翡翠の思い出は桂花に沈む

藤和

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第二章 人間の娘

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 ある日の夜、シュエイインはいつものように、人間の娘の精気を求めて山から街へと出かけた。一緒に家を出たコンとは、街の入り口で別れていて、今回も上手く行かないのではないかと不安になる。
 どうやったら、コンや他の夢魔のように上手く人間をかどわかせるのだろうと考えると、気持ちも沈んでくると言う物だ。
 獲物になりそうな娘を探して街中を歩き回る。この一帯は裕福な家が多いようで、立派な門構えが続いている。こういった所の娘から、コンはお金や人間の食料を貢がれているのだなぁと、ぼんやりと思う。自分もそれが出来れば、もっと人間が食べる様な美味しいごはんが食べられるのだろう。けれども、シュエイインはあまりにも不器用で、そんな事が出来ようはずもない。
 富裕層が住んでいる一角から離れようと家の隙間の路地に入ると、大きな家に付いた窓から、一際明るい光が見えた。突然の刺激に思わず目を細める。こんな時間にここまで明るくする必要はなんなのだろうと窓から覗き込むと、ひとりの娘が壁に配された燭台の灯りに囲まれて手元を動かしていた。
 蜜柑色の長い髪をしっかりと纏めて結い上げ、瞼を伏せているのだろうか、鋭い目つきで手元の布を見つめている。手元の布は、娘に一針一針色を入れられ、鮮やかな刺繍が施されていた。
 その様に、シュエイインは見とれてしまう。その娘が飛び抜けてうつくしいのかと言われると、そんな事はない。ごく平凡な顔つきだろう。けれども、優雅な指運びと、妥協を許さないと言ったその視線がシュエイインの心を捕らえたのだ。
 目の前の窓を開け、シュエイインはそこから、軽々と娘が居る部屋の中へと入った。物音に気づいた娘がシュエイインの方を見る。壁の燭台の灯が揺れても、彼女は全く動揺する素振りを見せなかった。
 今まで見て来た人間の娘は、こうやって姿を現すとみんな驚いていた物だけれど、彼女はそうはしなかった。もしかしたら驚きすぎていて言葉が出せないのでは無いかという考えも浮かばないままに、シュエイインは娘に近寄り跪く。
「初めましてお嬢さん。よろしければお名前を教えてくれませんか?」
 緊張した声でなんとかそう言うと、娘は冷ややかな視線をシュエイインに送りながら答える。
「トオゥと言います。
が、自分から名乗るのが礼儀でしょう」
 そう言われて、シュエイインははっとする。もしかしたら怒らせてしまったかも知れないとおろおろしながら、軽く頭を下げて名乗る。
「僕の名前はシュエイインと言います」
「なるほど」
 それだけのやりとりをした後、トオゥと名乗った娘は、また刺繍の仕事に戻ってしまう。どう声を掛けたらいいのかシュエイインは悩んだけれども、まごまごしていてもどうしようもないし、いきなり目の前に現れても驚かなかったこの娘なら、精気をまともに吸えるかも知れないとなんとか言葉をひねり出す。
「トオゥさんは、僕が何者かわかる?」
「不審者だと言うことしか」
 手元に視線をやったままのトオゥの頬を、すっと人差し指で撫でる。
「僕は夢魔なんだ。君の瑞々しい精気が欲しい」
 できる限りの甘い声でそう囁くと、トオゥは刺繍針と布を台の上に置いて、シュエイインを見た。
 これは脈有りか。そう思った瞬間、トオゥは素早く壁際にあった、一抱えほどもある七宝の壺に手を伸ばし、振り上げた勢いのままシュエイインの頭を殴りつけた。
 それはまさに衝撃だった。
 突然の痛みで驚いたというのは勿論あるけれども、それ以上に、今までこんな対応をしてくる娘はいなかった。だから、トオゥのこの一撃は強くシュエイインの心を揺さぶった。
 ……今までの優しい娘たちとは違う……
 今まで人間の娘に抱いていた物とは違う、荒々しい印象にシュエイインは驚き、慌てて入ってきた窓から飛び出した。

 結局その日は、貧しい家の娘に頼み込んで精気を分けて貰い、食事をなんとか済ませたシュエイイン。月と星が藍色の空に輝いていて、街中の家という家は全て灯りが消されている。
 いつもはとぼとぼと歩きながら、自分は夢魔として駄目だなぁとそんな事を考えているのだけれど、今夜は違った。そんな事を考えるよりも、頭を専有する物が有った。
 壺で殴られた痛みはまだ残っている。その時の衝撃が原因で、まだ緊張しているのだろうか、なにやら動悸がする。その胸の動きと一緒に思い起こされるのは、あのトオゥという娘のことばかり。
 あのトオゥのことが怖いのだろうか。そう思ったけれども、そればかりとは言えない気がした。
 シュエイインは弟が待つ家へ帰る道すがら、ずっとその事を考えていた。

 家に帰ると、台所から瑞々しい桃の香りがした。
「兄ちゃんおかえり。今日は蟠桃貰ったからこれ食べよう」
 丸を潰したような形をしている、瑞々しく甘い桃。その皮を剥いて、コンが器の中に盛って食台に乗せた。
 甘い香りに、シュエイインも笑顔になる。芳しく濃厚な甘さを持つこの果物が好きなのだ。
「いただきます」
 ふたりでそう言って、蟠桃に手を着ける。甘くとろけて絡みつくような桃の味。それを味わっているうちに、シュエイインはなんとなく、先程の動悸の理由が理解出来た気がした。
「ねぇ、コン聞いて」
「ん? どうした?」
「好きな人が出来た」
 突然の告白に、コンは蟠桃の汁で噎せる。夢魔に恋心などと言う物は無縁だと思っているので、兄の発言に驚きを隠せないのだ。
 そんなコンの様子を少し心配してから、シュエイインはこう言葉を続けた。
「それで、僕、あの子をお嫁さんにする!」
 突然の宣言に、コンは渋い顔をして返す。
「お嫁さんにするのは良いけどさ、そもそも兄ちゃんは相手の子を口説く度胸あるの?」
 今まで正攻法で精気を得られていなかったシュエイインが、いきなり求婚をするのは難しいと考えたのだろう。けれどもシュエイインはこう返す。
「そこはなんとかする」
 いつになく気合いが入った様子のシュエイインに、今度は言い聞かせるように、コンが言う。
「そこが何とかなってもさ。人間と夢魔の寿命は全然違うんだぞ?
絶対相手の娘の方が早死にする。
いっときだけ一緒に居ても、居なくなった後が耐えられるか?」
 居なくなった後耐えられるか。そう言われてシュエイインは言葉に詰まる。もし上手く娶れたとしても、トオゥが死んでしまったその後、自分はどうなるのだろう。それを考えて、寂しくなって、それでもシュエイインはトオゥのことを諦められなかった。
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