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Kapitel 01
夢現の境界 01
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――わたしは夢をみていた、のかもしれない。
今も、みているの、かも。
朝の空気の冷たさ、制服の感触、無数の足音、友だちとの挨拶、堅い床、頬に日が当たる感覚、足を組んだ爪先に引っ掛かった靴、これらはすべて現実なのだろうか。二本の足で立って、蹴って、歩いているわたしは、本当に目を開けて、起きているのだろうか。
これが夢ならすべてがひっくり返る。どちらが現実でどちらが夢で、どちらの世界に立っているべきなのか、分からなくなる。
(また、下らないこと考えてた……)
ふう、と白は溜息を吐いた。
私立瑠璃瑛学園高等部・某教室。
ぼーっとしている内にHRはいつの間にか終了していた。すでに教壇に担任教師の姿はなかった。クラスメイトたちは通学鞄を持って次々と教室から出て行く。
自分も帰らねばと、気持ちを切り替えるように髪の毛を耳にかけた。髪の長さは毛先が肩にかかるほどに伸びた。運動をするとき以外は結んでいないことのほうが多い。
「白。車でお送りしましょうか」
白は隣の席から声をかけられ、そちらに顔を向けた。
隣の席は久峩城ヶ嵜虎子。そこは彼女の指定席のようになっており、この一年間ほどは席替えをしても暗黙の了解としてセットで移動した。御家柄の違いは天と地ほどあれど、彼女たちは自他ともに認める親友同士だ。
「今日は習い事、お休み?」
「ええ。日舞の御稽古が、先生の御都合でお休みになりましたの。行き先はご自宅ではなくて商店街のほうがよろしいかしら」
「んー。今日はいいや。わたしちょっと用事があって」
「用事?」
「うん、ちょっとね」
白はほんの少しだけ困ったような、言いにくそうな表情を見せた。
虎子はその表情の理由にピンと来た。伊達に初等部の頃から親友ではない。だからそれ以上追及をせず、そうですか、と納得して見せた。
白は虎子にバイバイと別れの挨拶をして通学鞄を肩にかけて教室から出て行った。
虎子も席から立ち上がったとき、ボディガードが背後に立った。彼は学業や友人関係の妨げにならないよう、学内では必要最低限しか虎子に接近しない。つまり、彼がそうしたということはその必要があったということだ。
虎子はまた椅子に腰かけて教室の扉を見据えた。
数秒後、扉が横にスッと開いた。現れ出でたのはひとりの男子生徒。ボディガードが虎子に告げたのは、彼の訪問だった。
彼は虎子と目が合うなり、やあ、と手を上げて笑顔で挨拶をした。しかし、虎子はニコリともしなかった。
彼はそのような冷遇にも慣れたもの。何も気にすることなく、教室内をキョロキョロと見渡しながら虎子の席に近づいた。
彼のお目当ては言わずと知れている。――――白だ。
「また学年の違う階を徘徊して。貴男はいつも余程時間を持て余していますね、以祇」
「僕は学内にあっては生徒会副会長だよ。それなりに多忙ではあるさ。時間を捻出して白君に会いに来たのだよ」
「それは残念ですこと。入れ違いです」
「白君は下校したということかな? まだ時間は経っていないかい。追いかけたら、帰宅の途中で追いつけるだろうか」
「白を送るつもりでしたらおやめなさい。今日は用事があるそうです」
「用事、というと御家庭の都合かな? 銀太くんは初等部に進学して送迎は不要になったはずだけれども」
「呼び出されたようでしてよ」
虎子の言葉を聞いた以祇は、やれやれと嘆息混じりに頭を左右に振った。呼び出されたという意味は当然分かっている。その上での余裕の笑みだった。
「またかい。白君が高等部に進学してからというもの、遅ればせながら彼女の魅力に気づいた男子生徒たちが忙しないことだね。まったく以て暗愚かつ稚拙なことだね」
「白が告白されているというのに呑気にわたくし相手にお喋りだなんて、甲斐の若様にしては間が抜けておりますこと」
虎子は口許を手で隠し、ほほほと笑った。
虎子からの意図的な挑発だ。密かに周囲を固める久峩城ヶ嵜家と甲斐家のボディガードたちは、ピリッと緊張した。主人同士の浅からぬ縁があり、彼らも既知ではあるが、主人の命令があれば対峙することは回避できない。
以祇は顔色ひとつ変えることなく余裕だった。
「白君に好意を寄せそうな人物は、まあ、大体は把握しているからね、焦ることはないさ。候補は何人かいるが、今日告白するなら……そうだな、一年F組の佐伯くんあたりかな。瑠璃瑛には高等部から入学したピカピカのルーキーさ。お父様は会社を経営されているよ。うちの傘下の電子部品会社のね」
「恐い情報網ですこと」
お互い様だよ、と以祇はわざわざ虎子の真ん前までやってきてニッコリと微笑んだ。
「虎子だって白君本人から逐一告白の仔細を教えてもらっているわけじゃないだろう。話していないことまで把握しているなんて、親友だからこそ、そちらのほうが余程恐いと言えなくもないと思うのだけれど」
「先を越された腹癒せにわたくしを糾弾するつもりですか」
「まさか。先を越されたも何も、僕は白君に告白する気はないよ。今はまだね」
「随分と余裕ですこと。優しい白のことですから、いつ情に絆されてしまうかもしれないのに、のんびりと構えていられるなんて。それとも勘違いした勝算でもあるのかしら」
「確かに白君は優しいけれど……」
以祇はアハハと軽い笑い声で虎子の厭味を受け流した。解っているくせに、とでも言いたげに。これから口にするのは、はふたりの間ではまるで冗談のように当たり前の認識だ。
「誰に何を言われたって白君は靡かない」
以祇は自分が入ってきた扉を、白が出て行ったであろう扉を、肩越しに振り返った。
そこに思い描いた白の後ろ姿。短かった髪は伸び、背や手足もやや伸びた。以前よりも笑顔を作ることが上手になり、異性を惹きつける可憐な少女に変容した。姿形が変わったことは誰の目にも明らかだ。
変わったのは姿形だけだ。
「今の白君には届かない、響かない、聞こえない。何も」
――僕の声も、彼女の声も、誰の声も、聞こうとしない。立ち止まって、耳を塞いで、口を噤んで。何かを堪え忍んでいるかのように、誰かを待っているかのように。
キミはさらに美しく変わってゆくのに、心は何処に置き去りにしてきたの?
「なぜ白君がああなってしまったのか、心当たりがあるんじゃないのかい、虎子」
「以祇こそあるのでしょう、その心当たりとやらが」
以祇と虎子は、視線をかち合わせて静止した。珍しく腹の探り合いではなく、共通認識の元に視線を交わした。
こういうとき、脳裏を過ぎるのはいつも同じ人物。当然のように結論がそこに行き着いてしまうことに、少々苦々しい気分になる。おそらくは或る種の敗北を認めていることと同義だ。彼に、甲斐以祇に、此國でできないことのほうがはるかに少ない男に、敗北を認めさせることができる人物が果たしてこの世に何人存在するだろう。
(こんなことになるなら……やはり早めに排除しておくべきだったな)
§ § § § §
高等部校舎・廊下の突き当たり。
放課後になると、その辺りはひとけがなくなる。今は男女の生徒がふたりきりで向き合っていた。
「ごめんなさい」
その言葉を告げて頭を下げる。そうすると相手はすべてを察して引き下がってくれる。この一言が相手を傷つけるものだと分かっていても、言わないわけにはいかない。親切でありたいと思うけれど、好きだと告げられてしまえば、必ず傷つけてしまう。向けられる好意に応えることは決してできないから。
中途半端に親切にするくらいなら、冷徹でいたほうがよいのかもしれないとまで考えたこともある。しかし、そうするのも良心の呵責に耐えられない。
申し訳ないと思いつつ造り笑顔をするのは、とても疲れる。その場から立ち去り、誰の気配も感じなくなるとホッと肩から力が抜けた。やるべきことをやったのだと気が楽になった。
「今日の夕飯、何にしよう……」
白は気が楽になった途端、今夜の献立を考えることを失念していたことを思い出した。呼び出しに応じなければと、そちらに気を取られていた。
冷蔵庫の中身を思い出しつつ献立を考え、何を買い足すか計画を立てながら廊下を進んだ。
ふと窓の外に視線を投げて足が停まった。校庭には運動部の姿や帰路に就く生徒たちの姿が見えた。校舎の何処からかピアノの音が流れる。音楽室が近いから音楽部の演奏が漏れ聞こえてくるのだろう。
すぐそこには動き回るたくさんの人々、それほど遠くはない校舎の其処彼処に確かに人の気配があるのに、廊下には誰もいない。校舎内に視線を引き戻すと、やはり視界には人っ子ひとりいなかった。この空間だけが世界から切り取られたかのように、ぽつんとただひとり。
――まるでわたしだけが、空間ごと世界と切り離されてしまったみたい。
(あ。まただ。またこの感覚……)
本当は、自分は此処に存在しないのではないかという奇妙な感覚。それなのにちっとも不安や焦燥はない。
誰とも判別のつかない人影も、遠くから聞こえてくる音色も、地面を踏んでいる感触も、交わした会話も、すべて自分が作り出した幻影なのではないか。いつの間にか睡りに落ちていて、何日も何日も過ごしたと感じているが実は一晩の夢に過ぎないのではないか。これが現実だなんて夢のなかの登場人物の誰が証明してくれる。
カツン。――手を突こうとした拍子に壁面に指輪が当たった。
左手の薬指の指輪――――異界の住人・耀龍の置き土産。さよならを言うときに白の薬指に残していった。肌身離さず持っていてくれと、決して忘れないでくれと、懇願のようなおまじないのような言葉とともに。
青天の霹靂だった。弟とふたりきりの生活に突如現れた天尊や耀龍と過ごした日々が、自在に天空を飛んで百雷を降らす魔法のような出来事が、とても現実とは思えない物事が、確かに現実だったという証。
実際に過ごした期間は数ヶ月間という単位だったが、振り返れば春の夜の夢が如く一瞬だった。始まりも終わりも突然で、呆気なかった。あれこそが自分が作り出した幻影なのではないかと錯覚するほど。
彼らがいた日常と、彼らがいなくなった日常と、どちらも現実味がないのにどちらも現実だから頭がおかしくなりそうだ。現実なのに現実味がないとは如何なることか。現実とは何であるのか、己がそうと信じれば夢幻も現実なのではないか。世界の定義が、己の視界と同義であるように。
もし好きなほうを選んでよいとしたら、どちらを現実であると定めるだろうか。
――銀太は、どう思ってるんだろう……。
あの日以来、あんなに懐いてたのにティエンの話もロンの話も一切しなくなった。銀太が話をしないのをいいことに、わたしもふたりのことに触れなかった。どうしてと、銀太に問い詰められることも自分に問いかけることも恐くて。
すとん、と白は廊下に両膝を突いた。
足から肩から全身から力が抜けてゆく。重力のままに突っ伏してしまいそうなところをすんで床に手を突いて持ち堪えた。
これは、代償なのかもしれない。天尊がいなくなった現実を受け容れたくなかった。さよならも告げなかったし告げられなかったから、別離を曖昧にしてしまった。大人びた冷静な振りをして、考えることを已めた。目を背けた、口を閉ざした、蓋をした。現実を受け容れることを拒絶した代償として、自身を偽った代償として、現実が何なのか解らなくなってしまったのだ、きっと。
「……君! 白君!」
白は誰かに呼ばれていると思って顔を引き上げた。以祇が血相を変えて駆け寄ってきた。
白は以祇を見ても自力で立ち上がろうとはしなかった。倦怠感が身に纏わりついて思考が追いつかなかった。
以祇はすぐさま白の身体を支えた。心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「何かあったかい、白君。具合でも悪いのかい」
「急に、もう、立っていたくないって……思っちゃって……」
ポツポツと、白は力無く言葉を落とした。
以祇はにわかに眉根を寄せた。白の様子は明らかに尋常ではなかった。かといって病院に連れて行くほどの急変でもない。しかし、見過ごせないほどにはおかしかった。
「家まで送るよ。すぐに車を回す。僕に捕まって立てるかい」
「いえ、大丈夫です。どこか悪いわけじゃ……」
送るから、と以祇に強く言われ、白にはそれ以上抵抗する気力も無かった。言われるがままにしてしまおうと思った。返事もせず手を取り肩を支えられて立ち上がった。
白はまたふと、窓外に目線を遣った。グラウンドでは先ほどと変わらず人影を動き回っており、景色が一部揺らめいて見えた。
「甲斐先輩。あれ」
「何だい」
「蜃気楼みたいなの、見えます?」
以祇は白が見ているらしい方向へ目線を向けたが、何もおかしなところは見て取れなかった。
きっと疲れているのだ。誰もいない廊下で頽れてしまうくらいだから。肉体の疲労の所為にしてしまいたかった。このような風になってしまうまで白に影響を与える人物がいるという事実が、自分にとってすこぶる都合が悪いから。
「僕には何も見えない。この気温では蜃気楼は起こらないよ、白君」
そうですよね、と白は独り言のような返事をした。
(……ああ、じゃああれは夢か……)
もう本当に、何が現実で何が夢なのか分からない。分からなくてもよい。
分かりたくない。
今も、みているの、かも。
朝の空気の冷たさ、制服の感触、無数の足音、友だちとの挨拶、堅い床、頬に日が当たる感覚、足を組んだ爪先に引っ掛かった靴、これらはすべて現実なのだろうか。二本の足で立って、蹴って、歩いているわたしは、本当に目を開けて、起きているのだろうか。
これが夢ならすべてがひっくり返る。どちらが現実でどちらが夢で、どちらの世界に立っているべきなのか、分からなくなる。
(また、下らないこと考えてた……)
ふう、と白は溜息を吐いた。
私立瑠璃瑛学園高等部・某教室。
ぼーっとしている内にHRはいつの間にか終了していた。すでに教壇に担任教師の姿はなかった。クラスメイトたちは通学鞄を持って次々と教室から出て行く。
自分も帰らねばと、気持ちを切り替えるように髪の毛を耳にかけた。髪の長さは毛先が肩にかかるほどに伸びた。運動をするとき以外は結んでいないことのほうが多い。
「白。車でお送りしましょうか」
白は隣の席から声をかけられ、そちらに顔を向けた。
隣の席は久峩城ヶ嵜虎子。そこは彼女の指定席のようになっており、この一年間ほどは席替えをしても暗黙の了解としてセットで移動した。御家柄の違いは天と地ほどあれど、彼女たちは自他ともに認める親友同士だ。
「今日は習い事、お休み?」
「ええ。日舞の御稽古が、先生の御都合でお休みになりましたの。行き先はご自宅ではなくて商店街のほうがよろしいかしら」
「んー。今日はいいや。わたしちょっと用事があって」
「用事?」
「うん、ちょっとね」
白はほんの少しだけ困ったような、言いにくそうな表情を見せた。
虎子はその表情の理由にピンと来た。伊達に初等部の頃から親友ではない。だからそれ以上追及をせず、そうですか、と納得して見せた。
白は虎子にバイバイと別れの挨拶をして通学鞄を肩にかけて教室から出て行った。
虎子も席から立ち上がったとき、ボディガードが背後に立った。彼は学業や友人関係の妨げにならないよう、学内では必要最低限しか虎子に接近しない。つまり、彼がそうしたということはその必要があったということだ。
虎子はまた椅子に腰かけて教室の扉を見据えた。
数秒後、扉が横にスッと開いた。現れ出でたのはひとりの男子生徒。ボディガードが虎子に告げたのは、彼の訪問だった。
彼は虎子と目が合うなり、やあ、と手を上げて笑顔で挨拶をした。しかし、虎子はニコリともしなかった。
彼はそのような冷遇にも慣れたもの。何も気にすることなく、教室内をキョロキョロと見渡しながら虎子の席に近づいた。
彼のお目当ては言わずと知れている。――――白だ。
「また学年の違う階を徘徊して。貴男はいつも余程時間を持て余していますね、以祇」
「僕は学内にあっては生徒会副会長だよ。それなりに多忙ではあるさ。時間を捻出して白君に会いに来たのだよ」
「それは残念ですこと。入れ違いです」
「白君は下校したということかな? まだ時間は経っていないかい。追いかけたら、帰宅の途中で追いつけるだろうか」
「白を送るつもりでしたらおやめなさい。今日は用事があるそうです」
「用事、というと御家庭の都合かな? 銀太くんは初等部に進学して送迎は不要になったはずだけれども」
「呼び出されたようでしてよ」
虎子の言葉を聞いた以祇は、やれやれと嘆息混じりに頭を左右に振った。呼び出されたという意味は当然分かっている。その上での余裕の笑みだった。
「またかい。白君が高等部に進学してからというもの、遅ればせながら彼女の魅力に気づいた男子生徒たちが忙しないことだね。まったく以て暗愚かつ稚拙なことだね」
「白が告白されているというのに呑気にわたくし相手にお喋りだなんて、甲斐の若様にしては間が抜けておりますこと」
虎子は口許を手で隠し、ほほほと笑った。
虎子からの意図的な挑発だ。密かに周囲を固める久峩城ヶ嵜家と甲斐家のボディガードたちは、ピリッと緊張した。主人同士の浅からぬ縁があり、彼らも既知ではあるが、主人の命令があれば対峙することは回避できない。
以祇は顔色ひとつ変えることなく余裕だった。
「白君に好意を寄せそうな人物は、まあ、大体は把握しているからね、焦ることはないさ。候補は何人かいるが、今日告白するなら……そうだな、一年F組の佐伯くんあたりかな。瑠璃瑛には高等部から入学したピカピカのルーキーさ。お父様は会社を経営されているよ。うちの傘下の電子部品会社のね」
「恐い情報網ですこと」
お互い様だよ、と以祇はわざわざ虎子の真ん前までやってきてニッコリと微笑んだ。
「虎子だって白君本人から逐一告白の仔細を教えてもらっているわけじゃないだろう。話していないことまで把握しているなんて、親友だからこそ、そちらのほうが余程恐いと言えなくもないと思うのだけれど」
「先を越された腹癒せにわたくしを糾弾するつもりですか」
「まさか。先を越されたも何も、僕は白君に告白する気はないよ。今はまだね」
「随分と余裕ですこと。優しい白のことですから、いつ情に絆されてしまうかもしれないのに、のんびりと構えていられるなんて。それとも勘違いした勝算でもあるのかしら」
「確かに白君は優しいけれど……」
以祇はアハハと軽い笑い声で虎子の厭味を受け流した。解っているくせに、とでも言いたげに。これから口にするのは、はふたりの間ではまるで冗談のように当たり前の認識だ。
「誰に何を言われたって白君は靡かない」
以祇は自分が入ってきた扉を、白が出て行ったであろう扉を、肩越しに振り返った。
そこに思い描いた白の後ろ姿。短かった髪は伸び、背や手足もやや伸びた。以前よりも笑顔を作ることが上手になり、異性を惹きつける可憐な少女に変容した。姿形が変わったことは誰の目にも明らかだ。
変わったのは姿形だけだ。
「今の白君には届かない、響かない、聞こえない。何も」
――僕の声も、彼女の声も、誰の声も、聞こうとしない。立ち止まって、耳を塞いで、口を噤んで。何かを堪え忍んでいるかのように、誰かを待っているかのように。
キミはさらに美しく変わってゆくのに、心は何処に置き去りにしてきたの?
「なぜ白君がああなってしまったのか、心当たりがあるんじゃないのかい、虎子」
「以祇こそあるのでしょう、その心当たりとやらが」
以祇と虎子は、視線をかち合わせて静止した。珍しく腹の探り合いではなく、共通認識の元に視線を交わした。
こういうとき、脳裏を過ぎるのはいつも同じ人物。当然のように結論がそこに行き着いてしまうことに、少々苦々しい気分になる。おそらくは或る種の敗北を認めていることと同義だ。彼に、甲斐以祇に、此國でできないことのほうがはるかに少ない男に、敗北を認めさせることができる人物が果たしてこの世に何人存在するだろう。
(こんなことになるなら……やはり早めに排除しておくべきだったな)
§ § § § §
高等部校舎・廊下の突き当たり。
放課後になると、その辺りはひとけがなくなる。今は男女の生徒がふたりきりで向き合っていた。
「ごめんなさい」
その言葉を告げて頭を下げる。そうすると相手はすべてを察して引き下がってくれる。この一言が相手を傷つけるものだと分かっていても、言わないわけにはいかない。親切でありたいと思うけれど、好きだと告げられてしまえば、必ず傷つけてしまう。向けられる好意に応えることは決してできないから。
中途半端に親切にするくらいなら、冷徹でいたほうがよいのかもしれないとまで考えたこともある。しかし、そうするのも良心の呵責に耐えられない。
申し訳ないと思いつつ造り笑顔をするのは、とても疲れる。その場から立ち去り、誰の気配も感じなくなるとホッと肩から力が抜けた。やるべきことをやったのだと気が楽になった。
「今日の夕飯、何にしよう……」
白は気が楽になった途端、今夜の献立を考えることを失念していたことを思い出した。呼び出しに応じなければと、そちらに気を取られていた。
冷蔵庫の中身を思い出しつつ献立を考え、何を買い足すか計画を立てながら廊下を進んだ。
ふと窓の外に視線を投げて足が停まった。校庭には運動部の姿や帰路に就く生徒たちの姿が見えた。校舎の何処からかピアノの音が流れる。音楽室が近いから音楽部の演奏が漏れ聞こえてくるのだろう。
すぐそこには動き回るたくさんの人々、それほど遠くはない校舎の其処彼処に確かに人の気配があるのに、廊下には誰もいない。校舎内に視線を引き戻すと、やはり視界には人っ子ひとりいなかった。この空間だけが世界から切り取られたかのように、ぽつんとただひとり。
――まるでわたしだけが、空間ごと世界と切り離されてしまったみたい。
(あ。まただ。またこの感覚……)
本当は、自分は此処に存在しないのではないかという奇妙な感覚。それなのにちっとも不安や焦燥はない。
誰とも判別のつかない人影も、遠くから聞こえてくる音色も、地面を踏んでいる感触も、交わした会話も、すべて自分が作り出した幻影なのではないか。いつの間にか睡りに落ちていて、何日も何日も過ごしたと感じているが実は一晩の夢に過ぎないのではないか。これが現実だなんて夢のなかの登場人物の誰が証明してくれる。
カツン。――手を突こうとした拍子に壁面に指輪が当たった。
左手の薬指の指輪――――異界の住人・耀龍の置き土産。さよならを言うときに白の薬指に残していった。肌身離さず持っていてくれと、決して忘れないでくれと、懇願のようなおまじないのような言葉とともに。
青天の霹靂だった。弟とふたりきりの生活に突如現れた天尊や耀龍と過ごした日々が、自在に天空を飛んで百雷を降らす魔法のような出来事が、とても現実とは思えない物事が、確かに現実だったという証。
実際に過ごした期間は数ヶ月間という単位だったが、振り返れば春の夜の夢が如く一瞬だった。始まりも終わりも突然で、呆気なかった。あれこそが自分が作り出した幻影なのではないかと錯覚するほど。
彼らがいた日常と、彼らがいなくなった日常と、どちらも現実味がないのにどちらも現実だから頭がおかしくなりそうだ。現実なのに現実味がないとは如何なることか。現実とは何であるのか、己がそうと信じれば夢幻も現実なのではないか。世界の定義が、己の視界と同義であるように。
もし好きなほうを選んでよいとしたら、どちらを現実であると定めるだろうか。
――銀太は、どう思ってるんだろう……。
あの日以来、あんなに懐いてたのにティエンの話もロンの話も一切しなくなった。銀太が話をしないのをいいことに、わたしもふたりのことに触れなかった。どうしてと、銀太に問い詰められることも自分に問いかけることも恐くて。
すとん、と白は廊下に両膝を突いた。
足から肩から全身から力が抜けてゆく。重力のままに突っ伏してしまいそうなところをすんで床に手を突いて持ち堪えた。
これは、代償なのかもしれない。天尊がいなくなった現実を受け容れたくなかった。さよならも告げなかったし告げられなかったから、別離を曖昧にしてしまった。大人びた冷静な振りをして、考えることを已めた。目を背けた、口を閉ざした、蓋をした。現実を受け容れることを拒絶した代償として、自身を偽った代償として、現実が何なのか解らなくなってしまったのだ、きっと。
「……君! 白君!」
白は誰かに呼ばれていると思って顔を引き上げた。以祇が血相を変えて駆け寄ってきた。
白は以祇を見ても自力で立ち上がろうとはしなかった。倦怠感が身に纏わりついて思考が追いつかなかった。
以祇はすぐさま白の身体を支えた。心配そうに白の顔を覗きこんだ。
「何かあったかい、白君。具合でも悪いのかい」
「急に、もう、立っていたくないって……思っちゃって……」
ポツポツと、白は力無く言葉を落とした。
以祇はにわかに眉根を寄せた。白の様子は明らかに尋常ではなかった。かといって病院に連れて行くほどの急変でもない。しかし、見過ごせないほどにはおかしかった。
「家まで送るよ。すぐに車を回す。僕に捕まって立てるかい」
「いえ、大丈夫です。どこか悪いわけじゃ……」
送るから、と以祇に強く言われ、白にはそれ以上抵抗する気力も無かった。言われるがままにしてしまおうと思った。返事もせず手を取り肩を支えられて立ち上がった。
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「甲斐先輩。あれ」
「何だい」
「蜃気楼みたいなの、見えます?」
以祇は白が見ているらしい方向へ目線を向けたが、何もおかしなところは見て取れなかった。
きっと疲れているのだ。誰もいない廊下で頽れてしまうくらいだから。肉体の疲労の所為にしてしまいたかった。このような風になってしまうまで白に影響を与える人物がいるという事実が、自分にとってすこぶる都合が悪いから。
「僕には何も見えない。この気温では蜃気楼は起こらないよ、白君」
そうですよね、と白は独り言のような返事をした。
(……ああ、じゃああれは夢か……)
もう本当に、何が現実で何が夢なのか分からない。分からなくてもよい。
分かりたくない。
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※小説家になろうにも投稿しています。
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