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第6部 ヒバナ、センチメンタルブルー!

#11 悪意の正体

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 今まで無反応だったアプリが、なぜ突然反応し始めたのか。
 考えられることはただひとつ。
 階下に潜む何者かも、ヒバナ同様、変身する機能を備えているということだ。 
 アプリは人間には反応しない。
 つまりは、階下でたった今、相馬あおいが人間から”何か”に変異したということではないか。
 急いで隣の3畳間への引き戸を開ける。
 机の上のペン立てに差してある”如意棒”に手を伸ばす。
 ”如意棒”は、伸縮自在の長槍で、いわばヒバナのメインウェポンである。
 指が武器に届きかけた、その瞬間だった。
 突然、何の前触れもなく、床が抜けた。
 爆発音とともに床が斜めに大きく傾き、ヒバナは畳もろとも傾斜を滑り落ちた。
 落ちながら、本能的に変身を開始していた。
 落ちた先は、ひとつ下の部屋だった。
 104号室、かつて相馬あおいが住んでいた部屋である。
 立ち上がったヒバナは、すでに変身を完了している。
 四肢のひれ、背中の翼、後方に伸びた鋭く尖った尾といった、完全な竜人体型だ。
 ”如意棒”は床と一緒に滑落してしまい、所在不明だった。
 仕方なく、更に念じて左腕を変化させ、神剣フツミタマを実体化することにした。
 もうもうとたちこめる埃が収まると、異様な光景が目に飛び込んできた。
 目の前は、ゴミの山だった。
 一度業者が入って片づけたはずなのに、いつのまにかまた元に戻っている。
 食べ物の残飯、空容器、新聞紙、ペットボトル、雑誌、ダンボールなどがうず高く積み重なり、分厚いバリケードを築いている。
 以前入ったときもこの部屋はひどい有様だったが、今はそれに輪をかけてゴミ溜め化が進行していた。
 周りをゴミの壁に囲まれているようで、視界がまったく利かないのである。
 敵の姿が見えないのだ。
 おまけに変身後のヒバナにとっては上下左右とも狭すぎて、ろくに動くこともできない。
 フツミタマでゴミの山を薙ぎ払おうとしたときだった。
 目の前のガラクタの陰からふいに何かが飛び出してきて、ヒバナの左手首に巻きついた。
 すごい力だった。
 強靭な弾力を秘めた、肉色の紐である。
 強いていえば、舌に似ている。
 反動で体勢を崩したヒバナの右手首に衝撃が走った。
 見ると、右手首にも同様の長い紐状の器官が巻きついていた。
「な、何なの? これ」
 ヒバナはあっけに取られた。
 茫然としているうちに、左足首と右足首にも、間髪を入れずに肉の紐がからみついてきた。
「ちょ、ちょっと!」
 叫んだ。
 着地して5秒も経っていないのに、ヒバナはあろうことか、なすすべもなくはりつけ状態にされてしまったのだ。
 青竜の怪力でひきちぎろうにも、”舌”はゴムのように伸びるばかりでいっこうに埒があかない。
「あおいさん、相馬あおいさんでしょ?」
 もがきながら、ヒバナは呼びかけた。
「どうして人を殺し続けるの? あなたは、何に変わってしまったの? なんでこんなことをするの?」
 返答の代わりに、更にもう1本の舌が飛び出してきて、ヒバナの左の太腿を貫いた。
「う」
 激痛に、思わずうめき声がもれた。
 鮮血が噴き出し、見る間に左足の鱗を朱に染めていく。
 それにしても、恐るべきパワーだった。
 装甲車並みに硬い鱗で覆われたヒバナの表皮が、いとも簡単に貫通されてしまったのだ。
 この力なら、人間の男を高いビルの壁に叩きつけたり、電線まで放り投げて感電させたりするのも、さそかし簡単だったに違いない。
 かっと目を見開き、ヒバナは念じた。
 青竜は、火と水を操ることができる。
 人家の中で火を使うわけにはいかない。
 代わりに、眉間に念を集めて、水流を生み出した。
「ウォーターハンマー!」
 叫んだ。
 何もない空間からだしぬけに水の柱が立ち上がり、大きな狐を描いてゴミの山の上に雪崩れ落ちていく。
 ゴミやガラクタが一気に押し流され、視界が開けた。
 間仕切りのない、広い空間が目の前に広がっていた。
 104号室と、隣の103号室の境の壁が、なくなっている。
 水流がぶち抜いたのではない。
 壁を取り払って、2つの住居が初めからひとつのフロアに変えられていたのだ。
「どういうこと?」
 ヒバナは混乱した。
 103号室には、田島緑が息子の哲夫と住んでいるはずである。
 緑もあおいに殺されてしまったということなのだろうか。
 それとも・・・?

 ふと蘇った記憶がある。
 最初に相馬あおいの住居、104号室を訪れたとき、ヒバナは田島緑の部屋の前を通っている。
 そのとき視界の片隅に入った103号室の表札の文字。
 あれは、田島ではなかったのではないか。
 同じタジマでも、『但馬』という表記だった気がする。
 それをわたしがが勝手に、『田島』というわかりやすい漢字に、頭の中でに変換していたのではなかったか。
 そして、『あおい』がもし『葵』だったとしたら・・・。
 『相馬葵』と『但馬緑』はあまりにも似すぎていないだろうか。
 常世の虫に取り憑かれた相馬あおいは巨大な胎盤に変異し、その胎盤から新たな”存在”となって産み落とされた。
 更に脱皮することで、『但馬緑』に羽化し、何食わぬ顔で隣の部屋に越してきた。
 そういうことではないのか。
 灯台下暗しとは、このことだった。
 誰も。元の部屋の隣に、また本人が越してきたなどと考えないだろうからだ。
 わざと胎盤を残しておくことで疑いの目を104号室に向け、そのタイミングで冷蔵庫にでも保管してあった”抜け殻”をゴミ置き場に捨てる。
 そうして、相馬あおいが異様な失踪を遂げたという事実を作り出す。
 そうだ。そうに違いない。

 わたしは冴えている。
 ヒバナは自画自賛した。
 海の家での推理合戦では今ひとつ実力を発揮できなかったが、今回は違う。
 よし、早速ひずみちゃんにこの推理を披露してやろう。
 紆余曲折の末、その結論にたどりついたとき、ヒバナが放った水流が収まり、敵の正体が見えてきた。
 見るからに不気味な生き物だった。
 たいていの魔物を見慣れてきたヒバナの目にも、これはかなり気味の悪いシロモノといえた。
 体長3メートルはありそうな、灰色の平たい蟇蛙(ひきがえる)である。
 大きく開いた耳元まで裂けた口から、5本の舌が伸び、ヒバナの四肢と太腿に巻きついている。
 その化け物の背中から、裸の女の上半身が生えていた。
 黒い髪を胸に垂らした若い女だ。
 目も鼻も口も小作りな、和風の顔立ち。
 但馬緑だった。

「緑さん・・・」
 ヒバナは呆然とつぶやいた。
 推理は当たっていた。
 しかし、このありさまはあまりに信じがたいものだった。
 今の緑の姿は、あまりにも醜すぎる。

「あおい、君の憎悪がどこまで高まったか、僕に見せてくれないか」
 突然、部屋の奥から、場違いにさわやかな少年の声がした。
 声のほうに視線を向けると、壁に背をもたせかけ、腕組みをしてこちらを眺めている白髪の少年が目に入ったてきた。
 忘れようにも忘れられないその特徴的な姿。
 ツクヨミだった。
 いつからそこに居たのだろう。
 真っ白な肌に、血のしたたるような赤い目が印象的な、とびきりの美少年である。
「あおい、君は、君を辱めた男たちを見事に殲滅してきた。でもね、悪いのは性欲に目がくらんだ男どもだけじゃないんだよ。たとえばその娘だ。君が最低の生活の中でのたうち回っているときに、のほほんとわが世の春を謳歌していた、憎むべき女たちのひとりだ。そんな不公平が許されていいと思うかい? 同じ女に生まれたのに、なぜ君だけがひどい目に遭わなきゃならないんだ? さあ、そいつを殺して見せてくれ。君の悪意が全人類に及んだとき、君は更に進化のステップを上がり、オロチと同化する。男だけでなく、女も憎め。君の敵は、君以外の全人類だということを、思い出せ」
「ツクヨミ、あんた」
 ヒバナは歯軋りした。
 やっぱりこいつか。
 あおいを裏で操っていたのは。
 しかも、また、”オロチ”だって?
「やあ、ヒバナ、お久しぶり」
 今度はヒバナに顔を向け、にっこり笑って少年が軽く手を挙げた。
「あれから僕なりに、色々考えたんだよ。それで、たどりついた結論がこれさ」
 あれから、というのは、緋美子、玉子、ヒバナの連携攻撃で、オロチが倒されてから、という意味だろう。
「僕たち八百万の神に欠けているもの、それは”生の感情”だ。今のオロチにはそれがない。君たちにあっさり敗れたのは、おそらくそのせいだ。だから、僕は”憎悪”をつくることにしたのさ」
「憎悪を、つくる?」
 ヒバナは鸚鵡返しにつぶやいた。
 そんな話、聞いたことがない。
 でも、それが本当だとすると、
 そのために、相馬あおいを利用したということだろうか?
 だとしたら・・・。
「そんなの、許せない」
 無意識のうちに、言葉が口をついて出た。
「許すも何も」
 ツクヨミが高らかに笑った。
「ヒバナ、そのかっこうで、君はいったいどうするつもりなんだい? 僕が命じれば、次の一撃が君の心臓を確実に貫くというのに。いくら竜人でも、心臓がつぶれちゃ、生きていけないよ?」
 悔しいが、少年の言う通りだった。
 来てくれる、とひずみは言っていた。
 でも、飛行手段のないひずみたちが、そんなに早くここにたどり着けるとは思えない。
 おそらく、あの舌の一撃は、一瞬でわたしの息の根を止めてしまうことだろう・・・。
 ヒバナは恐怖を覚えた。
 それは、青竜に変身できるようになって初めて味わう、本格的な恐怖だった。

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