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第5部 慟哭のアヌビス

#2 君の瞳の中の虹 

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 テレビに薄気味の悪い映像が映っていた。
 壁面の大部分を緑色の蔦に覆い尽くされた廃墟である。
 テロップには、潮見が丘町にある廃病院、と出ていた。
 -発見された潮見が丘中学の生徒25人は、発見当初いずれも意識不明の状態 
   でー
 -拷問器具は明らかに使用されて間もない状況でしたが、検出された大量の
   血液はー
 -その場で見つかった生徒たちの中には、一致するDNA型の血液を持つ者が
   いないことからー
 ー殺人事件の可能性もあると・・・-

 耀子が出勤した直後。
 彼にとって、ようやく息をつけるようになった時間帯である。
 オートミールを口に運ぶ手を止めて、彼はリモコンを操作し、
 テレビを切った。
 半月程前の事件の報道だった。
 朝のワイドショーは、よほど目新しいニュースがないのか、
 ときどき思い出したようにこの事件を取り上げていた。
 海辺の廃病院。
 全裸で発見された、記憶喪失の中学生たち。
 そして、おぞましい数々の拷問器具。
 拷問にかけられたとおぼしき被害者は、大量の血液だけを残して姿を
 消してし まった・・・。
 確かに謎めいた事件である。
 拷問器具はインターネットを通じてつい最近購入されたものらしいが、
 誰が買って設置したのかは不明のまま。
 潮見が丘中学では、この事件の前後に姿を消した女子生徒がひとり。
 が、事件との関連性は依然として不明・・・。
 興味深い事件ではあったが、ここ何年も学校に行っていない彼には、
 所詮遠い世界の出来事だ。

 食器をシンクに置いたときだった。
 ふいに外の通路で慌しい音がした。
 彼ははっと顔を上げた。
 音と同時に悲鳴が聞こえた気がしたのだ。
 それも、少女の悲鳴である。
 一瞬、迷った。
 が、あの子かもしれないと思うと、じっとしていられなくなった。
 自分の部屋にとって返すと、机の上の紙袋をつかみ、頭からかぶった。
 極力外出は避けねばならないが、非常事態だから仕方がない。
 ドアを開けるのももどかしく、急いで外に飛び出すと、部屋の前の階段の
 先の踊り場に、少女が倒れているのが見えた。
 松葉杖が、てんでばらばらに階段の途中に引っかかっている。
 不自由な身体で通路を歩いていて、階段から落ちたのだ。
 もう彼はためらわなかった。
 階段を飛ぶように駆け下りた。
 踊り場の一段上で立ち止まり、少女を見下ろした。
 思った通り、きのう窓から見たあの少女だった。
 やっぱり、引っ越してきたのはこの子だったのだ!
 心臓がバクバクした。
 彼は袋の下で顔が熱くなるのを感じた。
 なんてラッキーなんだ!
 引越しの翌日に、彼女と知り合えるチャンスが訪れるなんて・・・。
 少女は顔を横に向け、苦しそうに目を閉じている。
 ピンクのTシャツを押し上げる胸が、びっくりするほど大きい。
 紫色の短いスカートがめくれあがり、真っ白な太腿がむき出しになっていた。
 その肌のきめの細かさに、彼は息を呑んだ。
 まるで内側から微光を放ってでもいるかのように、奇麗だった。
 わずかに開いた太腿の間から、下着がのぞいている。
 その三角の部分が赤く染まっていることに気づいて、彼はうろたえた。

「だ、大丈夫?」
 無意識のうちに話しかけていた。
 声が、惨めにかすれてしまっていた。
「血が、出てるけど・・・」
 少女が目を開いた。
 ぱっちりとした、黒目がちな大きな瞳が彼を見た。
 いつか夢で見たような、可愛らしい顔をしていた。
 まろやかな頬のラインを、肩まである柔らかそうな髪が覆っている。
「あ・・・」
 ぽってりした花びらのような唇が開き、か細い声が漏れた。
 少女は弾かれたように上体を起こすと、あわててスカートの裾を
 引っ張って股間を隠した。
 俯いた拍子に胸元が大きく開き、ふくよかな乳房の一部が垣間見えた。
「怪我、したんじゃ・・・?」
 彼は突っ立ったまま、いった。
 どうしたらいいのだろう?
 救急車を呼ぶべきだろうか?
 しかし、どう説明したら・・・。
「これは、怪我じゃないの」
 少女が俯いたまま、答えた。
 頬が桜色に染まっている。
「実は私、その、生理用品買いに行こうと思って・・・」
 彼を見上げると、情けなさそうに微笑んだ。
「引越しが急だったから、持ってくるの忘れちゃって」
「ああ」
 彼はうなずいた。
 袋の下の顔が、ますます熱くなるのがわかった。
 女性の生理については、ある程度の知識はあった。
 母の耀子の機嫌が特に悪くなる頃が、その時期なのだ。
「それなら、うちにあると思う」
 がさつな耀子がナプキンをいつもトイレに放置しているのを思い出し、
 彼はいった。
「ここからコンビにまで、けっこうあるし、僕が持ってきてあげるよ」
「ほんとう?」
 少女の表情が、ぱっと明るくなった。
 潤んだような瞳が、胸を締めつけるほど愛くるしい。
「君、402号室でしょ。僕、隣の403号室に住んでるんだ」
 興奮で喉がカラカラに渇いていた。
 こんなうまくいっていいものか。
 足が地につかないとはこのことだ。
 彼は天にも昇らんばかりの気分で、息せき切ってしゃべった。
「君、名前はなんていうの? 僕は呉秀樹(くれひでき)。君のことはきのう、
 窓から見てた。だから、知ってる」
「ああ、あれ、あなただったのね」
 少女の瞳に理解の色が兆した。

「あのときは、そんな袋、かぶってなかったと思うけど・・・」
 少女のその一言に、有頂天な気分が一気に冷めていった。
 まさか。
 見られていたのか。
 そして、改めて、今の自分がいかに異様な風体をしているかということを
 思い出した。
 気づくと、両手で紙袋を触っていた。
 踵を返して逃げ出したくなった。
 が、彼がそうする前に、少女がいった。
「ね、よければちょっと手を貸してくれない? 私を部屋まで連れて行って
 ほしいの」
 何の警戒心も抱いていない、平静な口調だった。
「ぼ、僕のこと、気持ち悪くないの?」
 おずおずと、彼は訊いた。
「どうして?」
 少女が心底から意外そうに目を見開いた。
「あなた、いい人だと思うけど。とっても、やさしいし」
「え・・・?」
 彼は茫然と立ち竦んだ。
 目尻がふいに熱くなるのを感じた。
 涙があふれ、頬を伝う。
「あ、ごめんなさい。自己紹介、まだだったよね。私は笹原杏里、
 あなたと同じ14歳」
 そして、目を細めてにっこり微笑んだ。
「はじめまして。それから、これからもよろしくね、ヒデキ君」


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