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第8部 妄執のハーデス

#5 璃子の眼 

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 璃子という少女は、よほどクラスメートたちに恐れられているのだろうか。

 彼女の一喝で、教室の中から潮が引くように淫靡な熱気が消えていった。
 
 席に戻る途中、杏里はそっと璃子の様子をうかがってみた。

 璃子の席は杏里と同じ、最後列である。

 ただ、窓際の杏里とは反対の、廊下側の列の一番後ろだ。

 席に着くと、璃子は廊下に面した窓を開け、机に頬杖をついて外を見たまま動かなくなった。

 脱色したくせのある髪の毛。

 鋭く尖った顎。

 体つきは小柄でやせていて、手も足も細い。

 机の脇に立てかけてある竹刀が、彼女の性格の一端を現しているようで、いかにも物騒だった。

 杏里は下駄箱で璃子に睨まれた時のことを思い出した。

 璃子は典型的な三白眼をしていた。

 触れると切れそうなほど剣呑なまなざしだったと思う。

 怒らせると何をしでかすかわからない。

 璃子はそんな危うさを感じさせる少女なのだ。

 その璃子との約束を思い返すと、ますます憂鬱になってきた。

 授業後の校舎裏といったら、定番のいじめの舞台である。

 ふみの存在も気になった。

 あの肉襦袢は、杏里に妙なこだわりを抱いているようなのだ。

 もともと同性愛者なのか、杏里を見つめる瞳には、明らかな肉欲の炎が宿っている。

 厄介なコンビだった。

 杏里は璃子から目を逸らし、身を縮こまらせると、また机の上に教科書を立てた。

 左側から突き刺さってくるのは、おそらく唯佳の視線だろう。

 これもこれで、また面倒だ。

 璃子は”集団レイプ”と言った。
 
 つまり、璃子がOK すれば、唯佳をはじめとするクラス中の生徒たちが杏里に襲いかかってくるということだ。

 どんよりした気分で、杏里は自分の膝を見つめた。

 超ミニのスカートから伸びる、むっちりした太腿。

 隠そうとしても、スカート丈が短すぎるので、座るとどうしても下着の一部が見えてしまう。

 それにしても、と思う。

 私、いったいどうしちゃったんだろう?

 せっかく、タナトスの”任務”にも慣れて、タナトスであることを楽しむところまで来ていたのに。

 これでは、初めて会った時のいずなそっくりだ。

 周囲から凌辱されることを、ひたすら怖がっていたいずな。

 そのいずなをタナトスとして開花させたのは杏里である。

 なのに、今度は自分が振り出しに戻ってしまったのだ。

 美里との一件が尾を引いているのは間違いない。

 でも、どういう心理の動きでこうなってしまったのかが、杏里にはわからない。

 これも重人に分析してもらうしかないか。

 ああ、だけど…。

 杏里は隣の唯佳に気取られぬよう、そっとため息をついた。

 重人も最近おかしくなっていることを、ふと思い出したのである。

 重人ときたら、遊び半分で性の喜びを教えてやっただけなのに、動物のすり込み反射みたいに、あっという間に杏里べったりになってしまったのだ。

 おぼこい重人の中では、愛情と性衝動がごっちゃになってしまっているに違いなかった。

 生まれたばかりの鳥のひなが、最初に餌をくれた相手を母親だと思い込むのと同様に、初めて性衝動を満たしてくれた杏里に、重人はいともたやすくゾッコンになってしまったというわけだ。

 少し前までの、性に無関心で生意気な重人のほうが、杏里は好きだった。

 由羅といい、重人といい、私に思いを寄せるようになると、みんなおかしくなっていく…。


 2限目、3限目、4限目と、沈思黙考する杏里の周囲では、相変らずしめやかな自慰の音が続いていた。

 衣ずれの音。

 粘膜がこすれる音。

 声にならない喘ぎが、空気をかすかに震わせる。

 そしてようやく、長い午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 
 面倒に巻き込まれないうちにと、杏里はすばやく席を立った。

「どこへ行く?」

 廊下に出ようとした寸前で、璃子に呼び止められた。

 前の席のふみともども、射るような眼つきで杏里をにらんでいる。

「職員室」

 短く、杏里は答えた。

「教頭先生に呼ばれてるの」

「あのエロオヤジか」

 璃子の目つきが更に厳しさを増した。

「せいぜい気をつけるんだな。職員室で輪姦されねえように」

「輪姦かあ。いいなあ」

 間の抜けた声を出したのは、肉襦袢のようなふみである。

 ぶくぶくに太った巨体が、椅子から半ば以上はみ出ている。

「ねえ、璃子、あたしたちも早くみんなでこいつをマワそうよお」


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