ベスティエンⅢ【改訂版】

花閂

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#26: Bitter enemies in the same boat

Crews assemble. 04✤

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 市立深淵ミブチ高校から最寄り駅までの道中。
 備前ビゼン勇炫ユーゲンはスマートフォン片手に通話をしながら下校中。通話の相手は女の子。本来なら楽しい会話の真っ最中だが今日はそうもゆかなかった。
 がっちりした体格の大柄な男が、勇炫の背後にびったりとついてきていた。男は何やら一所懸命に話しかけるが、勇炫はスマートフォンを当てていないほうの耳を人差し指で塞いで騒音をシャットアウト。

「あー、その日はバイトのシフトどうやったかな……。あ、イヤ、行く行く。絶対行く。うん、うん。せや、遊びに行く約束前からしてたやん。絶対行くさかいスネんといて」

「坊ちゃん、坊ちゃん。勇炫坊ちゃん!」

 勇炫は突然通話を終了。ピタリと足を停めて追跡者のほうを振り返った。

「外で坊ちゃん言うな言うてるやろが、ダァホがァッ!」

 勇炫は騒音を撒き散らしていた追跡者を、それを上回る大きな声で怒鳴りつけた。
 追跡者はしゅんと肩を窄めた。

「す、すみません……勇炫さん」

「その〝さん〟も要らんで。俺のほうが年下や」

「いいえ、そんな! 宗家の跡取りの勇炫さんを自分なんかが呼び捨てには……」

「昔からほんまクソマジメやな、石和」

 石和[イサワ]は現在、備前宗家の師範代を務める男だ。彼は幼い頃に入門し門弟としての歴は長く、勇炫が物心をついた頃にはすでに道場にいたという印象だ。共に稽古に励んだ仲であり、付き合いは最も長い一人である。
 彼は非常に真面目で篤実な人物だった。年齢は二十代の半ばも過ぎており勇炫とはいくつも年齢差があるが、跡取りと一門弟という関係性を重視する。何より勇炫の実力を認めて惜しみない敬意を払う。

「人のガッコで待ち伏せしよって。ストーカーかお前」

 勇炫は不機嫌な態度を隠そうともせず、スマートフォンをズボンのポケットに仕舞った。
 ストーカーとまで罵られても石和は申し訳なさそうにペコペコと頭を下げるだけ。気難しい跡取りとは付き合いが長いだけあって不機嫌に接せられることには慣れていた。

「勇炫さんが御実家にも連絡先を教えはらへんさかいやむを得ず。勇炫さんのお邪魔をするつもりはありまへん。少しお話しする時間をええですか」

「武術バカにおもろい話がでけるとは思わへんけどなー」

 勇炫は厭味を欠かさなかったが立ち去れとは言わなかった。
 その歩く速度が先ほどよりもゆっくりだったから、石和は発言を許されたと判断して隣を歩きながら口を開いた。

相模サガミ道場との親善試合が決まりました。大将として試合に出てください」

 やはり面白くない話だった。勇炫はハハッと乾いた笑みを浮かべた。

「俺の説得に石和寄越すなんか、親父はセンスあれへん」

「これは師範の言い付けちゃいます! 自分の意思で来ました」

「俺なんか要らんやろ。師範代のお前がおれば万事上手くいく。第一、ロクに稽古もしてへん俺が試合に出たらほかの門下生の不満買うで」

「あっ……ああ! 流石勇炫さんは道場のことを考えはって――」

「武・術・バ・カ、メデタイことぬかすな」

 石和は喜んだ次の瞬間に厭味を喰らい「うぐっ!」と口を噤んだ。

「ほかのヤツがどう思うかなんか方便や。察しろや。俺より歳喰ってるクセにそんなんでどうすんねん。社会人としてしっかりやれてるか心配になるわ。周りから空気読めへんつまらんヤツやて言われてるで多分」

 勇炫からの追撃が石和の胸をグサッグサッと突き刺した。

「俺はなー、お前みたいな真っ直ぐなヤツとは根っからちゃうねん」

 お前とは違う。しかしこれは攻撃ではない、と石和は察した。
 石和は胸を押さえて勇炫に目線を向けた。端正な横顔に浮かぶ笑みは自嘲に見えた。

「損は嫌いや。無駄な努力はしたない。勝てへん勝負なんか願い下げや。試合の要諦は勝ち負けちゃうなんか建前やろ。殴って殴られするからには誰だって勝ちたいわ。なんぼ頑張っても勝たれへんて分かっとるのに努力を続けられるほどアホにはなられへん」

「そんなこと…………勇炫さんは誰よりも強いです」

「察しは悪くてもおべんちゃらはでけるか、石和。俺より強いヤツなんかこの世にぎょうさんいてる」

 勇炫がフフと笑って顔を上げると、自分の横を走るコンクリート塀の上を闊歩する黒猫とふと目が合った。黒猫はピタリと足を停めて固まっていた。しかしすぐさま目を逸らし、長い尻尾で緩い弧を描いた。下界のことになど興味はないという澄まし顔で散歩を再開。トトトと視界を横切っていった。猫とは何ともまあ悠々自適で気位の高い生き物だ。

「道場ではお前とが一番付き合い長いさかいよう知ってるやろ。俺がなんぼやっても虎宗タケムネ君には勝たれへん。備前金剛最強は俺ちゃう、アイツや」

「勇炫さんが本気にならはったら、相模の能登にも勝てます!」

 ――本気出したら? 誰があんなクソおもんないヤツの為に本気なんか出したるか。
 石和も親父もアホや。実力差も測れんほど節穴ちゃうクセに、身内の依怙贔屓か宗家の見栄か、いつまでも俺が勝つこと期待しとる。誰がお前等の為なんかに本気出したるか。
 勇炫はクッと口の端を引き上げた。石和には勇炫の笑みの理由など分かろうはずもない。石和に察することができないと分かっていながら、決して言葉にしてやらない自分を本当にひねくれていると思う。とんでもなく素直な男を相手にしていると余計に自分の性悪振りを思い知る。
 にゃーお。
 自身に愛想を尽かしている勇炫の頭上に猫の声が降ってきた。鳴き声のほうへ目線を向けるとコンクリート塀の上で先ほどの黒猫が座っていた。
 猫撫で声を上げながらも孤高の獣の目。愛想を振りまき媚びを売り、生きる為に人間に擦り寄って施しを受けても、所詮は獣。人とは一線を画し人に成り代わることはできないし、きっと彼もそのようなことを望んでいやしない。猫は猫として、自由気儘に闊歩することを望んでいる。首輪のない猫を囲うことなどできやしなのだ。
 猫という名の獣ですら自由と短い生を謳歌しているというのに、人間に生まれ付いた自分は逃れられぬ鎖に繋がれている。鎖を断ったつもりでも首輪は残っている。

「どうしてもあかんですか。試合に出るの」

「どうしても言うなら、日当が出るなら考えんでもない」

「勇炫さんッ」

「石和、ネコや」

 勇炫はコンクリート塀の上にいる黒猫に向かって腕を伸ばした。黒猫は勇炫の招きに応じるように腕の上に前肢を置いた。尻尾をピンと立ててコンクリート塀の延長のように器用に歩いて肩まで到達した。黒の毛皮が頬を掠めときに獣の匂いがした。

「ネコ、飼うてみよかな」

 勇炫は黒猫を腕に抱いてビロードのような毛皮を撫でる。
 視線も合わせずまったく無関係な独り言を零すあたり、この人はもう俺の話を真面に聞く気はない、と石和は悟った。言い返されたり反論があったりする内はまだよいが、こうなってしまっては石和程度では打つ手がない。

「勇炫さんがそこまで言わはるならこれ以上無理に試合に出てくださいとお願いしまへん。当日顔だけでも出してもらわれまへんか。勇炫さんが来てくれはったらみんなの士気も上がります」

 まだそのようなことを言うのか、と勇炫は半ば惘れた。
 実家道場を飛び出し、稽古もしない、当主に反発している跡取り息子など、ほかの門弟にとってはその場にいるだけで士気が上がるどころか疎まれるだけだ。当たり前に考えれば彼等の心情など分かりそうなものだが、それに気づかないほど石和から勇炫への贔屓は相当だ。

「いきなり俺が顔出したら親父が嫌な顔するで」

「そんなことありまへん。師範もほんまは勇炫さんに戻って来てもらいたいと思てはるはずです」

 そこまで言うなら、と勇炫は嘆息を漏らした。師範代の石和が言うのだ。自分が道場の雰囲気など気にしてやる義務はない。

「お前の顔立てる思て行くだけ行ったってもええで。親父のイヤそなツラも見れるやろし」

「ほんまですか⁉」

「あくまでお前の為や、石和」

「ハイ! 光栄ですッ」

「日当出る?」

「自分が出します!」

(ほんま操りやすいクソマジメやな)

 勇炫は、明らかに晴れやかになった石和の顔を眺めながら胸中で毒突いた。

「大将はお前が張るんやろ。相手はあの虎宗君やで大変やけど、まあ気張りや」

「イエ、今回の相模の大将は能登ちゃいます」

「虎宗君以外が大将を? 誰や」

 これは勇炫の気を引く話題だった。虎宗は流派全体のなかでも卓越した人材。小さな町道場にそれを凌ぐ人材がいるなど考えられなかった。

近江オーミ渋撥シブハツ、いう男です」

「《荒菱館コーリョーカンの近江》が……?」

 黒猫を撫でていた勇炫の手が停まった。
 黒猫は勇炫が石和に気を取られている間にタッと肩を蹴ってアスファルトへ降り立った。自分に構っていた人間を見上げても、もう目線が合わなかった。自分への関心をなくした人間に早々に見切りを付け、スッと背筋を伸ばして四つ足で立ち上がった。ピンと尾を垂直に立ててしゃなりしゃなりと去っていった。

「勇炫さん、この男知ってはるんですか」

「俺より強いヤツなんかこの世にぎょうさんいてる、言うたやろ。その内の一人や」

「ほな自分が勝ちます」

 石和は勇炫との距離を一歩詰め、ズイッと顔を近付けた。
 勇炫は少々驚いた表情で石和を見詰めた。裏表のない石和がひねくれ者の勇炫にこのような反応をさせることは珍しかった。

「自分がソイツに勝ってみせます。そしたら勇炫さんは道場に戻って来てください」

「はあ?」と勇炫は思いっきり眉を潜めた。

「勇炫さんが道場から離れる前、明らかに自分よりも強かった。自分が勇炫さんより強いっちゅうソイツに勝ったら、今の自分は努力して昔の勇炫さんよりは強くなったっちゅうことや。勇炫さんも鍛練を積めば、昔よりも今よりも強くなる、相模の能登よりも強くなるっちゅうことや」

 石和は背筋を伸ばして厚い胸板を張った。両の拳を握り締め、目には炎が宿った。師範代として責務を果たす以上の使命を得た。彼は勇炫の実力を、嘘偽りなく心から、誰よりも、何よりも、信じている。勇炫本人よりも。

「勇炫さんが本気になれば誰よりも強いっちゅうことを、自分が証明します」
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