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第5部 慟哭のアヌビス

#5 彼女の瞳の中の傷

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 寝癖のついた頭で小田切が出勤していってから、ほどなくしてのことだった。
 インターホンが鳴ったので、居間の壁の監視カメラの画像に目をやると、玄関先に榊由羅が立っていた。
 杏里ははやる心を抑えてドアを開けた。
「由羅・・・。ほんとに来てくれたんだ」
「こっちも引越しが終わったんでね」
 ブーツを脱ぎながら、由羅がいった。
 蝙蝠の翼のような髪型。
 シャドウで縁取られた鋭い眼。
 ハート型の白い小さな顔。
 パンクファッションを思わせる黒い革の胴着を、素肌の上にじかに着込んでいる。
 ボトムも黒の革のミニスカートで統一していた。
「まだ、痛むか?」
 ブーツを脱ぎ、居間に上がると、杏里の前に突っ立ったまま、訊いた。
「ううん」
 杏里は首をふった。
「心配いらない。だいぶよくなったから」
「うそつけ」
 由羅が、冷蔵庫から飲み物を取り出そうとして、身体を動かしかけた杏里の肩をつかんだ。
「辛そうじゃないか。いつもより治りが遅い。もう、2週間以上経ってるのに」
「だって・・・」
 杏里は泣き笑いのような表情を顔に浮かべて、由羅を見上げた。
「私、両手両脚を引きちぎられたんだよ。生きてるのが、自分でも不思議なくらい」
「すまない」
 由羅が頭を下げた。
 あの事件以来、ふたりっきりで会うのはこれが初めてだ。
 由羅が杏里に詫びるというのも、いつにないことだった。
「うちが下手を打ったばっかりに」
 悔しげに唇を歪める。
 由羅のほうが、泣き出しそうな様子をしていた。
「由羅のせいじゃないよ」
 杏里はできるだけ軽い口調に聞こえるように、いった。
「零は初めから私を狙ってたんだから、仕方なかったんだよ」
「いや・・・」
 由羅が苦しげにつぶやいた。
「うちが情けなかったんだ。タナトスを守るのも、パトスの役割だったのに、おまえを・・・」
「それ以上、いわなくていいよ」
 杏里はそっと由羅の胸に手を置いた。
「わかってるから。由羅は私みたいなタイプ、苦手なんだって。こうしてふたりでいるだけで、息苦しくなるんでしょ? 私って、なんだかべたべたしてて、オンナを武器にしてるみたいな、そんな感じがするんでしょ? いくらタナトスだからって、嫌だなって、そう思ってるんでしょ?」
 しゃべっているうちに、悲しくなってきた。
 おそらくそれは事実なのだ、と思う。
 これまでの由羅の言動からすると、そういうことになる。
 由羅と杏里は、パトスとタナトスという、対外来種用のパートナーだ。
 だが、"任務"をいったん離れると、その思いはおそらく一方通行なのだ。
 以前より優しくなったとはいえ、杏里からしてみれば、由羅の心は果てしなく遠い。
「バカだな。今はそんなことぐずぐずいってる場合じゃない」
 由羅が目を怒らせ、怒ったようにいった。
「そんなこと・・・? 相変らずひどいね」
 杏里が傷ついた表情を見せる。
「違うんだ」
 由羅は明らかにいらだっていた。
「何が違うの?」
 杏里がすねたような口調になる。
「由羅は私が嫌い。以上、証明、終わり」
「バカやろう! うちが何しにきたと思ってるんだ」
「何しにきたの? 単なるお見舞い? それとも興味本位の様子見?」
 杏里は自分がだんだん意固地になってくるのを感じていた。
 由羅には冬美という恋人がいる。
 杏里には太刀打ちできない大人の女だ。
 そう思うと、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「脱げよ」
 いきなり、由羅がいった。
「全部脱いで、裸になれ」
「え・・・?」
「タナトスは、パトスの肉体的損傷を癒す。つまり、うちと肌を合わせることで、おまえの治癒力は活性化するってことだ。うちはどこも怪我していないから、おそらく今触れ合えば、その治癒力はおまえの身体のほうに作用するはずだ」
 由羅が胴着の前の紐をほどいた。
 裸の胸が現れた。
 ほどよくふくらんだ乳房。
 可愛らしいピンク色の乳首。
 スカートを下に落として、小さなビキニパンティだけの姿になった。
 杏里のブラウスに手を伸ばし、ボタンをはずす。
 ブラジャーをずらすと、たわわに実ったふたつの豊かな乳房がこぼれ出た。
 だが、以前と違うのは、乳房のあちこちに赤い痣が残っていることである。
 黒野零に『乳房粉砕器』で拷問された跡だった。
 杏里の乳房は、あのとき、ずたずたになるまで引き裂かれてしまったのだ。
「くそ」
 その痛々しい傷跡から目をそらし、由羅がうめいた。
「こんなひどいこと、しやがって…」
「ほんとに、いいの?」
 おそるおそる、杏里は訊いた。
 由羅の気まぐれには、今まで何度も煮え湯を飲まされてきている。
 こっちをその気にさせておいて、肝心のところでひょいと身をかわす。
 それがこれまでの彼女の常套手段だったのである。
「ああ、もちろんだ。だけど、勘違いするんじゃないぞ」
 由羅が相変らず、怒っているような口調でいった。
「これは、おまえの身体を元に戻すためにやるんだ。好きとか、愛してるとか、そういうのじゃ・・・」
「いいよ、そんなこと、どうでも」
 杏里の瞳に力が宿った。
 震える手で、ブラウスを脱ぎ捨て、スカートのファスナーを下ろす。
 まろやかな裸身が現れた。
 きめの細かい真っ白な肌。
 だが、よく見ると、皮膚を切り貼りしたような無数の傷痕が全身に走っていた。
「来て」
 由羅の手を取って、杏里はいった。
 触れ合った掌から、早くも治癒液が滲み出してきていた。
 パトスの肌に触れると、タナトスは傷を修正するための体液を分泌し始める。
 そういうふうにつくられているのだった。
「抱いてください」
 杏里の瞳から、涙がひと筋、こぼれた。
「私のこと、嫌いでもいい。だから」
 
 寝室に入るなり、由羅が裸の杏里を抱き締めた。
 甘い吐息を漏らし、杏里はゆっくりと濡れ始めた。

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