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Kapitel 13:雷鎚
雷鎚 03
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「《雷鎚》といえば音に聞こえた剛の者。力を大幅に制限され、質を取られ、防御を奪われ、得物も持たぬ、到底本領とは言えぬ貴様を仕留めねばならぬのは実に残念だ。一族を守護する戦士として、貴様とは本気で手合わせしたかったが……」
「のっけから汚い真似をしておいて何を今さら。卑怯者になる腹も決めきれんか、この半端者が」
天尊は侮蔑をこめてハンッと鼻で嘲弄した。
何が戦士だ。まるで誇りがあるような口を利く。何の抵抗もできない無力な少女を人質にしておいて、なんという厚顔だ。
ヒンメルは天尊からの罵倒に反論せず地面を蹴った。剣を頭上に構えた姿勢を保ち、標的に向かって突進した。
ガッキィン! ――ヒンメルと天尊は、組み合った。
刀身は天尊の頭上で停止していた。ヒンメルは剣を振り下ろしたが、天尊はヒンメルの手首を捕まえて斬撃を防いだ。
ヒンメルが全力で押しても引いても天尊はビクともしなかった。
(力負けするだと⁉ 私よりも細身でありながら何という膂力!)
ボゴォオッ! ――ヒンメルが驚愕している隙に、天尊の蹴りが腹部にめりこんだ。
その威力はヒンメルの巨体の足許を浮かせて後方へ吹っ飛ばした。
ヒンメルはドシンッと地面に落ち、ゴロゴロゴロッと転がりながら体勢を立て直した。片膝を突いて顔を上げると、すでに眼前に追撃が迫っていた。
天尊は拳を振りかぶった。
ガキンッ! ――ヒンメルは半弧の刀身の幅を楯として天尊の拳を防いだ。
剣を大きく振るって天尊の拳を弾き、ドスッと地面に突き立てた。自身も拳を握って天尊に対抗した。
天尊は素早く突き出されるヒンメルの拳を躱しつつ、徐々に後退した。
ヒンメルは天尊と或る程度の距離が取れると、剣の柄に手を伸ばした。剣を地面から引き抜いて片手でブゥンッと振り回した。
天尊の服を剣の切っ先が掠めた。そこで怯まずヒンメルの懐へ踏みこんだ。剣を振った直後、ヒンメルの懐は無防備だった。
ドッスゥッ! ――天尊の拳がヒンメルの脇腹深くを抉った。
「グアッ……!」
ヒンメルは堪らず二、三歩後退した。
バサッと天尊のコートがはためいた音。顔を上げると、天尊がすでに次の拳を振りかぶっていた。
これは避けきれない。ヒンメルは歯を食い縛った。
ガキィインッ! ――天尊の拳がヒンメルの顔面を殴り飛ばした。
強烈な一撃に、ヒンメルは大きく上半身を仰け反らせた。頭部が激しく上下に揺さ振られ、そのまま後方に倒れそうになるが、どうにか踏み留まった。
顔を引き戻すと、地面すれすれを這う天尊の蹴りが迫っていた。
間一髪その場から飛び退き、天尊の蹴りはヒュンッと宙を切った。
ヒンメルは数歩後退して天尊と距離を取った。天尊を視界の真ん中に据えて剣を構え直した。
(やはり強い……!)
ルフトとヴィントは、人質を抱えて天尊がへし折った大木とは別の木の上へと移動した。そこから天尊とヒンメルの対決を見守っていた。
少しでも高い位置へ移動するのは、羽を背負う彼らの習性のようなものであり、本能的なアドバンテージだ。
「姉様。ヒンメルとともに《雷鎚》を討たずともよろしいのですか。ご覧のとおり《雷鎚》は得物を持たずともかなりの手練れです」
「ヒンメルの好きにさせよう。私たちと違い、ヒンメルには戦士の矜恃があろうから」
私たちと違い――――では、私たちはどうだという。
ヴィントには、ルフトが敵との歴然たる格差を克服するために、卑怯者に成り下がらざるを得なかった自身を卑下しているように思えた。
彼らは一族のために、個人の誇りを捨てた。生涯を一族のために捧げると決めた。自ら望んでそうしたはずなのに、滅私しきれない感情が自身の内に残留していた。
「この目で見ても、いまだ信じがたいな。あの悪魔が、人間ひとりのために不利を呑むとは。彼奴の力ならば制限下であれ、私たちを返り討ちにすることなど易かろうに」
「《雷鎚》にとって、この娘がそれほど特別な存在であるということでしょうか。確かに人間は珍しいものですが」
ヴィントは小脇に抱えている人間の少女に目を落とした。
異界の住人たち誰もがミズガルズの存在やそこで生活する生き物を認知しているわけではない。その存在を知識として知っている者も、関心は薄い。そもそもふたつの世界は自由に往来できるものではない以上、人間を実際に目にする機会が無い。
白を攫った彼らも、人間に対して特段の関心も知識も持たなかった。
「特別な存在を守るために己を犠牲にする、か」
ルフトはクッと笑みを漏らした。
ヴィントはルフトのほうへ視線を移した。
「おかしな情況になったものだ。こんな年若い娘を質にとっている私たちよりも、あの悪魔のほうが真っ当に見える」
「何を仰有いますか。彼奴がしたことに比べれば、人間ひとり質に取ることが何だというのです」
ルフトは、ヴィントに抱えられた人間の娘を無言で見詰めた。
ヴィントはその眼差しを見てゾクッとした。
姉の目には憐憫があった。否、罪悪感すら見て取れる。無力な少女を人質にしたのは恥ずべき行為であることは理解できる。しかし、自分たちには大義がある。手を汚すだけの覚悟がある。手段を選べないほどの切迫した理由がある。白髪の悪魔は完全なる悪であり、正義は我らにあるというのに、何が姉を思い悩ませるのか分からなかった。
う……、と人間の少女が腕のなかで身動ぎし、ヴィントはハッとした。
「つっ……あいたた……?」
白はうなじ当たりに痛みを感じて顔を顰めた。
高い木の上で何者かに抱えられて両脚がつかない体勢。意識が戻ってすぐに自分が置かれている情況が尋常でないと気づいた。
「目を覚ましたか」
白は声がしたほうを見た。
気絶する直前に見た顔触れ。天尊に敵意を持つ者に自分は捕らえられたのだと瞬時に理解した。
「あなたたちさっきの! どういうことですかコレ! 何でボクをッ」
「すまぬな。お前に恨みはない」
「すまないと思ってるならボクを自由にしてください。家に帰りますッ」
「それはできぬ。私たちはまだ大事な役目の途中だ。それが終われば無事に帰す。約束する」
「誘拐するような人の約束なんて信じられない!」
ルフトの物言いは落ち着いていたが、白はそうもいられなかった。自分では歯が立たないと分かっている相手に攫われたのだから余裕などなかった。
「小娘とはいえ暴れられては面倒です。今一度眠らせて――」
ヴィントはスッと手刀を構えた。
バヂィンッ! ――突如、三人の頭上を電撃が穿った。
天尊の仕業に決まっている。ルフトとヴィントがバッとそちらを見ると、天尊がギロッと睨みを利かせた。
「その女に手を出したら殺すと言ったはずだ」
「ティ、ティエン⁉」
白は天尊の姿を見て顔色を変えた。天尊の衣服には血痕と思しき赤い染みがいくつもあり、怪我を負っていることは明らかだった。
(無事だったか)
天尊は白を見詰めて自然と目を細め、心底安堵した。この場に来てからずっと白は身動ぎひとつしなかった。もう息がないのではないかと、当然にして最悪な憶測が常に脳内にあった。
白の意識が戻ったところで、天尊のダメージが回復するわけもなければ、人質となっている情況は好転しもしなければ、全力を出せば白を殺すという条件が無効化するわけでもない。それでも、白が生きている、その事実だけで天尊を奮起させるには充分だ。
ドォンッ! ――人間の少女を見詰めて呆ける天尊にヒンメルが突っこんだ。
天尊は局所的な〝壁〟、つまり不可視の楯を造って攻撃を防御した。
不可視の〝壁〟は巨体との衝突によって弾け飛んだ。
ヒンメルは剣を振り上げ、天尊の脳天目がけて振り下ろした。
ズゥンッ! ――天尊はヒンメルの手首を受け止めて剣の振り下ろしを防いだ。
天尊とヒンメルはその場で拮抗した。互いに踏ん張った足の裏が地面にめりこんでも一歩も引かなかった。
「真剣勝負の最中に余所見とは、私を愚弄するつもりか! 貴様は戦士の矜恃も解さぬかッ」
「人質を取って丸腰相手に粋がっている下衆が、真剣勝負だの矜恃だのとほざくな。支離滅裂で恥ずかしい限りだな、肉ダルマァッ!」
天尊と拮抗して鎬を削り、間近でその眼光と向き合うヒンメルには分かった。その眼光は明らかに先ほどよりも強くなった。爛々と燃え盛る闘志が宿った。天尊は確かに白の生存に鼓舞された。
勢いづかせてはならない。これはヒンメルの戦士としての経験から来る直感だ。
ズバンッ! ――ヒンメルは羽を左右に大きく広げた。
羽根の一枚一枚がメキメキと蠢く。おそらくは何らかの予備動作。しかし、ヒンメルの剣によって上から押さえこまれている天尊は、飛び退けなかった。
ドドドドドドドドッ! ――無数の羽根が高速で発射された。
それは鉛玉のような硬度をもって天尊の肉体に突き刺さった。
「がっはぁっ……!」
マシンガンを身に受けたかのような衝撃。天尊の全身から真っ赤な血飛沫が上がった。
「ぬぅんッ!」
ヒンメルは刀剣の柄から片手を離した。柄を握る自分の手にガァンッと渾身の力で拳を叩きつけた。
その衝撃で天尊の太腿の傷口からブシュウッと鮮血が噴き出した。天尊はヒンメルの剣を支えたまま地面に片膝を突いた。
ヒンメルは刀剣を高く翳した。
ザバァァアアッ!
天尊は袈裟切りに一太刀を浴びせられた。
血が激しく噴き上がり、ヒンメルに降りかかった。刀身やその衣服を見る見るうちに赤く染め上げた。見事な切り口、出血量、それは致命傷になり得る深手だった。
天尊は片膝と片手を地面に突いた。指を地面にめりこませて握り締め、大きく肩を上下させた。
「ハァー、ハァー、ハァーッ」
ボトッボトボトボトッ、と荒い呼吸に合わせて大粒の真っ赤な雫が地面や手の甲に降りかかった。
「ティエン、ティエンッ!」
白はしきりに天尊の名を叫んで宙に浮いた足をバタバタと動かした。
もしも自分を抱えている男が思わず取り落としたり煩わしくなって手を離したりしたら、この高度から垂直落下することになるが、そのようなことは考えていられなかった。
「もうやめてください! ティエンが死んじゃうッ」
「私たちは必ずあの悪魔を殺す」
白は必死だったが、対比的にルフトの声は落ち着いていた。愉悦や威勢に任せてやっているのではなく、強い意向を感じた。
「悪魔って、ティエンのこと……? ティエンは悪魔なんかじゃない。あんなヒドイことやめてください。ティエンを殺さないで」
「悪魔だ」
「違います」
「悪魔だ」
「ティエンは優しい人です」
「彼奴の冷酷な行いを本当に何も知らずに優しいと言うのなら無知で幸せな娘だ。知っていて言うのなら、心底愚かだ」
「ティエンは――……」
白は眉根を寄せて項垂れた。
おそらくもう、知っている。天尊の行い、生い立ち、経歴、為人、すべてを見たわけではないが、冷酷で合理的で徹底的で容赦がない人物であることは見知った。それでいて尚、優しいと思いこもうとするのだから、確かに愚かだ。
しかしながら、白は天尊を家族と受け容れた。天尊は何処へも行かないと、味方でいると約束してくれたのだから、白も天尊を見放すことはしたくなかった。
「彼奴は、私たちの部族を滅ぼした悪魔だ」
「え……」
――ティエンが? ひとりでどうやって? そんなこと本当にできるの?
ダメ。やめろ。考えるな。ティエンが今まで何をしたかなんて気にしないって決めたじゃないか。
ボクは、ボクの知っている、ボクたちと暮らすティエンだけを信じるんだ。
「親も友人も仲間たちは、私たち三人を残しすべて死に絶えた。彼奴は私たちの仇。彼奴の罪を如何にして償う。命は命でしか贖われぬのだ」
「でも! ほかに何かッ……」
白は思わずバッと顔を上げたが言葉は途切れた。天尊を助けてほしさに口を突いて出ただけだ。ほかにどのような方法があるかなど、白にも分からなかった。
「ほかに方法があるとすれば、何でもできるかのような口振りだな」
ヴィントは高圧的に放言した。過酷な世間を知らぬ少女を少々小馬鹿にする内意があった。
「ティエンを助けてくれるなら」
「ではお前は、彼奴の身代わりに死すら受け入れるか。命は命でしか贖われぬ。命を奪った代償は命だ。彼奴の命はお前の命で賄え」
ヴィントの猛禽の目がキラリと光り、白は息を呑んだ。
間近で見ると再認識する。自分と似た姿をしても能力に於いて人間を遙かに凌駕した、得体の知れない存在。本来なら言葉を交わすことすら恐ろしい。
天尊を悪魔と面罵する彼らも、正義の下に命を奪う行為に良心の呵責はない。たかが人間なら尚更だ。目的を達成したら無事に帰すと口約束はしても、障碍となるなら迷いなく排斥する。
「……嘘をつかないで」
白は恐怖を噛み殺して腹に力を入れて声を絞り出した。
ヴィントからの提案に首を縦に振ることなど有り得ない。脳裏には銀太の姿が浮かぶ。弟を残して命を擲ってしまうことなどできない。
しかしながら、銀太のことを抜きにしても白はその提案を受け容れなかった。ヴィントの目付きは恐ろしく、そして大いに癇に障った。
「ボクを試してるんですか。そうするつもりもないのに命を懸けろなんて言わないでください」
そう答えた白の声は微かに震えていた。
怯えながらも明確な意思表示だった。自身は捕らえられ、頼みの綱の天尊は手出しができない、万事休すの追いこまれた情況で、人間の少女が毅然と言い返すなど、ルフトとヴィントには予想外だった。
「なかなかに気丈な娘だ」とルフトはほんの少しフフッと笑みを零した。
「私たちは何があっても已めぬよ。お前如きが何をしたところで、あの悪魔の罪が償われることはない。たとえ、命をかけようともな」
ルフトはヴィントの傍まで移動した。しゃがみこんで白の顔を覗きこんだ。
見れば見るほど普通の少女。もしも自分と同じ世界の住人であったとしても、ただの子どもとまったく警戒しないだろう。このような無垢な少女が何故、悪魔を庇い立てするのか不思議だ。
「のぅ。何故、あの悪魔が斯様に膝を突いてまでお前を守ろうとする? 何故、お前は彼奴を救おうとする?」
「ティエンはボクの……ボクたちの家族だから」
ヴィントがハッと鼻で笑った。
「家族など世迷い言を。彼奴はニーズヘクルメギル。アスガルト最古の大貴族の一員。人間如きを家族とするはずがない」
「そうか、家族か」
ルフトはヴィントとは正反対に白の言葉をすんなりと聞き入れた。
ヴィントはやや意外な目付きでルフトを見る。
「覚悟を決めておかねばならぬな、ヴィント」
「姉様?」
「《雷鎚》を獲り本懐を遂げれば、その日より私たちが恨まれる側になる。……恨み続けるのも苦しみだが、恨み抜かれるのもきっと苦しかろう」
殺し殺され恨み恨まれるは、不断の連鎖。一度始まってしまったら、廻り始めてしまったら、絶えない廻転に誰も彼も巻きこまれ誰もいなくなるまで止まりはしない。それをそうと知りつつも、抜いた剣を納められない、愚かしく哀しい宿業。
「姉様!」とヴィントが声を上げた。
「わ、私が生きているのはこの恨みがあればこそです! 姉様とともにあの悪魔を討つことのみを胸に、今日この日まで生きて参りました。本懐を遂げた後のことなどどうとでもなればよい! 姉様の決めたこと、姉様のなさることが正義です。仰有ってください、彼奴を殺せと。私は恨まれることなど微塵も恐れませんッ」
ルフトは、必死にそう訴える姿を見て、弟にとっては生きることと恨み憎むことは同義なのだと今さらながら思い知った。
冷徹に命を刈り取る行為を悪魔と批判しながら、罪深い行為を裁こうとしながら、生の喜びをこの弟に教えたことがあったろうか。否、そもそも姉弟揃ってそのようなことを考えたことがあったろうか。
命の尊さや生の喜び、愛の優しさ、全部全部、目に見えなくて不確かだ。言葉ではそれらを完全に具現化しきれない。幸福な生涯のためにとても大切なものなのに。
ルフトはスッと立ち上がった。ヴィントの頬に触れて眉尻を下げて微笑んだ。
「お前がそのようなことをする必要はないよ、ヴィント」
命の尊さ、それはおそらく、仲間の無念を忘れまいとする残された者の悲しみと慈しみ。
生の喜び、それはおそらく、報復の呪縛や何もかもの枷から解き放たれて得られるであろう自由。
愛の優しさ、それはおそらく、姉が弟を想い、弟が姉のために悲願を遂げようとする直向きさ。
悪魔を心底恨み憎んでいるが、同時にたったひとつの命を捧げても惜しくないほど弟を愛している。愛憎が蠢き合う消化不良のなかで剣を握る。迷いなく何かを実行できるほどには、堅くも強くもない。
ルフトは背筋を伸ばし、敵のほうへ顔を向けた。
シャッ、と鞘から一息で抜刀してトンッと足許を蹴って宙に身を投げ出した。
「私はルフト! 貴様に滅ぼされたフォーゲルフェダルの遺民にして最後の戦士! 報いを受けろ《雷鎚》ッ」
羽を大きく広げて空中で軽やかに体勢を立て直し、標的に向かって地面すれすれを滑空する。
標的である天尊の背中に対して剣の切っ先を垂直に構えた。
ガンッ! ――ルフトの剣は硬いものに阻まれた。
天尊の創出した不可視の〝盾〟に剣の切っ先がぶつかってキチキチッと鳴いた。
天尊はやや緩慢な動作で肩越しにルフトを見た。
「何が戦士だ。大声を張り上げて殺気を撒き散らして。実戦経験なんかほとんどないんだろうが。大方、貴様らのなかで戦士と言えるのはこのデカイのだけだ」
パカァンッ、と天尊は手の甲でルフトの剣の腹を叩き飛ばして振り向いた。
ルフトは剣を弾かれて痺れる手首を握って天尊を睨んだ。
天尊は顎の角度をやや仰角にしてルフトを眼下に見据えた。
「舐めるな」
そう放言した天尊の眼光を見上げ、ルフトはゾクッとした。
何だこの目は。このような目は、これまでに見たことがない。敵を目の前にしてこのような目をする者がいるなんて知らなかった。色が無い。生気が無い。生々しさが無い。眼前の敵に対して何の感情もない。
そこにあるのは敵を粉砕するという強固な意志だけだ。重力のように漫然と純粋な、攻撃意志。愛憎に思い悩まされながら戦う自分とはあまりにも異なる。
ルフトは抗えない重力によってその場に縫いつけられた。完全に射竦められてしまった。猛禽の双眸を大きく見開き、肩を引き絞る天尊の姿を網膜に焼きつける。
バッガギィイインッ‼
落雷のように強烈な一撃が、大地を断ち割った。
地面に突き刺さった天尊の腕にパリッパリッと電流が迸る。亀裂に沿って駆け抜け、先端まで達しては弾けて空気中に霧散する。まさに神話の鎚――――《雷鎚》。
天尊はチッと舌打ちした。
間一髪、ヒンメルがルフトを抱えてその場から退避させたのが見えた。
ヒンメルはルフトを脇に抱えて空へと飛び上がっていた。天尊を眼下に見下ろし、バサッバサッと羽を羽搏かせて滞空する。
「迂闊に近づくなと言ったろう。距離を取れ。制限があれど彼奴は危険だ。危険すぎる。私たちなどとはそもそも血統が違う、格が違う、スペックが違う」
ぽたたっ。――生温かい液体がルフトの顔面に降りかかった。
ルフトはヒンメルを見上げてギョッとした。その顔面の半分は真っ赤だった。
「その傷は!」
「先ほど一太刀浴びせたときに即座に反撃された。危うく耳を削がれるところだ」
ヒンメルの顎先から頬を通って蟀谷近くまで大きく裂けていた。傷口が脈打って血がどぷどぷと流れ出る。
さらに、ルフトはヒンメルの腕から離れて自身の羽で飛び、ヒンメルの全身を確認して違和感を覚えた。片腕が荷物のようにぶらんとぶら下がっている。骨か腱を負傷したのだろう。
白髪の悪魔は絶対的に不利にありながら、ルフトとヴィントが目を離したわずかな隙に、屈強な戦士であるヒンメルに痛手を負わせていた。想定を上回る強敵であると、直接渡り合ったヒンメル自身は何よりも身を以て実感した。
「よくよく分かった。私如きが一騎打ちで敵う相手ではないのだ、彼奴は。それが《雷鎚》だッ……!」
命も魂も誇りも、持てるものすべて懸けたところで、到底届かない願いというものは存在する。宿業を受容して命の限り従属すると誓ったところで、たったひとつの願いすら叶わない。運命は過酷であり、辛辣だ。まるであの男のように。
あの男は強者であり、その他大勢は弱者だ。転覆しようのない事実だ。自分如きが命を捨てても無駄だ。不惜身命に意味を見出せない。あの男は不公平や不条理のかたまりだ。捕食者であると世界が宿命づけた、力の申し子。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ」
天尊の呼吸は荒かった。
肩に刺さった鋼の羽根を掴んで乱暴に引き抜き、自身の血液が滴るそれを地面に投げ捨てた。彼らフォーゲルフェダルの羽根は鋼鉄のような硬度をもち、鋭利な太い釘が肉に食いこんでいるのと大差ない。引き抜く度に、ビシュウッ、ブシュッ、と血飛沫を噴いた。
カァン。――最後に太腿の羽根も引き抜いて地面に投げ捨てた。
足許に捨てた羽根に目を落とすと、血液で濡れ滴って月光を浴びてヌメヌメとした光沢を放った。これだけの血液を失ったのだと考えると忌々しい。
しかしながら、天尊の気骨が折れることはなかった。そのようなことはあるはずがない。飛行が羽を持つ彼らの本能であるように、戦闘は天尊の本分であり本能だ。本能的に備わった能力差を、見せつけてやらねばならない。強者に刃向かうとは何を意味するのかを、思い知らせてやらなくてはならない。
――まだだ。まだ戦える。まだ薄皮一枚切ったようなもんだ。
立って戦え。立って罵れ。立って打ち倒せ。
まだ俺は生きている。生きている限り戦える。生きたまま戦う意志を捨てるのは敗北者だ。命の使い途は決めた。俺は決して惨めな敗北者にはならない。
いいや、違う。もう俺の命は俺のものですらない。俺の命運はおそらく、アキラに出逢ったときに決まった。
だが悔いは無い。
ルフトとヒンメルは、天尊が一足飛びに届かないように充分な距離を取った地点に降り立った。
「彼奴に近づくのは得策ではないということだな。距離を取り射殺す。それで止めを刺せないまでも、身動きを封じてから首を獲る」
ルフトは背を反らせてバサンッと大きく羽を広げた。続いてヒンメルも同様に羽を広げた。
ドドドドドドドッ! ――ふたりから鋼の羽根が発射された。
無数の弾丸と化したそれは月光を受けてキラキラと煌めいた。
視界いっぱいにチカチカと散らばった光。天尊はチッと舌打ちした。
(クソッ。視界が霞む。軌道が見えん)
ヒンメルに手傷を負わせたが、天尊が負ったダメージはそれ以上だった。全身に鉛玉を喰らい、致命傷でもおかしくない大きな刀傷。出血量だけでも意識を保っているのが不思議なくらいだ。飛び退いて回避しなければと瞬時に判断したが、最早身体の反応がそれに追いつかない。
ガガガガガガガッ!
天尊はその場から一歩も動かなかった。しかし、膝を折ることはなかった。
弾丸の如き鋼の羽根はただのひとつも天尊に届かなかった。
天尊は、ハアーッと大きな息を吐いた。
「何しに来やがった。莫迦か」
「来るに決まってるでしょ、弟なんだから。莫迦じゃないの」
聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
突如として現れた気配。ルフトとヒンメルは、空を見上げて警戒した。夜空を背負った、茶金の髪の青年とスーツ姿の巨躯がこちらを見下ろしていた。
耀龍と縁花は、天尊の傍にストンと降り立った。
天尊に羽根の弾丸が届かなかったのは、耀龍が創出した〝壁〟によって遮られたからだった。しかし、天尊はありがたいという表情は見せなかった。
「縁花の後ろにでも隠れていろ」
何で、と耀龍は心外そうに言い返した。
それから、有翼人種の三人をぐるりと瞥見した。彼らが確かに白を確保している現況も、天尊ほどの実力者が此処までのダメージを負った理由も、すぐさま把握した。
そして、やはり耀龍の記憶にも彼らの情報はなかった。
「彼ら一体何者? ミズガルズに追ってきてまで天哥々を狙うなんて」
「私たちは、百余年前の〝種族純化施策〟の生き残りだ」
ルフトの言葉に、耀龍は「種族純化施策?」と聞き返して小首を傾げた。
「揃いも揃ってそれがどうしたという顔をする。貴様たち、貴族というものは」
ルフトは耀龍を指差して鼻の頭に皺を寄せて忌々しげに放言した。
「私たちのような存在など貴様たちにとっては誠にどうでもよいのだ。私たちの日々の暮らしなど、生き死にすらも、取るに足らないものなのだ。己が百余年前に何をしたかなど覚えてもおらん」
「百年前、百年前と喧しい。亡霊か」
天尊は足許にペッと唾棄して言い捨てた。鉄の味がする口内が気持ちが悪い。
ルフトは犬歯を剥き出しにして天尊を睨みつけた。
耀龍を睨むのとは段違いの猛烈な敵意。彼女は貴族という身分そのものを疎ましくは思うが、天尊個人を正真正銘憎んでいる。
「亡霊だとも! 百余年間、貴様を呪うことで永らえてきた亡霊だ! 百余年前の〝種族純化施策〟の折、亡霊を生み出したのは貴様自身であろうがッ」
耀龍は自分の後ろにいる縁花を振り返った。
「亡霊って何の話? その施策って縁花知ってる?」
「はい」
「彼女が怒ってる理由も見当付く?」
おそらくは、と縁花は頷いた。
「〝種族純化施策〟とは、優秀な種族の遺伝的情報の保護・存続を目的とする施策です。その一環として下位種族のカテゴライズ、活動領域の制限、新たな居住エリアの区分などが決定されました。施策は賛成多数で決議されたものではありましたが、下位種族のなかには施策に反発する者も少なからずおりました。同時にこの施策には強制力が付与され、抵抗勢力に対して実力を行使することも決定されました」
「実力行使ってことはつまり」
「レジスタンスに対する武力制圧です。彼らは武器を持ち蜂起しておりましたので」
縁花は手の平を上に向けて天尊を指し示した。
「その折、レジスタンス鎮圧の実行部隊に任命されたのが、大隊長率いる三本爪飛竜騎兵大隊です。レジスタンスと言っても、そのほとんどが辺境の少数部族。完全武装した三本爪飛竜騎兵大隊の障碍にはなり得ません。おそらくは、彼ら自身もそう申しておりますとおり、その折の生き残りではないかと」
縁花がそこまで言い至ると、天尊も或ることを思い出して「あ」とポロリと零した。
その一言は、実に呆気なく軽く、ルフトには滑稽に感じられた。弟とともに抱いていた積年の恨みは、脳裏に焼きついて一日たりとも離れない絶望の映像は、その後の生き方を決定づけた人生最悪の事件は、この男にとっては容易く忘却してしまえる些少なものに過ぎない。あの日に人生が一変してしまった者たちがいることなど、この男は知らない。遺されたふたりきりの姉弟のことなど、世界は知らん顔をする。
「私は幼かったが憶えている……忘れられるものか。今でもあの日の光景が目に焼きついて離れぬ。貴様があの日のことを忘れても、私は貴様を憶えている。黒い乗り物に跨がって白髪を靡かせる貴様をな! 貴様が降らせた雷の雨のなか、幾人もの仲間が撃ち落とされ、地を這いずり回って息絶えた。地獄だ! 私は父が地に落ちるところをこの目で見たのだぞ!」
ルフトはブルブルと小刻みに震える自分の肩を握り締めた。幼いときに目にしたあの日の恐怖が、まるで昨日のことのように鮮明にぶり返した。
あの日、世界には蓋がされた。辺り一面暗黒雲、大地を照らすのはわずかに漏れる光だけ。 恐ろしげな雷鳴が終わりなく幾重にも轟く。住み慣れた村は大火の行進に呑まれた。住み慣れた故郷以外の土地など知らない幼子は、世界は今日終わるのだと思った。
暗雲を晴らさんと勇ましく大地を飛び立った大人たちは、すぐに戻ってきた。焼け焦げた姿で。よく知る親しい人たちが、黒く臭い肉のかたまりに成り果てた。
ぎゃあぎゃあと泣き叫んで逃げ惑った。それしかできなかった。何の力も持たない幼い童だったから。
何処にいてもどのようなときでも、あの日を忘れることは片時もなかった。幾度も幾度も悪夢に魘されては泣きながら目を覚ました。忘れようとしたこともあったが忘れられなかった。忘れずにいることが、恨み続けていることが、たった三人残された同胞の生き延びる術だった。
――嗚呼、世界なんて終わってしまえばよかったのに。幸福な日々と愛する人たちが潰え、わたしたちだけ残されるくらいなら。
しかしながら残酷にも、大きな世界はわたしたちの気持ちなど、わたしたちの心など、お構いなしに廻転し続ける。世界は大きい。あまりにも宏大だ。わたしという存在が須臾の塵にも等しいほど。
「いっそ殺してくれればよかったものを……」
ルフトの目に涙が浮かび、頬を伝って顎の先から離れて落ちた。
こんなにも恨み辛みで苦しい日々を生きるくらいなら、幸福の何たるかも知らずに育った弟に復讐の道を歩ませる羽目になるなら、愛する人たちと同じときに終わってしまったほうがよかった。なまじ生き残ってしまったから、その意義を探してしまう。血塗られた復讐しか残されていないというのに。
天尊は二本の足でしっかりと地面を踏み締めて背筋を伸ばし、フーッと息を吐いた。
目を逸らすことなくルフトを真っすぐに見た。女が泣こうが喚こうが関係無い。天尊には信念がある。矜持がある。ドグマがある。
「戦うことを選んだのは貴様らだ。従属せず反発し武器を持ち、敵と戦うことを選んだのはお前の親や仲間だ。一度腹を決めたなら、そのために死んで本望だろうが」
ルフトはカッと大きく目を見開いて涙の玉を散らした。
「誰が好きで戦など起こすか! 故郷を奪い戦わざる得なく追いこんだのは貴様らだ!」
「俺たちが好きで戦ったとでも思っているのか、この莫迦がッ!」
天尊は、噛みつくような勢いのルフトよりも、一回り大きな声で咆えた。
彼らの行動動機は分かった。怨恨の理由も分かった。だが、だから何だ。それを受け止めてやる義理はない。八つ当たりもよいところだ。道理に暗い弱者の泣き言など聞いていられない。
「お前たちが住み慣れた場所を追われたのは、そう決めたヤツがいるからだ。俺たちが、大隊がお前たちを制圧したのは、そうせよと命じられたからだ。勘違いをするな、誰かひとりのとびきりの悪党がいるワケじゃあない。唯ひとつの強大な悪なんてものは幻想だ。そんな分かりやすい敵など存在しない。名前も姿もない曖昧かつ膨大な意思、世界を決定付けるのはそんなモンだ。お前たちを根絶やしにしようとしたのは、大多数の意見だ、世界のルールだ。世界は絶対的支配者のためじゃなく、大多数の利益のために廻っている。言うなれば、世の中がお前たちを不要だと決めたんだ!」
ルフトが知る世界のすべて――気持ちのよい風と穏やかな気候、生まれた土地での安らかな日々、大好きな人たちと生きる故郷――小さな世界。大きな世界から見れば、小さな世界しか知らないわたしたちは、もっともっと小さな砂粒に過ぎないのだろう。踏み躙られ、見捨てられ、忘れられてゆく、須臾の塵。
「やめて……」
ヴィントの耳に風鳴りのような姉のか細い声が聞こえた。
ルフトの瞳からポロポロと涙が零落した。
天尊の言葉の意味を理解したときに絶望した。この世界そのものに。生きる意味の曖昧さに。討つべき仇敵は白髪の悪魔でないのならば、復讐には意味がない。つまり、それを絶対の目的として必死に生きた生涯にも意味がない。では、何のために生を受け、何のために生き残った。
最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
「のっけから汚い真似をしておいて何を今さら。卑怯者になる腹も決めきれんか、この半端者が」
天尊は侮蔑をこめてハンッと鼻で嘲弄した。
何が戦士だ。まるで誇りがあるような口を利く。何の抵抗もできない無力な少女を人質にしておいて、なんという厚顔だ。
ヒンメルは天尊からの罵倒に反論せず地面を蹴った。剣を頭上に構えた姿勢を保ち、標的に向かって突進した。
ガッキィン! ――ヒンメルと天尊は、組み合った。
刀身は天尊の頭上で停止していた。ヒンメルは剣を振り下ろしたが、天尊はヒンメルの手首を捕まえて斬撃を防いだ。
ヒンメルが全力で押しても引いても天尊はビクともしなかった。
(力負けするだと⁉ 私よりも細身でありながら何という膂力!)
ボゴォオッ! ――ヒンメルが驚愕している隙に、天尊の蹴りが腹部にめりこんだ。
その威力はヒンメルの巨体の足許を浮かせて後方へ吹っ飛ばした。
ヒンメルはドシンッと地面に落ち、ゴロゴロゴロッと転がりながら体勢を立て直した。片膝を突いて顔を上げると、すでに眼前に追撃が迫っていた。
天尊は拳を振りかぶった。
ガキンッ! ――ヒンメルは半弧の刀身の幅を楯として天尊の拳を防いだ。
剣を大きく振るって天尊の拳を弾き、ドスッと地面に突き立てた。自身も拳を握って天尊に対抗した。
天尊は素早く突き出されるヒンメルの拳を躱しつつ、徐々に後退した。
ヒンメルは天尊と或る程度の距離が取れると、剣の柄に手を伸ばした。剣を地面から引き抜いて片手でブゥンッと振り回した。
天尊の服を剣の切っ先が掠めた。そこで怯まずヒンメルの懐へ踏みこんだ。剣を振った直後、ヒンメルの懐は無防備だった。
ドッスゥッ! ――天尊の拳がヒンメルの脇腹深くを抉った。
「グアッ……!」
ヒンメルは堪らず二、三歩後退した。
バサッと天尊のコートがはためいた音。顔を上げると、天尊がすでに次の拳を振りかぶっていた。
これは避けきれない。ヒンメルは歯を食い縛った。
ガキィインッ! ――天尊の拳がヒンメルの顔面を殴り飛ばした。
強烈な一撃に、ヒンメルは大きく上半身を仰け反らせた。頭部が激しく上下に揺さ振られ、そのまま後方に倒れそうになるが、どうにか踏み留まった。
顔を引き戻すと、地面すれすれを這う天尊の蹴りが迫っていた。
間一髪その場から飛び退き、天尊の蹴りはヒュンッと宙を切った。
ヒンメルは数歩後退して天尊と距離を取った。天尊を視界の真ん中に据えて剣を構え直した。
(やはり強い……!)
ルフトとヴィントは、人質を抱えて天尊がへし折った大木とは別の木の上へと移動した。そこから天尊とヒンメルの対決を見守っていた。
少しでも高い位置へ移動するのは、羽を背負う彼らの習性のようなものであり、本能的なアドバンテージだ。
「姉様。ヒンメルとともに《雷鎚》を討たずともよろしいのですか。ご覧のとおり《雷鎚》は得物を持たずともかなりの手練れです」
「ヒンメルの好きにさせよう。私たちと違い、ヒンメルには戦士の矜恃があろうから」
私たちと違い――――では、私たちはどうだという。
ヴィントには、ルフトが敵との歴然たる格差を克服するために、卑怯者に成り下がらざるを得なかった自身を卑下しているように思えた。
彼らは一族のために、個人の誇りを捨てた。生涯を一族のために捧げると決めた。自ら望んでそうしたはずなのに、滅私しきれない感情が自身の内に残留していた。
「この目で見ても、いまだ信じがたいな。あの悪魔が、人間ひとりのために不利を呑むとは。彼奴の力ならば制限下であれ、私たちを返り討ちにすることなど易かろうに」
「《雷鎚》にとって、この娘がそれほど特別な存在であるということでしょうか。確かに人間は珍しいものですが」
ヴィントは小脇に抱えている人間の少女に目を落とした。
異界の住人たち誰もがミズガルズの存在やそこで生活する生き物を認知しているわけではない。その存在を知識として知っている者も、関心は薄い。そもそもふたつの世界は自由に往来できるものではない以上、人間を実際に目にする機会が無い。
白を攫った彼らも、人間に対して特段の関心も知識も持たなかった。
「特別な存在を守るために己を犠牲にする、か」
ルフトはクッと笑みを漏らした。
ヴィントはルフトのほうへ視線を移した。
「おかしな情況になったものだ。こんな年若い娘を質にとっている私たちよりも、あの悪魔のほうが真っ当に見える」
「何を仰有いますか。彼奴がしたことに比べれば、人間ひとり質に取ることが何だというのです」
ルフトは、ヴィントに抱えられた人間の娘を無言で見詰めた。
ヴィントはその眼差しを見てゾクッとした。
姉の目には憐憫があった。否、罪悪感すら見て取れる。無力な少女を人質にしたのは恥ずべき行為であることは理解できる。しかし、自分たちには大義がある。手を汚すだけの覚悟がある。手段を選べないほどの切迫した理由がある。白髪の悪魔は完全なる悪であり、正義は我らにあるというのに、何が姉を思い悩ませるのか分からなかった。
う……、と人間の少女が腕のなかで身動ぎし、ヴィントはハッとした。
「つっ……あいたた……?」
白はうなじ当たりに痛みを感じて顔を顰めた。
高い木の上で何者かに抱えられて両脚がつかない体勢。意識が戻ってすぐに自分が置かれている情況が尋常でないと気づいた。
「目を覚ましたか」
白は声がしたほうを見た。
気絶する直前に見た顔触れ。天尊に敵意を持つ者に自分は捕らえられたのだと瞬時に理解した。
「あなたたちさっきの! どういうことですかコレ! 何でボクをッ」
「すまぬな。お前に恨みはない」
「すまないと思ってるならボクを自由にしてください。家に帰りますッ」
「それはできぬ。私たちはまだ大事な役目の途中だ。それが終われば無事に帰す。約束する」
「誘拐するような人の約束なんて信じられない!」
ルフトの物言いは落ち着いていたが、白はそうもいられなかった。自分では歯が立たないと分かっている相手に攫われたのだから余裕などなかった。
「小娘とはいえ暴れられては面倒です。今一度眠らせて――」
ヴィントはスッと手刀を構えた。
バヂィンッ! ――突如、三人の頭上を電撃が穿った。
天尊の仕業に決まっている。ルフトとヴィントがバッとそちらを見ると、天尊がギロッと睨みを利かせた。
「その女に手を出したら殺すと言ったはずだ」
「ティ、ティエン⁉」
白は天尊の姿を見て顔色を変えた。天尊の衣服には血痕と思しき赤い染みがいくつもあり、怪我を負っていることは明らかだった。
(無事だったか)
天尊は白を見詰めて自然と目を細め、心底安堵した。この場に来てからずっと白は身動ぎひとつしなかった。もう息がないのではないかと、当然にして最悪な憶測が常に脳内にあった。
白の意識が戻ったところで、天尊のダメージが回復するわけもなければ、人質となっている情況は好転しもしなければ、全力を出せば白を殺すという条件が無効化するわけでもない。それでも、白が生きている、その事実だけで天尊を奮起させるには充分だ。
ドォンッ! ――人間の少女を見詰めて呆ける天尊にヒンメルが突っこんだ。
天尊は局所的な〝壁〟、つまり不可視の楯を造って攻撃を防御した。
不可視の〝壁〟は巨体との衝突によって弾け飛んだ。
ヒンメルは剣を振り上げ、天尊の脳天目がけて振り下ろした。
ズゥンッ! ――天尊はヒンメルの手首を受け止めて剣の振り下ろしを防いだ。
天尊とヒンメルはその場で拮抗した。互いに踏ん張った足の裏が地面にめりこんでも一歩も引かなかった。
「真剣勝負の最中に余所見とは、私を愚弄するつもりか! 貴様は戦士の矜恃も解さぬかッ」
「人質を取って丸腰相手に粋がっている下衆が、真剣勝負だの矜恃だのとほざくな。支離滅裂で恥ずかしい限りだな、肉ダルマァッ!」
天尊と拮抗して鎬を削り、間近でその眼光と向き合うヒンメルには分かった。その眼光は明らかに先ほどよりも強くなった。爛々と燃え盛る闘志が宿った。天尊は確かに白の生存に鼓舞された。
勢いづかせてはならない。これはヒンメルの戦士としての経験から来る直感だ。
ズバンッ! ――ヒンメルは羽を左右に大きく広げた。
羽根の一枚一枚がメキメキと蠢く。おそらくは何らかの予備動作。しかし、ヒンメルの剣によって上から押さえこまれている天尊は、飛び退けなかった。
ドドドドドドドドッ! ――無数の羽根が高速で発射された。
それは鉛玉のような硬度をもって天尊の肉体に突き刺さった。
「がっはぁっ……!」
マシンガンを身に受けたかのような衝撃。天尊の全身から真っ赤な血飛沫が上がった。
「ぬぅんッ!」
ヒンメルは刀剣の柄から片手を離した。柄を握る自分の手にガァンッと渾身の力で拳を叩きつけた。
その衝撃で天尊の太腿の傷口からブシュウッと鮮血が噴き出した。天尊はヒンメルの剣を支えたまま地面に片膝を突いた。
ヒンメルは刀剣を高く翳した。
ザバァァアアッ!
天尊は袈裟切りに一太刀を浴びせられた。
血が激しく噴き上がり、ヒンメルに降りかかった。刀身やその衣服を見る見るうちに赤く染め上げた。見事な切り口、出血量、それは致命傷になり得る深手だった。
天尊は片膝と片手を地面に突いた。指を地面にめりこませて握り締め、大きく肩を上下させた。
「ハァー、ハァー、ハァーッ」
ボトッボトボトボトッ、と荒い呼吸に合わせて大粒の真っ赤な雫が地面や手の甲に降りかかった。
「ティエン、ティエンッ!」
白はしきりに天尊の名を叫んで宙に浮いた足をバタバタと動かした。
もしも自分を抱えている男が思わず取り落としたり煩わしくなって手を離したりしたら、この高度から垂直落下することになるが、そのようなことは考えていられなかった。
「もうやめてください! ティエンが死んじゃうッ」
「私たちは必ずあの悪魔を殺す」
白は必死だったが、対比的にルフトの声は落ち着いていた。愉悦や威勢に任せてやっているのではなく、強い意向を感じた。
「悪魔って、ティエンのこと……? ティエンは悪魔なんかじゃない。あんなヒドイことやめてください。ティエンを殺さないで」
「悪魔だ」
「違います」
「悪魔だ」
「ティエンは優しい人です」
「彼奴の冷酷な行いを本当に何も知らずに優しいと言うのなら無知で幸せな娘だ。知っていて言うのなら、心底愚かだ」
「ティエンは――……」
白は眉根を寄せて項垂れた。
おそらくもう、知っている。天尊の行い、生い立ち、経歴、為人、すべてを見たわけではないが、冷酷で合理的で徹底的で容赦がない人物であることは見知った。それでいて尚、優しいと思いこもうとするのだから、確かに愚かだ。
しかしながら、白は天尊を家族と受け容れた。天尊は何処へも行かないと、味方でいると約束してくれたのだから、白も天尊を見放すことはしたくなかった。
「彼奴は、私たちの部族を滅ぼした悪魔だ」
「え……」
――ティエンが? ひとりでどうやって? そんなこと本当にできるの?
ダメ。やめろ。考えるな。ティエンが今まで何をしたかなんて気にしないって決めたじゃないか。
ボクは、ボクの知っている、ボクたちと暮らすティエンだけを信じるんだ。
「親も友人も仲間たちは、私たち三人を残しすべて死に絶えた。彼奴は私たちの仇。彼奴の罪を如何にして償う。命は命でしか贖われぬのだ」
「でも! ほかに何かッ……」
白は思わずバッと顔を上げたが言葉は途切れた。天尊を助けてほしさに口を突いて出ただけだ。ほかにどのような方法があるかなど、白にも分からなかった。
「ほかに方法があるとすれば、何でもできるかのような口振りだな」
ヴィントは高圧的に放言した。過酷な世間を知らぬ少女を少々小馬鹿にする内意があった。
「ティエンを助けてくれるなら」
「ではお前は、彼奴の身代わりに死すら受け入れるか。命は命でしか贖われぬ。命を奪った代償は命だ。彼奴の命はお前の命で賄え」
ヴィントの猛禽の目がキラリと光り、白は息を呑んだ。
間近で見ると再認識する。自分と似た姿をしても能力に於いて人間を遙かに凌駕した、得体の知れない存在。本来なら言葉を交わすことすら恐ろしい。
天尊を悪魔と面罵する彼らも、正義の下に命を奪う行為に良心の呵責はない。たかが人間なら尚更だ。目的を達成したら無事に帰すと口約束はしても、障碍となるなら迷いなく排斥する。
「……嘘をつかないで」
白は恐怖を噛み殺して腹に力を入れて声を絞り出した。
ヴィントからの提案に首を縦に振ることなど有り得ない。脳裏には銀太の姿が浮かぶ。弟を残して命を擲ってしまうことなどできない。
しかしながら、銀太のことを抜きにしても白はその提案を受け容れなかった。ヴィントの目付きは恐ろしく、そして大いに癇に障った。
「ボクを試してるんですか。そうするつもりもないのに命を懸けろなんて言わないでください」
そう答えた白の声は微かに震えていた。
怯えながらも明確な意思表示だった。自身は捕らえられ、頼みの綱の天尊は手出しができない、万事休すの追いこまれた情況で、人間の少女が毅然と言い返すなど、ルフトとヴィントには予想外だった。
「なかなかに気丈な娘だ」とルフトはほんの少しフフッと笑みを零した。
「私たちは何があっても已めぬよ。お前如きが何をしたところで、あの悪魔の罪が償われることはない。たとえ、命をかけようともな」
ルフトはヴィントの傍まで移動した。しゃがみこんで白の顔を覗きこんだ。
見れば見るほど普通の少女。もしも自分と同じ世界の住人であったとしても、ただの子どもとまったく警戒しないだろう。このような無垢な少女が何故、悪魔を庇い立てするのか不思議だ。
「のぅ。何故、あの悪魔が斯様に膝を突いてまでお前を守ろうとする? 何故、お前は彼奴を救おうとする?」
「ティエンはボクの……ボクたちの家族だから」
ヴィントがハッと鼻で笑った。
「家族など世迷い言を。彼奴はニーズヘクルメギル。アスガルト最古の大貴族の一員。人間如きを家族とするはずがない」
「そうか、家族か」
ルフトはヴィントとは正反対に白の言葉をすんなりと聞き入れた。
ヴィントはやや意外な目付きでルフトを見る。
「覚悟を決めておかねばならぬな、ヴィント」
「姉様?」
「《雷鎚》を獲り本懐を遂げれば、その日より私たちが恨まれる側になる。……恨み続けるのも苦しみだが、恨み抜かれるのもきっと苦しかろう」
殺し殺され恨み恨まれるは、不断の連鎖。一度始まってしまったら、廻り始めてしまったら、絶えない廻転に誰も彼も巻きこまれ誰もいなくなるまで止まりはしない。それをそうと知りつつも、抜いた剣を納められない、愚かしく哀しい宿業。
「姉様!」とヴィントが声を上げた。
「わ、私が生きているのはこの恨みがあればこそです! 姉様とともにあの悪魔を討つことのみを胸に、今日この日まで生きて参りました。本懐を遂げた後のことなどどうとでもなればよい! 姉様の決めたこと、姉様のなさることが正義です。仰有ってください、彼奴を殺せと。私は恨まれることなど微塵も恐れませんッ」
ルフトは、必死にそう訴える姿を見て、弟にとっては生きることと恨み憎むことは同義なのだと今さらながら思い知った。
冷徹に命を刈り取る行為を悪魔と批判しながら、罪深い行為を裁こうとしながら、生の喜びをこの弟に教えたことがあったろうか。否、そもそも姉弟揃ってそのようなことを考えたことがあったろうか。
命の尊さや生の喜び、愛の優しさ、全部全部、目に見えなくて不確かだ。言葉ではそれらを完全に具現化しきれない。幸福な生涯のためにとても大切なものなのに。
ルフトはスッと立ち上がった。ヴィントの頬に触れて眉尻を下げて微笑んだ。
「お前がそのようなことをする必要はないよ、ヴィント」
命の尊さ、それはおそらく、仲間の無念を忘れまいとする残された者の悲しみと慈しみ。
生の喜び、それはおそらく、報復の呪縛や何もかもの枷から解き放たれて得られるであろう自由。
愛の優しさ、それはおそらく、姉が弟を想い、弟が姉のために悲願を遂げようとする直向きさ。
悪魔を心底恨み憎んでいるが、同時にたったひとつの命を捧げても惜しくないほど弟を愛している。愛憎が蠢き合う消化不良のなかで剣を握る。迷いなく何かを実行できるほどには、堅くも強くもない。
ルフトは背筋を伸ばし、敵のほうへ顔を向けた。
シャッ、と鞘から一息で抜刀してトンッと足許を蹴って宙に身を投げ出した。
「私はルフト! 貴様に滅ぼされたフォーゲルフェダルの遺民にして最後の戦士! 報いを受けろ《雷鎚》ッ」
羽を大きく広げて空中で軽やかに体勢を立て直し、標的に向かって地面すれすれを滑空する。
標的である天尊の背中に対して剣の切っ先を垂直に構えた。
ガンッ! ――ルフトの剣は硬いものに阻まれた。
天尊の創出した不可視の〝盾〟に剣の切っ先がぶつかってキチキチッと鳴いた。
天尊はやや緩慢な動作で肩越しにルフトを見た。
「何が戦士だ。大声を張り上げて殺気を撒き散らして。実戦経験なんかほとんどないんだろうが。大方、貴様らのなかで戦士と言えるのはこのデカイのだけだ」
パカァンッ、と天尊は手の甲でルフトの剣の腹を叩き飛ばして振り向いた。
ルフトは剣を弾かれて痺れる手首を握って天尊を睨んだ。
天尊は顎の角度をやや仰角にしてルフトを眼下に見据えた。
「舐めるな」
そう放言した天尊の眼光を見上げ、ルフトはゾクッとした。
何だこの目は。このような目は、これまでに見たことがない。敵を目の前にしてこのような目をする者がいるなんて知らなかった。色が無い。生気が無い。生々しさが無い。眼前の敵に対して何の感情もない。
そこにあるのは敵を粉砕するという強固な意志だけだ。重力のように漫然と純粋な、攻撃意志。愛憎に思い悩まされながら戦う自分とはあまりにも異なる。
ルフトは抗えない重力によってその場に縫いつけられた。完全に射竦められてしまった。猛禽の双眸を大きく見開き、肩を引き絞る天尊の姿を網膜に焼きつける。
バッガギィイインッ‼
落雷のように強烈な一撃が、大地を断ち割った。
地面に突き刺さった天尊の腕にパリッパリッと電流が迸る。亀裂に沿って駆け抜け、先端まで達しては弾けて空気中に霧散する。まさに神話の鎚――――《雷鎚》。
天尊はチッと舌打ちした。
間一髪、ヒンメルがルフトを抱えてその場から退避させたのが見えた。
ヒンメルはルフトを脇に抱えて空へと飛び上がっていた。天尊を眼下に見下ろし、バサッバサッと羽を羽搏かせて滞空する。
「迂闊に近づくなと言ったろう。距離を取れ。制限があれど彼奴は危険だ。危険すぎる。私たちなどとはそもそも血統が違う、格が違う、スペックが違う」
ぽたたっ。――生温かい液体がルフトの顔面に降りかかった。
ルフトはヒンメルを見上げてギョッとした。その顔面の半分は真っ赤だった。
「その傷は!」
「先ほど一太刀浴びせたときに即座に反撃された。危うく耳を削がれるところだ」
ヒンメルの顎先から頬を通って蟀谷近くまで大きく裂けていた。傷口が脈打って血がどぷどぷと流れ出る。
さらに、ルフトはヒンメルの腕から離れて自身の羽で飛び、ヒンメルの全身を確認して違和感を覚えた。片腕が荷物のようにぶらんとぶら下がっている。骨か腱を負傷したのだろう。
白髪の悪魔は絶対的に不利にありながら、ルフトとヴィントが目を離したわずかな隙に、屈強な戦士であるヒンメルに痛手を負わせていた。想定を上回る強敵であると、直接渡り合ったヒンメル自身は何よりも身を以て実感した。
「よくよく分かった。私如きが一騎打ちで敵う相手ではないのだ、彼奴は。それが《雷鎚》だッ……!」
命も魂も誇りも、持てるものすべて懸けたところで、到底届かない願いというものは存在する。宿業を受容して命の限り従属すると誓ったところで、たったひとつの願いすら叶わない。運命は過酷であり、辛辣だ。まるであの男のように。
あの男は強者であり、その他大勢は弱者だ。転覆しようのない事実だ。自分如きが命を捨てても無駄だ。不惜身命に意味を見出せない。あの男は不公平や不条理のかたまりだ。捕食者であると世界が宿命づけた、力の申し子。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ」
天尊の呼吸は荒かった。
肩に刺さった鋼の羽根を掴んで乱暴に引き抜き、自身の血液が滴るそれを地面に投げ捨てた。彼らフォーゲルフェダルの羽根は鋼鉄のような硬度をもち、鋭利な太い釘が肉に食いこんでいるのと大差ない。引き抜く度に、ビシュウッ、ブシュッ、と血飛沫を噴いた。
カァン。――最後に太腿の羽根も引き抜いて地面に投げ捨てた。
足許に捨てた羽根に目を落とすと、血液で濡れ滴って月光を浴びてヌメヌメとした光沢を放った。これだけの血液を失ったのだと考えると忌々しい。
しかしながら、天尊の気骨が折れることはなかった。そのようなことはあるはずがない。飛行が羽を持つ彼らの本能であるように、戦闘は天尊の本分であり本能だ。本能的に備わった能力差を、見せつけてやらねばならない。強者に刃向かうとは何を意味するのかを、思い知らせてやらなくてはならない。
――まだだ。まだ戦える。まだ薄皮一枚切ったようなもんだ。
立って戦え。立って罵れ。立って打ち倒せ。
まだ俺は生きている。生きている限り戦える。生きたまま戦う意志を捨てるのは敗北者だ。命の使い途は決めた。俺は決して惨めな敗北者にはならない。
いいや、違う。もう俺の命は俺のものですらない。俺の命運はおそらく、アキラに出逢ったときに決まった。
だが悔いは無い。
ルフトとヒンメルは、天尊が一足飛びに届かないように充分な距離を取った地点に降り立った。
「彼奴に近づくのは得策ではないということだな。距離を取り射殺す。それで止めを刺せないまでも、身動きを封じてから首を獲る」
ルフトは背を反らせてバサンッと大きく羽を広げた。続いてヒンメルも同様に羽を広げた。
ドドドドドドドッ! ――ふたりから鋼の羽根が発射された。
無数の弾丸と化したそれは月光を受けてキラキラと煌めいた。
視界いっぱいにチカチカと散らばった光。天尊はチッと舌打ちした。
(クソッ。視界が霞む。軌道が見えん)
ヒンメルに手傷を負わせたが、天尊が負ったダメージはそれ以上だった。全身に鉛玉を喰らい、致命傷でもおかしくない大きな刀傷。出血量だけでも意識を保っているのが不思議なくらいだ。飛び退いて回避しなければと瞬時に判断したが、最早身体の反応がそれに追いつかない。
ガガガガガガガッ!
天尊はその場から一歩も動かなかった。しかし、膝を折ることはなかった。
弾丸の如き鋼の羽根はただのひとつも天尊に届かなかった。
天尊は、ハアーッと大きな息を吐いた。
「何しに来やがった。莫迦か」
「来るに決まってるでしょ、弟なんだから。莫迦じゃないの」
聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
突如として現れた気配。ルフトとヒンメルは、空を見上げて警戒した。夜空を背負った、茶金の髪の青年とスーツ姿の巨躯がこちらを見下ろしていた。
耀龍と縁花は、天尊の傍にストンと降り立った。
天尊に羽根の弾丸が届かなかったのは、耀龍が創出した〝壁〟によって遮られたからだった。しかし、天尊はありがたいという表情は見せなかった。
「縁花の後ろにでも隠れていろ」
何で、と耀龍は心外そうに言い返した。
それから、有翼人種の三人をぐるりと瞥見した。彼らが確かに白を確保している現況も、天尊ほどの実力者が此処までのダメージを負った理由も、すぐさま把握した。
そして、やはり耀龍の記憶にも彼らの情報はなかった。
「彼ら一体何者? ミズガルズに追ってきてまで天哥々を狙うなんて」
「私たちは、百余年前の〝種族純化施策〟の生き残りだ」
ルフトの言葉に、耀龍は「種族純化施策?」と聞き返して小首を傾げた。
「揃いも揃ってそれがどうしたという顔をする。貴様たち、貴族というものは」
ルフトは耀龍を指差して鼻の頭に皺を寄せて忌々しげに放言した。
「私たちのような存在など貴様たちにとっては誠にどうでもよいのだ。私たちの日々の暮らしなど、生き死にすらも、取るに足らないものなのだ。己が百余年前に何をしたかなど覚えてもおらん」
「百年前、百年前と喧しい。亡霊か」
天尊は足許にペッと唾棄して言い捨てた。鉄の味がする口内が気持ちが悪い。
ルフトは犬歯を剥き出しにして天尊を睨みつけた。
耀龍を睨むのとは段違いの猛烈な敵意。彼女は貴族という身分そのものを疎ましくは思うが、天尊個人を正真正銘憎んでいる。
「亡霊だとも! 百余年間、貴様を呪うことで永らえてきた亡霊だ! 百余年前の〝種族純化施策〟の折、亡霊を生み出したのは貴様自身であろうがッ」
耀龍は自分の後ろにいる縁花を振り返った。
「亡霊って何の話? その施策って縁花知ってる?」
「はい」
「彼女が怒ってる理由も見当付く?」
おそらくは、と縁花は頷いた。
「〝種族純化施策〟とは、優秀な種族の遺伝的情報の保護・存続を目的とする施策です。その一環として下位種族のカテゴライズ、活動領域の制限、新たな居住エリアの区分などが決定されました。施策は賛成多数で決議されたものではありましたが、下位種族のなかには施策に反発する者も少なからずおりました。同時にこの施策には強制力が付与され、抵抗勢力に対して実力を行使することも決定されました」
「実力行使ってことはつまり」
「レジスタンスに対する武力制圧です。彼らは武器を持ち蜂起しておりましたので」
縁花は手の平を上に向けて天尊を指し示した。
「その折、レジスタンス鎮圧の実行部隊に任命されたのが、大隊長率いる三本爪飛竜騎兵大隊です。レジスタンスと言っても、そのほとんどが辺境の少数部族。完全武装した三本爪飛竜騎兵大隊の障碍にはなり得ません。おそらくは、彼ら自身もそう申しておりますとおり、その折の生き残りではないかと」
縁花がそこまで言い至ると、天尊も或ることを思い出して「あ」とポロリと零した。
その一言は、実に呆気なく軽く、ルフトには滑稽に感じられた。弟とともに抱いていた積年の恨みは、脳裏に焼きついて一日たりとも離れない絶望の映像は、その後の生き方を決定づけた人生最悪の事件は、この男にとっては容易く忘却してしまえる些少なものに過ぎない。あの日に人生が一変してしまった者たちがいることなど、この男は知らない。遺されたふたりきりの姉弟のことなど、世界は知らん顔をする。
「私は幼かったが憶えている……忘れられるものか。今でもあの日の光景が目に焼きついて離れぬ。貴様があの日のことを忘れても、私は貴様を憶えている。黒い乗り物に跨がって白髪を靡かせる貴様をな! 貴様が降らせた雷の雨のなか、幾人もの仲間が撃ち落とされ、地を這いずり回って息絶えた。地獄だ! 私は父が地に落ちるところをこの目で見たのだぞ!」
ルフトはブルブルと小刻みに震える自分の肩を握り締めた。幼いときに目にしたあの日の恐怖が、まるで昨日のことのように鮮明にぶり返した。
あの日、世界には蓋がされた。辺り一面暗黒雲、大地を照らすのはわずかに漏れる光だけ。 恐ろしげな雷鳴が終わりなく幾重にも轟く。住み慣れた村は大火の行進に呑まれた。住み慣れた故郷以外の土地など知らない幼子は、世界は今日終わるのだと思った。
暗雲を晴らさんと勇ましく大地を飛び立った大人たちは、すぐに戻ってきた。焼け焦げた姿で。よく知る親しい人たちが、黒く臭い肉のかたまりに成り果てた。
ぎゃあぎゃあと泣き叫んで逃げ惑った。それしかできなかった。何の力も持たない幼い童だったから。
何処にいてもどのようなときでも、あの日を忘れることは片時もなかった。幾度も幾度も悪夢に魘されては泣きながら目を覚ました。忘れようとしたこともあったが忘れられなかった。忘れずにいることが、恨み続けていることが、たった三人残された同胞の生き延びる術だった。
――嗚呼、世界なんて終わってしまえばよかったのに。幸福な日々と愛する人たちが潰え、わたしたちだけ残されるくらいなら。
しかしながら残酷にも、大きな世界はわたしたちの気持ちなど、わたしたちの心など、お構いなしに廻転し続ける。世界は大きい。あまりにも宏大だ。わたしという存在が須臾の塵にも等しいほど。
「いっそ殺してくれればよかったものを……」
ルフトの目に涙が浮かび、頬を伝って顎の先から離れて落ちた。
こんなにも恨み辛みで苦しい日々を生きるくらいなら、幸福の何たるかも知らずに育った弟に復讐の道を歩ませる羽目になるなら、愛する人たちと同じときに終わってしまったほうがよかった。なまじ生き残ってしまったから、その意義を探してしまう。血塗られた復讐しか残されていないというのに。
天尊は二本の足でしっかりと地面を踏み締めて背筋を伸ばし、フーッと息を吐いた。
目を逸らすことなくルフトを真っすぐに見た。女が泣こうが喚こうが関係無い。天尊には信念がある。矜持がある。ドグマがある。
「戦うことを選んだのは貴様らだ。従属せず反発し武器を持ち、敵と戦うことを選んだのはお前の親や仲間だ。一度腹を決めたなら、そのために死んで本望だろうが」
ルフトはカッと大きく目を見開いて涙の玉を散らした。
「誰が好きで戦など起こすか! 故郷を奪い戦わざる得なく追いこんだのは貴様らだ!」
「俺たちが好きで戦ったとでも思っているのか、この莫迦がッ!」
天尊は、噛みつくような勢いのルフトよりも、一回り大きな声で咆えた。
彼らの行動動機は分かった。怨恨の理由も分かった。だが、だから何だ。それを受け止めてやる義理はない。八つ当たりもよいところだ。道理に暗い弱者の泣き言など聞いていられない。
「お前たちが住み慣れた場所を追われたのは、そう決めたヤツがいるからだ。俺たちが、大隊がお前たちを制圧したのは、そうせよと命じられたからだ。勘違いをするな、誰かひとりのとびきりの悪党がいるワケじゃあない。唯ひとつの強大な悪なんてものは幻想だ。そんな分かりやすい敵など存在しない。名前も姿もない曖昧かつ膨大な意思、世界を決定付けるのはそんなモンだ。お前たちを根絶やしにしようとしたのは、大多数の意見だ、世界のルールだ。世界は絶対的支配者のためじゃなく、大多数の利益のために廻っている。言うなれば、世の中がお前たちを不要だと決めたんだ!」
ルフトが知る世界のすべて――気持ちのよい風と穏やかな気候、生まれた土地での安らかな日々、大好きな人たちと生きる故郷――小さな世界。大きな世界から見れば、小さな世界しか知らないわたしたちは、もっともっと小さな砂粒に過ぎないのだろう。踏み躙られ、見捨てられ、忘れられてゆく、須臾の塵。
「やめて……」
ヴィントの耳に風鳴りのような姉のか細い声が聞こえた。
ルフトの瞳からポロポロと涙が零落した。
天尊の言葉の意味を理解したときに絶望した。この世界そのものに。生きる意味の曖昧さに。討つべき仇敵は白髪の悪魔でないのならば、復讐には意味がない。つまり、それを絶対の目的として必死に生きた生涯にも意味がない。では、何のために生を受け、何のために生き残った。
最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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