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第一章 行運流水、金花楼の夜
羊は逃げる 2
しおりを挟む「こんな早朝に褥を抜け出すなど、極上の花園にあってなんという金と時間の無駄遣いですか、公羊様」
髪は無造作に乱れ、服の合わせも開いているが、それが余計にこの男を魅力的に見せる──楊翔とはそういう類の男だ。
ここでは白陽と名乗っているのだったか。
「お前、もう、女はいいのか?」
「鈴蘭のことで? それとも牡丹姐? ああ、上手く言いくるめて来ましたよ。ったく、せっかく馴染みになったのに、もう此処には来られねぇと思うと未練ですって」
「そういうものか」
「美形で名高い璟国の皇子様にゃ、ここの価値なんてわかりゃしないでしょうねえ。歩けば自然と女が寄ってくるんだから」
「口を慎め、楊翔。ここが宮城であれば、今、おまえの首が飛んでいた」
「はは、怖い、怖い」
「やめろ。……聞かれる」
従者2人を視線でなだめ、公羊は足早に金花楼の朱門をくぐった。
早朝の空気は容赦なく頬をうつ。が、体はここ数ヶ月のうちでいっとう軽く、いつもの後ろ向きな思考もいくぶんましだ。やはり少しは眠れたのだろう。
朝靄の中にそびえ立つ朱色の楼閣を見上げる──礼の一つでも言えたらよかった。たとえ金で結ばれた縁だったとしても。
未練を振り切るように、公羊は冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「それで、首尾は」
「もちろん。こちらです」
狭い路地に入ったところで、白陽──楊翔が袍衣の袖から小箱を取り出した。
中には、厚みのある指輪が鎮座している。秦国皇帝の所持品であることを示す印が彫られた、黄金の指輪が。何度もこの目で見たのだからわかる。紛れもない本物である。
はぁぁと腹の底から嘆息して、公羊は額を押さえた。
「よくやった、楊翔」
「いやぁ、殿下のおかげですって。一晩中、女たちの視線、ひとりじめ。おかげさまで動きやすかったですよ。最後に玉蘭を指名したのも正解でしたね。あの娘は色々と面白いからなァ」
くくくと喉の奥で笑う楊翔を横目に、公羊は指輪を大切に服の合わせ目にしまいこんだ。
「なんだってアイツは妓楼に忘れ物をするんだ? いや、酔って女にやったのだったか? 酒癖が悪いのを自覚しながらこんな貴重な物を持ち出して、ふらっと女に渡す意味がわからん……。しかもそれを、俺にとって来いだなんて」
「陛下は公羊様のこと、よくしつけられた羊とでも思われてるんですかねえ」
「楊翔、言葉が過ぎる。いい加減にしろ」
「それを言うなら犬だろう。不本意ではあるがその通りだ。だが、従うよりほかないだろう、俺も、お前たちも」
「あーあ、いつまでこんな何でも屋みたいなことさせられるんでしょうねえ。仮にも一国の、お世継ぎ様がさぁ」
公羊は苦笑した。自分より年上の、いずれも優秀な男たちだ。自分のような男のお守りをさせていることを申し訳なく思うが、この国にいる間はいてもらわなくては困るのだ。
「すまないな、二人とも。苦労をかける」
「いやいや。殿下に頭を下げられちゃ、さすがに俺も立つ背がないっていいますか」
「俺は、公羊様のいるところでしたら、何でも」
「よろしく頼む。さぁ、まずは清安まで帰ろうか」
「腹が減りましたねえ」
「昨晩あんなにたらふく飲んだだろう」
「酒は腹にたまりませんからね」
房の門も開き、朝市に向かう人々の流れが増えてくる。
公羊は目立つ長い髪を器用に束ね葛巾に押し込んで隠し、長衣を羽織って町人に紛れた。
「んー、雪はとけましたけど、地面がぬかるんでますね。馬を手配しますか?」
「いや、良い。歩こう」
楊翔は「本気か」と顔を引きつらせ、靖林は無言であとをついてくる。この不思議な三人組を、商人町人は遠巻きに見ている。
街道をまっすぐ北に。昼前には清安の外門にたどり着くだろう。無言の旅は慣れているし、今日は体調も悪くない。
公羊はふと、顔を上げた。
あの娘は璟までの道が見えると言っていたが、公羊には規則正しく並ぶ房の屋根と無人の小径、それからはるか果てに広がる皇宮の楼閣しか、わからないのだった。
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