイヤルボックス席
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バリバラ国は性に奔放な国ではないが、かといって厳粛でもない。
海外国交が盛んで国際結婚も多いし、自由恋愛には寛容だ。
独身の男女が二人で出掛けることに対しても、逢引き宿にしけ込むようなことでもなければ咎められない。
逆に男女間の友情やビジネスライクな関係を名目に誘われて断ることは、こちら側が変に意識をしていると解釈される。
だから、女性嫌いのペイトンも、学生時代の誘いは片っ端から断ってきたが、仕事に就いてからは、それなりに社交儀礼の付き合いはするようになった。
相手が色目を使ってくればその時点で切るだけのことだ。
その中で、観劇に行くことは楽で助かった。なにせ二時間の間、何も喋らなくて済む。下手に植物園やら美術館やらへ出向いて、ずっとエスコートしなければならないより遥かにましだ。
事前に劇場に、座席の間にサイドテーブルを設置するよう手配して、部屋のランプも通常より明るくするよう指示しておけば、不用意な接触は防げる。
恋仲でない男女が個室で一緒にいるための適切な配慮でもあるし、貴女とはそういうつもりはない、という明確な意思表示にもなるから便利だった。
だが、本日は事前にそういった手配はしなかった。
「いつもみたいに劇場に連絡しなくてよいのですか?」
とジェームスに尋ねられて、
「自分の妻と行くのにそんなことはしないだろ」
と強気に答えた。ジェームスからは「良かったです。ポイント付けずに済んで」と生暖かい眼差しが返って来た。
「お前馬鹿にしているだろ」
「被害妄想はやめてください」
という会話が繰り広げられた。
しかし、公演日が近づくにつれ、自分達は白い結婚であるのだからやはり座席は離しておくべきではないか、いや、でも、それはそれで妻に対して失礼ではないか、と不安になった。
考えあぐねた末、別に手配するのはこちらではなくアデレード側からも出来る。
契約内容を鑑みても、こちらは妻を愛する設定なのだし、むしろ嫌っている向こうが行動すべきではないか、と結論付けた。
そして、本日、アデレードが席を離す指示をしたに違いないと決め込んで、ボックス席に入ると普通に椅子が隣り合わせになっているので、ペイトンは固まってしまった。
一方、アデレードは戸惑うことなく奥の方の席に腰を下ろして、
「座らないのですか?」
とのうのうと言ってのけた。
この小娘は、危機管理能力がなさすぎでは? と憤りが湧いた。
今日はたまたま自分が相手だから良いものを、出会って一週間の男と観劇に来るなら座席は離すよう手配すべきではないか。世の中、紳士的に男ばかりじゃない。力でねじ伏せられたらどうするつもりなのか。
(ちょっとキツく注意しといてやろう)
ペイトンは息巻いてアデレードの隣に座った。
しかし、アデレードは全く動じることなく身を乗り出して舞台を見ている。
そういえば、今日の公演は昔見た演目だと楽しみにしていたな、と先週の晩餐での会話を思い出した。
アデレードがじっと舞台を見ているので、今叱り飛ばすのは可哀想な気がしてきた。
(まぁ、結婚している間は僕が守ってやれるからな)
一年後別れる時に忠告してやろう、と思い直し、叱る代わりに、
「サイドテーブルの引き出しにオペラグラスがあるから必要なら使うといい」
と教えてやった。
「え、そうなんですか?」
アデレードは言われるままに引き出しを開け、中からオペラグラスを取り出した。
折りたたみ式の物で開き方がわからないのか、手の中でカチャカチャ動かしている。
開けてやろうか、と声を掛ける前に、
「この席はよく利用されるんですか?」
と、アデレードはオペラグラスに視線を向けたまま言った。ペイトンはギョッとした。
ロイヤルボックス席を入手する倍率は高い。男二人で利用することなどまずない。暗に女性と来たかと尋ねている。デリカシーないんか、とペイトンは思った。しかし、自分はやましいことなどしたことはない。堂々としていればいい。
「誤解しないでくれ。仕事の付き合いで仕方なく来ただけだ」
「そうなんですね」
納得した風な返事だが、まるで信じていなさそうなアデレードの態度に、ペイトンは心外して、
「本当なんだ」
と繰り返した。
しかし、アデレードはオペラグラスを見たまま何も言わない。
ペイトンは、最初に女性嫌いと宣言しているのに、その実、女遊びをしているみたいなレッテルを貼られたらかなわない、と、
「海外の顧客が渡航してきた時に、一緒に行く人間がいないから、と同行を頼まれることがあるんだ。あと、お礼にと誘われたら、仕事上、無下にも断れないだろう。たかだか二時間の演劇を観るだけだ。密室と言っても舞台からはこっちが見えている。そうだ、君、知っているか? 演者からは案外観客の様子は見えているものなんだぞ」
と一気に捲し立てた。その内心、
(何故、結婚前のことをつらつら説明しないといけないんだ。なんか後半話題を逸らしたみたいになったし。大体、好きで女性と観劇に来ていたわけじゃないんだ。妻がいるならむしろそれを口実に断れる。婚姻しているうちに、他の女性と二人で出掛けるなどありえないんだから、文句を言われる筋合いはないぞ)
とアデレードは全く文句など言っていないのに勝手に憤った。
そんなペイトンに対してアデレードは、
「別に何も疑ってないですし、結婚前のことまで持ち出していちいち責めたりしませんし、今後も仕事の付き合いに口出しすることはありませんよ」
と見透かしたように返してきた。
ペイトンは、初めは思っていることが伝わったのか、とその言葉を額面通りに捉えて頷きそうになった。
が、最近の愛読書である「女性が教える女性の心理」の一説を思い浮かべて、
(これって良いって言いつつ全然良くないやつなんじゃないか)
とハッとなった。なので頷く代わりに、
「いや。それはちゃんとする」
と告げた。すると、
「……お任せします」
とアデレードの態度が軟化したように思えた。それから、オペラグラスを差し出してきて、
「これ、旦那様の分のオペラグラスです」
と、何故か妙にへらへら笑っている。
なのでこちらも毒気を抜かれてグラスを黙って受け取った。
瞬間、思い切り手が触れる。ペイトンは咄嗟に謝ったがアデレードは気にする様子がなかった。
(だから、密室で簡単に男に触れさせるな)
やっぱり注意してやろう、とペイトンは思った。
が、タイミング悪く開演のアナウンスが流れた。照明が落ちて幕が上がる。
アデレードが、食い入るように舞台に視線を向けたので、叱ることはやっぱりやめた。
*裏設定 性被害防止のため「席離しておいて」と申告しとけば、劇場の人が見回りにきてくれます。
バリバラ国は性に奔放な国ではないが、かといって厳粛でもない。
海外国交が盛んで国際結婚も多いし、自由恋愛には寛容だ。
独身の男女が二人で出掛けることに対しても、逢引き宿にしけ込むようなことでもなければ咎められない。
逆に男女間の友情やビジネスライクな関係を名目に誘われて断ることは、こちら側が変に意識をしていると解釈される。
だから、女性嫌いのペイトンも、学生時代の誘いは片っ端から断ってきたが、仕事に就いてからは、それなりに社交儀礼の付き合いはするようになった。
相手が色目を使ってくればその時点で切るだけのことだ。
その中で、観劇に行くことは楽で助かった。なにせ二時間の間、何も喋らなくて済む。下手に植物園やら美術館やらへ出向いて、ずっとエスコートしなければならないより遥かにましだ。
事前に劇場に、座席の間にサイドテーブルを設置するよう手配して、部屋のランプも通常より明るくするよう指示しておけば、不用意な接触は防げる。
恋仲でない男女が個室で一緒にいるための適切な配慮でもあるし、貴女とはそういうつもりはない、という明確な意思表示にもなるから便利だった。
だが、本日は事前にそういった手配はしなかった。
「いつもみたいに劇場に連絡しなくてよいのですか?」
とジェームスに尋ねられて、
「自分の妻と行くのにそんなことはしないだろ」
と強気に答えた。ジェームスからは「良かったです。ポイント付けずに済んで」と生暖かい眼差しが返って来た。
「お前馬鹿にしているだろ」
「被害妄想はやめてください」
という会話が繰り広げられた。
しかし、公演日が近づくにつれ、自分達は白い結婚であるのだからやはり座席は離しておくべきではないか、いや、でも、それはそれで妻に対して失礼ではないか、と不安になった。
考えあぐねた末、別に手配するのはこちらではなくアデレード側からも出来る。
契約内容を鑑みても、こちらは妻を愛する設定なのだし、むしろ嫌っている向こうが行動すべきではないか、と結論付けた。
そして、本日、アデレードが席を離す指示をしたに違いないと決め込んで、ボックス席に入ると普通に椅子が隣り合わせになっているので、ペイトンは固まってしまった。
一方、アデレードは戸惑うことなく奥の方の席に腰を下ろして、
「座らないのですか?」
とのうのうと言ってのけた。
この小娘は、危機管理能力がなさすぎでは? と憤りが湧いた。
今日はたまたま自分が相手だから良いものを、出会って一週間の男と観劇に来るなら座席は離すよう手配すべきではないか。世の中、紳士的に男ばかりじゃない。力でねじ伏せられたらどうするつもりなのか。
(ちょっとキツく注意しといてやろう)
ペイトンは息巻いてアデレードの隣に座った。
しかし、アデレードは全く動じることなく身を乗り出して舞台を見ている。
そういえば、今日の公演は昔見た演目だと楽しみにしていたな、と先週の晩餐での会話を思い出した。
アデレードがじっと舞台を見ているので、今叱り飛ばすのは可哀想な気がしてきた。
(まぁ、結婚している間は僕が守ってやれるからな)
一年後別れる時に忠告してやろう、と思い直し、叱る代わりに、
「サイドテーブルの引き出しにオペラグラスがあるから必要なら使うといい」
と教えてやった。
「え、そうなんですか?」
アデレードは言われるままに引き出しを開け、中からオペラグラスを取り出した。
折りたたみ式の物で開き方がわからないのか、手の中でカチャカチャ動かしている。
開けてやろうか、と声を掛ける前に、
「この席はよく利用されるんですか?」
と、アデレードはオペラグラスに視線を向けたまま言った。ペイトンはギョッとした。
ロイヤルボックス席を入手する倍率は高い。男二人で利用することなどまずない。暗に女性と来たかと尋ねている。デリカシーないんか、とペイトンは思った。しかし、自分はやましいことなどしたことはない。堂々としていればいい。
「誤解しないでくれ。仕事の付き合いで仕方なく来ただけだ」
「そうなんですね」
納得した風な返事だが、まるで信じていなさそうなアデレードの態度に、ペイトンは心外して、
「本当なんだ」
と繰り返した。
しかし、アデレードはオペラグラスを見たまま何も言わない。
ペイトンは、最初に女性嫌いと宣言しているのに、その実、女遊びをしているみたいなレッテルを貼られたらかなわない、と、
「海外の顧客が渡航してきた時に、一緒に行く人間がいないから、と同行を頼まれることがあるんだ。あと、お礼にと誘われたら、仕事上、無下にも断れないだろう。たかだか二時間の演劇を観るだけだ。密室と言っても舞台からはこっちが見えている。そうだ、君、知っているか? 演者からは案外観客の様子は見えているものなんだぞ」
と一気に捲し立てた。その内心、
(何故、結婚前のことをつらつら説明しないといけないんだ。なんか後半話題を逸らしたみたいになったし。大体、好きで女性と観劇に来ていたわけじゃないんだ。妻がいるならむしろそれを口実に断れる。婚姻しているうちに、他の女性と二人で出掛けるなどありえないんだから、文句を言われる筋合いはないぞ)
とアデレードは全く文句など言っていないのに勝手に憤った。
そんなペイトンに対してアデレードは、
「別に何も疑ってないですし、結婚前のことまで持ち出していちいち責めたりしませんし、今後も仕事の付き合いに口出しすることはありませんよ」
と見透かしたように返してきた。
ペイトンは、初めは思っていることが伝わったのか、とその言葉を額面通りに捉えて頷きそうになった。
が、最近の愛読書である「女性が教える女性の心理」の一説を思い浮かべて、
(これって良いって言いつつ全然良くないやつなんじゃないか)
とハッとなった。なので頷く代わりに、
「いや。それはちゃんとする」
と告げた。すると、
「……お任せします」
とアデレードの態度が軟化したように思えた。それから、オペラグラスを差し出してきて、
「これ、旦那様の分のオペラグラスです」
と、何故か妙にへらへら笑っている。
なのでこちらも毒気を抜かれてグラスを黙って受け取った。
瞬間、思い切り手が触れる。ペイトンは咄嗟に謝ったがアデレードは気にする様子がなかった。
(だから、密室で簡単に男に触れさせるな)
やっぱり注意してやろう、とペイトンは思った。
が、タイミング悪く開演のアナウンスが流れた。照明が落ちて幕が上がる。
アデレードが、食い入るように舞台に視線を向けたので、叱ることはやっぱりやめた。
*裏設定 性被害防止のため「席離しておいて」と申告しとけば、劇場の人が見回りにきてくれます。
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