三本角物語

当山 佳

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十九話「秘匿」

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話は少し過去にさかのぼる。

前田健司まえだけんじは雨森達夫の執務室に来ていた。
前日に雨森との密談をこの部屋でする事になっていたからだ。

前田はデスクの椅子に座っている雨森の前に直立不動で立っている。

「雨森警視、千佳さんは確か運動系の部活動の経験はないと聞いておりますが事実ですか?」

前日に千佳は前田を置き去りにして母の恵子を追いかけた。
その時に前田を軽々と引き離した千佳の走力は信じられないものだったのである。
100m11秒台の前田が姿が見えなくなるほど離されてしまう走力は常識では考えられなかった。

だが目前で起こった信じられない現実に何か理由付けしようとしたのは千佳に好意を持っている前田の足掻あがきに他ならなかった。
彼女の見せた走りは人間の走りを超えていたのだ。

「いや、千佳は残念ながら運動はからきしダメだ。」
「前田君、何故そんな事を聞くのかね。」

前田は最後の期待さえ簡単に否定されてしまい落胆の色を見せた。

「千佳さんは母親を探すために僕を置いて外に走って出ました。」
「僕は千佳さんを追いかけましたが、その距離は離れる一方で、ついには彼女の姿が見えなくなるぐらいに引き離されたのです。」

「僕は100mを11秒台で走ります。たとえ千佳さんが100mの世界記録を持っていたとしてもそんな事はありえません!」

前田は発言して良いものか悩み表情が歪む。
だが彼はそれを雨森警視に相談するためにここに来ているのだ。
言いずらくても言わなければならない。

「千佳さんの走力は異常です。」
「なぜそのような異常事態が起きたのかはわかりませんが警視にはお話ししなくてはならないと思いました。」

前田は一礼した。

千佳の走力は人間離れしている。
それは誰もが信じられる現象ではない。
目の前で見た前田自身でも見間違いだったのではないかと思うほどだ。

千佳の父親である雨森警視が素直に信じてくれるとは思えない。
だが千佳の身に異常が起きているとしたら父親に知らせる必要があるとも判断していた。
それが前田の生来の気質であり、任務に忠実な警察官としての資質でもある。
それによって千佳の父親の達夫に変人だと思われて千佳の警護をはずされようとも仕方ないと思っていた。

千佳と会えなくなる、最悪の結果を覚悟した前田に対して雨森達夫の言葉は実に意外であった。

「…やはり千佳の身に何かが起こっているのか…。」

前田は驚いて顔を上げた。

「やはりって・・・警視もなにか気づいておられたのですか!?」

前田は自分だけでなく雨森警視も千佳の異常を知っていることに驚いた。
雨森達夫はデスクの引き出しを開けて、一つのファイルを前田に手渡した。

「それは千佳の制服に付いていた血痕を分析したものだ。」

「制服のって・・・あの紫堂佑治が殺された日のですか。」

前田の眼は佑治の事を考えると怒りの色を隠せなかった。
自分のミスで千佳を再び佑治にさらわれたのだ。
雨森は組んだ両手の親指を額に当てた。
その眉間には苦悩による深いしわが何本も刻まれている。

「千佳は供述では殺された紫堂佑治達の血液が制服に付着したと答えたが、その血痕は佑治達の物ではなかった。」

「その血痕は千佳自身のものだったのだ!」

「ま、まさかっ そんな・・・っ!!」

「本当だ、しかも死んだ被疑者の血液は制服に一滴も付着してなかった。」

前田は思わずファイルを落としそうになった。

「し、信じられない・・・っ」
「それなら千佳さんは何らかの傷を負ったというわけですか!?」

達夫は首を振った。

「怪我など一つもない。それは千佳が署に保護された時に私自身が確認している。」

達夫はさらに机の引き出しの奥からビニール袋に入れられた千佳の制服を取り出した。

「千佳を保護された署から私が引き取った時の制服だ。」
「よく見てほしい。なにか気がつかないか、前田君。」

前田はビニール袋に入ったままでその制服を手に取り、注意深く観察した。

「これは・・・ひどい出血ですね。」

制服に付着した血痕は制服の半分以上を黒く変色させていた。
特に腹部付近は制服のもとの色が全く見えないぐらいに血痕で染まっている。

「この出血は致死量に達している・・・。」
「これが全部千佳さんの血液だと言うんですか、信じられないっ」

「いや全て千佳の血痕だ。」
「他には気づかないかね、前田君。」

前田はそう言われると訝しげに達夫を見た。
だが達夫の眼は真剣そのものである。
前田はその眼光にただならぬものを感じて身が引き締まった。
前田は再び制服に眼を移す。

「あっ!」

前田は思わず声をもらした。
あまりにおびただしい血痕で汚れた制服だったためにすぐにはその事に気づかなかった。

制服にはいくつかの小さな穴があいていたのだ。

「まさか警視、この穴は・・・っ」

達夫の眼が光る。

「そうだ、弾痕だんこんだ。」

「その量だとかなりの数の銃弾が千佳に当たっていたと思われる。」

前田は無意識に後ずさった。
眼は大きく見開かれていた。

「そんな、それでは千佳さんは射創で出血したんですか・・・!」

前田の声は震えていた。
彼の頭の中で常識という概念が崩れようとしていた。

「残念だが千佳の出血は弾痕とは一致しない。」
「服の腹部に刺傷痕がある。おそらく刃物による腹部への刺し傷が主な出血の原因だろう。」

達夫の言葉に前田は激しく狼狽ろうばいした。彼の手から制服が滑り落ちる。
ブルブルと全身が震え出す。
警視の発言はまるで自分の娘が死体になってもおかしくないほどの負傷を受けたと言っている…っ!

「何を言っているんですか、警視は千佳さんの体には傷一つなかったと言いましたよねっ」
「なぜそれを否定するような事を言うんですかっ!?」

前田の目には達夫の姿が歪んで見えた。いや周りの景色さえ重力を失ったように歪んで感じる。
ありえない事実に彼の思考が拒否反応を示しているかのようだった。

「そうか、これは何かの冗談でしょっ。」
「警視が仕組んだジョークか何かに違いないっ!」

前田はそうであってほしいと願った。
そうでなければ前田の中の千佳への偶像が音を立てて崩壊する気がした。
達夫はうろたえる前田を見据えながら冷静な口調で話した。

「前田君、その制服も血液分析もすべて事実だ! 私も信じられずに何度も確かめているっ」

「君がただうろたえて怯えるだけなら、千佳の真実と向き合う資格はない。」
「今すぐこの部屋から出て行きなさい!」

前田は達夫の叱責で動転し崩れかけた己の精神にハッと気づく。
すぐに彼は身につけている呼吸法を使い精神のバランスを整えはじめた。
高くなった心拍数は急速に平常へと戻り思考も靄が晴れてクリアになっていく。
達夫の言葉が彼の中で存在感を増す。

(千佳の真実・・・)

それは千佳への想いが強ければ強いほど知らなければならない。
受け入れなければならない。

雨森警視はその覚悟が出来ている。父親としてそれを受け止めている。
前田はそれを悟った。

前田は古武術の熟達者でもある。
瞬間的に事態への軌道修正が出来るのは優れた捜査官の証でもあるが、古武術の修練で身につけたものでもあった。
平静を取り戻した前田は姿勢を正した。

「失礼いたしました、警視。」

達夫はその姿を見て満足げにうなずいた。

「それでいい、話を続けても良いかね前田君。」

「構いません。取り乱して申し訳ありませんでした!」

前田は捜査官の持つ鋭い顔つきに戻っている。
制服を拾い再びその状態を観察する。

「この制服からこれだけは判明した。」

達夫は前田に話し始めた。

制服に付着した血液は千佳のものである。
その血痕のほとんどが腹部への刺傷によるもの。あとの血痕は皮膚の裂傷によるものと想定されること。
ただし銃痕による出血は見当たらない。

佑治やその仲間が殺された現場写真を見る限り、発見された銃弾は一カ所に集まるように落ちていた。
これは千佳が集中的に銃弾を受けたのではないかと推測できる。

落ちていた銃弾には血痕はついていない。
その銃弾の形状を見ると大きく破損している状態であることから金属のような硬い物質で銃弾は遮られたと見られる。

現場に落ちていたナイフには千佳の血液が付着していた。
ナイフは紫堂佑治の持ち物と推定される。

「つまり、佑治はナイフで千佳の腹部を刺し負傷させた。」
「その後、十数人が銃で千佳を撃ったが制服の中に金属で出来た防弾着ようなものを身に付けて銃弾を防いだと思われる。」

「腹部の負傷は警察に保護された時には消えていた。」
「千佳はそれに対し、嘘の供述をしている。」
「また千佳の腹部の傷は短時間で治ったという可能性がある…。」

達夫は制服に残る証拠からわかる事件の大まかな分析を前田に説明した。
これは雨森達夫が独自で導き出したものであった。

「まるでタブロイド紙が喜びそうな内容ですね。」

「これだと千佳さんが人間じゃないように思える。」

もちろん前田は茶化した気分ではない。
その眼は真剣そのものである。

「千佳が人間じゃないと思うかね。」

雨森は泣いて抱きつく娘を思い出した。
前田も彼に優しく接してくる千佳の姿が眼に浮かぶ。

「私は娘を娘でないと思う事は出来ない…!」
「あの言動、そして私に向けられる情愛は間違いなく千佳だ!」

達夫の声が悲痛なほど激しくなる。
前田も達夫の前に身を乗り出した。

「僕だって、千佳さんを信じますよ!」
「それは、事件の後の千佳さんしか僕は知りませんが、彼女は本当に優しい、素晴らしい女性だと言う事はわかりますっ!」

前田の生真面目さは時にユーモラスでさえあった。
達夫はその前田の必死な姿に心を癒されるように感じた。

「だが前田君、今までの話はあくまで推測にすぎない。」
「千佳になにか異常な事が起きている証拠があっても、それが全て真実ではないかもしれない。」

「はい、千佳さんを罠にはめるトリック工作の可能性があるという事ですね。」

だが、その可能性が低い事は二人とも知っていた。
千佳の走力はまぎれもない事実である。
負傷した千佳の異常な回復力も事実という方が制服の出血量からも納得できる。
二人には現実性のないトリックという仮定が真実であることを望んでいた。
達夫は前田の眼を真っすぐに見上げた。

「だが前田君、ただ一つだけ確かな事がある。」

「確かな事?」

前田は怪訝けげんな顔をした。

「千佳は私たちに嘘をついている。」

前田はハッとし苦しそうにうなずく。

「娘の供述は真実ではない。千佳は何かを隠している。」
「それだけは残念ながら事実だ。」

達夫はうつむき眉間を指でつまみ苦悩を表す。

「はい・・・」

前田は力なくそれを認めた。

「ですが、千佳さんにはきっとご家族や僕にも言えない理由があるのだと思います。」
「そうでなければ、あの千佳さんが嘘をつくはずもありません!」

前田は姿勢を正して敬礼した。真っ直ぐな視線で達夫に訴える。
達夫はその前田の言葉の中に、千佳に対して警護の任務以上の感情があるのをとっくに知っていた。
達夫は前田が誰よりも優秀で将来の警察を良い方向に導く若者だと確信している。
だからこそ千佳の護衛を全面的に任していたのだ。

その前田が千佳をこれほどまでに信頼している。
それは千佳が自分の娘だと確信する証拠の一つだと達夫は思った。
千佳の純真で素直な性格はどんな人であろうと惹きつける生来のものである。
それが達夫の自慢の娘であり、紛れもなく自分の娘であることを裏付けていた。

「感謝する、前田君。」

「きっと君の言う通りだろう。千佳はとても優しい子だ。」
「自分の保身のためだけに嘘をつく子ではない。」

「娘が黙っていたい事なら私も今は無理に追求はしたくない。」
「ここにある証拠品も、私と君以外には内密にするつもりだ。」

「君はどうかね?」

雨森は前田に尋ねた。
これは捜査官としては法に反する行為だと前田は知っている。

千佳の供述が嘘だとわかった以上、彼女は被害者から被疑者に変わる可能性もあるからだ。
つまり雨森千佳が紫堂佑治殺害の第一容疑者となる。
それを無視して証拠品を隠匿いんとくするのは悪質な捜査妨害となろう。
達夫の前田への問いかけはそれを含んでいた。

だが前田は何よりも千佳を信じたかった。

「僕もそう思います。」

前田は迷わずに返事した。
達夫も意を決したように椅子から立ち上がった。

「よし。では君はここでなにも聞かなかった。」
「私との話もなかった。」

「それを忘れてはいけないぞ!」

前田は達夫の真意をすぐさま汲み取った。
達夫は捜査妨害がもし警察に知られたら自分だけが罪を被るつもりなのだ。

「しかし、警視・・・っ」

前田は自分だけ罪から逃れる事が気に入らなかった。
達夫は彼を睨み彼の言葉を遮った。

「いや、罪をかぶるのは私だけでいい。」

「私に何かあったら君が千佳を守ってくれ… 頼む…!!」

達夫は深々と頭を下げた。

達夫がもし犯行証拠の隠匿による罪で勾留されたら千佳は母親と二人きりとなる。
前田が達夫とともに逮捕されれば、彼女たちに危険が迫っても助ける者がいなくなるだろう。
また千佳が容疑者でなく無実ならば誰が彼女を救えるだろうか。
前田は達夫の願いを理解した。
娘を守るために娘の秘密を共有する人物が必要だったのだ。

それが前田だったのである。


千佳が彼女を拉致した佑治から再び狙われるのを想定して護衛に抜擢された人物が前田である。
雨森達夫自らが数ある捜査官から千佳を守る人物として選んだのである。
そして今、更に千佳の生死を前田に預けたと等しい事をここで託されたのだ。
そう思うと前田の中から使命感が高揚とともにフツフツと沸き上がってきた。

「わかりました警視! まだ若輩ではありますがご家族を力の限りお守り致しますっ!」

「ありがとう、前田君!」

達夫は前田の両手を握って頭を下げて感謝した。
前田は達夫の握力に負けないぐらいに強く握り返した。
それが達夫にも劣らない決意があるという意思表示だった。


前田は雨森の部屋を出ると直ぐに千佳の家に車を走らせた。

(千佳さんは確かに何かを隠している・・・)
(でもそれが何だというのだろう。)

(秘密を持った千佳さんを僕は好きになった。)
(彼女の苦しみに耐えようとする健気さに心を打たれたんだっ)

(彼女のその姿に嘘はないっ)
(そんな彼女を好きになった僕の気持ちも変わらないっ!)

(そう、嘘は何一つないっ!!)

前田のハンドルを握る手が強くなる。
今すぐ千佳に会いたい。

前田の眼にはもう迷いはなかった。

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