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#09:Battle for the young
Complex 02
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長門は薩摩が先導するとおりついて行き、体育館裏の倉庫の前までやってきた。体育館の中からわあわあと部活動の声は聞こえてくるものの、薩摩の言うとおり倉庫周辺には人気がなかった。
薩摩と長門はふたりきり、約2メートルほど間隔を開けて向き合って対峙した。そこに武藏の姿はなかった。
「……で、センパイ誰だっけ?」
「長門尤士……二年だ」
長門は薩摩の慇懃無礼な態度にも腹を立てる様子はなかった。薩摩は長門の名前を聞き、宙を見て「あ~」と零した。
「センパイが長門尤士か。そりゃそっか。こんなにデケー高校生、ガッコに何人もいねーよな」
薩摩はポケットに両手を突っこんで胸を張った。
「俺は薩摩棗ってゆーんスよ。ヨロシクお願いシマス」
長門は律儀な性格だから、よろしくと言われ素直によろしくと返した。
「何で前田武藏帰しちゃったの?」
「あとから一年相手に二対一と言われたら困る」
「アンタの次は前田武藏とやるつもりなんだぜ。また見つけて呼び出す手間かかんじゃん」
「それは悪かった」
「何、謝ってくれんの? 意外にイイ人じゃんアンタ」
薩摩は冗談のようにアハハッと笑った。
「だが、武藏の出番はない」
長門はそう言って詰め襟の隙間に人差し指を引っかけた。学生服のボタンをひとつずつ外してゆく。手が大きい所為でボタンが小さく見えた。ボタンをすべて外して学生服を脱ぎ、几帳面に端と端を合わせて畳んだ。それから辺りをキョロッと見回し、手頃な高さの木の枝にバランスよく安置した。
薩摩はのんびりした長門の所作を黙って観察していた。長門は学生服の下に白い薄手のTシャツを一枚着こんでいた。そのTシャツの上からでも筋骨隆々の様が見て取れた。打撃系の破壊力はどうしてもウェイトに影響を受ける。体格に恵まれているということはそれだけで実力を底上げされる。
(デカイな……。190、はある。身長にガタイ、前田よりコイツのほうが強いんじゃねーか。自信満々なだけはあるってことか)
長門が学生服を置いて元の位置に戻ってきた頃には、薩摩から彼への侮りは消えていた。
「アンタズッリィな。顔の割りにはケンカ慣れしてそーだ。前田武藏なんかよりアンタのほうが強ェんじゃねーの?」
「そんなことはない」
長門は自分の手に目を落としてゆっくりと拳を握ったり開いたりしながら薩摩に応えた。
「アンタもかよ」
薩摩はガッカリしたように零した。
「ここのヤローはドイツもコイツもヌルイヤローばっかりだ」
長門は自分の拳から顔を引き上げて薩摩を見た。
「下総蔚留は《深淵のキング》とまで言われといてさっさと引退したっつーし、備前っつうヤツはメチャメチャ強ェーのにアタマに興味ねーってかんじでフラフラしてるらしいし……他の三年は息してねーんじゃねーのってくらいおとなしいもんだ。下総蔚留がアタマ譲ったときも誰も何も文句言わなかったって? 派閥も対立も無くてメチャメチャ平和らしーじゃん」
薩摩は自分の台詞をハッと鼻先で笑い飛ばした。
「クソヌリーよ。ドイツもコイツもヌルイ頭だ」
薩摩はこれまで挑戦的な目付きでありながらも、どちらかといえばニヤニヤと飄々とした風情だったが、明確に忌々しそうに唾棄した。
「お前が下総さんとやりたい理由は何だ?」
長門から不意に尋ねられ、薩摩は一瞬虚を突かれたような顔をした。突然突っかかってきた新入生である自分の話になど興味は無いだろうし、聞き流されるだろうと思っていた。
「アンタは下総蔚留とやりたいと思わねーのか。それとももうやったのか」
「俺はそんなこと考えたこともない」
長門は首を横に振った。
「それこそ何でか理解できねーよ。あんだけ強い男がスグ近くにいて何で手が伸びねーんだよ。自分がどこまで強いのか試したくなるもんだろ」
薩摩にいくら挑発されても生意気をされても、長門には怒りや苛立ちなどは湧いてこなかった。薩摩のような人物はこれまでに幾人も見てきた。武藏も他の大勢も、出逢った頃はみんなこのような目をしていた。眼前の少年を通して、ほんの少し以前の過去を見た。
「ケンカの、腕っ節だけの強さなんて……そんなに大したことじゃない」
薩摩は片眉を引き上げて「はあっ⁉」と大仰な声を上げた。
「じゃあ何が大したことだっつーんだよ。アンタだって殴り合いで決着つける世界にどっぷりのクセによ。俺の言ってる意味解んねーわけねーよな。男にとって一番な重要なのは、どんだけ強ェかってことだろーが」
長門は「ああ、解る」と小さく頷いた。
「自分が強いことを証明したくて下総さんとやりたいんだな」
「そうだけど? だったら悪ィ?」
「思ったとおりの答えでよかった……。お前は武藏とやり合うのに相応しくない。腕試しの相手程度なら俺で充分だ」
そう言って長門は薩摩のほうへ爪先を向け、ジャリッと地面を踏み締めた。薩摩はニヤリと笑ってファイティングポーズを取った。
「お前はここで叩き潰すよ」
「やってみろよ」
§ § §
長門と別れた武藏は、ひとりで屋上への階段を上っていた。ポケットに両手を突っこみ、履き潰した上履きでズリッズリッと階段を一段ずつ上る。黙りこんでいる脳内で、薩摩の台詞がグルグルと巡っていた。
――「三年の備前勇炫は何か格闘技やってるらしーし、オマケに頭も切れるって話じゃん。本当ならあの人がトップになっておかしくねーって、みんな言ってるぜ」――
ドォンッ!
武藏は屋上への扉に思いっ切り拳を叩きつけた。同じ台詞が反響してグルグルと繰り返される度、気持ちが悪くなって目が回りそう。吐き気を振り切るように拳を叩きつけた。
拳が壊れるくらい殴りつけたいほどに、唇を噛み切ってしまいそうなほどに、悔しくて悔しくて堪らない。薩摩に指摘され図星と感じ、その上一丁前に傷ついている自分が悔しくて堪らない。
武藏は「ふぅー」と息を吐いて拳を解いた。扉の表面に掌を置いてゆっくりと押し開けた。
屋上にはブルーのレジャーシートが敷かれ、その上に備前が頭頂部を此方に向けて仰向けに寝そべっていた。澄み切った空の下、春の日差しは柔らかいといえども流石に仮眠をとるには眩しすぎる。備前は顔の上に薄い小冊子を広げて置いていた。
武藏は備前の顔を覗きこんで「備前さん」と声をかけた。備前は顔の上の小冊子を少しずらし、ゆっくりと目を開いた。
備前は武藏の顔を見て、思い詰めた表情をしているなと思った。武藏は普段、善くも悪くも子どものように快活だ。故にそのような彼の表情を豹変させる何かがその身に起こったのだろうと察するのは、備前にとっては呼吸のように容易かった。
「今の音、オマエか。ひとりでもやかましいヤツ」
備前は日除けにしていた小冊子をその辺に放り、上半身を起こした。そして屋上を囲う鉄製の柵に背中から凭りかかった。備前が胸ポケットから煙草を取り出し、武藏の体は条件反射的に反応して備前の傍に片膝を突いた。しかし備前は「ええ」と武藏の前にスッと手を出して制止した。
武藏が黙って見守る中、備前は自分のライターで煙草に火を点けた。深く煙を吸いこみ、顎の角度を上げて天に向かって「はぁあ」と吐き出した。白い煙が空に立ち上ってゆく。
「オマエが俺の煙草に火ィ点けんでええ。もう立場がちゃう」
「ハイ」
備前は「吸うか?」と煙草の箱を武藏に差し出した。武藏は努めて笑顔でそれを断った。慣れない作り笑いをしていることは備前には一目瞭然だった。
備前は煙草を引っこめて胸ポケットに仕舞った。
「で、何の用や」
「え」
「俺に言いたいことがあるさかい、そんな思い詰めたツラしとるんとちゃうんか。それもごっつ言いにくいヤツな」
やはり備前は恐ろしく察しがよく話が早い。それを忌々しいとも恐ろしいとも思わない素直な、或る意味愚直な武藏は促されたとおりに口を開いた。
しかしながら、そこで停止した。自分でも無意識の内にブレーキをかけた。この願いは、本当に口にしてもよいものなのか。己が背負っているものとは真実何であるのか、己のすべきことは何なのか、最早己の役割が分不相応に大きく育ってしまい、正解が分からない。
口を半開きにした武藏の間抜け面を見て、備前はクスッと笑った。
「そーゆー深刻ゥなツラはオマエには似合わへんで、武藏。オマエはウチの看板や。いつでもビシッとしとかんとな」
備前は武藏の胸をノックするようにトントン、と叩いた。
武藏は備前のほうへ両膝を突き、膝の上に両手を置いた。
「備前さん……。自分と勝負してもらえませんか」
備前は武藏から顔を逸らして宙に目を遣った。そして「フー……」と空に向けて煙を吐いた。空へと高く遠く伸びてゆく煙の行く先を目で追ってみた。
「頼みます、備前さん」
武藏は、備前の視線が自分のほうへ戻ってくるように声に力をこめた。
備前は目だけを動かして武藏を見た。嘘偽りのない真剣な熱い眼差しは、彼の人柄をよく象徴している。こうと決めたら頑なで、何事にも懸命に取り組む人性こそが前田武藏なのだ。
「何で俺とオマエがやり合わなあかんねん」
「俺の我が儘です。お願いします」
「一応、理由きいとこか」
備前はフフッと笑った。武藏の、こうと決めてしまったら間違った方向に進むことすら躊躇しない一直線さが疎ましい。我が儘を我が儘と言い切り押し切ってしまえるところが疎ましく羨ましい。
「俺は……今のままじゃ納得いかねーんスよ」
武藏は自分の両膝をぎゅうっと握り締めた。
備前は口に咥えていた煙草を指に挟み、武藏の顔を見据えた。武藏も備前の目を真っ直ぐに見詰めた。煙草の煙が立ち上ってふたりの顔の間をユラユラと横切った。
「何で俺なんスか。何で俺が深淵のアタマなんスか。俺じゃなくても備前さんがいるじゃないスか! 何で俺なのか理由も分かんねーのに、下総さんが背負ってた看板なんて……こんな重たいモン俺には背負えねーんスよ!」
武藏は胸のなかで燻っているものをぶちまけたかった。押し殺しても押し殺しても感情が湧き出てくる。拳が熱く、胸が熱く、吐く息すらも熱が籠もる。何が悔しいのかも分からずに闇雲に、何が腹立たしいのかも分からずに無性に、胸のなかで火種がブスブスと燻っている。このままにしておいたら気が狂ってしまって自分の尾にすら噛みついてしまいそうだ。骨がムチャクチャになるまで拳をコンクリートや鋼鉄に叩きつけたくなる。
「〝俺じゃなくても他がいる〟……て言いたいっちゅうことか」
備前の溜息が聞こえ、武藏は内心ビクッとした。呆れられたのではないかと、見損なわれたのではないかと、自分に少しも自信がないから不安になった。
「荷物が重すぎて山ァ登るのに疲れたか」
「え……」
「しんどぉなってきたさかい不安になって弱音吐いて、物でも敵でも仲間でも当たり散らかして。そらマトモな頭しとんなら自分で自分が嫌んなるなァ」
備前は武藏の反論を封じるようにズイッと顔を近づけた。武藏は間近に迫った端正な顔をまじまじと見た。瞬きをする度に、上下の長い睫毛が重なり合ってバサリと立てる音すら聞こえきそうだった。
「まあ、それも偶にはええやろ。アタマがひとりで何でもかんでもでけなあかんっちゅうわけでもあれへん」
備前は指に挟んでいた煙草を口に咥えて床から立ち上がった。武蔵の顔を覗きこみ、煙草を甘噛みしてニィッと口許を歪めた。
「せやけど、自己嫌悪の挙げ句の果てが俺とやらな気が済めへんっちゅうのは、ちょお考えが甘すぎるんとちゃうか?」
パシィンッ。
武藏が声を発する前に頬に平手を喰らわされた。武藏は不意打ちに驚いて目をめいいっぱい大きく見開いた。武藏が呆けている隙にもう一発、今度は逆側の蟀谷辺りに力強くバシィンッと鈍い音の平手が入った。
備前は武藏の胸座をグイッと掴んだ。
「甘ちゃんすぎて情けないのォ。ほんまは拳でいきたいトコやけど、オマエはまだ甘ちゃんやからコレで勘弁しといたろ」
バシィンッ、と備前は武藏をひっぱたいた。
「備前さっ……!」
「納得いけへんさかい勝負させろォ? 何で俺かやと? 人に答え出してもらおうっちゅう根性がそもそもクソ甘い。そーゆートコがアタマの自覚に欠けとる甘ちゃんやぁ言うねん。そんな甘ちゃん根性やからアタマ張っとるクセにグラグラするんじゃボケ」
「甘ちゃん甘ちゃんって……っ!」
備前は咥えていた煙草を屋上の床の上にペッと吐き捨てた。
「甘ちゃんやろが。自分がアタマやっちゅうことは分かっとるクセに、子どもみたいに駄々こねて人に頼ろうとしくさって。誰かにこうせえああせえて、決めてもらいたいんやろ。そしたら人の所為にでけるもんなァ。自分がどうしたらええか、下総さんや俺に答出してもらいたいんやろ。今までそうしてきたよに」
武藏は押し黙って眼球が微動し、明らかに動揺していた。備前から胸をドンッと軽く突き飛ばされ、手を離されると見捨てられたような気分になった。
「甘えんな。自分の答は自分で出せ。ほんで自分で出した答には自信持て。譬え間違っとったとしてもや」
薩摩と長門はふたりきり、約2メートルほど間隔を開けて向き合って対峙した。そこに武藏の姿はなかった。
「……で、センパイ誰だっけ?」
「長門尤士……二年だ」
長門は薩摩の慇懃無礼な態度にも腹を立てる様子はなかった。薩摩は長門の名前を聞き、宙を見て「あ~」と零した。
「センパイが長門尤士か。そりゃそっか。こんなにデケー高校生、ガッコに何人もいねーよな」
薩摩はポケットに両手を突っこんで胸を張った。
「俺は薩摩棗ってゆーんスよ。ヨロシクお願いシマス」
長門は律儀な性格だから、よろしくと言われ素直によろしくと返した。
「何で前田武藏帰しちゃったの?」
「あとから一年相手に二対一と言われたら困る」
「アンタの次は前田武藏とやるつもりなんだぜ。また見つけて呼び出す手間かかんじゃん」
「それは悪かった」
「何、謝ってくれんの? 意外にイイ人じゃんアンタ」
薩摩は冗談のようにアハハッと笑った。
「だが、武藏の出番はない」
長門はそう言って詰め襟の隙間に人差し指を引っかけた。学生服のボタンをひとつずつ外してゆく。手が大きい所為でボタンが小さく見えた。ボタンをすべて外して学生服を脱ぎ、几帳面に端と端を合わせて畳んだ。それから辺りをキョロッと見回し、手頃な高さの木の枝にバランスよく安置した。
薩摩はのんびりした長門の所作を黙って観察していた。長門は学生服の下に白い薄手のTシャツを一枚着こんでいた。そのTシャツの上からでも筋骨隆々の様が見て取れた。打撃系の破壊力はどうしてもウェイトに影響を受ける。体格に恵まれているということはそれだけで実力を底上げされる。
(デカイな……。190、はある。身長にガタイ、前田よりコイツのほうが強いんじゃねーか。自信満々なだけはあるってことか)
長門が学生服を置いて元の位置に戻ってきた頃には、薩摩から彼への侮りは消えていた。
「アンタズッリィな。顔の割りにはケンカ慣れしてそーだ。前田武藏なんかよりアンタのほうが強ェんじゃねーの?」
「そんなことはない」
長門は自分の手に目を落としてゆっくりと拳を握ったり開いたりしながら薩摩に応えた。
「アンタもかよ」
薩摩はガッカリしたように零した。
「ここのヤローはドイツもコイツもヌルイヤローばっかりだ」
長門は自分の拳から顔を引き上げて薩摩を見た。
「下総蔚留は《深淵のキング》とまで言われといてさっさと引退したっつーし、備前っつうヤツはメチャメチャ強ェーのにアタマに興味ねーってかんじでフラフラしてるらしいし……他の三年は息してねーんじゃねーのってくらいおとなしいもんだ。下総蔚留がアタマ譲ったときも誰も何も文句言わなかったって? 派閥も対立も無くてメチャメチャ平和らしーじゃん」
薩摩は自分の台詞をハッと鼻先で笑い飛ばした。
「クソヌリーよ。ドイツもコイツもヌルイ頭だ」
薩摩はこれまで挑戦的な目付きでありながらも、どちらかといえばニヤニヤと飄々とした風情だったが、明確に忌々しそうに唾棄した。
「お前が下総さんとやりたい理由は何だ?」
長門から不意に尋ねられ、薩摩は一瞬虚を突かれたような顔をした。突然突っかかってきた新入生である自分の話になど興味は無いだろうし、聞き流されるだろうと思っていた。
「アンタは下総蔚留とやりたいと思わねーのか。それとももうやったのか」
「俺はそんなこと考えたこともない」
長門は首を横に振った。
「それこそ何でか理解できねーよ。あんだけ強い男がスグ近くにいて何で手が伸びねーんだよ。自分がどこまで強いのか試したくなるもんだろ」
薩摩にいくら挑発されても生意気をされても、長門には怒りや苛立ちなどは湧いてこなかった。薩摩のような人物はこれまでに幾人も見てきた。武藏も他の大勢も、出逢った頃はみんなこのような目をしていた。眼前の少年を通して、ほんの少し以前の過去を見た。
「ケンカの、腕っ節だけの強さなんて……そんなに大したことじゃない」
薩摩は片眉を引き上げて「はあっ⁉」と大仰な声を上げた。
「じゃあ何が大したことだっつーんだよ。アンタだって殴り合いで決着つける世界にどっぷりのクセによ。俺の言ってる意味解んねーわけねーよな。男にとって一番な重要なのは、どんだけ強ェかってことだろーが」
長門は「ああ、解る」と小さく頷いた。
「自分が強いことを証明したくて下総さんとやりたいんだな」
「そうだけど? だったら悪ィ?」
「思ったとおりの答えでよかった……。お前は武藏とやり合うのに相応しくない。腕試しの相手程度なら俺で充分だ」
そう言って長門は薩摩のほうへ爪先を向け、ジャリッと地面を踏み締めた。薩摩はニヤリと笑ってファイティングポーズを取った。
「お前はここで叩き潰すよ」
「やってみろよ」
§ § §
長門と別れた武藏は、ひとりで屋上への階段を上っていた。ポケットに両手を突っこみ、履き潰した上履きでズリッズリッと階段を一段ずつ上る。黙りこんでいる脳内で、薩摩の台詞がグルグルと巡っていた。
――「三年の備前勇炫は何か格闘技やってるらしーし、オマケに頭も切れるって話じゃん。本当ならあの人がトップになっておかしくねーって、みんな言ってるぜ」――
ドォンッ!
武藏は屋上への扉に思いっ切り拳を叩きつけた。同じ台詞が反響してグルグルと繰り返される度、気持ちが悪くなって目が回りそう。吐き気を振り切るように拳を叩きつけた。
拳が壊れるくらい殴りつけたいほどに、唇を噛み切ってしまいそうなほどに、悔しくて悔しくて堪らない。薩摩に指摘され図星と感じ、その上一丁前に傷ついている自分が悔しくて堪らない。
武藏は「ふぅー」と息を吐いて拳を解いた。扉の表面に掌を置いてゆっくりと押し開けた。
屋上にはブルーのレジャーシートが敷かれ、その上に備前が頭頂部を此方に向けて仰向けに寝そべっていた。澄み切った空の下、春の日差しは柔らかいといえども流石に仮眠をとるには眩しすぎる。備前は顔の上に薄い小冊子を広げて置いていた。
武藏は備前の顔を覗きこんで「備前さん」と声をかけた。備前は顔の上の小冊子を少しずらし、ゆっくりと目を開いた。
備前は武藏の顔を見て、思い詰めた表情をしているなと思った。武藏は普段、善くも悪くも子どものように快活だ。故にそのような彼の表情を豹変させる何かがその身に起こったのだろうと察するのは、備前にとっては呼吸のように容易かった。
「今の音、オマエか。ひとりでもやかましいヤツ」
備前は日除けにしていた小冊子をその辺に放り、上半身を起こした。そして屋上を囲う鉄製の柵に背中から凭りかかった。備前が胸ポケットから煙草を取り出し、武藏の体は条件反射的に反応して備前の傍に片膝を突いた。しかし備前は「ええ」と武藏の前にスッと手を出して制止した。
武藏が黙って見守る中、備前は自分のライターで煙草に火を点けた。深く煙を吸いこみ、顎の角度を上げて天に向かって「はぁあ」と吐き出した。白い煙が空に立ち上ってゆく。
「オマエが俺の煙草に火ィ点けんでええ。もう立場がちゃう」
「ハイ」
備前は「吸うか?」と煙草の箱を武藏に差し出した。武藏は努めて笑顔でそれを断った。慣れない作り笑いをしていることは備前には一目瞭然だった。
備前は煙草を引っこめて胸ポケットに仕舞った。
「で、何の用や」
「え」
「俺に言いたいことがあるさかい、そんな思い詰めたツラしとるんとちゃうんか。それもごっつ言いにくいヤツな」
やはり備前は恐ろしく察しがよく話が早い。それを忌々しいとも恐ろしいとも思わない素直な、或る意味愚直な武藏は促されたとおりに口を開いた。
しかしながら、そこで停止した。自分でも無意識の内にブレーキをかけた。この願いは、本当に口にしてもよいものなのか。己が背負っているものとは真実何であるのか、己のすべきことは何なのか、最早己の役割が分不相応に大きく育ってしまい、正解が分からない。
口を半開きにした武藏の間抜け面を見て、備前はクスッと笑った。
「そーゆー深刻ゥなツラはオマエには似合わへんで、武藏。オマエはウチの看板や。いつでもビシッとしとかんとな」
備前は武藏の胸をノックするようにトントン、と叩いた。
武藏は備前のほうへ両膝を突き、膝の上に両手を置いた。
「備前さん……。自分と勝負してもらえませんか」
備前は武藏から顔を逸らして宙に目を遣った。そして「フー……」と空に向けて煙を吐いた。空へと高く遠く伸びてゆく煙の行く先を目で追ってみた。
「頼みます、備前さん」
武藏は、備前の視線が自分のほうへ戻ってくるように声に力をこめた。
備前は目だけを動かして武藏を見た。嘘偽りのない真剣な熱い眼差しは、彼の人柄をよく象徴している。こうと決めたら頑なで、何事にも懸命に取り組む人性こそが前田武藏なのだ。
「何で俺とオマエがやり合わなあかんねん」
「俺の我が儘です。お願いします」
「一応、理由きいとこか」
備前はフフッと笑った。武藏の、こうと決めてしまったら間違った方向に進むことすら躊躇しない一直線さが疎ましい。我が儘を我が儘と言い切り押し切ってしまえるところが疎ましく羨ましい。
「俺は……今のままじゃ納得いかねーんスよ」
武藏は自分の両膝をぎゅうっと握り締めた。
備前は口に咥えていた煙草を指に挟み、武藏の顔を見据えた。武藏も備前の目を真っ直ぐに見詰めた。煙草の煙が立ち上ってふたりの顔の間をユラユラと横切った。
「何で俺なんスか。何で俺が深淵のアタマなんスか。俺じゃなくても備前さんがいるじゃないスか! 何で俺なのか理由も分かんねーのに、下総さんが背負ってた看板なんて……こんな重たいモン俺には背負えねーんスよ!」
武藏は胸のなかで燻っているものをぶちまけたかった。押し殺しても押し殺しても感情が湧き出てくる。拳が熱く、胸が熱く、吐く息すらも熱が籠もる。何が悔しいのかも分からずに闇雲に、何が腹立たしいのかも分からずに無性に、胸のなかで火種がブスブスと燻っている。このままにしておいたら気が狂ってしまって自分の尾にすら噛みついてしまいそうだ。骨がムチャクチャになるまで拳をコンクリートや鋼鉄に叩きつけたくなる。
「〝俺じゃなくても他がいる〟……て言いたいっちゅうことか」
備前の溜息が聞こえ、武藏は内心ビクッとした。呆れられたのではないかと、見損なわれたのではないかと、自分に少しも自信がないから不安になった。
「荷物が重すぎて山ァ登るのに疲れたか」
「え……」
「しんどぉなってきたさかい不安になって弱音吐いて、物でも敵でも仲間でも当たり散らかして。そらマトモな頭しとんなら自分で自分が嫌んなるなァ」
備前は武藏の反論を封じるようにズイッと顔を近づけた。武藏は間近に迫った端正な顔をまじまじと見た。瞬きをする度に、上下の長い睫毛が重なり合ってバサリと立てる音すら聞こえきそうだった。
「まあ、それも偶にはええやろ。アタマがひとりで何でもかんでもでけなあかんっちゅうわけでもあれへん」
備前は指に挟んでいた煙草を口に咥えて床から立ち上がった。武蔵の顔を覗きこみ、煙草を甘噛みしてニィッと口許を歪めた。
「せやけど、自己嫌悪の挙げ句の果てが俺とやらな気が済めへんっちゅうのは、ちょお考えが甘すぎるんとちゃうか?」
パシィンッ。
武藏が声を発する前に頬に平手を喰らわされた。武藏は不意打ちに驚いて目をめいいっぱい大きく見開いた。武藏が呆けている隙にもう一発、今度は逆側の蟀谷辺りに力強くバシィンッと鈍い音の平手が入った。
備前は武藏の胸座をグイッと掴んだ。
「甘ちゃんすぎて情けないのォ。ほんまは拳でいきたいトコやけど、オマエはまだ甘ちゃんやからコレで勘弁しといたろ」
バシィンッ、と備前は武藏をひっぱたいた。
「備前さっ……!」
「納得いけへんさかい勝負させろォ? 何で俺かやと? 人に答え出してもらおうっちゅう根性がそもそもクソ甘い。そーゆートコがアタマの自覚に欠けとる甘ちゃんやぁ言うねん。そんな甘ちゃん根性やからアタマ張っとるクセにグラグラするんじゃボケ」
「甘ちゃん甘ちゃんって……っ!」
備前は咥えていた煙草を屋上の床の上にペッと吐き捨てた。
「甘ちゃんやろが。自分がアタマやっちゅうことは分かっとるクセに、子どもみたいに駄々こねて人に頼ろうとしくさって。誰かにこうせえああせえて、決めてもらいたいんやろ。そしたら人の所為にでけるもんなァ。自分がどうしたらええか、下総さんや俺に答出してもらいたいんやろ。今までそうしてきたよに」
武藏は押し黙って眼球が微動し、明らかに動揺していた。備前から胸をドンッと軽く突き飛ばされ、手を離されると見捨てられたような気分になった。
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