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あの日の父
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突然だれけど、僕の父についての話がしたい。特にこれといった動機はないが、ある夜ふと昔を思い出して郷愁に駆られるように、急にこの話を語りたくなったのだ。
最初に、自分が想像する父親像っていうのは、口数が少なく、不愛想であまり笑わない。これはまさに僕の父親のことなのだけれど、何処の家庭でも大体同じなんじゃないだろうかと思う。
けれども、そんな父でも、僕が小さい頃はよく笑っていたように思うし、何かにつけてつまらない冗談やちょっとした嘘をついていた気もする。僕が大人(いや、中学生を超えたあたりだろうか)になってからはあまりそんな気配もなく、時々、あの時の父の姿は自分の頭の中に描いている虚像に過ぎなかったのかと思うことさえある。
でも、そんな、確かにあったのだろう日々を思い出すと懐かしさに思わず顔がほころびてしまうし、誰かにぎゅっと抱きしめられているかのような心地良い窮屈さが胸を締め付ける。
「下りてきて!」
おっと、妻が呼んでいる。きっともうお昼ご飯の時間なのだろう。時計を確認すると、十二時を少し回っていた。今日が週末だからか、時計の針の動きが少しゆったりしているように感じる。
立ち上がり、ふと窓の外に目をやると、目の前の景色は最近できたばかりの住宅で遮られていて、少し苦笑した。その代わり、太陽の光はいつもと変わらずカーテンの隙間から漏れ出でて、僕の部屋のフローリングを黄金色に温めている。
半分ほど開いた窓から、さらさらと柔らかい春の風がカーテンを揺らしながら部屋の中へと入ってきた。
僕は、このような季節の変わり目には、どうも物思いにふけってしまうらしいなと頭の中で呟いた。
しかしこのまま、ぼうっと返事もせずに妻たちを打ち遣っておくわけにもいかないのでのそのそと階段を下りていく。階段を下り切って妻と息子の顔を見ると、「おはよう」と二人とも上機嫌だった。
食卓につくと、いつもと変わらないような食事が置いてあった。そして、それをゆっくり食べながら、やはりいつもと変わらないような会話をするのだ。
その食事風景は、今は遠い昔の我が家にどこか似ていた。母が良く喋り、父はあまり話さず、息子は母の話に相槌を打ちながらも、実はその目線はテレビにくぎ付けになっている。
「お昼からはまたお仕事?」
不意に漏らした妻の何気ないこの質問が、遠い過去の中でぼうっと揺れている僕の意識を呼び戻した。妻はサラダを口に運びながら、笑顔で僕の顔を見つめている。息子は何も知らないといった風な表情でひたすらにこにこしている。
「うん、そうだよ」
自分に仕事があって、息子も妻も目の前にいる。やっぱり自分は大きくなって、あの頃はあの頃なんだと実感する。悪い心地はしないが、特別良い心地がするわけでもない。それは、ただの実感となって僕の周りを何となく浮遊する。
食事を終えて「もう部屋に戻る」と声をかけると、息子も妻も少し不服そうな顔をしながら、それでも少し浮かれた調子で頷く。二階に上がろうと椅子から立ち上がった僕に向かって
「明日のことは忘れないでね」
と妻が念を押す。明日は、息子の入学式のためにランドセルを買いに行く日なのだ。「うん」と力強く頷いた後、僕は自分の部屋へと戻って、また机に向かう。角が擦れてはげかかった机の上には幾枚かの原稿用紙や消しゴムのカスが無造作に散らかっていて、その中央には万年筆が一本、寂しげに転がっていた。
そういえば昔、僕の家ではこういう話があった。
それは「父の肩を叩くと願いが叶う」といったものだ。これは初め、父が考え出したもので、たまに父は夕食後、僕に「何か叶えたい願いは無いか?」とわざとらしく、厳かな様子で質問することがあった。
そこで僕が「うん」と答えると、父は、それなら俺の魔法の肩を叩きながらそれを言うと願いが叶うぞといった旨のことを述べる。
初めてそれを聞かされた時は小学校低学年の時くらいだっただろうか、その時は父の肩を叩きながら「宇宙に行きたい」と言うと、父は「まだまだ力が弱いなあ、これじゃ宇宙には行けんぞ」とのようなことを答えた。そこで、僕が目いっぱい力を入れてゴンゴンと肩を叩くと今度は「いったた、へたくそすぎてダメだ」と笑っていた。
少し僕が困って「うーん」と唸っていると、父は「もう少し簡単なものはどうだ」と提案した。僕は少し考えながらも「じゃあ百万円欲しい」と言った。
するとやはり父は、はははと笑いながら「まだこの程度じゃいかんなあ」と答えるのだった。
結局、そのようなやり取りが何度も続き、「百円がほしい」とようやく僕が答えたところで「よし、きっとその願いはかなえられる」と父は締めくくる。その次の日には、当然僕の部屋の机の上に一枚の百円玉が置かれていた。子どもだった僕にはそのことがよっぽど感動的だったらしく、わざわざ宿題であった日記に記し、嬉々とした様子で学校の先生に口頭でも報告しに行った。
肩たたきの周期は大体一週間に一度くらいだっただろうか。少ないときは一か月に一度くらいだったような気もするが、とにかく、我が家の肩たたき制度はその後も生き続け、僕は父の肩を叩くたびにささやかなお小遣いや、文房具などを受け取った。
たまに大きいものをかけた肩叩きもあった。例えば、そう、新しいおもちゃやゲーム、靴なんかもそうだ。僕は御多分に洩れず友達が持っているものは大抵欲しがった。だから、その度に僕は父の肩を叩き、父は僕に肩を叩かれながらああだこうだと言いあって、くだらない冗談を飛ばしていた。
そんな二人の様子を、母は近くで、いつも満足そうに眺めていた。
とにかく、初めのころは、父の魔法の肩に宿る不思議な力に素直に感動していたが、大きくなるにつれてそれはただの習慣となっていった。そして中学の後半頃ともなると、やはり父の肩を叩くという行為は自然と無くなった。
それどころか、会話さえもほとんど無くなってしまうものだ。高校生だった時などは父と会話したという記憶は全くと言っていいほどない。ただ、自分が高校生だったある日、仕事帰りにふと見せる父の後姿が以前よりも細く、頼りなげに覚えたのだけは、はっきりと記憶している。それに気が付いた時、僕はなんだか悲しかったし、今それを思い出してもやはり少し悲しい。
だとしても、当時は、普段父のことを特別気に掛けるということはもちろんなく、父も特別僕を気にかけているといった様子でもなかった。友達と遊び、朝帰りになるような日だって、僕にとやかく言うのはいつも母だったのだ。大抵、僕たちのそんな様子を横目で見ながら、朝早くから父は黙って仕事へと出かけていった。
父の肩について、少し話は進むが、僕が社会人になった後、その魔法の肩を叩く機会が二度ほどあった。
一度目は、僕が就職活動を終える前日、つまり僕が企業に受かった前日の夜のことだ。梅雨時期だったからだろうか、あの日は確か雨が降っていて、家の中がすごくムシムシしていた。
夜、その蒸し暑さと企業からの連絡がなかなか来ないイライラとが原因で、珍しく酒を片手にピーナッツをつまみながらちびちびと飲んでいた。
二缶ほど空けて次に手を伸ばそうとしていた時、突然ガチャリとアパートの扉が開くと、ざあざあと強い雨の音とともに、父が無言で部屋の中に入ってきた。
その顔を見ると「おう、来てやったぞ」とでも言いたげだったが、大方、母とけんかをして自分の家に居辛くなったのだと僕は思った。汚れ切った、まだ買ったばかりのものであろうYシャツがそれを物語っていたからだ。
父は「ビール持ってきてやったぞ」と手にビニール袋を提げていて、それをテーブルの上に無造作に置くと、ゴンっという音を立てながら、その袋についていた水滴が小気味良く飛び散って机の上に薄黒いしみを点々と残した。
父が袋を机の上に置くのを見届けてから、僕は冷蔵庫の中をあさって新しいつまみを探していると、父が「スルメがあるじゃないか」と、僕の部屋の棚にがさがさ手を入れながら言うものだから、その日はそのスルメをつまみに、大の男が二人同じテーブルに並んでビールを飲むこととなった。
ビールを手にすると、想像よりもはるかに温く、思わず「ぬるい」と口にした。しかし、いつもと同じように父は何も返事をせず、お互い暫く無言になり、雨音だけが響く狭い部屋の中で、時々プシュッと軽快な音が、陰鬱な雨音を断ち切った。
どれくらいたっただろうか、僕は酔いも少し回り、独りでぽつりぽつりと話し始めた。「あの面接官が気に食わない」、「金が欲しい」や「結婚早くしたいなあ」などの願望が主に内容の大半を占めていたように思う。
その時、僕は心の中で、世へのあらゆる不満が募り、それらがまるで気泡のように次々と姿を現しては弾けていくのを感じていた。
父は何も言わずに、僕の話が聞こえていないかのようだったが、どこかの時点で「あれ、お前まだ採用されてなかったのか」とのことを、驚いたように口から漏らした。僕が少し怪訝な顔をすると
「いや、かみさんが大仰に、お前が企業に就職するんだって息巻いてたからな」
僕はその時になって初めて、父が今日来たのは僕の就職を祝うためなのだと気がついた。少し意外な感じがして、急に酔いも覚め、スルメをつまんで口いっぱいにほおばった。先ほどとは打って変わって、静けさが僕の心を占領していた。
雨が一段と強くなった気がした。
「ああ、あれか、かみさんが早とちりしただけか。あいつは面接に行ったら企業に受かるもんだと思ってやがる」
と父は苦笑しながらつぶやいた。アルコールの仕業か、少しばかり赤くなったその横顔には昔の、まだ僕が小さかった頃に見た父の面影がありありと残っていた。
暫くして、父にもいくらか酔いが回ったのか、何かぶつぶつ言い始めた。「あいつは最近すぐ怒る」「腰が痛くてかなわん」だの「車がさっきぶっ壊れて修理してたら怒られてよ」だの、なぜだか、その内容のほとんどが、言葉に言い表せないある種の懐かしさを帯びているように僕には思えた。
アルコールの匂い漂う部屋の中、父の小言や、その合間に聞こえるざあざあという雨音を聞きながら、何も話さずぼうっとしていると、
「そういや、お前合格したくはないか」
この父の一言にハッとして横を向く。するとやはり父はにやにやとしていて、僕と目が合うと少し嬉しそうに、左手で軽く自分の右肩を叩いた。父がこれみよがしに見せつけてくる肩は雨でしっとりと濡れていて、所々煤けていた。
僕は「そりゃしたいに決まってるよ」と答えながら、冗談交じりに肩をこんこん叩くと「いつの間にか、うまくなったもんだなあ。これなら大丈夫に違いない」と、豪快に笑っていた。
次の日の、烏のやかましく鳴いている時間帯に、一本の電話がかかってきた。相手はもちろん企業からで、やはりというべきか、それは合格を伝えるための電話だった。その日は不思議な偶然に驚きながら、残りの時間を上の空で過ごしたのだった。
ここまで書くと、ペンを置いて、代わりに胸ポケットからたばこを取り出す。少し肩が凝ったようで、大きい伸びをしてからゆっくりと立ち上がる。
窓の方まで歩いて行くと、半分ほど開いていた窓をカラカラと完全に開ける。するとどこからか、何かが燃えているような匂いが漂ってきた。少し遠くを見渡すと、近所の空き地では、うららかな初春の日差しに仄白い煙を薫(くゆ)らせながら、ワイワイと季節外れの焚火をしている者達がいた。
窓際においてあったライターを手に取り、カチカチと、二、三度火をつけようと試みたが、風に邪魔されてどうにもつかない。終には火も点けず、ただ煙草を加えながら遠くの空を眺めていた。
こうして眺めみると、意外にも、雲は随分速いスピードで動いているのが分かり、今度はそれを意識すると雲の動きはますます早くなっていったように感じられた。
ぼんやりしている耳の中に、下の階にいる妻の話声と、息子の笑っている声が流れこんでくる。
その、雲と音の流れは、いつでも心地が良く。その流れに乗り、いつの間にか僕の意識が空へと溶けていった。
どれくらいそうしていただろうか、やがて一台の飛行機が、僕の目の前にある大きな雲を横切った後、意識はもうはっきりと此処に帰ってきて、また机の前に向かおうという意思も十分に回復していた。
さて、もう一つの、魔法の肩についての話をさせてほしい。
最初に、自分が想像する父親像っていうのは、口数が少なく、不愛想であまり笑わない。これはまさに僕の父親のことなのだけれど、何処の家庭でも大体同じなんじゃないだろうかと思う。
けれども、そんな父でも、僕が小さい頃はよく笑っていたように思うし、何かにつけてつまらない冗談やちょっとした嘘をついていた気もする。僕が大人(いや、中学生を超えたあたりだろうか)になってからはあまりそんな気配もなく、時々、あの時の父の姿は自分の頭の中に描いている虚像に過ぎなかったのかと思うことさえある。
でも、そんな、確かにあったのだろう日々を思い出すと懐かしさに思わず顔がほころびてしまうし、誰かにぎゅっと抱きしめられているかのような心地良い窮屈さが胸を締め付ける。
「下りてきて!」
おっと、妻が呼んでいる。きっともうお昼ご飯の時間なのだろう。時計を確認すると、十二時を少し回っていた。今日が週末だからか、時計の針の動きが少しゆったりしているように感じる。
立ち上がり、ふと窓の外に目をやると、目の前の景色は最近できたばかりの住宅で遮られていて、少し苦笑した。その代わり、太陽の光はいつもと変わらずカーテンの隙間から漏れ出でて、僕の部屋のフローリングを黄金色に温めている。
半分ほど開いた窓から、さらさらと柔らかい春の風がカーテンを揺らしながら部屋の中へと入ってきた。
僕は、このような季節の変わり目には、どうも物思いにふけってしまうらしいなと頭の中で呟いた。
しかしこのまま、ぼうっと返事もせずに妻たちを打ち遣っておくわけにもいかないのでのそのそと階段を下りていく。階段を下り切って妻と息子の顔を見ると、「おはよう」と二人とも上機嫌だった。
食卓につくと、いつもと変わらないような食事が置いてあった。そして、それをゆっくり食べながら、やはりいつもと変わらないような会話をするのだ。
その食事風景は、今は遠い昔の我が家にどこか似ていた。母が良く喋り、父はあまり話さず、息子は母の話に相槌を打ちながらも、実はその目線はテレビにくぎ付けになっている。
「お昼からはまたお仕事?」
不意に漏らした妻の何気ないこの質問が、遠い過去の中でぼうっと揺れている僕の意識を呼び戻した。妻はサラダを口に運びながら、笑顔で僕の顔を見つめている。息子は何も知らないといった風な表情でひたすらにこにこしている。
「うん、そうだよ」
自分に仕事があって、息子も妻も目の前にいる。やっぱり自分は大きくなって、あの頃はあの頃なんだと実感する。悪い心地はしないが、特別良い心地がするわけでもない。それは、ただの実感となって僕の周りを何となく浮遊する。
食事を終えて「もう部屋に戻る」と声をかけると、息子も妻も少し不服そうな顔をしながら、それでも少し浮かれた調子で頷く。二階に上がろうと椅子から立ち上がった僕に向かって
「明日のことは忘れないでね」
と妻が念を押す。明日は、息子の入学式のためにランドセルを買いに行く日なのだ。「うん」と力強く頷いた後、僕は自分の部屋へと戻って、また机に向かう。角が擦れてはげかかった机の上には幾枚かの原稿用紙や消しゴムのカスが無造作に散らかっていて、その中央には万年筆が一本、寂しげに転がっていた。
そういえば昔、僕の家ではこういう話があった。
それは「父の肩を叩くと願いが叶う」といったものだ。これは初め、父が考え出したもので、たまに父は夕食後、僕に「何か叶えたい願いは無いか?」とわざとらしく、厳かな様子で質問することがあった。
そこで僕が「うん」と答えると、父は、それなら俺の魔法の肩を叩きながらそれを言うと願いが叶うぞといった旨のことを述べる。
初めてそれを聞かされた時は小学校低学年の時くらいだっただろうか、その時は父の肩を叩きながら「宇宙に行きたい」と言うと、父は「まだまだ力が弱いなあ、これじゃ宇宙には行けんぞ」とのようなことを答えた。そこで、僕が目いっぱい力を入れてゴンゴンと肩を叩くと今度は「いったた、へたくそすぎてダメだ」と笑っていた。
少し僕が困って「うーん」と唸っていると、父は「もう少し簡単なものはどうだ」と提案した。僕は少し考えながらも「じゃあ百万円欲しい」と言った。
するとやはり父は、はははと笑いながら「まだこの程度じゃいかんなあ」と答えるのだった。
結局、そのようなやり取りが何度も続き、「百円がほしい」とようやく僕が答えたところで「よし、きっとその願いはかなえられる」と父は締めくくる。その次の日には、当然僕の部屋の机の上に一枚の百円玉が置かれていた。子どもだった僕にはそのことがよっぽど感動的だったらしく、わざわざ宿題であった日記に記し、嬉々とした様子で学校の先生に口頭でも報告しに行った。
肩たたきの周期は大体一週間に一度くらいだっただろうか。少ないときは一か月に一度くらいだったような気もするが、とにかく、我が家の肩たたき制度はその後も生き続け、僕は父の肩を叩くたびにささやかなお小遣いや、文房具などを受け取った。
たまに大きいものをかけた肩叩きもあった。例えば、そう、新しいおもちゃやゲーム、靴なんかもそうだ。僕は御多分に洩れず友達が持っているものは大抵欲しがった。だから、その度に僕は父の肩を叩き、父は僕に肩を叩かれながらああだこうだと言いあって、くだらない冗談を飛ばしていた。
そんな二人の様子を、母は近くで、いつも満足そうに眺めていた。
とにかく、初めのころは、父の魔法の肩に宿る不思議な力に素直に感動していたが、大きくなるにつれてそれはただの習慣となっていった。そして中学の後半頃ともなると、やはり父の肩を叩くという行為は自然と無くなった。
それどころか、会話さえもほとんど無くなってしまうものだ。高校生だった時などは父と会話したという記憶は全くと言っていいほどない。ただ、自分が高校生だったある日、仕事帰りにふと見せる父の後姿が以前よりも細く、頼りなげに覚えたのだけは、はっきりと記憶している。それに気が付いた時、僕はなんだか悲しかったし、今それを思い出してもやはり少し悲しい。
だとしても、当時は、普段父のことを特別気に掛けるということはもちろんなく、父も特別僕を気にかけているといった様子でもなかった。友達と遊び、朝帰りになるような日だって、僕にとやかく言うのはいつも母だったのだ。大抵、僕たちのそんな様子を横目で見ながら、朝早くから父は黙って仕事へと出かけていった。
父の肩について、少し話は進むが、僕が社会人になった後、その魔法の肩を叩く機会が二度ほどあった。
一度目は、僕が就職活動を終える前日、つまり僕が企業に受かった前日の夜のことだ。梅雨時期だったからだろうか、あの日は確か雨が降っていて、家の中がすごくムシムシしていた。
夜、その蒸し暑さと企業からの連絡がなかなか来ないイライラとが原因で、珍しく酒を片手にピーナッツをつまみながらちびちびと飲んでいた。
二缶ほど空けて次に手を伸ばそうとしていた時、突然ガチャリとアパートの扉が開くと、ざあざあと強い雨の音とともに、父が無言で部屋の中に入ってきた。
その顔を見ると「おう、来てやったぞ」とでも言いたげだったが、大方、母とけんかをして自分の家に居辛くなったのだと僕は思った。汚れ切った、まだ買ったばかりのものであろうYシャツがそれを物語っていたからだ。
父は「ビール持ってきてやったぞ」と手にビニール袋を提げていて、それをテーブルの上に無造作に置くと、ゴンっという音を立てながら、その袋についていた水滴が小気味良く飛び散って机の上に薄黒いしみを点々と残した。
父が袋を机の上に置くのを見届けてから、僕は冷蔵庫の中をあさって新しいつまみを探していると、父が「スルメがあるじゃないか」と、僕の部屋の棚にがさがさ手を入れながら言うものだから、その日はそのスルメをつまみに、大の男が二人同じテーブルに並んでビールを飲むこととなった。
ビールを手にすると、想像よりもはるかに温く、思わず「ぬるい」と口にした。しかし、いつもと同じように父は何も返事をせず、お互い暫く無言になり、雨音だけが響く狭い部屋の中で、時々プシュッと軽快な音が、陰鬱な雨音を断ち切った。
どれくらいたっただろうか、僕は酔いも少し回り、独りでぽつりぽつりと話し始めた。「あの面接官が気に食わない」、「金が欲しい」や「結婚早くしたいなあ」などの願望が主に内容の大半を占めていたように思う。
その時、僕は心の中で、世へのあらゆる不満が募り、それらがまるで気泡のように次々と姿を現しては弾けていくのを感じていた。
父は何も言わずに、僕の話が聞こえていないかのようだったが、どこかの時点で「あれ、お前まだ採用されてなかったのか」とのことを、驚いたように口から漏らした。僕が少し怪訝な顔をすると
「いや、かみさんが大仰に、お前が企業に就職するんだって息巻いてたからな」
僕はその時になって初めて、父が今日来たのは僕の就職を祝うためなのだと気がついた。少し意外な感じがして、急に酔いも覚め、スルメをつまんで口いっぱいにほおばった。先ほどとは打って変わって、静けさが僕の心を占領していた。
雨が一段と強くなった気がした。
「ああ、あれか、かみさんが早とちりしただけか。あいつは面接に行ったら企業に受かるもんだと思ってやがる」
と父は苦笑しながらつぶやいた。アルコールの仕業か、少しばかり赤くなったその横顔には昔の、まだ僕が小さかった頃に見た父の面影がありありと残っていた。
暫くして、父にもいくらか酔いが回ったのか、何かぶつぶつ言い始めた。「あいつは最近すぐ怒る」「腰が痛くてかなわん」だの「車がさっきぶっ壊れて修理してたら怒られてよ」だの、なぜだか、その内容のほとんどが、言葉に言い表せないある種の懐かしさを帯びているように僕には思えた。
アルコールの匂い漂う部屋の中、父の小言や、その合間に聞こえるざあざあという雨音を聞きながら、何も話さずぼうっとしていると、
「そういや、お前合格したくはないか」
この父の一言にハッとして横を向く。するとやはり父はにやにやとしていて、僕と目が合うと少し嬉しそうに、左手で軽く自分の右肩を叩いた。父がこれみよがしに見せつけてくる肩は雨でしっとりと濡れていて、所々煤けていた。
僕は「そりゃしたいに決まってるよ」と答えながら、冗談交じりに肩をこんこん叩くと「いつの間にか、うまくなったもんだなあ。これなら大丈夫に違いない」と、豪快に笑っていた。
次の日の、烏のやかましく鳴いている時間帯に、一本の電話がかかってきた。相手はもちろん企業からで、やはりというべきか、それは合格を伝えるための電話だった。その日は不思議な偶然に驚きながら、残りの時間を上の空で過ごしたのだった。
ここまで書くと、ペンを置いて、代わりに胸ポケットからたばこを取り出す。少し肩が凝ったようで、大きい伸びをしてからゆっくりと立ち上がる。
窓の方まで歩いて行くと、半分ほど開いていた窓をカラカラと完全に開ける。するとどこからか、何かが燃えているような匂いが漂ってきた。少し遠くを見渡すと、近所の空き地では、うららかな初春の日差しに仄白い煙を薫(くゆ)らせながら、ワイワイと季節外れの焚火をしている者達がいた。
窓際においてあったライターを手に取り、カチカチと、二、三度火をつけようと試みたが、風に邪魔されてどうにもつかない。終には火も点けず、ただ煙草を加えながら遠くの空を眺めていた。
こうして眺めみると、意外にも、雲は随分速いスピードで動いているのが分かり、今度はそれを意識すると雲の動きはますます早くなっていったように感じられた。
ぼんやりしている耳の中に、下の階にいる妻の話声と、息子の笑っている声が流れこんでくる。
その、雲と音の流れは、いつでも心地が良く。その流れに乗り、いつの間にか僕の意識が空へと溶けていった。
どれくらいそうしていただろうか、やがて一台の飛行機が、僕の目の前にある大きな雲を横切った後、意識はもうはっきりと此処に帰ってきて、また机の前に向かおうという意思も十分に回復していた。
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