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27-1 春の園遊会
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蝶よ花よと育てられた人間が、実は蝶でも花でもなかったと知った時、どんな心情になるのだろうか。
アデレードがそれを体験したのは、初めて参加したお茶会の席だった。
十歳だった。
まだレイモンドとも仲良くしていた頃。いつも二人で遊んでいたけれど、そろそろ他の子供達とも交流を深めた方がよいのでは? と両親の提案で三つ年上の従姉の催す茶会に参加した。
男女問わずかなりの人数が集まっていた。バルモア侯爵家の次女のお茶会デビューと聞いて、いろんな利害が渦巻いていたのだ。
しかし、そんなことを露ほどにも知らないアデレードは、声を掛けられるまま誰とでも仲良く話したし、楽しい時間を過ごした。
でも、それは心無い会話で一瞬にして潰えた。
「バルモア家の娘だから声を掛けてやっただけなのに、勘違いすんなってな」
「でも、単純で扱いやすそうじゃないか。上手いこと機嫌とっといて損はないだろ」
「そりゃ、あれでお高くとまっていたら、俺は手が出ていたかもしれないぜ?」
軽妙な笑い声。
なぜそんな場面に出くわしてしまったのか全く思い出せないが、先程まで睦ましく話をしていた三人の男の子が隠れて自分を嘲笑しているのを立ち聞いてしまった。
慣れないお茶会の緊張と高揚と新しい友達ができたことの浮かれた気持ちは跡形もなく弾けた。
(なんで?)
全く理解できなかった。
一体私が何を勘違いしたというのか。
だって、微笑まれたから笑顔を返しただけ、差し出された手を握り返しただけ。それは常識的なマナーではないか。
相手が不快になる態度など微塵もとらなかったのに、何故こんな風に言われないといけないのか。
薄い氷を心臓に刺されたみたいな感覚。すーっと深くまで。心の奥の温かく柔らかな部分に届くくらい。
激しい痛みはなかったけれど、じわじわと体の芯から浸食されて冷たくなるのを感じた。
何処か遠くで耳鳴りがして、二本の足で立っているのが覚束ない。だ
けど、このままここにいて見つかることが耐えられず、とにかく必死で逃げた。
お茶会が終わるまで終始にこにこして、変わった様子は少しも見せなかった。誰にも知られたくなかった。
だって、自分が可愛かったら嘲られることはなかったと理解できたから。
要するに自分は値踏みされたのだ。バルモア侯爵家の娘という以外価値なし、と。
それがひたすらに恥ずかしかった。生まれて初めて向けられた明確な悪意。怒りより、悲しみより、何よりも恥ずかしくてたまらなかった。
だから、屋敷へ戻っても誰にも何も言わなかった。これまで明け透けになんでも話してきたけれど、父にも母にも姉にも。
「お茶会どうだった?」
と尋ねてきたレイモンドにも。
「うん。楽しかったよ。今度はレイも一緒に行こう!」
強がってそんなことを返した。
だって、言えるわけがない。あんな屈辱的なこと。惨めなこと。
誰にも何も知られないまま全てなかったことにしたい。しようと決めた。全部忘れることにした。
ただ、あの日から決定的に変わったことが一つある。初対面の人間の動向を異様なくらいに敏感に観察するようになった。
今値踏みされたな、とか、蔑まれたな、とかそんなこと。
ほんの一瞬だけ見える微かな空気の揺れも逃さないくらい。
でも、面と向かっては言葉にしない相手にどう対処してよいかわからなかった。不快な気分を飲み込んで、仲良くするふりと、愛想笑いだけが上手くなっていった。
できるだけ楽しく、なるたけ明るく見えるように。物凄く嫌だったけれど。
(まぁ、もう慣れたけどね)
アデレードはあの日の自分に思いを馳せて深く息を吐いた。
高位貴族に媚を売り、二枚舌で他人を利用する人間は存外多い。
にこやかに謙って近づいてくる輩ほど要注意。
侯爵家に生まれた以上、そういうことを予め頭にいれておけば良かったのだ。
手放しに人を受け入れないように。それが貴族社会の処世術だ。
(特に、私みたいな凡庸な人間はね)
どういう根拠か知らないが、たまたま出自が良かっただけの人間だと舐めて掛かって来る輩が一定数いるから。
選民意識というのか。
確かにその手の人種はそれなりに美形だったり、頭が良かったりはする。中途半端に良い程度だが。そして、性格はもれなく屑だが。
アデレードは露店の物影から、悪口を言っている人間の顔を見といてやろう、と声の方へこっそり近づいた。
男性が集まる人気のない場所に乗り込んでいくほど危機管理能力がないわけじゃない。
しかし、子供の時のように走って逃げる気もさらさらなかった。
舐められることにはすっかり順応してしまって、あの時みたいに身体は震えていないし、二本の足はしっかり地についている。
なんらの機会にやり返すために、何処のどいつか確認しておかねばならない、と心も通常運転だ。
興奮しているのか、地声が大きいのか、まだべらべらと失言が聞こえてくる。
上手いこと顔が見える位置を探そうとしゃがんで体勢を整えようとした瞬間、ぐいっと右肘を引っ張られて完全に息が止まった。
(えっ)
声にならない叫びと同時に、うっかり殺人現場を目撃した通行人が背後から殺人者の仲間に撲殺される昔読んだ推理小説のシーンが走馬灯のように脳裏を走った。
「僕が行く」
落ち着いているけど重い声音と冷たい瞳。
(旦那様……?)
あれ? というほど普段のペイトンのイメージと重ならなくて、アデレードは白昼夢でも見ている感覚になった。
アデレードが呆けている間に、ペイトンは掴んでいた肘を離して、押し退けるよう前へ歩み出ていく。
「ちょっと、何処に行くんですか?」
我に返ったアデレードが、今度は逆にペイトンの腕を取った。
アデレードがそれを体験したのは、初めて参加したお茶会の席だった。
十歳だった。
まだレイモンドとも仲良くしていた頃。いつも二人で遊んでいたけれど、そろそろ他の子供達とも交流を深めた方がよいのでは? と両親の提案で三つ年上の従姉の催す茶会に参加した。
男女問わずかなりの人数が集まっていた。バルモア侯爵家の次女のお茶会デビューと聞いて、いろんな利害が渦巻いていたのだ。
しかし、そんなことを露ほどにも知らないアデレードは、声を掛けられるまま誰とでも仲良く話したし、楽しい時間を過ごした。
でも、それは心無い会話で一瞬にして潰えた。
「バルモア家の娘だから声を掛けてやっただけなのに、勘違いすんなってな」
「でも、単純で扱いやすそうじゃないか。上手いこと機嫌とっといて損はないだろ」
「そりゃ、あれでお高くとまっていたら、俺は手が出ていたかもしれないぜ?」
軽妙な笑い声。
なぜそんな場面に出くわしてしまったのか全く思い出せないが、先程まで睦ましく話をしていた三人の男の子が隠れて自分を嘲笑しているのを立ち聞いてしまった。
慣れないお茶会の緊張と高揚と新しい友達ができたことの浮かれた気持ちは跡形もなく弾けた。
(なんで?)
全く理解できなかった。
一体私が何を勘違いしたというのか。
だって、微笑まれたから笑顔を返しただけ、差し出された手を握り返しただけ。それは常識的なマナーではないか。
相手が不快になる態度など微塵もとらなかったのに、何故こんな風に言われないといけないのか。
薄い氷を心臓に刺されたみたいな感覚。すーっと深くまで。心の奥の温かく柔らかな部分に届くくらい。
激しい痛みはなかったけれど、じわじわと体の芯から浸食されて冷たくなるのを感じた。
何処か遠くで耳鳴りがして、二本の足で立っているのが覚束ない。だ
けど、このままここにいて見つかることが耐えられず、とにかく必死で逃げた。
お茶会が終わるまで終始にこにこして、変わった様子は少しも見せなかった。誰にも知られたくなかった。
だって、自分が可愛かったら嘲られることはなかったと理解できたから。
要するに自分は値踏みされたのだ。バルモア侯爵家の娘という以外価値なし、と。
それがひたすらに恥ずかしかった。生まれて初めて向けられた明確な悪意。怒りより、悲しみより、何よりも恥ずかしくてたまらなかった。
だから、屋敷へ戻っても誰にも何も言わなかった。これまで明け透けになんでも話してきたけれど、父にも母にも姉にも。
「お茶会どうだった?」
と尋ねてきたレイモンドにも。
「うん。楽しかったよ。今度はレイも一緒に行こう!」
強がってそんなことを返した。
だって、言えるわけがない。あんな屈辱的なこと。惨めなこと。
誰にも何も知られないまま全てなかったことにしたい。しようと決めた。全部忘れることにした。
ただ、あの日から決定的に変わったことが一つある。初対面の人間の動向を異様なくらいに敏感に観察するようになった。
今値踏みされたな、とか、蔑まれたな、とかそんなこと。
ほんの一瞬だけ見える微かな空気の揺れも逃さないくらい。
でも、面と向かっては言葉にしない相手にどう対処してよいかわからなかった。不快な気分を飲み込んで、仲良くするふりと、愛想笑いだけが上手くなっていった。
できるだけ楽しく、なるたけ明るく見えるように。物凄く嫌だったけれど。
(まぁ、もう慣れたけどね)
アデレードはあの日の自分に思いを馳せて深く息を吐いた。
高位貴族に媚を売り、二枚舌で他人を利用する人間は存外多い。
にこやかに謙って近づいてくる輩ほど要注意。
侯爵家に生まれた以上、そういうことを予め頭にいれておけば良かったのだ。
手放しに人を受け入れないように。それが貴族社会の処世術だ。
(特に、私みたいな凡庸な人間はね)
どういう根拠か知らないが、たまたま出自が良かっただけの人間だと舐めて掛かって来る輩が一定数いるから。
選民意識というのか。
確かにその手の人種はそれなりに美形だったり、頭が良かったりはする。中途半端に良い程度だが。そして、性格はもれなく屑だが。
アデレードは露店の物影から、悪口を言っている人間の顔を見といてやろう、と声の方へこっそり近づいた。
男性が集まる人気のない場所に乗り込んでいくほど危機管理能力がないわけじゃない。
しかし、子供の時のように走って逃げる気もさらさらなかった。
舐められることにはすっかり順応してしまって、あの時みたいに身体は震えていないし、二本の足はしっかり地についている。
なんらの機会にやり返すために、何処のどいつか確認しておかねばならない、と心も通常運転だ。
興奮しているのか、地声が大きいのか、まだべらべらと失言が聞こえてくる。
上手いこと顔が見える位置を探そうとしゃがんで体勢を整えようとした瞬間、ぐいっと右肘を引っ張られて完全に息が止まった。
(えっ)
声にならない叫びと同時に、うっかり殺人現場を目撃した通行人が背後から殺人者の仲間に撲殺される昔読んだ推理小説のシーンが走馬灯のように脳裏を走った。
「僕が行く」
落ち着いているけど重い声音と冷たい瞳。
(旦那様……?)
あれ? というほど普段のペイトンのイメージと重ならなくて、アデレードは白昼夢でも見ている感覚になった。
アデレードが呆けている間に、ペイトンは掴んでいた肘を離して、押し退けるよう前へ歩み出ていく。
「ちょっと、何処に行くんですか?」
我に返ったアデレードが、今度は逆にペイトンの腕を取った。
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