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【3】明かされた真実

捨てる命・拾う命

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 いい天気だ。本来なら趣深い沙蘭の情景を楽しめただろう。
 今はこの太陽の光が憎い。惨状をあらわにしてしまう。
 人だった者たちの残骸が見えた。手か足か、臓物、頭……目を背けたくなる死体だ。
 ひどい、と、一言であらわすのは簡単だが、自分たちだけしかいない虚しさが惨状を際立てる。

 仲間から離脱し、竜次は義妹のマナカと一足早く自国へ舞い戻った。マナカが持って来た情報により、沙蘭がフィラノスに陥れられているのではないかと疑いがあったからだ。つまり、ほかの仲間はまだ沙蘭の惨状を知らない。今はまだ、状況を把握する段階だが、敵は見えている。
 マナカから聞いた、正姫の仕事場の東殿は半壊していた。中はどうなっているのかは確認できなかった。見える範囲に人食いの黒い龍。以前遭遇した時は血肉で腹を満たし、動きが鈍くなっていたが今回もそうだと思っていいだろう。
「マナカ、姫子を探しなさい」
 竜次が沈黙を破った。マナカが竜次の顔を見上げるも、お互いに表情は険しい。
「聞こえなかったのですか?」
「わ、わかりました。竜兄さん、どうかご無事で」
 マナカは絞り出すように言って離脱した。彼女は正姫の場所を知っているだろう。そして、逃がし方も知っているはずだ。
 
 話が降って来たのはもう二十年以上前。
 それまで沙蘭はどこの所属でも管轄でもない、ただの大きな街だった。その前はただの集落だったと聞いたことがある。
 独特の文化こそあったが街は大きくなり、やがて人も増えた。大地主だった父親の名前が挙がった。名ばかり地主はすぐに子どもに権限を譲り、そして両親は行方不明になった。財源は知らない。だが、国としての象徴である城を築ける程度ではあったのだろう。
 それでも、自分は愛する人と自由になりたかった。結果、さまざまなものを失った。自由にはなれたのかもしれない。それでも、一番に望んでいたものは手から零れ落ちて失ってしまった。
 
 この機会に帰って、妹に謝って、たくさんの説教と懐かしい話をして、今の自分が大切にしているものを話そうと思っていた。この様子では、おそらく叶わないだろう。
「ちょっとだったけど、楽しかったな……」
 この数日で得たものを抱えて死ぬのは悪くないと思った。
 なぜなら、失って絶望して一度は命を絶とうとしたからだ。消えぬ前科、一生つきまとう己の闇。
 ジェフリーの保護者として旅に同行したが、悪くない数日だった。賑やかな食卓を囲って、くだらない世間話もして、一緒に悩んで、困難を乗り越えた。充実していた。
 思い返すと『死』ではなく『生』を意識する。都合がいいことに、どうやったら生き残れるかを考えていた。
 腰から刀を引き抜き、鞘とカバンを地面に投げる。ここで倒さなければ、仲間が危険にさらされる。中でも、『彼女』にだけは絶対に背負わせたくなかった。
 黒い龍は動かないままだ。腹は膨れている。今なら仕留められるかもしれないと、淡い望みを胸に地を蹴った。月を描くような大振りの一撃が黒い龍を捉える。
「月閃!!」
 大きさでは敵わないが、多少の切り崩しは可能だろう。蹴った足を軸に大きく一振りした。手応えはあった。膨れた腹を引きずった刃が赤黒い。液体なのか個体なのか、得体の知れないものが裂いた腹から出ている。血の臭いが広がった。
「いける……」
 竜次は背面に回り込んだ。さらにもう一撃、鱗らしきものをまとった背を裂いた。鋭い剣戟に飛沫が舞う。
 絶望と希望が交差する。その希望だけが、一瞬のうちに砕かれた。突然視界が真っ暗になり、全身に痛覚が走る。腕や足の感覚はまだあった。
 壁に押し潰されたようだ。今まで動かなかった黒い龍が動いた。
 土埃が上がり、膝から崩れた。地に伏せるが、意外にも頭はすぐに動いた。黒い龍を見失ってはいけない。だが、立とうにも、息が苦しい。体が動かない。それでも右手は柄を離さなかった。これは自分で褒めたい。
「だめかも……」
 苦い笑いが込み上げて来る。口の中には血の臭いが広がっていた。
 目の前に龍の顔が見えた。不気味な赤い目、血の染みた牙が見える。
 動けなくしてから、ゆっくり狙いを定めているのだ。
 この恐怖を、これからご馳走でも楽しむかのように眺めているのが不快で極まりなかった。

 絶望の中で豪速の音。何かを弾くような音が聞こえた。視界の中にあった黒い龍の右の眼が潰された。
「先生ッ!!」
 高い声だ。声の正体はすぐにわかった。
 仰け反った黒い龍をかいくぐり、鞘とカバンを手にしたキッドが駆け抜ける。
「手を……」
 キッドが刀を鞘に収めて手を引いた。そのまま竜次の肩を担ぐ。
「やっとあたしが助けてあげられた!」
 キッドは笑いながら重い体を押し出した。
 押し出した竜次の体が軽くなった。
「こっちは任せろ!」
 竜次の向こうにジェフリーの姿があった。
「遅いじゃない。先生食べられる寸前だったわよ」
「悪い。恩にきる……」
 キッドの言葉にジェフリーが微かに笑みを浮かべる。
 黒い龍から距離を取った。追ってくる様子はない。
 竜次は壁沿いに座らせられた。気絶寸前であったにも限らず、二人の顔を見て苦しそうにしながら声を振り絞る。
「久々に帰ったのに……」
 声は掠れている。弱々しいが、意識ははっきりしていた。
 ジェフリーが先に立った。キッドも竜次の荷物を置いてジェフリーに並ぶ。
「ここからは俺たちが代わろう」
「……そうね」
「サキはどうした?」
「念のため街中を見てもらっているけど、もしかしたらあの子の方がまずいわね」
「何かあったのか?」
「質問ばっかりね……」
 キッドがため息をついて弓を手に滑らせた。
「例の黒い龍と一緒だった女の子に会ったわよ、ミティアを探しているみたい。ここにいないってことは置いて来たのね?」
「そういうことか……」
「でも、その判断は間違ってないと思う。ここで、その女の子まで相手にしないといけないのは、あたしたち全員が危険だと思うから」
 キッドが狙いを定めて黒い龍の逆の眼を射止めた。これで完全に視界を奪った。
「その子、自分が死ねば次の自分はミティアだと言っていたわ」
「話が読めてきたような、そうでないような……」
「ミティアに何かさせたいのかもね」
 何かさせたいとしたら、心当たりはひとつ。
 ジェフリーが地を蹴った。大きさから、一振りでは切り伏せられない。
 追撃を振り上げた時、キッドに注意された。
「待ちなさい。様子がおかしいわよ」
 警戒し、眉をひそめる。
 ジェフリーは一旦退いて様子をうかがう。
「今度は何だ……」
 また動きが止まった。黒い瘴気が煙のように上がっている。
 様子がおかしい。だが、何か仕掛ける様子でもない。
「もう一撃っ!!」
 かまわずジェフリーがもう一振りすると、それがきっかけのように黒い粉が散った。
 黒い瘴気を散らしていた。巨体が砂の城のようにざらざらと崩れ、消えた。
「き、消えた?」
 キッドが弓を下げ、疑問の声を上げる。それなりのダメージを与えたかもしれないが、倒す手応えには遠いと思っていた。もしかしたら、竜次も攻撃をしていたのかもしれないと予想した。
 ジェフリーはその違和感を身に潜めた。
「でも、倒したって感じじゃないわね……」
「あの図体だ、あの程度で倒したとは思えない」
 同じ違和感にキッドも気づいていた。珍しく気が合った。
 ジェフリーは意見を求めた。
「キッドはどう思う?」
「そうねぇ、都合が悪くなって逃げた。やるだけやって満足した。あの銀髪の男が言うような恐怖や憎悪がこの場になくなった。他には何か思いついたかしら?」
 キッドは周辺に変化がないかと警戒をする。
 ジェフリーは黒い龍が消えた理由を考えながら、キッドの発言を妙だと思った。
「前々から思っていたけど、意外と戦場で落ち着いているよな」
 ジェフリーに思わぬ指摘をされ、キッドは途端に怪訝な表情を浮かべる。特に抵抗もなく受け答えていた。
「別に落ち着いてなんていないわよ。あたしには致命傷を与えられるだけの力がないから、小細工を考えてるだけ。さっきみたいに目を潰したり、ね……」
「助けられてばっかりだ。本当はこの旅に俺なんて必要なかったのかもしれないな」
「そう思うならご自由に」
 本来ジェフリーはこの旅に同行しなかった。キッドはミティアと二人だけで、マーチンを出発するはずだった。キッドは怪我が治ってから奮起している。狩猟の経験のせいなのか、彼女は一人でも強い。先を見据えた発言もそうだが、助けられる場面は多かった。自分とは大違いだとジェフリーは思った。
 キッドは警戒を解いてジェフリーに向き直った。
「まぁ、あんたがいてくれたから、あたしは失ったものを見つけられた」
「……はっ? い、今、何て……おいっ!」
 ジェフリーはキッドが言った「あんたがいてくれたから」を聞き逃さなかった。これは仲間として認めてくれたと受け取るべきか。緊張のあとの歩み寄りに驚かされた。
 キッドは言い返しを遮るように竜次に駆け寄り顔を覗き込んだ。
 左腕が痛そうだ。竜次は顔を上げてキッドに声をかける。
「私はいいから、サキ君たちのところへ行ってあげなさい……」
「そうします」
 キッドは無事を確認し、街の方へ走って行った。

 竜次はキッドの後ろ姿に、自分にはない力強さを感じながら儚く笑う。
「また、死に損なった……」
 山道で助けてもらった恩を返したと、キッドは言っていた。実際、そんなものは今に比べたら些細だ。こちらが返し足りない。竜次は自分が足を引っ張っているのではないかと思い悩んだ。仲間に助けられてばかりで申し訳ないと思った。

 ジェフリーが瀕死の竜次に手を貸そうとする。
「兄貴、立てるか?」
「先に応急処置を頼みます」
 竜次は声を震わせ、首を振った。カバンからきれいにたたまれた白い三角巾を引っ張り出し、ジェフリーに渡す。
「一応動くのですが、骨にヒビが入ったかも……」
 ジェフリーが受け取って無言で膝をついた。竜次が引きずっている左腕を上げて、首の後ろで結んだ。苦痛にゆがむ表情が痛々しい。
「ジェフ、来てくれてありがとう……」
「無茶しやがって……」
 ジェフリーが竜次を馬鹿にする。
「それとも、死にたかったのか?」
 竜次は激しく首を横に振った。
「黒い龍と戦うまでは、それもいいと思いました。でも、この数日間で得たものを思い出すと死にたくなかった。都合がいいですよね」
「馬鹿な考えを改めてくれて安心した。マナカはどうした?」
 ジェフリーが質問をした頃合いで、間近の瓦礫が崩れた。ジェフリーが立ち上がって警戒する。まだ何かいるのだろうかと思ったが、声と足音を耳にした。
「お待ちください!!」
 マナカの声だ。近くから聞こえる。
 竜次のすぐ近くの壁が崩れ込んで、黒髪ポニーテールの女性が長刀を持って壁とともに倒れている。だらりと垂れた黒髪。これだけを見たら、黒い龍よりも怖い。
 女性が体を起こそうと腕を立てた。乱れた髪の替え際が明るい。わざと染めているように見えた。独特の振袖が沙蘭の者であると象徴している。ポニーテールの根元には、桜の櫛が輝いていた。
「姫姉様!! まだ危険です!!」
 状態を起こした女性が、目の前のジェフリーと竜次に気がついた。二人を見て這うように寄って来た。怖い。着物がもったいない。
「姫姉様!!」
 後ろからマナカが止めに入ろうとするが、すでに遅い。
 桜の櫛を挿した黒髪の女性が、竜次を見て目を潤ませた。
「お兄様、お兄様っ……⁉」
 竜次にとっては妹、ジェフリーにとっては姉の正姫だ。
 おきゃんだ。お転婆だ。国の責任者として品格を疑う。瞬時に理解するも、おそらく眼中に自分はいない。この様子には呆気にとられてしまう。ジェフリーは黙って様子をうかがっていた。
「姫子、久しぶり……」
「ふぅわぶわぁぁぁぁぁっ…………!!」
 正姫が竜次に抱き着いて大泣きしている。
「姫姉様ったら、まったく……聞かないんですから」
 後ろでマナカが腰に手を当て、大きくため息をついている。気苦労の多そうなマナカを不憫に思いながら、ジェフリーが声をかける。
「ここは大丈夫だ」
「お見事です。ジェフ兄さんも無事でよかった。お連れ様は?」
「街中を見てもらってる。まだ安全とは言い切れないから……そうだな」
 この場の状況の確認をすると、ジェフリーも次の行動を決めた。
「俺は仲間を迎えに行く」
「街へ戻るのですか? まだ危険です!!」
 マナカは止めたが、ジェフリーも残してしまった皆が心配だ。だからといって、マナカも街中へ同行することはできない。怪我をした竜次と、沙蘭の責任者を放置するわけにはいかないからだ。
「でしたら、こちらをお持ちください!!」
 呼び止めても無駄と察したマナカが、四つ折りの紙を差し出した。
「沙蘭の秘密です! 写しがない、機密事項ですので絶対に返してくださいね!!」
 ジェフリーは受け取った紙にざっと目を通す。
「なるほど、な。後で行く」
「おつかいを頼むようで申し訳ないのですが、生存者がいたら一緒に案内してください。光介が頑張ってくれたので、これ以上は残っていないと思われますが」
「わかった。気をつけてみるが、そいつが優秀なら余計な心配はいらないと思う」
 光介とはジェフリーの義理の弟だ。マナカと同じく、民のために働いているようだ。少しゆっくりさせようと、ジェフリーは逃げるように去ろうとする。
「ジェフ……だな?」
 まさかの正姫から声がかかった。てっきり、竜次に夢中でそっちのけかと思っていた。正姫は竜次に抱きついたままだが、顔を上げてジェフリーを見ている。
「よく帰って来てくれたな。見違えたぞ。後で話そうな?」
 ジェフリーは照れを隠すように手を振り、走って行った。その背中を残った三人は見ていた。
「あんなに小さかったのに、ずいぶん逞しく大きくなったな……」
 正姫は目を細め、昔を懐かしんだ。
「どうなるかと思ったが、あんなにいい子になったか」
「ははっ、ジェフがいなかったら、私はここにいませんよ……」
「そう……ですね」
 会わない時間が何年であっても、家族であり兄弟だ。縁は切れない。両親はいないも同然で、お互いを心配しながら生きていた。その思いがつながりを見せる。
 どんなに離れていても、時が経っても、家族の絆は確かなものだった。

 街中を疾走するミティアとローズ。
 もう走れないと、ローズが悲鳴を上げている。高さのある靴で長時間走るのは限界だ。
 なぜ逃げているのか。彼女たちの背後から、胸と右の腕から血を流した幼い女の子が、髪を乱しながら迫って来る。乱れた髪の合間からのぞく、血走った目が今にも落ちそうにぎょろりと覗いた。
 流血させながらの速さと迫力、この恐怖はとても一言では表現できない。
「わっちっ!!」
 ローズがもつれた足で転んだ。履いている靴も転んだ原因だが、森を抜けて来た疲労感も重なった。もともとローズは体力がない。
 転んだ先に、人の手首から先が落ちている。それを目にしたローズが過呼吸になる。
 これ以上逃げるのは限界だ、戦わないといけない。ミティアは足を止めて向き直った。腰の剣を引き抜いてローズを庇う。
 実践経験も浅く、戦いはわからない。だが、ローズを守らないといけないと奮い立たせた。
 女の子はミティアと向かい合って、気に食わない顔をしていた。
 ミティアはこの女の子をどこかで見た記憶があると感じた。乱れた形相で、ぼんやりとしか覚えがない。気のせいかと思ったが、女の子が口を開いた。
「なぜ? どうして? あなたはこの短期間でそんなにお友だちがいるの?」
 声でやっと思い出した。マーチンで黒い龍を撫でていた女の子だ。この声も、まとっている空気も冷たい。ミティアは背筋が凍ってしまいだと思った。黙って聞いていた。
「どうせ覚醒してしまえば、あなたも私と同じになるのに、どうして? あなたも『世界の生贄』なのにこんなに違うの?」
 女の子の言葉に、なぜかローズが震えている。さっさと逃げればいいものを、彼女はこのやりとりに耳を傾けていた。
「わたしはあなたが憎い、あなたが持っているものを全部奪いたい。壊してしまいたい。そして絶望させて、ゆっくり殺してあげる……」
 突如この場に戦慄が走った。女の子が左手を振り上げる。明らかに攻撃を仕掛けてくるしぐさだ。ミティアは剣を構えた。
「ごめんね……」
 ミティアは早さを生かし、背後へ回り込んだ。女の子の左手を刃がとらえた。返り血がわずかながらスカートに飛ぶ。
「わたし、人を憎む気持ちがわからない……」
 女の子がミティアに振り返る。どこかうれしそうだ。
「わたしとは違うのね。じゃあ、あなたはわたしみたいには、ならないかもしれない」
 うれしそうなのにどこか冷たい。己の運命を嘆くように。
「あなたは一体誰なの? どうして黒い龍と一緒にいるの?」
 天気のせいなのか、それとも街中の惨状のせいなのか、風が生ぬるく感じる。交わす言葉はとても冷たいものなのに。
 ミティアの質問に、女の子は冷たく凍りつきそうな笑みを浮かべた。
「私はもともと普通の人間だったの。でも、要らない子だった。世界が選んだどうでもいい命。そして『創られた者』なの」
「つ、くられ……た……?」
「あなたも同じ……」
「わたしは……」
 ミティアは憐れむように目を伏せた。

「違います!!」

 ミティアの背後からサキが叫んだ。彼は走って来たのか息を切らせ、肩を上下させている。
「サキさん……⁉」
「ミティアさんはどうでもいい人なんかじゃない!!」
 明らかにむきになっていた。サキが強気を見せる。一緒に過ごした時間は短いかもしれない。それでもミティアを陥れようとしていたことが許せなかった。

「あたしの親友がどうでもいい命持っているわけ、ないでしょ」
「えっ……キッド?」
 前方からキッドが笑みかけている。
「途中からだけど、聞いて安心したわ」
 キッドは左の手に弓を持っていた。ミティアと一緒に敵に立ち向かってくれる仲間はここにもいる。
「ずるい……どうしてなの……あなたはわたしと同じなのに!!」
 女の子はすぅっと息を吸うと黒い瘴気を撒き散らした。
「みんな、ミンナ……滅びてしまえばいいのに!」
 空が、大地が、世界そのものが軋むような恨み節だった。風が吹いた。
 髪も影も手も黒く染まり、大きく伸びた。
「これではまるで、魔女ですね……」
 サキはその外観から、女の子を『魔女』と呼んだ。サキがポーチからガラス玉を手に取って杖にした。
 ミティアが変わり果てた異形な女の子を見て、胸を痛めた。
「わたしは……同じなの?」
 自然と剣が下がってしまう。
「惑わされないでください!! 僕はミティアさんと、まだ少ししかお話ししたことがありませんが、ミティアさんはそこにいるだけで人を明るい気持ちにさせてくれる素敵な人です。同じじゃありません」
「サキ……さん……」
 風が止み、再び辺りに戦慄が走る。ミティアだけは、大きく本当に魔女のようになってしまった女の子を直視出来ない。
「わたしは悲しむことはあっても、誰かを憎むことなんてできない……」
「それがミティアさんなんです」
 下がれと言わんばかりに、サキが前に出た。
「どうする?」
 キッドが駆け寄った。
「何をしてくるのか読めませんが、殺意は僕たちに向いています」
「まぁ、そうよね……ミティアも気持ちを切り替えて」
 キッドがミティアの手をつないで後退させた。
「キッド、わたし……」
「先生、無事だったわよ?」
 キッドはわざと違う話題を振ってミティアの気を逸らした。
「ほ、ほん、とう?」
 ミティアが話に食らいついた。これ以上落ち込んで欲しくない。キッドは彼女にも、頑張ってもらいたいと思ったからだ。
「わかったら元気を出して?」
 キッドがミティアの頬をつついた。元気が出たのか、ミティアは大きく頷いた。
 キッドが振り返ったころには、サキは詠唱を始めていた。だが、先攻は魔女だった。足元をチリッと雷が走った。急変に対しサキは詠唱を取りやめ、身を乗り出すように走った。
「皆さん散ってください!! よく見ればかわせます!!」
 サキは叫んでからローズの前で障壁を展開した。ミティアとキッドの身体能力、瞬発力を信じての助言だった。彼女たちは運動神経がいい。
 魔女を中心に雷の筋が放射線状に走った。雷の広範囲魔法、サンダーストームだ。
 不規則だが、まったく読めない動きではない。上からも、足元からも嵐のように襲ってくるがその速さは鈍く、よく目で追えば自分の身に襲いかかる光の筋は見破れた。
 サキはローズを庇って障壁で防ぐ。賢い選択ではないが、話のカギを握っていそうな重要人物を守らなくてはいけない。それに、ローズを庇う理由はほかにもあった。
「サキ君、あれを倒そうとしているのですよね?」
 ローズの口調がまじめになる。余裕がないのか、真剣なのか、あるいは両方なのか。
「倒してしまったら、ミティアさんは本当に危ないのでしょうか?」
 サキは二人に聞こえないように少し小声だ。その前に雷の弾ける音でかき消えてはいるかもしれない。
 ローズは唇を噛み締め、言いにくそうにしている。だが、すぐに首を横に振った。
「厳密にはすぐではないです。もしかしたら、ミティアちゃんはああならずに済むかもしれません」
「それを聞いて安心しました」
 やはり、ローズは重要なカギを握っている。
 もともと戦線からは少し離れているお陰か、雷の直撃はなかった。
 ミティアは離れる選択をしたらしく、少し遠くにいるがこの判断は悪くない。
 キッドは言わずとも回避していた。雷が鎮まるころには渋い表情をしている。
「キッド!!」
「平気……まだ警戒して!」
 ミティアに声をかけられるも、キッドはその意図に気がつけなかった。
 魔女がキッドに次の魔法を放っていたのだ。
「まずいっ……」
 サキが気がついた時も遅かった。この距離で即座に相殺魔法が思いつかない。
 キッドの眼前に光の矢が迫っていた。
「うっ……!!」
 咄嗟に両手を顔の前でクロスさせ、目を瞑った。魔法のガードの仕方など知らない、素人の受け身だ。
 魔女が放ったのは光の上級魔法セイントアローだ。光の魔法は防御貫通魔法が多い。サキはそれを知っての「まずい」という言葉だった。
 パァンッ!!
 当たった音はした。キッドはおそるおそる目を開けると、粉々になった光が蛍のように漂っている。
「えっ?」
 キッドは後退し、サキを見やった。
「あんた、何かした?」
 サキは目を丸くして答える。
「僕は何も……」
 サキは驚いている。助けられなかったことから落ち込むべきかもしれないが、もっと驚くことが目の前で起きた。
「何だかわからないけど、手もとが狂ったのかしら」
 キッドは右足に手をかけた。剣を抜こうとしているようだ。
「ち、がう……」
 サキが杖を手にしたまま腕を抱え込んだ。
「まさか、キッドさんは……」
 魔法が掻き消えてしまった心当たりがあるようだ。サキは目の前の光景を疑っていた。だが、今はそれどころではない。魔女を、この状況を打開する方が先だと切り替えないといけない。かぶりを振ってローズに声をかける。
「ローズさん、有効な手段は思いつきますか?」
 期待はしていない。おそらくここで魔女と対決はイレギュラーだ。それでもローズは声を震わせ、意見を述べる。
「ひ、人の憎悪が彼女をそうさせるのであれば、魔の存在。下手な攻撃や魔法よりも浄化が有効かと思われ……」
 ローズのアドバイスは、自信がなさそうだった。だが、一理ある。試す価値はありそうだとサキは思った。
 キッドが間合いを詰めて切り込んだ。だが、彼女は顔をしかめる。刃先を確認するも何も付着がない。物理攻撃が効いていないようだ。
「効いてないわ……」
 このままでは不利だ。キッドは次の手を考えるも、物理が通じないのなら、これ以上は役には立てそうにないと察する。

「すまない、待たせた!!」
 キッドが手に困っている頃合いでジェフリーが到着した。
 ジェフリーはキッドの後ろにミティアの姿を確認して、安堵の息をついた。無事で良かったと安心している。今はこの気持ちを押し殺し、状況を確認する。
「サキ、この化け物は……こいつは何だ?」
 ジェフリーから見て、化け物であるほかに表現が思いつかない。的確な返事をくれそうなサキに質問をした。
「もとは女の子でした。なので、僕は個人的に魔女だと思っています」
「女の子……? 死んだらまずいってキッドから聞いたぞ。臨戦状態じゃないか?」
 サキはチラッとローズを見た。意見を求めているようだ。
「本当に困る存在なら、もっと早くに取り乱してます……デス」
 もごもごとローズは自信なさそうに言っている。
「まずいかもしれないけど、手はあるんだろう?」
「ま、まぁ……そデス……多分」
 ジェフリーもまた、サキと同じ反応をした。まだ希望がある。
 向かい合っていた魔女はジェフリーに気がついた。
 また、仲間がいるとでも言いたそうな苦しみだ。もがくように蠢き、黒い瘴気と影が広がる。
 大きく動いた隙に、キッドとミティアが合流した。
「なんかこう、手応えはあるんだけど、効いてないわ」
 キッドが右足に剣を収めた。
「ジェフリーさん、無事でよかった……」
 ミティアが目を潤ませている。何だろう、うまく言葉では言えないが彼女の顔を見て、ジェフリーは安心した。あれだけ笑うのが苦手だったのに、自然に出て来る。
「死んでたまるか」
 髪もほつれてボロボロだと言うのに、妙な安心感を得る。きっとミティアに心を助けられているのだと思った。
 成り行きでミティアを助け、はじめは面倒だと思った。空気も読めないのか、天然なのか、狙っているのかはわからない。だが、スプリングフォレストの厳しい状況でも彼女は話題を作り、場を和ませていた。時には誰かの支えにもなっている。そして今も、誰かを心配し、気遣っている。特別強いわけでもない。まだまだ実践にも慣れていないし、戦力としては乏しい。努力はしようと試みている場は何度も見ている。
 知らないだけで重いものを背負わされているのかもしれない。これまでの状況から、断言して間違いないだろう。
知らなくてはいけない。だから、ここから前に進む。ジェフリーはこの危機を迎えたことを嘆かなかった。乗り越えた先に何が築かれるのか、考えると恐怖はなかった。
「黒い龍とやるよりはわかりやすいが、どうする?」
 ジェフリーが皆に意見を求めた。
 すぐ提案を挙げたのはサキだった。
「ミティアさんとキッドさんの剣は難しいですが、ジェフリーさんの大きな剣でしたら、前みたいに魔法をまとわせたものが有効かと思います。けど……」
「けど?」
 サキは不満そうに口を尖らせた。
「最後に来て、一番かっこいい見せ場は話の主人公みたいですよね。ちょっと、仲間の活躍を押し退けるようで、どうかと思うんですが……」
 この状況で嫌味だ。キッドが噴き出して笑った。
「何その言い回し、冗談にしては先生よりもセンスがあるわね」
 サキの冗談は一同の空気を和ませた。必要以上の危機感と緊張で思いつめそうになっていたのを和らげた。

 一同が話をしている間に、魔女が強大な魔力を解放しようとしていた。
「じゃあ、その主人公さん、指示をお願い」
 キッドが笑いを噛み締めたまま、腕を組んだ。
 ジェフリーはキッドの皮肉に呆れながら剣を抜いた。
「キッドはサキのサポートを頼んだ。ミティアは博士を見ていてほしい。何かあった時は早く動けるよな?」
 言ってから魔女に駆けだした。
「アシストセイント!」
 物の試しにサキが剣に魔法を纏わせた。セイント、つまり光の力を付与させたのだ。これで効果があるのなら、今からやろうとしていることは確実に効くはずだ。
 ジェフリーが振り上げた剣が白い光を纏い、バッスリと魔女の腹を裂いた。赤黒い液体だけではなく、黒い瘴気も散った。

 戦闘の邪魔にならない場所でローズがミティアに質問をした。
「さっき、あの子はこの短期間でと言っていました。ミティアちゃんは、みんなと長く一緒にいたのではないのです?」
 ミティアが小難しそうな顔をしながら考え込んでいる。
「えぇっと、まだ、一週間くらい……?」
 答えを聞いて、ローズが困惑した。
「い、一週間で、これだけの強いつながりを築けるはずがないデス。それは……あの子も嫉妬するでしょうネ……」
 ミティアがまた首を傾げた。
「みんな、ミティアちゃんが大好きなのですネ……」

 ローズは短期間でこれだけの絆を築けるのが悔しそうだった。
 信じていいのだろうか。打ち明けてもいいのだろうか。長くて暗い、自分の罪を話しても引かれないだろうか?
 信じたいのに、まだその領域に踏み込むのがどうしても怖かった。

「もう一回あの雷の魔法が来るみたいね。さっきより大きいかもよ……」
 キッドがサキに声をかけるも、詠唱したまま止める気はないようだ。
 一瞬はためらったように見えたが、キッドに何か期待するように視線だけ向けた。
 サキだって、キッドを見捨てたくはない。彼の中でキッドを信じていたのだ。読みが正しければ、きっと大丈夫なはず。サキは頷き、キッドを見やった。
 サキの訴えるような目線に何かを感じたのか、キッドが先ほどのように目を瞑って前に立った。庇っているつもりなのだろうか?
 間もなくして、魔女を中心にガラスが割れるような轟音が放たれた。
「まずいやつじゃないのかよ⁉」
 左耳を塞ぎながら効果範囲からジェフリーが離脱した。
 だが、その轟音は一瞬だけで再び静けさが戻った。
「どういうことなんだ?」
 揃って何が起きたかの説明などできない。確実に言えるのは、この強大な魔法を回避出来たことだ。それだけはこの状況で確かだった。まただ、蛍のように光が漂っている。さすがにこれはおかしいと、キッドがサキを見た。だが、サキはそれどころではない。
 サキは詠唱を終えて両手で杖を振り上げた。
「サンクチュアリ!!」
 広範囲に光の聖域が広がった。血に染まった地面から無数の小さい光が沸き上がる。その光は白くてとても暖かい光だった。聖域を展開したことにより、悪しきものの浄化をする強力な魔法だ。
 サキの手が震えている。強力な魔法ゆえに、体が悲鳴を上げていた。
「サキさんっ!!」
 崩れそうなサキの体にミティアが手を添えた。傍らではすでにキッドもサキの手を持っている。
「最後まで頑張んなさい!」
 魔女は浄化の光にもがき、聖域を抜け出そうと動き出した。さすが魔の存在、浄化の効果を存分に受けている。攻撃を仕掛けてくるどころか、この聖域から逃れようと必死だ。
 サキは魔法を放ち続けながら焦っていた。
「こ、このままじゃ、魔女が抜け出してしまう……」
 魔女は聖域を抜け出そうとしていた。浄化に身を焦がされ、体が崩れながらもがき苦しんでいた。
「まずい、このままじゃ抜けられる!」
 ジェフリーが駆けた時はすでに聖域の端に魔女はいた。このままでは間に合わない。
 聖域の中へ青い液体の入った細長い便が投げ入れられた。足止め効果のある氷の魔法だ。魔女は凍りついて動けなくなっている。
 これは、スプリングフォレストでローズが使用していたものだ。把握したジェフリーが叫んだ。
「博士、ナイス!!」
「つ、ついに手を出してしまったデス……」
 ローズが言った直後、魔女の体が崩れ、首だけになってしまった。乱れた髪の毛は逆立ち、ぎょろりとした目がこちらを向いている。浄化による苦しみは限界に達し、魔女が最後の言葉を残した。
「どうせ、私が死んでも終わらない……」
 呪うような言葉だった。魔女は白く光り、弾けて消えた。雪のように光の粒が降っている。儚く、物悲しい光だ。

 魔女が残した言葉は意味深なものばかりだった。本来ならもっと対話し、情報を聞き出すべきだったのかもしれないがそれは叶わなかった。このままではミティアが普通の女の子として生きる道が見つけられない。不思議な力を持つ疑問も解消にはつながらない。
 結果、魔女と黒い龍……邪神龍という悪しきものを葬った。ただそれだけだった。
 ジェフリーはこの旅にまだ続きがあることを確信し、ある決意をした。

「もういいのよ?」
 キッドに声をかけられ、目を瞑って手を震わせていたサキが我に返った。
必死も必死だったようだ。額には玉粒の汗をかいて、あまり息をしていなかったのか息を切らせた。
「大丈夫ですか?」
 サキの右の後ろにはミティアだ。これはうれしいとにやけてしまう。
「はい。すみません……」
 キッドとミティアに心配をされ、サキは恥ずかしそうに杖をガラス玉に戻してポーチにしまった。
「違うでしょ、こういう時は何て言うの?」
 キッドが説教をしながら手袋を外して、スカートの埃を払っている。
「あ、ありがとうございました!!」
 サキは顔を真っ赤にして涙ぐんだ。

「ローズさんもありがとう……」
 ミティアがローズの手を取った。
「わ、ワタシ……別に……」
 彼女の純粋な笑顔に虜にされそうだ。ローズがかぶりを振っている。
「俺、そろそろ話に入っていいか?」
 少し離れたところでジェフリーが腕を組んでいる。会話に入りにくそうだ。
「あら、あんたいたの?」
 もちろん冗談だが、キッドが言うと冗談に聞こえないのが困る。
 そんなキッドを横目で見流しながら、ジェフリーがミティアを心配する。
「大丈夫か? 何か変化はないか? 体がおかしいとか、苦しいとか」
 ジェフリーの言葉で皆はミティアに注目する。彼女の答えを待った。
「何ともないと思います。ただ……」
「ただ?」
 ジェフリーが少し威圧するように答えを迫った。
 ミティアは悩ましげに首を振っている。
「お腹は空きました」
 ジェフリーの心配は無駄に終わった。思わず脱力してしまった。ミティアの拍子抜けも慣れてしまったが、不思議なことに嫌な気持ちはない。
 ミティアに異常がないのは把握した。魔女との戦いで、仲間の誰も大きな怪我をしていなかったのを安心した。
だが、腑に落ちないこともある。ジェフリーはサキに言った。
「でかい魔法をやるなら、俺が魔女に切り込む必要はなかったんじゃないか?」
 サキは悪びれる様子もなく答えた。
「本当に光の魔法が効くのか、試したかったので」
「俺は実験台かっ⁉」
「ふっふーん、そうかもしれないですね!」
 サキはにっこりと笑っていた。言葉に混ざる棘がどうしても憎めない。それはいいとして、危機が去ったのは彼だけのおかげではない。ジェフリーはキッドにも質問をした。
「それよりキッド、さっきは何をしたんだ? 魔法が消えたように見えたが」
 一番気になっているのはキッドが魔法を撃ち消したように見えたことだ。情報もなくあんなものを見たのだから、気になって仕方がない。
 キッドは眉を下げ、後頭部を掻きむしった。
「何って言われても……ねぇ?」
 本当にわからない様子だ。キッドは、心当たりがありそうな反応をしたサキに視線をおくった。
「その子ならわかるんじゃない? わかっていそうな顔してたわよ」
 注目の視線はサキに集中した。だが、答えに困っている様子だ。
「す、すいません。知ってはいるのですがあまりにも珍しいので、ちゃんと調べたいと思います。待ってもらっていいですか?」
 その反応にローズが頷いた。彼女は学者だ。多少のことなら知っていると予想がつく。ところが、サキに耳打ちをするようにぼそっと呟いた。
「二択デス……ネ?」
 サキはその言葉に唸った。
「偶然? うーん……」
 煮え切らない答えと反応は、聞いている者たちを苛立たせる。だが、こういった空気を変える頼りになる人がいた。
「でも、キッドはキッドだもん!! 何も変わらないよ」
 ミティアがキッドの手を取って笑う。キッドは手を握り返しながら話を進めた。
「それで、さっきのところに戻ればいいの?」
「そ、そうだ、先生は無事ですよね⁉」
 ジェフリーに向けての質問だ。ミティアも一安心から引き戻され、竜次の身を案じた。その顔は、不安に満ちている。街中の惨状を目にしているのだから、心配するのも無理はない。
「あぁ、いや……」
 ジェフリーはすぐに無事だとは言えなかった。竜次が大怪我をしているのは間違いない。だが、ここで安易に怪我の説明をすれば、ミティアが泣き出してしまうかもしれないと考えた。
「兄貴なら大丈夫だ。キッドから聞いてないか?」
「あ、そ、そうですよね……」
 ミティアは俯いて、己を落ち着かせるように小さく頷いた。
 キッドがジェフリーに『余計なことは言うな』と目線で訴えている。ジェフリーはこれを受けながら、自分を嫌な人間だと思った。悪い部分である、『逃げる』行為をしてしまったのだ。気まずい空気に、ポケットを探った。マナカから預かった紙に触れた。
 ジェフリーはポケットから紙を取り出し、広げた。もらった時は四つ折りだったが、もうしわくちゃだ。一見、ただの地図だが、マナカはこれを機密と言っていた。
 解読し、『機密』の意味を汲み取ったジェフリーは先立って案内をする。
「来てくれ。街はこんなになってしまったが、沙蘭はまだ終わっちゃいない」
 目指す方向は城だ。大きな亀裂の入った木製の橋を渡る。これだけ亀裂が入っているというのに、まだ崩れていなかった。
 キッドとサキが顔を見合わせながら言う。
「ここ、あたしたちが女の子に遭遇したところよ?」
「そ、そうです。こんなところに何が?」
 橋を渡り切ると、伏せられた草、足跡もある。入り乱れた痕跡だ。
 ジェフリーはさらにその先へ案内した。城壁と古い井戸が見えるが、紙と照らし合わせると目印だ。地面に目を配らせ、何かを探していた。
「ジェフリーさん?」
 ミティアがジェフリーに声をかける。直後に何か見つけたようだ。地面を蹴って砂利とは違う、乾いた音を立てた。
 突然地面の一部が揺れ動き、地面に模した扉が開いた。隠し階段だ。
 階段の先の暗闇から、ランタンを持ったマナカが顔を見せた。
「音が聞こえたのでもしやと思いました。どうぞお早く!」
「待たせた、これで全員だ」
 ジェフリーが紙を返しながら言う。マナカは大きく頷き、微かに笑った。
 階段を下りながら、サキはこの技術に驚いていた。
「す、すごい……もしかしてあの女の子はこれを探していたのでしょうか」
 全員入り込んだのを確認して、マナカは入り口を閉じた。
 ここは地下を掘って造った避難所だ。シェルターとでも言うべきだろうか。組んだ造りをしている。通路は地面が剥き出しだがきちんとした柱もあり、個室も見受けられた。頑丈に造られている。通路の端にはろうそくが灯されていた。奥にはか細いが光が射し込んでいた。通気口だろうか、凝った造りだ。
 息を潜めている街の人たちを目にした。大勢が避難しているようだ。
 一同が避難所の造りに見とれていると、男性の声が聞こえた。
「マナカ姉!」
 大間の方から黒髪で髪を結った男の子が駆け寄った。青竹色をした服をまとい、胸元に桜のバッジが輝いている。体格は細身で身長も高くはない。マナカに声をかけていた。
「光介、入り口の見張りを代わってもらえる?」
 名前を聞いて、ジェフリーが目を丸くした。
「はぁ? お前まさか」
「そのまさかです。ジェフ兄さんが沙蘭を離れた時と、ほとんど入れ違いでしたものね。義理の弟に会った気分はいかがですか?」
 マナカに紹介され、光介は一礼した。
「ちーっス、ほぼほぼ初めまして二番目の兄貴!」
 軽い口調だ。人見知りの様子もない。コミュニケーション能力は無駄に高そうだ。挨拶だけして、マナカからランタンを受け取る。光介は入り口に向かった。
 すれ違って目にしたのが左の耳に緑色のクリップが見えた。飾りだろうかとジェフリーは見流す。
 去り行く光介の背中を見ながら、マナカは案内を再開した。
「お調子者ですが、腕が立ちます。さ、皆様はこちらへどうぞ」
 数ある部屋の中から、大きな部屋に案内された。扉一枚の向こうから話声がする。
 マナカが扉を開け、皆は大間に入った。中では正姫と竜次が、座布団に座って対話していた。感動の再会かに思えた。
「先生!!」
「ミティアさん! 皆さんも!!」
 竜次が驚きの声を上げる。ミティアは勢いのあまり、前のめりになって転んでいた。
「こちらは履物を脱いでお上がりください」
 マナカが苦笑しながら案内を付け加えた。
「面白い文化よね。藁みたいなのが編んであるのかしら」
 キッドは畳を物珍しく思っているらしい。独特の文化だ。青臭く感じないさわやかな草の香りだ。様々な感情を鎮めてくれそうな、落ち着きを与えてくれる。
 マナカは大間の前で立って番をしていた。

「こちらは先ほどお話しした方々です」
 竜次は仲間を順に紹介し、最後に正姫を紹介する。
「私の妹の正姫です。今現在、沙蘭の長をしています」
 皆が来るまでに何を話したのかはわからないが、竜次は元気そうだ。それに、うれしそうな話し方をしている。
「このような狭苦しい場所で申し訳ない。お兄様やジェフが世話になったようで……」
 正姫は両手を着いて頭を下げた。
「まるで勇者様ご一行みたいです。この国、街をお救い、ありがとうございました」
 礼儀正しく、綺麗な人だ。だが少し若すぎるかもしれない。
「して、沙蘭に何用で?」
 竜次が話しを回したのだろう。正姫からまどろっこしい挨拶や世間話が振られない。
「この状況ですみません」
 サキが金の懐中時計を差し出した。それを見た正姫は大きく頷き、手を叩いた。
「お兄様が話していた賢い子だな。よいぞ。半壊してしまったが、明日案内させよう」
「ありがとうございます!!」
 正姫からサキに追及はなかった。話が早くて助かる。
「これ、マナカ」
 正姫はマナカを呼びつけた。
「この方たちに個室を空けなさい。備蓄が減ったから、部屋に空きがあるな」
「は、はぁ……」
 マナカは驚いた。正姫はさらに強い口調で言う。
「竜次お兄様は、この方たちがただの旅をしているのではないと言っていたのです。込み入った話をするのでしたら個室の方がいいでしょう。案内してあげなさい」
「は、はい……ではこちらへ」
 個室を用意してくれるらしいが、正姫も竜次も席を立った。竜次はここで、浮かない顔をしはじめた。

 マナカの案内で個室に案内された。狭いが野宿よりはずっとゆっくり休めそうだ。皆は腰を下ろし、ようやく得た休息を噛みしめる。
 ジェフリーと竜次は話があるようだ。部屋から出ようとしていた。
「後ほど、皆様にはあらためて礼をさせてもらいたい。しばしお寛ぎを……」
 正姫が軽く会釈する。それ以上は何も言わずに扉が閉められた。

「今後の会議ってところでしょうか」
 サキに言葉をきっかけに一同が考察を交える。
 キッドが大きくため息をつきながら、一つの考えを口にした。
「そうね。先生たち、場合によってはここでお別れかもしれないわね」
 その言葉にミティアがビクッと反応した。彼女だけはその可能性を予期していなかったようだ。
「え、お別れ……?」
 ミティアは目を見開き、潤ませた。
「普通に考えたら、そうなるわ。先生もあいつも……」
 キッドが諦めたように息をつき、壁に寄りかかって腕を組んだ。
「国もそうですが、肉親の方が大変な思いされているのです。理由が理由です。こればかりはどうにも……」
 サキが言い終える前にすすり泣く声がした。泣いているのはミティアだ。
「そ、そんな、先生もジェフリーさんも、ここでお別れ……なの?」
 泥と埃が涙で滲み、ミティアの整った顔は乱れていた。
 キッドがそっとミティアを抱き寄せた。
 あえて言葉にしなかったが、気持ちは一緒だ。
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