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 意識の覚醒と共に瞼を開いたアシュレイは、夢としてごちゃ混ぜに繰り広げられた回想に頭を抱えた。二人の父の記憶は噛み合いつつも齟齬がある。
「はぁ」
 窓の外は晴れやかな青空が広がる爽やかな朝だというのに、アシュレイの心は晴れない。昨日の出来事――テオドアに絡まれ、苛立ちから言い返してしまったことを気にしていた。
「報復が怖い。何かあった時のために手紙でも遺しておこうかな……」
 シミオンへ。貴方がこの手紙を読んでいるということは、私は既に死んでいるのでしょう……そんな書き出しを思いながら起き上がったテオドアは、背を伸ばして気分を切り換える。もう少ししたら起きてくるだろう父の為、朝食の支度をすべく部屋を出た。

 

「今日は森に行ってくるよ」
 アシュレイの焼いたパンを咀嚼し、コーヒーを啜りながらシミオンが言う。今日は食堂の仕事は休みで、錬金術師としても差し迫った依頼はない。
「同行は」
「いいよ。薬草の在庫がちょっとなくなっただけだから、すぐ帰ってくる。アシュレイもたまには休んでて」
 切り分けられた柘榴を口に放り込み、朝食を綺麗に食べ終えたシミオンは外出の支度を始めた。ドラゴンの皮で作られた薄手の服と外套で身を固め、探索用具の入った鞄を持ち、師匠から譲ってもらった杖を手に工房を出ていく。
「お昼には帰ると思うから」
「はい。お気を付けて」
 アシュレイに向けて手を振り、歩き出すシミオンの背中は少年期より伸びている。肉付きは普通で、成人男性としては頼りなさがあるが、アシュレイには何よりも大きな背中に見える。
 被造物としての性もあるが、核となった男の記憶が大きいのだろう。アシュレイがシミオンに対して抱くことはない感情も、テオドアの記憶が教えてくる。とても複雑だった。
「掃除でもして、昼ご飯はシミオンの好きなものを作ろうか」
 感情を振り払うように頭を振り、工房を見渡す。普段は食堂で過ごすことが多いのでなかなか掃除の手が行き渡らず、物影は埃が溜まり始めていた。

◇◇◇

 都から少し離れた森は、シミオンにとって思い出の多い場所だ。
 小さな頃は一人で来ることを許されず、師匠の同伴が必須だった。森に棲む魔獣の恐ろしさは年々薄れ、今では冷静に対処出来る。それでも危険に変わりないので、侮ってはならないが。
「……あったあった。結構育ってるな。多めに採ってこう」
 目的の薬草は澄んだ川辺に群生している。虫に食い破られたものは避け、形の良いものを選び摘んでいく。川面に目を向けると時折魚の影が見え、鱗が反射していた。
 視線を上へ向けると、木々の天蓋に空いた穴から青空が晴れ渡っている。白い雲はくっきりと見えた。
「……」
 何でもない、美しい自然の風景に見惚れる。静かな時間は久しぶりな気がした。
「……あの子が生まれてから。忙しいけど楽しいことばかりだったな」
 半信半疑の疑から目をそらし、ただ成功を信じて行われた、理を無視した摩訶不思議な生成だが、ホムンクルスが生まれたことだけは事実だ。
「……何か買って帰ろうか。そういえば最近話題のお菓子があったよね」
 息子と呼ぶべき存在をシミオンはただ愛した。自分のもとに生まれてきてくれた彼を愛さずにはいられなかった。それは代替ではなく、本当に心からの想いだ。
 シミオンの心は満たされている。
「シミオン」
 彼と何かが縮まるだなんて思っていない。彼と彼女が結ばれても、きっと今のシミオンなら祝福出来る。心にさざ波が生まれるのも、きっといつかなくなるだろう。諦めるのは得意で、諦めたから手に入るものがあるのも知っている。
「テオドア? どうしてここに」
「散策にね。ここは思い出の多い場所だから」
 薬草摘みをしていたシミオンに声を掛けたのはテオドアだった。動きやすく質の良さそうなチュニック姿は非番なのだと察せられるが、腰のベルトには剣が吊り下げられている。
「考え事をしようと思って来たんだが、きみに会えて良かった」
 やはり――なんだ。か細く呟かれた言葉を、シミオンの耳は上手く聞き取れなかった。
「考え事なら一人で静かにしたいよね。僕、もう用事は終わったから……」
 薬草の束を鞄にしまい、そそくさと帰ろうとするシミオンの腕が掴まれる。見上げたテオドアの顔は険しく、腕も痛みを感じた。
「テオドア」
「きみに……シミオンに話があるんだ」
 テオドアの言葉を待っていると、いつも悠然とした彼らしくなく、視線を泳がせたり瞬きを繰り返している。
 言いにくいことなのだろうか。沈黙を続けていると、切れ長の眦から雫が一粒零れ落ちるのが見えた。
「え」
「……」
 テオドアの目から涙が次々と溢れ、静かに泣き始めた。泣いている張本人よりも、シミオンの方が狼狽えている。
「テオ」
 名前を呼ぼうとした口が塞がれる。肌触りの良い服越しに、厚い胸板に顔ごと包まれた。
 抱き寄せられたのだと理解するのに時間は掛からなかったが、思考は止まってしまった。憧れ続けた人の腕に包まれている幸福より、驚愕が勝っている。
「きみが好きなんだ……恋しているんだ。シミオン」
 涙と同じく、静かに告げられた言葉を理解するのに、今度は長く時間が掛かった。
「初めてきみを見たあの日から。ずっと心に残っていた」
 身動きの取れない、固まった体を抱く力が強まる。苦しくても声すら出なかった。
「きみに相応しい人間になれるまで気持ちを伝えるつもりはなかった。けれど……」
 ようやく言葉を飲み込み始める。今度はシミオンが瞬きを繰り返す番だった。
「……あの男はいけない。許さない」
「え?」
「きみと暮らし始めた男だ。あんな男に盗られてしまうくらいなら」
 シミオンが生活を共にする存在はアシュレイしかいない。混乱し固まっていた思考だが、アシュレイの存在を思い浮かべただけで正常に動き出した。
「アシュレイはそういうのじゃないよ」
「……あれだけベタベタと甘やかしておいて?」
「あー……うーん、家族みたいなものだから、つい」
「家族」
 復唱する男の顔を見られないシミオンは、暢気に笑って頷く。
「息子……いや、弟みたいなものだから。アシュレイも同じ気持ちだと思うよ」
 穏やかなホムンクルスはシミオンを創造主だからという理由だけでなく慕ってくれている――気がする。それは文字通り血を分け与えて育み、生まれてきたからだろう。
「でも。テオドアが僕をその、好きなんて……てっきりメリッサが好きなんだと思ってた」
 思考が戻ると告白された事実を思い出し、これまでの思い込みが口に出る。食堂に足繁く通うのは看板娘に会う為だと思っていた。
「それは違う。俺は彼女を何とも……いや、思う所はあるが好意はない。断じて」
 きっぱりと否定するテオドアに首を傾げつつ、シミオンは拘束を解くよう大きな背を叩いた。逞しい騎士の腕から解放されれば、彼の顔がよく見える。
 もう涙はなかった。
「信じられないけど、僕も貴方が好きだよ」
 言葉にした途端頬が染まる。伝えることのない筈だった気持ちが、心臓を打ち鳴らしている。
「どっ、どうして好きになってくれたの? 僕、何もいいとこないのに」
 視線を合わせていられなくなり、俯いて尋ねるシミオンの旋毛を見ながらテオドアは微笑んだ。本人は何もわからないものだ。
「きみはすごい人だよ」
 剣を握る筈だった手がシミオンの頬に触れる。絞めるつもりでいた首を撫で、上向かせた呆けた顔にたまらない愛おしさを感じる。
「ありがとう。シミオン」
 ゆっくりと顔を近付けて重ね合わせる。夢に見続けた口付けは、砂糖菓子のように甘く感じた。

◇◇◇

「はぁ。おめでとうございます」

 帰宅したシミオンを出迎えたアシュレイは、後ろに控える顔を見て苦い顔をした。まだ顔を合わせたくなかったのだ。
 何かあったのか尋ねてくる息子に成り行きを説明すると、微妙そうな顔で心のこもってない祝福を述べられる。
「それよりも。昼食出来上がってますよ。テオドアもどうぞ。一人分くらいは余裕があります」
「ありがとうアシュレイ。ご飯何だろ」
「ビルさんに教わったミートパイと特製野菜ジュースです。どうぞ」
 食卓には大皿で作られたミートパイがシミオンの帰りを待っていた。テオドアも促されるまま座り、アシュレイがグラスへ橙色のジュースを注ぎ、シミオンが切り分けてくれるのを眺めて――正気に戻る。
「いや、そうじゃない。俺とシミオンは恋人になったんだ。ゆくゆくは結婚する」
「はぁ。そうですか。シミオン、曲がってますよ」
「あっ。えっ。だって……け、結婚……」
 ミートパイに刻まれていた線が大きく歪んでた。テオドアの発言にシミオンが動揺したからだ。
「そうですかじゃないだろ。出てけ。一日くらいは待ってやる」
「嫌です」
 テオドアからしたら当然の要求に、アシュレイからしたら当然の権利で拒否する。認識の齟齬は軋轢を生む。
「シミオン。テオドアには本当のことを話しますね」
「え? あ? うん」
 のぼせ上がっている父に代わり、関係の改善と自身の保護の為にアシュレイは出自を話した。詳しい素材は伏せ、シミオンの血を与えられて生み出されたホムンクルスだということを。嘘のない事実の一片を。
「……お前を。シミオンが。創り出した……?」
 目の前に佇む美青年を、テオドアがまじまじと見つめる。人によって生み出された存在。人ならざるホムンクルスを。
「信じられないよね。でも」
 本当なんだと続けようとしたシミオンに、テオドアは笑顔を浮かべた。眩しいものを見つめる、憧れや尊敬の眼差しだった。
「やっぱりきみはすごいよ。シミオン」

 けれどホムンクルスとの同居に二つ返事で納得出来るかは別の問題で、三人の話し合いはミートパイが綺麗に片付けられるまで続いくのだった。

END.
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