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【7】くずれゆくもの

策略

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 宿に戻ると椅子でゆっくりとしているサキが迎えた。
 真っ黒に汚れたキッドとジェフリー、血だらけの竜次を見て、驚きのあまり椅子から飛び跳ねて足をぶつける。
「ど、どうしたんですか!? 大変です……お湯をもらって来ます!!」
 ボクもわしも洗ってくれと言わんばかりに、二匹もサキのあとをついて行った。この二匹も泥だらけだ。フサフサとした毛並みの圭馬の方が、汚れがひどく見える。
 ジェフリーとローズが竜次の体を支え、空いた椅子に座らせる。竜次の頭を下げて、本格的な処置を施す。
 裂傷があるが、深くはなさそうだ。ローズが診察するには、そこからの化膿や、感染症の心配をしていた。
「私、頭を怪我してばかりなのですよね。そろそろ馬鹿になりそうです……」
「先生サン、激しく皮膚を引っ張るので麻酔しますヨ……」
 ローズは血を拭って、透明な液体の入った瓶を開ける。
 サキが洗面器にお湯をもらって部屋に戻った。お湯からいい匂いがする。
 竜次が洗面器に目を落とした。
「おん、せん……?」
「あぁ、予約したとき、温泉があると書いてあったな。天然じゃないらしいけど」
「むぅ……」
 この怪我で浸かるのは難しい。竜次はひどく悔しがった。以前、温泉に入りたがっていた話を思い出す。
「これは、飲める加工がされているみたいですよ。飲みやすく、臭みもなくて、体の芯から温まりました」
 サキは説明しながら、ちゃっかり飲んだ感想を述べた。落ちついたら、飲泉も悪くないだろう。
「それでジェフ、説明していただけますよね?」
 竜次は頭を上げ、上目遣いのようになりながらジェフリーに説明を求めた。
「ミティアは……連れて行かれた。あの、下品な笑い方をする野郎に……」
 竜次だけではなく、キッドまでも険しい表情になった。
「な、何で!? あんたたち、何をしてたのよ?」
「……」
 思い出したら悔しくて仕方ない。二度も、ジェフリーは敗北した。こんな屈辱、あっていいはずがない。
 黙っているジェフリーに苛立ち、キッドは胸倉に掴みかかった。
「ふざけてるの?」
「姉さん、やめて。僕も、いけないんです……」
 サキが首を振りながら、ジェフリーを庇いに入る。まだ足がふらついている。
「僕が、計画性もないまま、怒って当たりもしない魔力解放なんてするから。何もできなかったんです。ごめんなさい……」
 キッドの手が震えている。涙目になりながら、歯を食いしばっていた。
「こいつは、キッドが兄貴と生き埋めになっていると聞いて、勝手に突っ走った。止めなかった俺がいけないんだ。責めないでやってほしい」
「ジェフリーさん、やめてください。僕なら、あの人を何とかできたかもしれないのに……」
 二人のやり取りを聞いて、キッドは手を離しジェフリーを解放した。
「あたしだって、本当はわかってる。あたしも悪いから。あたしのせいで先生はこんなに大きな怪我をした……」
 床に彼女の涙が落ちた。木の床に大粒の、わかりやすい染みだ。
「でも、あなたが一緒じゃなかったら、犬死にしていました。私も油断していたのがいけない。それに、別れてこの街の情報収集を提案した私にも非があります」
 言っても泣き止む様子がない。キッドは肩でしゃくりあげていた。
「自分を責めないで、泣かないで……」
 竜次が言っても、キッドはなかなか納得しない。お互いがお互いを責め始めた流れに、コーディも口を開いた。
「私なんて、特に何かしたわけじゃないしなぁ……」
「コーディは冷静でいてくれるから、助かってる。手を貸してくれるし」
 ジェフリーは、コーディが自身を激しく卑下する前に、気を配った。
 この空気にいたたまれなくなり、圭馬は指摘を入れる。
「湿っぽい空気の中で申し訳ないけど、お姉ちゃんを助ける方法を考えないの?」
 手段が思いつかない。連れ去られた場所もわからない。何もかもがもどかしい。
「もちろん助けたいさ……」
 ジェフリーが言う『助けたい』は、二重の意味だった。まだ仲間には打ち明けていないが、ミティアの命も助けたい。こんなに胸の奥が苦しいなんて思いもしなかった。

「あー……方法はともかく、居場所はわかるデス」
 ローズが空気を変えた。手元は、歪曲した針とテグスに似た細い糸を動かしている。傷口の縫合をしているようだ。喋りながら動かせる器用さが光った。
「ワタシ、ただ、怪我をしに飛びついたわけではないデス」
 パチパチと切り揃えている。縫合が終わったようだ、トントンとガーゼで拭って整えている。
「先生サン、このままくっつくまで帽子で隠すしかないデスネ」
 ローズは血を洗って拭きながら皆に向き直った。
「発信機、知ってマス? あのヤローに引っつけたデス」
 自信に満ちた表情だ。一同揃って驚いている。中でも一番驚いていたのは圭馬だった。
「えっ、ローズちゃんすごくない?」
「いえーい、ちょっと待つデス」
 ローズは白衣のポケットから、平たく薄い機械を取り出した。
 現代に例えると、タブレット端末である。この世界の文明では、テレビやパソコンはあるが使わない者が多い。普及はしていないし、使い熟せる者も限られる。
 ローズは何やら操作をしている。この機械は、画面全体を触って操作するもののようだ。皆は見慣れない物なので呆気に取られている。
 ローズは画面に地図を出し、皆に見せた。見覚えのある地形に矢印が点滅している。
「んー、方向からすると、フィラノスの近く? みたい……デス」
「そこにミティアがいるのか!?」
「あくまでも目安にしかならないデス。ミティアちゃんがそこにいる可能性はあるかもしれませんケド……」
 フィラノスと聞いて、サキが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「どうしたのよ、故郷じゃない」
 キッドがサキに対し、なぜその反応をするのか疑問を投げた。
「実は、その…………」
「サキお兄ちゃん、アイラさんも指名手配されてた」
 サキが言いづらそうにしていたのを察し、コーディが代弁して知らせる。ギルドでもらった何枚かの写しをキッドに見せた。
 だが、キッドはほとんど読めないようだ。ローズと竜次が覗き込んで驚いている。
「本当ですね。サキ君と人情マダム、それぞれに一千万リースの賞金がかかっています。しかもこれ、生け捕り限定だなんて……」
 サキは深く肩を落としている。
 ここにいる皆は、仲間を売るような真似しない。それでも、気分がいいものではない。
「僕のせいで、みんなに迷惑がかかってしまうのは……」
 ローズはサキが拾った親にいい思い出がないことを知っている。気持ちを汲み取った。
「なるほどデス。フィラノスがローレンシア一家を始末したとの話、これが引っかかっているわけネ」
 成績優秀で有名人の名前。フィラノスに限っては、知らない人が少ないかもしれない。
 また名前に縛られるとは、想像もしなかっただろう。
 名前に縛られている筆頭である竜次は、サキを励まそうと試みる。
「サキ君が迷惑ではなくて、ここでサキ君の知識を生かせることや動きが制限されるのが今はつらいかもしれません。でも大丈夫ですよ。まだ、本当なのかわかりません。何かの間違いかもしれませんし、ね?」
 竜次はそのまま自分なりの考えを述べる。
「しかし、こう動きが急ですと、フィラノスも焦っているのでしょうね。サキ君もしくは人情マダムを引き入れたい。あるいは、我々からその戦力を削りたい意図だと思うのですけれど」
「ボクも、お兄ちゃん先生の考えはだいたいあっていると思うよ。こんなに向上心の塊みたいな子、将来有望すぎるでしょ」
 竜次の意見に圭馬も同調した。皆の考えをまとめると、こちらが『崩れる』ことを狙っているのではないかと考えが行き着く。こちらを混乱させたいのかもしれない。まだ正確な情報ではない可能性もある。
 それでもサキは肩を落としたままため息をついた。一度広がってしまっては動きにくい。
「このままだと大図書館にも入れないし、フィラノスの街中を歩けません。僕だって、ミティアさんを助けたいのに、こんなのって……」
 重たい空気が続く。魔鉱石の件も残ったままだ。
「タスクが多すぎなのですよね。情報も散らかっています。加えて、自分たちは大丈夫と過信した。今まではよかったかもしれませんけれど、これからはそういった考えが通じない。それを思い知らされました」
 そして竜次は反省に走った。個人で動くといいことがない。
 個人で動くという言葉を聞き、ジェフリーは心が軋むような痛さを覚えた。それでもミティアの秘密は話さない。現状でこの調子だ。仲間の立て直しと、請けている依頼が先だと判断した。
「先にこの街で魔鉱石の件、片付けないといけない」
「あんた、正気!?」
 ジェフリーがやっと答えを出した。もちろんキッドは激しく反対する。
「ミティアがどうなってもいいの!?」
「いいわけがないだろっ!!」
「人の命を何だと思ってんの!?」
「俺たちがしていることは、国や世界がかかっている。優先順位をつけるなんて、正直、俺はしたくない。だけど、現実を見据えたら、そうするしかない……」
 食い下がるキッド。だが、気がついたら彼女以外に反対がいなかった。
 キッドは一人で取り乱したと我に返った。何も言い返せず、悔しそうに引き下がった。
 竜次は冷静な指摘を入れる。
「困った。ジェフが正しいことを言っている……」
「自分が正しいとは思っていない。本当は先送りになんてしたくない」
 ジェフリーはこれを素直には受け止められない。最も冷静を欠いていけないと、自分なりに精一杯踏みとどまっているだけだ。
「誰も欠けちゃいけないんだ。頼む……確実な方法を考えたい。だから、力を貸してくれ!!」
 ジェフリーはキッドに頭を下げた。つらい気持ちはお互い理解している。ただ、気に食わないから喧嘩をしているわけではない。
「なぁるほどぉ……」
 ショコラが皆のやり取りを見て、一人で納得している。
 圭馬がこっそりと称賛した。
「ね、すごい人たちでしょ? イマドキって感じじゃないよね。薄情じゃないし」
「そうですねぇ。この方たちを気に入ってしまいましたのぉん」
 新規参入したばかりのショコラの視点では、この一行は異色に見える。ただでさえ、人間に触れるのも久しいのに、愛だの友情だの並べる人よりもずっと輝いて見えた。
 キッドは声を低めにし、控えめに首を振った。
「……わかったわ。あんたを責めるのはやめる」
 ジェフリーはキッドに納得してもらえたことを安心した。
「さっさと要件を済ませて、ミティアを助けたい」
 キッドは深く頷いて、今度はサキの手を引いた。
「あんた、ちょっと付き合いなさい」
 キッドはサキを連れて外出しようとした。ジェフリーは確認のため、一言注意をする。
「キッド、わかってるよな?」
「すぐそこまでよ。何なら、あんたたちも来なさい」
 キッドはそれでも出て行こうとする。保険なのか、証人なのか、圭馬とショコラにも声をかけた。
 手を引かれながら、サキは目を丸くしている。
「姉さん、何をするつもりですか? 今から探検とか言わないですよね? もうすぐ夜ですよ?」
「安心しなさい、『念のため』よ?」
 二匹を引き連れ、キッドとサキは部屋から出て行く。彼女のことだから、無茶はしないはずだが一体、何をするのだろうか。圭馬とショコラも一緒なら、大丈夫だとは思いたい。
 嵐が去ったような静けさがこの場に残る。
 竜次がジェフリーに声をかけた。
「ねぇ、ジェフ。どうやったら『彼女』と仲良くできますか?」
「この状況で色ボケ話をするなんてどうかしてる」
 精神的に参っていたというのに、さらに異様な疲労感がジェフリーを襲う。この状況で、竜次が私情の話を持ち込むのは不意を突かれた。ジェフリーは椅子に深く腰かけた。見える範囲で、ローズとコーディが片付けをしている。一見無関心なようにしているが、しっかり聞き耳を立てているようだ。
 ジェフリーは適当にごまかそうと思っていた。だが、竜次は泣きつくようにしつこい。何を焦っているのだろうか。
「あの、ジェフ、真剣な質問なのですが?」
「そういう質問はミティアに……」
 ジェフリーは言いかけて舌打ちをした。すぐに切り替えて、かぶりを振った。自分で地雷を踏むとは思いもしなかった。
「キッドは人に対する当たりはキツイが、本当に話したくなかったら何も話さない。だいたい、俺に解決策を求めるのは間違っていると思うが?」
「逃げろと言っても、キッドさんは逃げなかったし、助けてくれた。私が彼女を助けてあげないといけないのに」
 頭の固い竜次らしい悩みだ。ジェフリーにとっては簡単な答えだった。
「キッドは仲間を見捨てたりしない。あぁ見えて仲間思いだし、立ち回りは上手いし、みんなをよく見て引っ張ってくれている」
 竜次は納得がいかないらしく、まるで子どものように駄々をこねる。
「私だって彼女に限らず、みんなの役に立ちたいのに……」
 ジェフリーは聞いていてため息をついた。少しはわがままだと自覚してもらいたい。
「コーディ、どう思う?」
「えっ、何で私なの!?」
 ジェフリーはここまで自分が言っても、どうも届いていない気がしていた。ここは第三者から言ってくれた方が薬になるかもしれないと考えた。
 コーディは嫌そうな表情でローズに助けを求めていた。だが、ローズは視線を合わせない。竜次の眼力が強く、意見を求めるように悲願している。
「あ、えっと、お、お医者さんなのに、相手の気持ちを汲み取るのがヘタ……かも?」
 コーディは厳しい指摘を入れた。何度も言っていたような気もするが、改善の様子はない。控えめに言ったのに、それが効いたらしく、竜次は考え込んでいる。人の立場になることの難しさ。同じことを繰り返す自分が嫌になってしまう。
 それでも誰も見捨てたりしないし、指摘も意見もくれる。
 何も考えず、医者の雑用で使われっぱなしだったときは、人として見られていたのかも怪しい。面倒な人だと思われても、誰が指摘などしてくれただろうか。
 もっと、仲間と向き合わないと。自分勝手で済ませていいものではない。制裁を受けるわけではないが、竜次は落ち着きがなかった。

 ノックスの街中で、サキはキッドに手を引かれていた。
「ね、姉さん、痛いよ……」
 サキはただでさえ疲弊しているのに、キッドに手を引かれる。機嫌が悪いのか、強いように感じた。
 店でもない場所で手を離し、キッドは言い迫る。
「あんた、何か隠してない?」
 サキは動揺しながら苦笑いをする。さては見透かされたかとも思ったが、二匹の視線も感じながら答える。
「隠すって……もしかして、先生が僕たちを知りたがっていた話ですか? 少しだけ話しましたけど?」
 不自然ではない程度に、違う受け答えをする。ミティアの危機を、ジェフリーに断りなく広めたくなかったからだ。だが、完全な嘘ではない。竜次に話したことをキッドに打ち明けていなかった。厳密には隠しごとをしていた。
「先生? あんた、もしかして話したの、よね?」
 怪しまれる様子なく、キッドも気になっている話のようだ。サキは調子よく続ける。
「先生やジェフリーさんとはまた少し違いますからね。興味があったみたいです」
「き、興味……?」
 キッドは突然小声になり、頬を赤くしている。
「姉さん、どうしたの?」
「な、何でもっ……」
 キッドはぶんぶんと首を横に振っている。異様に思ったが、脇で圭馬が尻尾を振っている。口にこそしないが、『わざとらしい』とでも言いたそうだ。
「それより姉さん、僕をどこへ連れて行こうとしていたの?」
「そ、そうだった……」
 キッドは主目的を思い出し、慌てていたところから冷静になる。
「ま、来なさい?」
 サキは言われるがままキッドについて行く。辿り着いたのは服屋だった。
「あれ、ここって……姉さん?」
「あんたさ、魔法都市フィラノスで長かったから、その格好はバレる可能性あるでしょ?」
「わ、姉さん頭いい……」
「もっと褒めてもいいんですよ? だったかしら?」
 キッドに自分の特色を真似され、サキは頬を膨らませて不満そうだ。
 キッドはいなくなってしまった親友だったら、こうするであろうと、自分なりの考えで行動した。自分はミティアのように空気を和やかにはできないが、弟に何かしてあげたかった。
 一見、何でもない衣装替えに思えるが、これでカムフラージュできるなら、流れは潤滑になる。
「あたし、奥を見て来るわね」
 キッドは入店してすぐ、店の奥に入った。店の入口付近だけでぎっしりと並んでいる。作業服の取り扱いもあった。

「ねぇキミ、さっきの、知っていて質問したの?」
 ハンガーと服に指を通しながら見ているサキに、圭馬が小声で話しかけた。
「さっきって?」
「キッドお姉ちゃん、お兄ちゃん先生とキスしてたけど?」
「へ?」
 サキは手を止めて、圭馬に向き直った。
「えっと、姉さんが?」
「あの二人って最近よく一緒だよね、心境だけでもお聞かせ願おうかな?」
 圭馬はサキの反応を楽しみにしている。絶対に遊んでいる。
 だが、サキは動揺もせず、思いのほか静かな反応だ。圭馬は残念だと耳を下げた。
 サキは含み笑いをする。
「姉さんが幸せならそれでいいかな」
 嫉妬や悪い気持ちは一切ない。むしろ、なぜ今までその話がなかったのかを疑う程度には一緒に行動をしていた。それでも、意外だとは思った。サキが思うキッドは行動や戦略は大胆に見えて、恋愛には奥手ではないかと思っていたからだ。
 サキはミティアに好きとは言ったものの、進展もしなかったし、結局デートもしていない。憧れに近かった思いもあって自然消滅したが、気まずさはない。言い方はアバウトだが、その後、ジェフリーとくっついた。意外と思い悩んだり、気を使ったりと面倒だったかもしれない。
 恋愛は、勉強よりも、遥かに込み入っている難しいものだ。
 もっとも、恋愛などという面倒臭いものは理性を持った者がする。動物にデートやお互いを思いやるなど、そこまで深い表現はない……と、思う。
 考え込んでしまったが、そのうち竜次に込んだ質問をしてみてもいいかもしれないと、サキはこの場を切り替えることにした。

 切り替えて服を眺める。見た目を変えても、大図書館へは入れないのならば、ほかにも手を考えないといけない。難しく考えているとし、ショコラが顔を覗き込んだ。
 サキは小声で質問をする。
「ショコラさん、ご相談ですが」
「のぉん?」
「人の目を欺き、騙す魔法はありますか? 幻影魔術に長けているなら、そういったものもあるんじゃないかと」
 一般的には邪道だとサキは思った。だが良心が痛むよりは、力になれない方が今は痛手だ。ショコラは尻尾を揺らしながら感心しているようだ。
「ほほぅ、お主、賢いのぉん」
「あるんですね……」
 方法があるようだ。これで手は打てると安心し、サキは頷いた。
 少しだが気を持ち直した。あとは、確実にミティアを助ける方法を熟考すればいい。
 フィラノスにほしい答えがあるはずだ。力をつけて、自分でも立ち回りができるようになりたい。
 キッドが店の奥から手招きをした。それに気がついたサキは向かう。
 女性物の服しかない。サキは女装でもさせられるのかと警戒していた。
「あんた、少しは肥えたけど、肩幅が広くないのよね」
 キッドは何着か考案をした。今のサキは赤いローブだ。そもそも赤は目立つ。加えて顔は可愛い。目を引くだろう。使い魔も一緒だ。
 指名手配以前に、目立つ要素はいくつもある。


 散らかした医療器具や道具の片付けを終え、コーディとローズへ部屋をあとにした。と、言っても女性部屋は隣だが。
 竜次と二人きりになり、ジェフリーは肩を竦めた。
 色恋沙汰は自分も他人事ではなくなってしまったが、想いが一方的に募るばかりで落ち着かない。サキもいないし、話し相手の選択肢がなく、ジェフリーはそわそわとしてしまう。
 竜次はジェフリーに声をかけた。
「本当にあなた、ミティアさんが好きなんですね」
 ジェフリーは疲れているせいか、椅子からすぐに立てず、話に捕まった。
「自分の心配をしたらどうだ?」
「私はいいです。ジェフがこんなに何かに真剣に取り組んでいるのが、珍しいから、個人的に応援したい」
「……」
 急に兄らしい振る舞いをされ、思わずジェフリーは動揺する。動揺した拍子に、胸元のポケットにずっとしまい込んでいた、大図書館での本を思い出した。
 さして分厚い本ではないし、邪魔にはならなかったが、いつまでも持っていても仕方ない。どうせ、その怪我で前線に立つのは少し時間がかかる。気持ちが落ち着いている今なら、渡してもいいだろう。
 ジェフリーはフィリップスの大図書館から持ち出した本を取り出し、竜次へ渡した。
 受け取った竜次は目を丸くし、首を傾げる。
「綺麗な押し花ですね。こちらは?」
 竜次はまずは表紙を見ている。勝手に開こうとしないのは律儀なものだ。
 ジェフリーはこの本の出どころを言う。
「フィリップスの大図書館で、沙蘭から寄贈された本の中に紛れていた。多分、兄貴が知っている人の物だと思ったから、持って来た」
「中、見ていいのですか?」
「俺はざっと見ちゃったけどな?」
 ジェフリーは一応断りを入れた。竜次が怒るかもしれないと思ったからだ。
 竜次が本を開き。目を通す。ジェフリーが認識している限り、本というよりは日記帳に近い。竜次は数ページで手を震わせ目を丸くしている。
 ジェフリーは竜次の反応を見て、念のため確認をした。
「当たりでよかったのか?」
「……はい」
 竜次は顔を上げず、小さく頷いた。ほろりと涙が落ちた。
「兄貴は愛されていたんだな、その人に」
 ジェフリーは考えていた。愛とは何だろうか、好きとは違うのかと。三日月のピアスもそうだ。寄り添うメッセージが刻まれている。この日記だって、愛する人が残してくれたメッセージだ。計り知れない、深い愛情を羨ましく思った。
 竜次はぱらぱらとページを捲り、表情を変えていく。最後まで目を通して深い息をした。目元を整えながら感傷に浸る。
「こんなに色々と残してくれたなんて、思いもしなかった……」
 竜次は笑いながら、表紙の押し花を見つめる。
 正直、ジェフリーにも他人事ではない。ミティアとは歩み始めたばかりの関係だ。ただ好きという気持ちだけで、これからを模索している。それ以前に考えることが多い。それでも個人的に気になった。
 ジェフリーは竜次の言葉に耳を傾ける。
「医者にならないで、もっと一緒の時間に費やせばよかったと、後悔しています。長くないとわかっていたのか、子どもを産みたいとせがまれたこともあります。それでも、一緒に生きる道を諦めたくなかった。結果、寂しい思いをさせてしまいました」
 竜次はこういった事情に関しては先輩だ。言葉の一つ一つが、ジェフリーの身に染みる。
「だから、ジェフは選択を誤らないで……」
 暖かい言葉、暖かい表情。ジェフリーは折れそうになった心を竜次に救われた。
「私は自分勝手が過ぎました。その人のためだと、勝手に思い込んで自分のエゴをたくさん押しつけた。ジェフにだってそうです。もっと誰かを頼ればよかった。声を上げればよかった……」
 信頼していなかったわけではない。ジェフリーは話すことをためらっていた自分を恥ずかしく思った。
「俺は言えなくて困っていることがある。今の兄貴だから、相談したい」
 きっと竜次はもう大丈夫だ。また自殺未遂を起こしたり、不安定な精神でやけを起こしたりはしないだろう。
 ジェフリーは竜次に、アイラの手紙を打ち明ける決意を固めた。
 手紙本体はサキに預けている。よって、口頭で説明するしかなかった。
 簡単な切り出しだけ先に話す。手もとに証拠がない状態でも竜次は真剣に聞いてくれた。信じてくれることがありがたい。
「……それで、このままだとミティアが衰退して死ぬらしい。俺はどうしたらいいのか、ずっと迷っている。世界の生贄にされた負荷、禁忌の魔法を使う負荷、色んな要因はある。救える手立ては難しいがないわけじゃない。だけど、今は他にやることが立て込んでいる。知っていても、ミティアに全振りはできない」
 竜次は椅子を持ってジェフリーの隣に寄った。それほど真剣に聞いている。親身になっていた。
「なるほど。ジェフは大人ですね。私に話すのを躊躇したのは、自分勝手に過ごしていた私と同じだからですか?」
 ジェフリーは、話すことで竜次が取り乱すと思い込んでいた。そう、ただの思い込みだった。
 竜次はジェフリーの頭を撫でた。こんな行為は珍しい。
「私と一緒、あなたも馬鹿です。答えは簡単ですよ。ミティアさんはこれまでの道中で、何と言っていましたか?」
 ミティアは道中で何を言っていただろうか。ジェフリーは考え、思い返す。生贄になって死ななければならないと前にしたとき、ミティアはもっとみんなと一緒にいたいと言っていた。
 何も難しくはない。答えは出ている。
 竜次はジェフリーの肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「フィリップスでもあなた、ぼうっとしていましたものね。そこまで道が見えているなら、私と逆の選択をして。ミティアさんの願いに応えるべきです。私にも手伝わせてください」
「兄貴……ごめん、ありがとう。信用してなかったわけじゃない。ただ、兄貴までつらい思いするんじゃないかって心配はした。やっぱり、兄貴を頼ってよかった」
 兄はしっかりしていた。打ち明けて、思い詰めていた重荷が軽くなった。幼い頃はよく面倒を見てくれた兄だが、その背中はやはり大きい。ジェフリーは自分だけで背負ってしまったことを後悔した。
「今だから言えますが、私はジェフに嫉妬していました。いつの間にかあなたの方が先に進んでいたので、悔しかったですよ?」
 竜次は乾いた笑いをする。卑屈まで落ちることにはならなかった。
「確かに、あれもこれも抱えては難しいですね。それで、ミティアさんが助かる方法は見つかりましたか?」
 大きな問題にぶち当たった。いくつか、手がないわけではないし、敵もはっきりしている。アイラの手紙を信じるのなら、厄介な敵だ。ジェフリーは小さく首を振った。
「手は……今考えている。本当の敵なら、見えてはいる……」
「本当の敵、ですか?」
「ミティアの兄貴が敵、らしい。生きている」
 ジェフリーはあえて本当の敵の話もする。ぴくりと竜次の手が動いた。
「ミティアさんの……?」
 竜次の反応はいいものではなかった。険しい表情になると同時に、心当たりがあるのか、目を伏せて唇を噛み締める。
「助けたいならフィラノスに行って手段を探せ。戦えと……」
「ジェフ……キッドさんに、この話はしましたか?」
 妙な質問だ。これにはジェフリーも違和感を覚えた。
「いや、話していない。キッドと博士にはまだだ。いずれは話さないといけないと思うけど……」
「キッドさんにだけは、絶対に話してはいけない」
 竜次は異常なまでにキッドを気遣った。話に熱が入ってしまい、気分が悪くなったのか、竜次が額を押さえた。
「こんな、むごい……」
「博士には折を見て話そうとは思うけど、キッドはそうしてダメなんだ?」
 ジェフリーにとっては壁を感じる疑問だった。私的な事情で話すことを阻もうものならば、尊敬から一転して見損なう。
「それは……」
 竜次が言葉に詰まったタイミングで、ドアがノックされた。
 二人は揃って、立ち聞きを警戒する。
 ノックのあとに開かれたドア。その扉からは、黒っぽい髪のかけた少年が覗いた。緑色の帽子にロングコート。大きな襟のバルーンブラウスを着ている。
 少年は困惑している様子だ。
 竜次は目を凝らしながら質問をした。
「もしかして、サキ君……?」
「あぁ、なるほどな……」
 ジェフリーもサキであることに納得した。真剣な話をしていた反動で、反応は薄い。
「敵を欺くにはまず味方から、よね?」
 悪巧みをする表情で、キッドがサキのうしろから顔を覗かせた。
 危ない。キッドがいたのなら、『あの』話を聞かれてはまずい。兄弟は、サキに場の話を振り切るアイサインを交わした。
「ジェフリーさん、友だちを忘れるなんて、ひどくないですか?」
「悪い、まさかとは思った。外出の理由か?」
 サキは不満そうな表情でむくれている。
 竜次はクスクスと笑っていた。
「ますます賢く見えますね。今までとはガラリと変わりましたので、見た目は誤魔化せるかもしれません」
「ほとんど姉さんが選んでくれました」
「いいと思います。大人になったようにも見えますよ」
 控えめに言っても、今までより賢くは見える。それに、服のサイズが大きくなったせいもあってか、大人びたようにも思える。これまでのサキを知る者がいたら、別人と思うかもしれない。
「さ、ローズさんとコーディちゃんの反応も見るわよ?」
「えっ、あっ……」
 キッドに引きずられて行くサキ。まるで人さらいのようだ。
 
 嵐のようなお披露目だったが、入れ替わりに使い魔の圭馬とショコラが部屋に戻った。
 二匹とも、ジェフリーに用事があるようだ。
「どうした?」
 足元にちょこんと座る。
「キミ、ちゃんと魔法を習わない?」
「はぁ?」
 圭馬から唐突な話を受けた。ショコラも同じ気持ちのようだ。
「お二人を助けたのは、ほかならぬお主じゃよ。その才能、活かすつもりはないかと。もちろん、契約を交わした者ではないので、無理強いはしませんのぉん」
「やっぱりジェフの才能は、お母様からの遺伝でしょうね」
 竜次まで話に乗った。
 ジェフリーは先ほど言いかけていた、キッドの件が気になって仕方ない。話題が逸れてしまったので、このまま流れに乗る。使い魔に言い寄られてもあまりうれしくは感じない。
「遺伝と言われても、俺はおふくろに抱っこもしてもらってないぞ。知らないことが多すぎる」
「一言では説明出来ない優等生と、お父様から聞きました」
 気にしているのはそこではないが、話が面倒臭い方へ進む。ジェフリーは露骨に面倒な態度を取った。
「正直俺は、兄貴やサキと違って頭は悪い。適材適所があるだろ?」
 魔法の話は嫌いではない。だが、そう迫られて勧められるほどではないはずだ。それに、ジェフリーは自分なりの考えも持っている。
「できることなら今すぐにでもやる。だけど、専門じゃない。極めようとは思わない。俺の専門は剣だ。魔法が主力にはならない」
 文字通り、言葉を切り捨てた。人には専門とそうでないもの、得意なものと不得意なものがある考えだからだ。
 圭馬はどうしても食い下がりたいようだ。少ししつこさも感じる。
「そうだけど、もったいないね」
「魔法剣士にでもなれって言うのか? それなら悪くないけど、だいたい手をつけすぎるのは、ネタが切れた芸人がする悪手だろう?」
 そんな空気を察してなのか、竜次も押しにかかった。
「まぁ万が一、サキ君が潰されてしまったら、打てる手がないんですよね」
「サキがそう簡単に潰されるとは思えないけど、そうだよな……」
 魔法に頼り切っている点では、戦力として欠けると大きく揺らぐ。残念だが、これも打開策を考えないといけない。
「魔石は持っているんだよね。だったら、要所でサポートするよ。ただ、ボクかババァがいないと無理そうだなって思ってね」
「少しは頑張る、で、今は勘弁してもらえないか? 本なら持っているから時間を見つけて目を通しておく」
 面倒臭いとは思ったが、これも重要ではある。これからは特にそうだ。真正面からの馬鹿正直が、どれだけ通じるのかも怪しいだろう。小細工は仕込んでおいてもいい。
 ジェフリーにとっては、強引な話だった。気がかりだった話が、すっかり流れてしまった。重要な話だった気もするが、今更蒸し返せない。

 話もほどほどに、呼び出された。とりあえず晩御飯に落ち着こうとする。
 宿の食堂でテーブルを囲むも、一人いないだけでこんなに寂しい食卓になるのかと心苦しい。
 魚の煮つけに、ミートパイ、おこわなど、多様な料理が並ぶ。皆は適当に取って口にする。おいしいが、どこかおいしく感じない。
 ただそこで笑いながら、おいしそうに食べるミティアがいないだけで、こんなに空気も食事の味も違うのかと誰もが思っていた。誰も話さないし、味を述べる者もいない。
 やっと誰か喋ったと思ったら、圭馬だった。
「お姉ちゃんがいないだけでお葬式みたい」
 他者視点ながら、かなり縁起が悪い。
 皆が揃って食器を止めた。誰も否定できない、言い返せない。
 ジェフリーは特に気にしていた。
「とんでもない奴だと思っていたけど、いないでこんなに違うんだな」
 当たり前になっていたミティアの存在。いないだけでこんなにも寂しい。
「なんか、おいしいんだけど、おいしくないね」
 コーディもスプーンを咥えている。目の前には、湯気が立っているスープがあるのに、食が進んでいない。
 竜次も食べながら渋い顔をしている。
「早めに調査を済ませて、ミティアさんを助けるための方法を考えたいですね」
 今は全員が納得し、調査を優先している。
「調査……ウーム……」
 ローズも考え込んでいるが、どうも考えている対象が違うようだ。
「この調査自体が仕組まれていると、疑った方がいいのですかネ……」
 疑いを口にする。気持ちが沈みがちなのだから、この気持ちは理解したい。
 ジェフリーは気持ちを汲み取りつつ、自身も気になっていることを話す。
「それはないと思うけど、どこで調査が筒抜けたのかは気になるな。ギルドの依頼は取り下げられたわけだし、依頼書を見せるか、こっちが話さないと調査に来た人という認識はないだろうな」
 ジェフリーの観点から、騙すには手が込み過ぎていると思っていた。有り得るとしたら、可能性は自分にある。
「可能性は、フィリップスの王子にあの野郎の話をしたことだ。ギルドに探りを入れたなら、勘付くだろうな」
 シフの下品な笑みを思い出すだけで吐き気がする。
 キッドが両手に拳を作り、テーブルを叩きつけた。皿や食器がガチャガチャと鳴る。
「あいつ……許さない」
「姉さん、行儀が悪いよ?」
 サキが指摘を入れると、キッドは睨み返す。彼女も落ち着かない。
「気が立っているのはわかりますけど、怒っても解決しないです」
 サキはやや弱気になったが、キッドをなだめている。
 キッドも、わかってはいるものの、悔しくて仕方ないようだ。
 そんなやり取りを見て、ジェフリーまで気が立った。ミートパイを摘み、立ち上がる。
「のぉん?」
 足もとのショコラがジェフリーを見上げる。
 圭馬も駆け寄った。二匹も腹を空かせているだろう。人間の食べ物を与えていいのかわからなかったが、完全な動物ではないので大丈夫だろう。
 小皿に少しずつ料理を盛り、テーブルの下に潜らせた。
「あぁ、そっか、忘れてた……ごめんよ」
 サキは食卓の雰囲気に飲まれて、二匹を失念していた。
 ひりついた空気に耐えられず、ジェフリーは立ったまま一息つき言う。
「素振りでもするかな……」
 寂しさを埋めるものがない。せめて、何かをしていようと自分に向けての言葉だった。だが、キッドが食らいついた。
「素振り? 冗談でしょ……あたしも行くわ!」
 彼女も機嫌が悪い。ジェフリーは目を合わせないまま、食堂を出て行った。
 キッドは何も言わずにジェフリーを追った。
「えっ、姉さんが、ジェフリーさんと……?」
 いつも仲が悪そうに口喧嘩をする二人だが、この二人が稽古をするのは想像がつかない。むしろ、殺し合いに発展しないかと心配もある。
 再びしんみりとしてしまう。竜次は深いため息をついた。
「人間はいつもそうです。なくなってから、いかにそれが大切なのかを気づかされる。いつだって失ってから、取り戻そうと必死になる。もっとも、取り戻せないことがほとんどなのですが……」
 竜次が言うと重く感じる。感傷に浸るように、目を瞑った。
「でも、そこから這い上がる。砕かれても、意思は揺るがない。今の人間にはそうできるものじゃない。それでも、キミたちは違う」
 圭馬がテーブルの下から顔を覗かせる。
「でしょ?」
 客観的だが、一同に理解を示す。皆は揃って頷いた。
「さて、さっきの端末に地図の打ち込みをするデス」
 ローズも席を立った。言っている内容はともかく、彼女も動き出すようだ。やる気に満ちていた。
 ローズの刺激を受け、コーディも席を立った。
「私も魔導書を読んで少しは小細工を見につけようかな」
 席を立った二人が、竜次とサキに笑みかけた。
「先生サンたちはたくさん食べて、早く復活するデス」
「明日、また採掘場に行くんだから、ちゃんと休んでね」
 ローズもコーディも前向きだ。いつまでも気落ちしているわけにはいかない。
 軽く手を振って二人も食堂を出て行く。
 空いた食器、広い席に竜次とサキが残される。
「だって、先生」
「……困ったなぁ」
 これほど暖かい仲間はいない。
 二人は顔を見合わせて笑い合った。
 竜次は薬を溶かした水をいったん跳ね除け、もう少し料理を口にする。
「僕は先生のぶんまで頑張りますよ?」
「本当に頼もしいですね」
 この二人が話す機会は珍しい。最初の頃のサキは気弱で少し鼻にかかる生意気さがあったが、そんなものは感じない。大人っぽさも感じる。あどけなかった少年は、ここまで成長した。竜次は目を細めた。
「サキ君みたいな弟もほしかったなぁ、なんてね」
「あれ? そうなるかもしれないのでは?」
 何気ない身の上話のはずだ。サキの予測していなかった返しに、竜次はパイを喉に詰まらせて咳き込んだ。
 サキは竜次の背中をさすり、落ち着かせようとする。
「せ、先生、お水……ってこれはお薬だから、僕のお水をどうぞ」
 竜次は水を一気に飲み干して手を震わせる。胸をトントンと叩き、整えた。
 サキからこの話を振られるとは想像もしなかった。竜次の心当たりはひとつ。足元の圭馬を摘まみ上げた。
「あなたですね、えっちなウサギさん!! サキ君に変なこと、話さないでくださいな!」
「えっちなのはお兄ちゃん先生もそうじゃないか。ボク、知ってるよ? お医者さんって、だいたいすけべなんだって」
 どんなやり取りなのだろうか。会話に入れず、サキは苦笑いをしていた。圭馬のコミュニケーション力もそうだが、まともにやり取りをしている竜次にも感心する。
「もういっそ、するとことまでしちゃえばいいのに、じれったいなぁ」
「そういう関係じゃありません。だいたい、彼女には想い人がいたのですよ。その心を踏み躙ることはできません。あと、お医者さんがすけべなのは偏見ですから!!」
「お兄ちゃん先生、お医者さんじゃん? そこで遠慮するっておかしくない?」
「あぁ言えばこう言う……」
 大人げがない口喧嘩だ。いや、内容は大人かもしれないが。
 サキには内容が大人でわからない世界の話だ。なぜ圭馬と、元気に言い合えるのか不思議に思う。そっちの話は種族も越えるのだろうか。
 おいしそうに魚をしゃぶりついているショコラを目にしながら、サキはそんなくだらないことを思うのだった。

 ノックスの小さな公園。そこで乾いた木のぶつかり合う音が響く。音の正体は、練習用の木刀だ。
 半ば、キッドから吹っかけて来た稽古。ジェフリーは、キッドの機嫌が悪いと振りで把握した。いつもの振り方ではないし、キレもない。
 ジェフリーは間合いを取って、注意をした。
「キッドらしくない。どうしたんだ?」
 キッドは背筋を伸ばし、肩で息を吐いた。体を動かしているせいか、吐く息が白い。
「いつも思うんだけど、あんたはあたしを邪魔だと思わないの?」
 稽古は口実で、本当は腹の内が知りたいようだ。
 悪くない。特にキッドとは話し込む機会が少ない。ジェフリーはキッドと話す貴重な機会を楽しむことにした。
「同じ質問をしていいのなら返す」
 当然の反応だが、キッドは一瞬だけムッとした。
「ま、まぁ、そうね、今さらよね」
「頼りにしているのは変わりない。むしろ、俺がついて来るべきじゃなかったし、消えるべき対象だったかもしれない。前にも言ったかもしれないな……」
 もちろん冗談だが、どうやら真に受けているようだ。キッドは考え方でも変わったのだろうか。ジェフリーは少し探ってみようと試みる。
「急にどうした? 俺と話すのも気に食わない態度だったくせに」
 キッドは首のうしろを掻きながら、言いづらそうにしている。
「別に、そこまで信用してないわけじゃないわ。ちょっと聞きたくて……」
 聞きたいことがある割には、ひねくれているように見える。顔も合わせないし、どこか恥ずかしそうにも思える。ジェフリーは変な話をされるのではないかと身構えた。
「あのさ、ミティアのどこが好きなの? 親友をあんたに取られちゃって、なんかヤキモチって言うか……」
「……はぁ?」
 ジェフリーは思わず気の抜けた声が出てしまった。キッドがわざわざ知りたがるようなことなのかと、不思議にも思う。
「あたし、あの子と長い間、一緒だったんだもの。そう思うのは当然じゃない」
 話さないと剣は振ってくれなさそうだし、納得してもらえないようだ。いつから、キッドは面倒な女になったのだろうか。急に色気づいたのだろうか。ジェフリーは照れながら答えた。
「す、好きな理由なんて簡単だ。一緒にいたいと思ったから」
 ただ言っただけ。それだけなのに、ジェフリーの息は白く、熱を帯びている。
 キッドは眉をひそめ、呆れるようにため息をついた。
「ミティアはもっといっぱい言ってくれたのに……」
 聞こえないように言ったつもりなのだろうが、ジェフリーにはしっかりと聞こえた。だが、これ以上食らいついたら負けた気がした。
 ジェフリーは今の言葉を聞いていない振りをして、キッドに吹っかけた。
「キッドにはそういう人はいないのか?」
 キッドはジェフリーを鋭く睨みつけた。気性の変化が荒い。
「べ、別にいいでしょ!!」
「兄貴が好きなら止めはしないぞ」
「な、何よ!? 馬鹿じゃないの?」
 否定はしない。だが、少し反応に違和感もある。少なくともジェフリーはそう思った。
 竜次が話したかったことが原因だろうか。あのとき、無理をしてでも詳細を聞いておくべきだったかもしれない。
「あたしには、ずっと好きな人がいるんだから。そんな失礼こと、先生にするわけがないじゃない……」
 違和感の正体はこれのようだ。キッドには思い人がいる。これだけ言い張れたのだ。おそらく、知らない人だろうとジェフリーは思った。

 いや、まさか自分がその『好きな人』に該当するのか……とは一瞬思ったが、それはない。絶対にない。有り得ない。それこそ、世界が破滅する。
 人の色恋沙汰はどうにも苦手だ。ジェフリーもそうだが、イマイチ目的から脱線しがちになるのが困って仕方ない。悩ませる要因だ。
 だが、これも頑張れることにつながるなら悪くないと思う。

 なぜなら自分がそうだから。
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