カゴの中のツバサ

九十九光

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#10ー1

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 七月八日の午後三時、学校の昇降口で上履きを子供用の皮靴に履き替える時、ツバサは今日一日何があったのかを、まるで思い出せなかった。
今日はツバサにとって、人生で最も時間の流れが速い一日に感じられた。
 行きの電車で何を見たか、今日一日どんな授業を受けたか、誰からどんないじめを受けたか、給食の献立は何だったか。まるで思い出せなかった。今度のテスト範囲に関する、とても大事な話もあったと思ったが、まず何の科目の話だったかが頭に残っていない。放心状態、途方に暮れる、二足のわらじは履けぬという言葉の意味を、心全体で感じていた。無論、この悩みを誰かに打ち明ける気にはなれなかった。
 この日、横進ゼミナールは休校日だった。ツバサの中には、できるだけ誰とも会わずに家に帰りたいという思いしかなかった。
 しかし、そう考える日に限って、余計な出来事は降りかかるものだった。
「ツバサくーん! 学校終わったー?」
 石造りの校門の外側に、学校帰りと思わしき制服姿のカナコが待ち構えていた。
 今朝ツバサに起きたことについて何も知らない、疑いの念を感じられない満面の笑みで自分を出迎える彼女を見て、ツバサは敷地を出ることをためらい、その場に立ち止まった。
「どうしたの?」
 急に立ち止まったツバサを見て、カナコが首を傾げた。
 どうして今日に限って来るんだよ……!
 ツバサの中でとても歯がゆい気持ちが駆け巡る。強く握られた彼の右の拳の中を、薄めすぎた風呂のお湯のようなぬくもりの汗が這い回った。
 そしてこの光景が、当事者二人以外誰の目にも止まらないということは、全校生徒が一斉に出てくるこの時間帯で起こるはずがなかった。
「あれ~? ツバサのやつ、今日もお姉ちゃんにお迎えに来てもらってる~!」
「うわ~! ダッセ~! 気持ちわり~!」
 近くにいた男子生徒二人が、ツバサを指さしながらわざとらしい笑い声をあげ始める。
「違う! お姉ちゃんじゃない!」
 錯乱状態のツバサはそちらへ向き直ると、声を荒くして必死に弁明する。
 しかしそんな言い訳は他人には胡散臭く見え、好きでからかっている子供心に油を注ぐようなものだった。
 オーバーリアクションをするツバサを面白がる生徒たちが、さらに言葉を追加してその
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