マインハールⅡ

熒閂

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Kapitel 03

誓約 02

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 暉曄宮きようきゅう耀龍ヤオロンの館。
 天尊ティエンゾンはアキラを連れて耀龍に借りている自分の部屋に戻った。帰還の報せを受けた耀龍がすぐに部屋に駆けつけた。
 アキラはテーブルセットのソファに腰かけていた。耀龍はアキラの隣に座り、顔色を観察したり脈を測ったりした。

「少し痩せたけど、身体に異常は無さそう」

「そうか。ならよかった」

 天尊は耀龍の言葉を聞いて小さく安堵の溜息を吐いた。

ロン。アキラを頼む」

天哥々ティエンガコは?」

「親父と話をしてくる」

(ゲッ。父様に)

 天尊からそう言われた耀龍は、咄嗟に顔色を変えた。

「父様と直接? ふたりきりで?」

「何だ。何か問題でもあるのか」

 天尊は口を挟むなという視線を耀龍に送った。
 アキラは小首を傾げた。

「ティエンのお父さんに?」

「アレでも軍人だ。俺より階級がずっと上のな。このままアスガルトを離れて、また命令違反だと無理矢理連れ戻されるのは御免だ。面倒だが筋を通して上官殿と話を付けることにした」

「それは簡単にできること?」

 アキラからの問いかけに天尊は確答しなかった。
 アキラは麗祥リーシアンが天尊を連れ戻しにやって来たとき、天尊がしたことの重大性を思い知った。天尊の職務について何も知らないが、命令違反を犯すことは強硬手段を執るに足る事由であり、必ず罰せられることなのだと認識した。
 天尊から愛の告白を受け、一緒にいたいと乞われたことは、嬉しいことだ。アキラとしてもそうなれば喜ばしい。だから、そんなことをしないでとは言わなかったが、また大変なことになるのではないかという不安は大きい。
 アキラは自分の前に立つ天尊にそっと手を伸ばし、衣服の袖をキュッと握った。弱ったように眉尻を下げて上目遣いに天尊に視線を注いだ。

「無理、しないでね?」

(かわ……ッッ‼)

 天尊のネェベルがブワッと一気に上昇した。

「ッ……!」

 人間でありアキラは何も感じないが、耀龍は無言で後退った。
 天尊はすぐさまハッと我に返って自身の感情の昂ぶりを抑え、耀龍は無言で批判的な視線を向けた。
 耀龍には正直、天尊の現状がよく分からない。制御不能だった《邪視》が突如として沈静化した理由も、それを維持できている理由も、説明できない。何の刺激で再び《邪視》が覚醒するとも分からない。非常に心臓に悪いから、むやみやたらと興奮するような言動は控えてほしい。

「少しくらいの無理ならする。アキラと一緒に暮らすためだ」

 天尊は顔の筋肉を緩めて、微笑んだ。
 自然と湧き出すような、滲み出すような、穏やかな笑み。アキラは天尊の表情を見て、内臓がキュッと締まるような感覚がした。一緒に暮らしていたのにそれは初めて見る表情であり、初めての感覚だった。

(ティエンってこんな顔だったっけ?)

 天尊は父親の許へ向かい、耀龍がアキラを部屋に送ることとなった。
 アキラと耀龍は館の廊下を横並びに歩いた。

「ティエンのお父さんとの話って、上手くいくと思う?」

 アキラは天尊たちの父親・赫暁ファシャオの人柄をまだよく知らない。ふたりきりで話したのは短い時間だが、一筋縄ではいかない印象を受けた。天尊が自分と暮らしたいというのは、簡単に首を縦に振る話なのだろうか。赫暁についてもこの世界の常識についても知らないことが多すぎて、不安が膨らむばかりだった。
 アキラから尋ねられた耀龍は、ゆっくりと足を進めながら宙を見遣った。

「…………。暉曄宮が壊れないといいなって思う」

「えッ」

(父様がアキラを口説こうとしたのが天哥々ティエンガコにバレたら大ゲンカだよねーたぶん)


  § § § § §


 部屋に戻ったアキラは、耀龍から食事を摂るように勧められた。数日間意識がない間も栄養補給はされていたらしいが固形物を口にしていない。水分を摂り、消化によいものを口にし、少々の甘いものを楽しんだ。
 それから、湯浴みをして侍女から髪を整えられ、人前に出られる綺麗な衣服に着替えた。アキラは天尊にベッドから連れ去られたから、湯浴みをするまで寝衣だった。アキラとしては彼らが寝衣としているくらいの軽装が煌びやかでなく動きやすく好みなのだが、此処の世話になる以上は彼らの指示に従うのが道理だろう。
 アキラが再び侍女によって着替えを促されて寝衣になる頃になっても、天尊からは何の音沙汰もなかった。耀龍から付けられた侍女たちが下がる時間となっても情況は変わらなかった。
 アキラは灯りが消された部屋でベッドに入って瞼を閉じても、一向に眠れなかった。胸のざわつきをこのままにして眠りたくなかった。

(……戻ってこなかったな、ティエン。話が終わったら会いに来てくれると思ったんだけど。お父さんとモメたりしてないかな。話が上手く進んでないだけ? それとも、また閉じこめられたり……)

 時間が経てば経つほど不安が大きくなる。やはり大変な無理をさせているのではないか。親子で喧嘩になってはいないだろうか。天尊は無事でいるだろうか。再会を果たして気持ちを確認し合っても、また離れ離れになるのではないかと不安で堪らない。だって、一度引き離されたのもふたりの意思ではなかった。

 アキラの足は自然と天尊の部屋へと向かった。静まり返った館を足音を立てないように進んだ。
 天尊の部屋から自分の部屋まで耀龍と歩いたから道順は頭に入っている。来客用の部屋同士だからそう離れてはいない。廊下には等間隔に点々と灯りが点っており、夜間でも迷うことはなかった。
 天尊の部屋の前まで辿り着いたが、ノックはしなかった。会いに来るタイミングを逸するほど父親と話しこんでいたならきっと疲れている。負担を掛けたくはなかった。

(ティエン、部屋のなかにいるのかな……)

 アキラは天尊の部屋のドアを背にしてカーペット張りの床に座りこんだ。膝を抱えて組んだ腕に頬を載せた。
 ドア一枚隔てた向こうに天尊がいると思うと、なんとなく少しホッとした。そうか、安堵したのかと自覚すると、知らない間に知らない土地へ連れてこられ、自分で思っているよりも気を張っていたのだなと気づいた。
 天尊が怖ろしい怪物になってしまうなんて最悪の事態を乗り越えたのに、知らない人に囲まれている程度のことにまだ緊張しているなんて、自分でも少々可笑しかった。
 耀龍も麗祥も気遣ってくれているのは分かる。天尊の弟であり協力者であるのに、心をすべて預けて頼り切れない。信頼できないということではなく、これは自分の性分だ。

(早く家に帰りたいな……)

「こんなところでどうしたッ」

 もう少しだけ気分を落ち着けたら部屋に戻ろうと思っていたのに突然声をかけられた。
 アキラはビクッとして顔を引き上げた。
 天尊が廊下の先から足早に近づいてきた。アキラが立ち上がるよりも早く、目の前にやって来て片膝を突いた。

「どうしたんだ。何かあったのか、誰かに何かされたか」

 天尊は慌ただしく尋ねた。
 アキラは過剰に心配させてしまったことが気恥ずかしくなって顔を背けた。

「ティエン、部屋のなかにいなかったんだ。何でもない。ごめん……っ。自分の部屋に戻る」

「本当に何もないんだな?」

 アキラは天尊のほうに顔を向けずコクコクと頷いた。

「ちょっと……寂しかっただけ」

 やはり天尊がいると気が緩むのかもしれない。ポロリと本音が出てしまった。
 天尊の手が反射的にアキラに伸びた。しかし、宙に浮いてピタリと停まった。

「触れてもいいか?」

「う、うん? 何で今さら?」

「冷静になって面と向かうと少しな……。俺はアキラを傷つけてしまったから」

 天尊の表情には深い悔恨が滲んでいた。
 アキラは天尊の表情を晴れさせたくて、まだ恥ずかしさが残っているのに懸命に作り笑顔を見せた。

「ティエンの所為じゃない、よ」

 天尊はドアノブに手をかけてドアを開いた。アキラの膝の裏と背中に腕を差し入れて軽々と抱え上げた。アキラを抱えて部屋のなかへ入り、スタスタと寝室に進み、ベッドの上にアキラを降ろした。一度アキラの視界から消え、ドアを閉めてすぐに戻ってきた。
 アキラは自分の前に立った天尊を見上げた。

「お父さんとの話、終わった?」

 天尊は白から顔を逸らして口を一文字に結んだ。

「ダメだったの?」

「…………。途中だ」

 そう……、と白は小さな声で零したが落胆はなかった。
 何もかも自分の思うとおりになるなどとは考えていない。難しいこともすんなりいかないことはある。それでも、これまで遠い遠い距離に離れていたことを思えば、目の前にいる分、何とかなるような気がした。一度絶望を知ったからこそ、生半可な困難くらいなら希望はゼロではないと思える。
 白は天尊の顔を下から覗きこみ、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「子どもみたいなことして、ごめん」

 天尊は、部屋の前で待っていたことだなとピンと来た。

「謝るな。俺が悪い。心細い思いをさせてすまなかった。待たせたな」

「ずっと待ってたわけじゃないよ。部屋のなかにティエンがいると思ってたから……ちょっと近くに行きたかっただけ」

 天尊はやや目を大きくした。

「……俺が恋しかったということか?」

 アキラはかあっと頬を赤くして咄嗟に顔を片手で押さえた。
 少しでも傍に行きたかった、顔を見たら安心する、行動も感情も、恋しかったのかと問われたら否定できる要素が無い。言葉で再確認されたら顔を隠したくなるくらい恥ずかしかった。

「あまり可愛いことを言うな。この部屋にはいま俺たちふたりしかいないんだぞ」

 天尊はアキラの頬を指の外側でなぞった。
 アキラは擽ったかったが、頬が熱くて顔を上げられなかった。

「寝室でそんなことを言われたら理性が保たん」

「えッ」

「当然だろう。俺はアキラを愛している。夜更けに恋人同士が寝室にふたりきりだ。理性は強いほうだが、惚れた女にこうも可愛い真似をされたら我慢が効かなくなる」

(恋人同士になるってそういうことか~~ッ)

 アキラはさらに頬が火照り、思わずぎゅ~っと力いっぱい瞼を閉じた。互いに気持ちを伝え合ったが、その先の具体的な想定はしなかった。
 ギッ。――天尊がベッドに片膝を載せた。
 アキラは、天尊の顔が真正面から近づいてきて、反射的に上半身を後ろに引いた。天尊に肩に手を置かれ、その重みで背中からベッドの上に倒れた。
 天尊はアキラの上に覆い被さり、その赤くなった顔を眺めた。この情況にアキラが困っているのは察したが、こういう体勢になった以上、退く気も無かった。

「どこまでなら許す?」

「ど、どこまでって……⁉」

「アキラが嫌がることはしたくない」

 本音は今すぐにすべてが欲しい。愛の告白をして受け容れられた。一緒にいると約束を結んだ。愛情も未来も手に入れられたなら、次は髪も肉もすべてが欲しい。奪うことは簡単だ。しかし、この手で一度身体も心も傷つけておきながら、深いところに許しなく踏み入るなどできなかった。
 アキラは意識的に天尊と目線を合わせないようにしつつ、宙を見詰めて逡巡した。天尊の問いかけが男女の触れ合いの段階を意味するのは分かる。しかし、何処まで許すのが適当なのかなど、分かろうはずがなかった。
 アキラは一度きゅっと唇を噛んでから、気合いを入れて再び口を開いた。

「……キス、とか……?」

「グッ!」

 ぼんっ。――天尊はベッドの上に握り拳を落とした。
 天尊としても、異性経験の乏しいアキラが許容できるラインなど自分の願望のかなり手前であろうと覚悟はしていたが、実際に提示されると素直に落胆した。
 いやいや、莫迦か俺は、とすぐに思い直した。落胆するなど烏滸がましい。嫌われて恨まれても仕方がないほどのことをしたのに、素手で触れて、口吻まで許されたのは僥倖だ。
 僥倖が与えられたなら、機会を逃さない内にさっさとものにしてしまうべきだ。目の前の無抵抗の獲物を見過ごすのは、本物の莫迦だ。
 天尊はアキラの顎に指を添えた。
 天尊と目が合い、アキラの心臓はドクンッと大きく跳ねた。天尊の期待するレベルに達していなくても、何も知らない子どもではない。今から起こることの予想は充分にできる。しかし、肉体は想定に追いつかない。心臓がバクバクバクッと大きく鼓動した。
 アキラは顔を耳まで赤くして瞼も唇もかたく閉じた。全身もぎゅうぎゅうに強張った。真っ暗な視界で天尊が小さな笑みを零したのが耳に届いた。
 身体に覆い被さる重みがじわじわと増し、天尊が顔を近づけてくる気配がした。もう逃げられないと覚悟し、ただ待つしかできなかった。自分から何かをする余裕なんて無かった。

(心臓、痛い痛い痛い……ッ)

 心臓が痛いくらいに鼓動して、呼吸が停まって、時間を長く感じて、もう遂には早くして、と願った。
 フッと柔らかくて生温かいものが唇に触れた。
 感触にしてしまえばそのようなもの。いや、本当はよく分からない。心臓がギューッと握られたみたい。顔が熱い。頭も熱い。何も考えられない。こんなことをするなんて自分ではないみたい。

 唇と唇が離れると、アキラは天尊の胸板を押し返した。同時に、恥ずかしくて顔をできる限り背けた。
 天尊は自分が重たいのかと思い、ベッドに手を突いて上半身を浮かせた。

「心臓、痛いっ……てば」

 天尊は笑顔で、そうかと零した。
 ――ちょっと楽しそう? 何で。
 アキラは胸が痛くて呼吸が苦しいから、天尊の上機嫌を少々恨みがましく思った。自分ばかりが苦しい思いをしているみたいだ。怪我をしたときですら恨みなど沸いてこなかったのに、何故だか今は天尊が憎らしい。

「もう一度だ」

「ええ……っ」

「アキラ。待て。逃げるな」

 天尊はアキラの顎を捕まえて自分のほうへ向かせた。
 アキラは顔を真っ赤にして瞳にはうっすらと涙が浮いた。恥ずかしさもあるが動悸が治まらず、ずっと心臓が痛い。

「もうダメッ」

「ようやくアキラに触れる許しが出たのにそれはないぞ」

「もうダメだってばっ。ダメッ……」

 天尊は再びアキラに覆い被さり、唇と唇とを合わせた。
 触れ合った頬の熱がいじらしい。組み敷いた肉体の柔らかさが愛らしい。無駄だと知りつつ男の身体を懸命に押し返そうとする様も可憐。ダメだと禁じる声さえも甘い。――――形作るすべてが、愛しい。
 未来永劫、この身命が尽きるまで愛おしい。


  § § § § §


 アキラの部屋。
 アキラは窓辺に腰かけてボーッと空を眺めていた。
 本日も天尊は父・赫暁との話し合いに行った。順調なのかそうでないのか、アキラには分からない。否、昨夜の天尊の態度を思い出すに、おそらく順調に進んではないのだろう。上手くいっているのであれば、天尊は自信満々であろうから。

(今日は天気よくないな……)

 灰色の雲が多くて青天が覗けない。昼間だというのに薄暗く、今にも降り出しそうな天候だ。
 アキラが空を眺めてぼんやりとそのようなことを考えていると、空がピカッと閃いた。
 ズドドォーーンッ!
 突如、落雷の轟音が館を揺らした。ビリッビリッと身体にまで響く大きな落雷だった。
 キャアーッ、と侍女たちが悲鳴を上げた。

「雷……まさか」

 窓辺から離れて部屋の出入り口に向かおうとしたアキラを、侍女たちが食い止めた。

「おおぉ、小姐シャオヂエ小姐シャオヂエ。お外においでになってはいけません。危のうございます」

「外どうなってるんですか今」

「御館様と无天尊ウーティエンゾン様が大変お怒りあそばして……」

 アキラは自分の前に立ち塞がる侍女たちを掻い潜り、部屋の出入り口へと走った。


「自分の力も制御できんのにミズガルズへ行くだァ? このバカ息子が!」

「だから、できるっつってんだろうがクソ親父ッ」

 ――上空では、赫暁と天尊が飛び回って掴み合ったり殴り合ったり、時にはネェベルの光線や光球を投げつけ、互いを罵り合った。
 庭に面した館の廊下では、館の主・耀龍と赫一瑪ファイーマが上空にいるふたりを見上げていた。赫一瑪は変わらず無表情。耀龍は若干ハラハラしていた。とばっちりで自分の館を壊されたのでは堪らない。

一大哥イーダーガ。父様がアキラを口説いたって天哥々ティエンガコに言った?」

「言わぬ」

「じゃあ知らなくてもケンカになっちゃったかー」

 耀龍は嘆息を漏らして指先で前髪をいじる。

「オレの館の上でケンカするのやめてほしい……。一大哥イーダーガ、アレ止めなくていいの?」

「あの程度であればよかろう。人死にが出るでもない」

「え~。とめてよ~。父様と天哥々ティエンガコに割って入るなんてオレ無理だもん」

 パタパタッ、と廊下を駆ける足音が聞こえ、耀龍はそちらを振り向いた。
 アキラが数人の侍女にあとを追われながら全力で駆けてきた。貴人は慌てて走ることなどしない。高貴な家に仕える侍女たちは、お待ちください、お待ちください、とアキラを追うのに必死だった。

「ロン。あれってティエンだよね。何してるのッ?」

「親子ゲンカ」

「ええッ⁉」

 耀龍は上空を指差した。

天哥々ティエンガコが父様に話を付けてくるって言ってたじゃん。それがアレ」

 それを聞くや否や、アキラは庭に飛び出した。上空を見上げて「ティエン!」と必死に呼んだ。
 天尊の耳にアキラの声が届き、そちらに目を遣った。その刹那。
 ガキィインッ!
 赫暁の渾身の拳が天尊の顔面にぶち当たった。
 その一撃の威力は凄まじく、天尊は上空で持ち堪えられず殴り飛ばされた。
 ズドォオンッ! ――天尊は地面に叩き落とされた。
 天尊は直ぐさま身体を起こし、上空にいる赫暁を睨みつけた。

「クソ親父が~~ッ!」

 アキラは庭に落下した天尊に駆け寄った。

「ティエン。大丈夫ッ?」

「アキラ。いま近づいたら危ない」

 天尊は片膝立ちの体勢でアキラに言った。
 アキラはしきりに頭を右往左往させて天尊に大きな怪我がないか全身を観察した。

「骨とか大丈夫? ひどいケガしてない?」

 天尊は赫暁に殴られた箇所をグイッと拭い、問題ないと答えた。
 アキラはよしと頷いてスーッと息を吸いこんだ。それから、拳を握ってグーを振り上げた。

「こらあッ! お父さんに乱暴しちゃダメでしょッ」

「ッ……」

 不意に怒鳴られた天尊は、面喰らって押し黙った。

「大ケガしたらどうするの! こんな殴り合いのケンカしてッ……ケンカはそのとき一瞬の感情だけど、ケガを治すのは時間がかかるんだよ。もしも一生もののケガしたらどうするの。そんなの、ティエンもお父さんも絶対後悔するよッ」

「だがッ……」

 口答えしようとした天尊を、アキラはビシッと人差し指で指してそれをさせなかった。眉を逆八の字にした顔を、腰を屈めて天尊に近づけた。

「ティエンはお父さんと話をするって言った。こんなケンカするなんて言わなかった」

「話にならんのは向こうだ」

「ティエンとは一緒にいたいけど、ティエンが家族と仲が悪くなるのはヤダ。そうなるんだったら、わたしはティエンと離れて暮らしても――」

 パシッ、と天尊はアキラの口を手の平で覆った。
 アキラが言おうとした決意は、天尊の聞きたくない言葉だった。アキラは弟のために縁を絶つことさえ選ぶ女だ。離れて暮らすことくらい決心してしまう。

「……分かった」

 天尊は眉間に皺を寄せて声を絞り出した。

「アキラの望むとおりにする」

 ストン、と赫暁が天尊と白から2メートルほど先に着地した。
 天尊は地面に片膝を突いた体勢からスッと背筋を伸ばし、赫暁に身体の正面を向けて対峙した。アキラの手前、父親と実力行使で争うことは已めたものの、変わらず反抗的な顔付きだった。
 赫暁は自分に対して憤る息子の胸中を見透かしていた。フッフッフッと肩を揺らして笑った。

「お前がこうも簡単に折れるとはな。成る程確かに。或る程度制御はできるようだ」

「チッ!」と天尊は大きな舌打ちをし、アキラは「めっ」と脇から叱りつけて天尊の衣服の袖を捕まえた。

「せっかく再会叶ったのにまた無碍に引き離すのも、愛らしい姑娘クーニャンに酷だ。お前の能力を見こんで、ひとつ任務を与える。任務を果たした暁には、望むよう休暇をやろう」

 赫暁は不敵に口の端を吊り上げた。

「ニーズヘクルメギル少佐――……。直ちに原隊復帰し、北の地へ向かえ。グローセノルデン大公からのご指名だ」
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