淫雨は愛に晴れ渡る

鳫葉あん

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決意

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 リチャードは無愛想で冷徹で性格も良くはないが、国民からは慕われている。自ら戦線に赴き他国を攻め落とす勇猛さ、国を発展に導く政策を閃く賢明さ、不正を嫌う誠実さが、リチャードの欠点を凌駕していた。
 リチャードと接する機会の多い兵士達も、主君へ敬愛を抱く。戦地から連れ帰った凡夫を奴隷とし、夜毎抱いていると噂が流れても信頼に翳りはない。
「陛下……あの、そのぉ」
「何だ」
「私、場違い……ですよね」
 リチャードの執務室の中から聞こえてくる声に、扉を護る兵士二人は内心頷いた。女遊びに関心を持たず、真面目に政務と向き合っていたリチャードが愛人を執務室に通すとは思わなかったのだ。
「置物のように大人しくしていれば問題ない。それでも食っているといい」
 会話はそこで終わり、静寂が訪れる。
 執務机に腰掛けたリチャードは、山と積まれた書類と向き合う。サラサラと文字を書き連ね、確認してから印を押す。ソファーに座るユージーンは居心地の悪さを感じながら、側に置かれた机を見る。それと指されたのは机に置かれた皿の上、ドライフルーツのたっぷり練り込まれた焼菓子だった。
「……」
 寝室では服など必要ないと裸で過ごしていたが、執務室へ連れ込まれたユージーンは肌触りの良い衣服に身を包んでいる。ソファーの上で縮こまり、勧められた焼菓子を一枚手に取り、逡巡の後かじりつく。
「……美味しい」
 小さな笑いが聞こえた気がしたが、確かめるような度胸はないので聞こえないふりをする。
 焼菓子を一枚食べ終わると、ソファーに背を預けて虚空を見つめる。今は役目を果たせないユージーンに出来ることはなく、目を閉ざせばそのうち寝入ってしまうだろう。
 怠惰な暮らしはぬるま湯のようだが、それがいつ煮え湯に変わってもおかしくはない。死にたくない、生きているだけの人生に意味なんてあるのだろうか。
 物思いに沈むユージーンの隣にリチャードが腰掛ける。いつの間にか動いていたようだが全く気付かなかったユージーンは驚いて目を開けた。
「俺だって休憩くらいする」
 言いながら焼菓子へ手を伸ばし、一枚掴んで口元へ運ぶ。
「お前は」
「えっ」
 話し掛けられると思わなかった。声を上げるユージーンを、切れ長の目は静かに見つめる。
「お前はどんな暮らしをしていたんだ」
 尋ねてから焼菓子をかじり始めたリチャードに、ユージーンは瞬きを繰り返す。意図はわからないが主の問いを無視することは出来ない。
「…………私は……父の庶子として生まれました」
 自由はない代わりに安定はあった。衣食住に困らず、教育も受けられたが、何かを自分の意思だけで決められることは少ない。
「王族にも庶民にもなれなくて、心を許せる相手もいなくて……婚約者にすら相手にされなかった」
「婚約者?」
 リチャードの眉が吊り上がる。理由はわからないが不機嫌なことは伝わってきた。
「えと、こんなのでも王族だから……公爵家のご令嬢と婚約出来たんです。けど彼女には恋人がいて、私と夫婦になるつもりはなかったんです」
「……」
 馬鹿にされるかと思っていた。それはそうだろうと鼻で笑われても言い返せない。けれどリチャードは何かを考え込むように目を伏せる。
「よくある話だ。何も……お前が悪いわけじゃない」
「え……んぐっ」
 慰めの言葉を貰えると思っていなかったユージーンが驚いていると、口に焼菓子を押し込まれる。大人しく焼菓子を食べ始めたユージーンを置いて、リチャードは仕事へ戻ってしまった。


 昼食もリチャードの執務室で済ませ、しばらくするとリチャードが机から立ち上がる。また休憩かと思ったユージーンへ「少し部屋を離れる」と声が掛けられた。
「ここから出ずに大人しくしていろ。誰が来ても扉を開けるなよ」
「はい」
 王の執務室には用足しの為の小部屋も併設されており、外へ出ていく必要も理由もない。素直に頷くユージーンを一瞥し、部屋から出ていこうとする背中を見送る。
「人に会うだけだ。すぐに戻る」
 振り返り、目を合わせるとそう教えられる。ユージーンは奴隷に変わりないが、少しずつ扱いが変わっている気がした。
「はい、陛下」
 本人に言えば鼻で笑われて「思い上がるな」と頬をつねられるかもしれない。そもそも現実逃避なのだろうか。それでも、誰からも相手にされなかった過去に戻りたいとも思えなかった。
 ユージーンの現在は歪ながらも満たされている。血を分けた兄弟と呼ぶべき人々を殺した相手だとしても。祖国を征服した侵略者であっても。
「……薄情者だったんだ」
 生まれ育った場所なのに、心に波打つものがない。それを悲しく思うユージーンの耳に、音が聞こえた。存在を知らせるように回廊へ響く足音が、どんどん近付いてくる。
「え」
 すぐ近くから言い争う声が聞こえ、何かを殴り付ける音が続く。驚いている間に執務室の扉が開かれ、入ってきたのはリチャードではなかった。
 亜麻色の髪を頭上で結い、緑の瞳を吊り上げてユージーンを睨むのは、豪華なドレスに身を包んだ淑女だ。背後に兵士を二人付き従えた彼女は、不愉快を隠さず吐き捨てた。
「穢らわしいドブネズミが。こんな所にまで入り込んで」
 手にした扇で口元を隠し、全身から嫌悪と悪意を醸し出す。カツカツと音を立てて歩み寄る姿は圧があり、ユージーンは狼狽えるしかなかった。
 彼女はユージーンに発言を許可していないし、するつもりもない。
「浅ましい男……」
 ユージーンの目の前へ立った淑女が、扇を持つ手を振りかぶる。やけに冷静な思考が殴打を察知するが、体はぴくりとも動かない。
 大きな音を立て、ユージーンの頬が打たれた。象牙を使われた骨は硬く、強烈な痛みに呻く。
「うっ……ぐっ!」
「お前の! お前のせいで! あの人は……あの人は……!」
 扇で数回顔を打たれ、よろめき倒れ込んだユージーンをハイヒールが蹴り上げる。本能的に顔を守ろうと丸まる背中を、貴婦人は何度も何度も踏みつけた。
「皇妃様……お気持ちは重々承知ですが……」
「……っ! ……っふ! ……ええ、そうね。後は」 
 任せるわ、とディアナが告げると、背後の兵士達が進み出る。虫のように転がるユージーンを見下ろすと、腰に下げた剣を手に取る。鞘に収めたまま、ユージーンへ振り下ろす。
「ぐっ! あ! うあぁっ……!」
 まるで害虫を駆除するように淡々と、力強く。ユージーンが痛みから叫び声を上げると、兵士の片方が相方を止める。懐から布切れを取り出すとユージーンの口へ押し込み、駆除が再開された。
 醜い男娼が痛めつけられる姿にディアナは溜飲を下げる。口角を上げ、歪な微笑みを浮かべる彼女の気が済むまで、駆除は続けられた。

◇◇◇

 執務室を出たリチャードは謁見の間に向かった。忠臣と呼ぶべき存在から謁見を申し込まれており、ユージーンを部屋に残していくのは気掛かりだったが、流石に玉座の間までは連れていけない。
「……」
 そんな考えが頭に過る時点で既にどうかしている。認めたくないけれど認めるしかない。腹立たしいようなむず痒いような、思考と行動に影響を与える感情は今まで覚えたことのない種類のものだった。
 正確にはある。父母や我が子、親しい者に抱くものとよく似ている。けれどそれは優しさだけでなく、苛烈な激情を秘めていた。
「以上でございます。陛下」
「――ん。ああ。わかった。協力に感謝する」
「勿体ないお言葉です。陛下への献身は我が幸福。喜んで付き従いますとも」
 広々とした謁見の間、奥の壇上に設けられた玉座に座るリチャードは、長い階段の下で膝をつく忠臣を見た。リチャードと二回りは年上の男は長年王家に仕えており、幼いリチャードの遊び相手も務めた程だ。
 はやく切り上げようと思っていても、心を許す数少ない人間が相手ではつい言葉を繋げてしまう。
「また何かと相談をすると思う。よろしく頼む」
「はい。おまかせ下さい」
 それでは、と去り行く背中に、リチャードは思わず声を掛けていた。当然ながら立ち止まり、振り返る男にリチャードは問う。
「俺がとんでもなく馬鹿なことを、真面目な顔でやり出したらどうする?」
 男は言葉は返さず苦笑いを浮かべた。困惑するが受容する。それが答えだった。
 男が退室するとリチャードもすぐに謁見の間から出ていく。ユージーンの待つ執務室へ戻り、その顔を見て決意を固めようと思っていた。
 謁見の間から執務室はそれ程離れていない。たった数分だけの距離が何とも遠くもどかしい。今まで思いもしなかったことばかりが、ユージーンと出会ってからリチャードの胸に溢れていく。
 そもそも泣き顔一つで命乞いを聞いてやった時点で狂っている。
 回廊を進み、角を曲がった先に執務室の扉がある。立ち並ぶ筈の兵士二人は、床に倒れ伏していた。
 駆け出したリチャードが執務室の扉を開く。謁見の間に向かうまではソファーに腰掛け、大人しくしていた姿はない。誰もいなくなった執務室を見渡す。大きく見開かれた目が、一点を見つめ、足が動く。
「……」
 赤い絨毯の上に落ちた糸を一本、拾い上げる。亜麻色の長い髪の毛だった。
 リチャードの執務室に入ることを許されている人物は数少ない。毎朝清掃に入る侍女も決められており、彼女達の中に亜麻色の髪はいない。
 リチャードに近しい存在で、長い亜麻色の髪の持ち主は一人しかいなかった。
「ふっ」
 小さく微笑んだリチャードの背中には、確かな怒気が醸し出される。両手をきつく握り、踵を返すと、開け放たれた扉の前に倒れていた兵士達が唸り声を上げ始めた。
「う……」
「お前達。立てるか」
「……ぁ……へ、いかっ……!」
 つかつかと歩み寄るリチャードを認識した彼らは途端に青ざめ、ふらつきながらも立ち上がる。警護の役目を果たせなかったことを咎められると思っているのだろう。普段のリチャードなら確かに叱責したかもしれない。
「誰が来た」
 リチャードは静かに尋ねた。言い淀む彼らにもう一度同じ問いをする。
 二度目はすんなりと答えを返され、リチャードは目を伏せた。呟きは音にならず吐き出され、リチャードの足は向かうべき場所へ進み始めた。
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