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37:不安と友達
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ニルダは自室の壁に貼ってあるカレンダーを眺めて、首を傾げた。そろそろ秋も終わりが近づき、冬に差し掛かる季節になっている。春の半ばにきてから、月のものがこない。ニルダは3ヶ月に1度だが、ほぼ定期的に月のものがくる。誤差はせいぜい1日、2日程度で、毎回決まった周期で月のものがきているのだが、今回は既に半月以上遅れている。
まさかな……と思うが、もしや妊娠しちゃったのではないだろうか。セベリノとやることをがっつりやっている。妊娠の可能性は普通にある。ニルダは日常的に鍛錬をしているし、仕事で荒っぽいことをしたりしている。もし本当に妊娠していたら、これはかなり危険なのではないだろうか。
気づいたからには、急いで動かねばならない。まずは妊娠しているかどうかを確かめなければ。ニルダは急遽仕事を休み、ミレーラに会いに行くことにした。
セベリノに少し体調が悪いからミレーラに会いに行くと伝えれば、セベリノはとても驚いて、すごく心配し始めた。自分も仕事を休んで一緒に行くと言ってくれたが、それは断った。急に班の責任者である班長と副班長が休む訳にはいかない。
後ろ髪を引かれているような様子のセベリノを送り出し、ニルダはミレーラの家に向かった。
ミレーラは総合病院で働いているが、毎日ではなく、隔日で勤務している。今日は仕事じゃない日の筈だ。何かしらの用事がなければ、家にいる筈である。
ニルダは普段よりもゆっくりめに歩きながら、ぼんやりと今後のことを考え始めた。
自分が妊娠したのなら、班長は辞めなければいけないだろう。警邏隊自体は辞めなくていい筈だ。一応、産休もいう制度があったと記憶している。しかし、責任ある班長という立場のままでは、年単位で休んだり、もし子供に何かあった時にすぐに駆けつけるということができない。班長として働いて6年になる。セベリノの助けを大いに借りながら、自分なりに精一杯やってきたつもりだ。今すぐ辞めろと言われても、素直に頷くには、正直抵抗がある。ニルダは自分の職務にそれなりに誇りや自信を持っている。出世欲は薄いと思うが、今の立場をいきなり放り投げたくはない。
自分が妊娠する可能性があることを、全く考えていなかった。セベリノとセックスをするようになったのだから、考えなければいけなかったのだろうが、自分がいつか子供を産むだなんて、それまでの人生で考えたことがなかった。そもそも、セベリノに偽装の為に結婚してくれと頼まれるまで、一生一人で過ごすのだと思っていた。
家族が増えるのは素直に嬉しい。しかし、セベリノは喜んでくれるのだろうか。自分はやり甲斐を感じている今の仕事を辞めなくてはいけないのだろうか。子供を育てるなんてこと、本当に自分にできるのだろうか。子供が、いつか妹の様に、ニルダのことで辛い思いをする日がくるのではないだろうか。
不安ばかりがぐるぐると頭の中を駆け回って、どんどん息が苦しくなってくる。ニルダはぐっと眉間に力を入れて、歩みを止めそうになる足を無理矢理前へと動かした。
ニルダは微かに震える指で、ミレーラの家の玄関の呼び鈴を押した。やはりセベリノについてきてもらいたかったと、今更ながらに後悔してしまう。
すぐに玄関のドアが開き、ミレーラが顔を出した。ニルダを見上げ、ミレーラが器用に右眉だけを上げた。
「やぁ。ニー。何かあったんだね」
「……あぁ。突然来てすまない」
「謝らなくていい。来てくれてありがとう。君の顔色を今すぐ鏡で見せたいよ。おいで。まずは温かいミルクを飲もう」
「……あぁ」
ミレーラがニルダを見上げて、ふわっと優しく笑った。
居間のソファーに座り、少しの間待っていると、ミレーラがお盆を持ってやって来た。差し出されたマグカップの中には、温かいミルクが入っている。一言お礼を言ってから、マグカップに口をつければ、牛乳の自然な甘さが口に広がった。温かいミルクを飲んで、ニルダは小さく息を吐いた。
「ニーは甘いもの苦手だし、蜂蜜は入れなかったよ。ちなみに僕のは蜂蜜たっぷり。ルドがいる時は蜂1匙までって決められてるんだけど、今はいないしね。がっつり5匙も入れちゃった。甘くて美味しい。ふふっ。たまにはいいよね」
「あぁ」
「さて。診察をする前に、少しだけ話をしよう。君の顔色の悪さの原因に心当たりはあるのかい?」
「……月のものが遅れている」
「月のものは定期的にくる方?それとも乱れがち?」
「定期的」
「ふむ。じゃあ、妊娠の可能性がでてくるね」
「……あぁ」
「まずは検査をしたいところだけど、今の体調はどんな感じ?たとえば、身体が怠いとか、食欲がないとか、やたら眠いとか、なんでもいいよ。もし、少しでも気になることがあったら教えてくれないかな」
「……特にない」
「じゃあ、気持ちは?」
「……不安」
「そっか。不安になるのはおかしいことじゃないと思うよ。僕も最初の妊娠の時は、とにかく不安だった。何が不安なのか話してみるのと、本当に妊娠しているのかを先に調べてみるの、どっちが君の心が楽かな」
「……検査が、先がいい」
「分かった。一応、僕の家にも簡易のものではあるけれど妊娠しているかを検査できるものがあるからね。急いで準備をしてくるから、それまでは……そうだね。目を瞑っててごらんよ。考えたくなくても、色々考えちゃうだろ?目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をしてみておいてよ」
「あぁ」
ミレーラがすぐに対面のソファーから立ち上がったので、ニルダは温かいミルクをまた少し飲んでから、マグカップをローテーブルの上に置き、目を閉じた。意識をして、ゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
不安がどんどん大きくなっていっている。ニルダは目を閉じたまま、セベリノの顔を思い浮かべた。
ミレーラに検査をしてもらった結果、ニルダはやはり妊娠していた。妊娠3ヶ月になるらしい。目の前が真っ暗になって、ニルダは両手で顔を被って項垂れた。
検査に使ったものを片付けたミレーラが、項垂れているニルダのすぐ隣に、すとんと座った。丸まったニルダの背中を、ミレーラが優しく撫でてくれる。
「ニー。嬉しくないのかい?」
「……分からない」
「何がそんなに苦しいのかな?不安なのかな?上手く話せなくていい。めちゃくちゃでもいい。今、思っていることを全部吐き出しちゃいなよ。僕は、とりあえずはただ聞いているだけ。助言とかは、ニーが欲しいなら、僕なりの助言をするよ」
「…………」
「ニー。焦らなくていい。少しずつでいい。上手く言葉にできないなら、『言葉にできない』って言ってくれたらいい。今のニーの気持ちを聞かせてよ」
ニルダはミレーラの優しい言葉に涙が溢れてしまいそうになるのを、ぐっと堪えて、ボソボソと話し始めた。きっと要領を得ない分かりにくい話になってしまっていた。それでも、ミレーラは最後までニルダの話を聞いてくれた。
話し終えると、ミレーラがニルダの丸まった背中を優しく撫でながら、ミルクを飲むように促してきた。すっかり冷えてしまったミルクを飲むと、ほんの少しだけ、緊張して力が入っていた肩の力が抜けた。
「ニー」
「…………」
「ちょっと遅くなっちゃったけど、まずはおめでとう。君の家族が増えるよ。僕は君もセーべも好きだからね。君達の家族が増えて、素直に嬉しい。うちの子達に弟分か妹分ができるしね。あの子達もルドも、すごく喜ぶ」
「……あぁ」
「仕事に関することは、先にセーべと話してから、一緒に考えたらいいんじゃないかな」
「……セーべが」
「うん?」
「セーべが喜んでくれるか分からない」
「うーん。セーべの気持ちはセーべにしか分からないからなぁ。これはあくまで僕の勘だけど、セーべはものすごく喜ぶ気がするよ。セーべって、ニーが大好きじゃない。ニーの子供なら、めちゃくちゃ可愛がると思うよ」
「……俺に似たら可哀想だ」
「顔が?」
「あぁ」
「まぁ、こればっかりは生まれてみないことには分からないけど、僕はニーの顔も好きだよ。確かに世間一般的には怖いって感じる顔立ちだけどさ。ニーがすごく優しい人なのは、少しでも話せば分かるもの。それに、もし子供がニーにそっくりでも、愛してくれる人はいるじゃない。僕達家族はニーの子供をきっと大切に思うし、可愛いと思うよ。ニーは、セーべとの子供が自分に似ていたら、愛せない?」
「……愛したい」
「ニーだって、自分の家族に愛されてたでしょ。なんとなく分かるよ。愛されたことがなかったら、ニーのように優しくなんてなれないもの。ニー」
「……」
「まずはセーべに子供ができたことを言おう。不安なら、僕が同席するよ。手を握っててあげる。僕は、今は、ニーの身体よりも先に心の方が心配なんだよね。ニーの心の負担ができるだけ少ないようにして、セーべに伝えよう」
「……あぁ」
「ニー。僕の友達。僕は、君が幸せになる為に頑張ることを応援しているし、手助けだってするよ。今回も僕を頼ってきてくれて嬉しかった。ルドに言われたことがあるんだけど、僕はね、結構人間不信の気があるけど、一度自分の懐に入れた人には甘いんだよ。君もセーべも、とっくに僕の懐の中だ。今の職場も、まぁあんまり人間関係は上手くいってると言えないけどさ。僕はふたなりらしいふたなりだから、どうしても好奇の目に晒されててね。セクハラも多いよ。腹が立つことがあったら、ルドに話を聞いてもらって、いっぱい慰めてもらってる。子供達の笑顔で癒やされてる。ニー。きっと、君とセーべなら、そんな風に過ごしていけるんじゃないかな。僕達と同じになる必要なんてない。ニーとセーべだけの、夫婦の形や家族の形をこれから作っていけばいい」
「…………ミリィ」
「ん?」
「ありがとう」
「いいってことよ。僕は君の友達で主治医だからね。セーべは今日は定時上がり?」
「あぁ。その予定だ」
「僕も同席する?」
「…………いや。まずは自分で話してみる」
「そうかい。ほんの少しでも心が辛くなったら、すぐに此処に来るんだよ。此処は君が逃げてきてもいい場所だ。逃げることは恥じゃない。自分自身を守る為に必要なことだ。君がまずしなくちゃいけないのは、自分の身体と心を守ることだよ。それから、君のお腹の中にいる新しい生命を守ってあげること」
「あぁ」
「あ。大事なことを確認してなかった。君は子供を産みたい?」
「…………産みたい。セーべの子を愛したい」
「そっか。それじゃあ、それもセーべに伝えなきゃね」
「あぁ」
ミレーラがニルダの手を優しく握って、ぽすんとニルダの肩に頬をくっつけた。少し低めの体温のミレーラの手から、じんわりと温かいものがニルダの中に広がっていく。
「ニー。大丈夫。僕は君の味方だ。君の幸せの為に、僕ができる最善のことをしよう」
「……ミリィ」
「んー?」
「……俺と友達になってくれて、ありがとう」
「ふふっ。それは僕もだね」
「今夜、セーべと話してみる」
「うん。ニー。『頑張って』と『無理しないで』だったら、どっちの言葉が欲しい?」
「『頑張って』」
「うん。ニー。頑張って。ちゃんとセーべと話し合えたら、思いっきり褒めてあげるよ。君には僕がいることを忘れないで。明日の午前中に往診に行くよ。その時に、セーべとの話し合いの結果を聞くから。君の気持ちや言葉は、ルドにだって言わないから安心して。僕は口が固い方なんだ」
「あぁ」
「ニーが産みたいのなら、これなら妊娠中に気をつけなくてはいけないことを説明しなきゃね。少し長くなるけど、しっかり頭に叩き込んでね。レポートみたいに書き上げて、明日にでも渡すけど、まずは口頭で説明するよ」
「頼む」
「うん。ふふっ。君の主治医は中々に優秀な医者だからね。出産経験者だし。勿論、人それぞれ違う部分が非常に多いんだけどね。それでも君の話を聞いたり、対処できるものには対処するし。どーんと頼りなさいよ」
「ミリィ。頼もしい」
「でしょ?じゃあ、説明をしようか。終わったらご飯を食べよう。ルド程じゃないけど、僕もそれなりに料理ができるんだよ」
「あぁ。ご馳走になる」
ニルダは、ミレーラとくっついたまま、妊娠中にどんな症状がでるのか、注意すべきこと等の話を聞いた。
それなりに長い話を聞き終えた後は、ミレーラと一緒に昼食を作り、二人で食べてから、ミレーラに送られて自宅に帰った。
セベリノがよく座っている居間の窓際に置いてある椅子に腰掛け、庭を眺めながら、ニルダは小さく溜め息を吐いた。
セベリノに話をするのは、やはり不安がある。自分自身が本当に子供を産んで、愛して育ててやれるかという不安もある。しかし、ニルダにはミレーラという頼もしい友達がいる。きっとなんとかなる筈だ。
ニルダはセベリノが帰ってくるまで、庭の花々を眺めて、ぼんやりと過ごした。
まさかな……と思うが、もしや妊娠しちゃったのではないだろうか。セベリノとやることをがっつりやっている。妊娠の可能性は普通にある。ニルダは日常的に鍛錬をしているし、仕事で荒っぽいことをしたりしている。もし本当に妊娠していたら、これはかなり危険なのではないだろうか。
気づいたからには、急いで動かねばならない。まずは妊娠しているかどうかを確かめなければ。ニルダは急遽仕事を休み、ミレーラに会いに行くことにした。
セベリノに少し体調が悪いからミレーラに会いに行くと伝えれば、セベリノはとても驚いて、すごく心配し始めた。自分も仕事を休んで一緒に行くと言ってくれたが、それは断った。急に班の責任者である班長と副班長が休む訳にはいかない。
後ろ髪を引かれているような様子のセベリノを送り出し、ニルダはミレーラの家に向かった。
ミレーラは総合病院で働いているが、毎日ではなく、隔日で勤務している。今日は仕事じゃない日の筈だ。何かしらの用事がなければ、家にいる筈である。
ニルダは普段よりもゆっくりめに歩きながら、ぼんやりと今後のことを考え始めた。
自分が妊娠したのなら、班長は辞めなければいけないだろう。警邏隊自体は辞めなくていい筈だ。一応、産休もいう制度があったと記憶している。しかし、責任ある班長という立場のままでは、年単位で休んだり、もし子供に何かあった時にすぐに駆けつけるということができない。班長として働いて6年になる。セベリノの助けを大いに借りながら、自分なりに精一杯やってきたつもりだ。今すぐ辞めろと言われても、素直に頷くには、正直抵抗がある。ニルダは自分の職務にそれなりに誇りや自信を持っている。出世欲は薄いと思うが、今の立場をいきなり放り投げたくはない。
自分が妊娠する可能性があることを、全く考えていなかった。セベリノとセックスをするようになったのだから、考えなければいけなかったのだろうが、自分がいつか子供を産むだなんて、それまでの人生で考えたことがなかった。そもそも、セベリノに偽装の為に結婚してくれと頼まれるまで、一生一人で過ごすのだと思っていた。
家族が増えるのは素直に嬉しい。しかし、セベリノは喜んでくれるのだろうか。自分はやり甲斐を感じている今の仕事を辞めなくてはいけないのだろうか。子供を育てるなんてこと、本当に自分にできるのだろうか。子供が、いつか妹の様に、ニルダのことで辛い思いをする日がくるのではないだろうか。
不安ばかりがぐるぐると頭の中を駆け回って、どんどん息が苦しくなってくる。ニルダはぐっと眉間に力を入れて、歩みを止めそうになる足を無理矢理前へと動かした。
ニルダは微かに震える指で、ミレーラの家の玄関の呼び鈴を押した。やはりセベリノについてきてもらいたかったと、今更ながらに後悔してしまう。
すぐに玄関のドアが開き、ミレーラが顔を出した。ニルダを見上げ、ミレーラが器用に右眉だけを上げた。
「やぁ。ニー。何かあったんだね」
「……あぁ。突然来てすまない」
「謝らなくていい。来てくれてありがとう。君の顔色を今すぐ鏡で見せたいよ。おいで。まずは温かいミルクを飲もう」
「……あぁ」
ミレーラがニルダを見上げて、ふわっと優しく笑った。
居間のソファーに座り、少しの間待っていると、ミレーラがお盆を持ってやって来た。差し出されたマグカップの中には、温かいミルクが入っている。一言お礼を言ってから、マグカップに口をつければ、牛乳の自然な甘さが口に広がった。温かいミルクを飲んで、ニルダは小さく息を吐いた。
「ニーは甘いもの苦手だし、蜂蜜は入れなかったよ。ちなみに僕のは蜂蜜たっぷり。ルドがいる時は蜂1匙までって決められてるんだけど、今はいないしね。がっつり5匙も入れちゃった。甘くて美味しい。ふふっ。たまにはいいよね」
「あぁ」
「さて。診察をする前に、少しだけ話をしよう。君の顔色の悪さの原因に心当たりはあるのかい?」
「……月のものが遅れている」
「月のものは定期的にくる方?それとも乱れがち?」
「定期的」
「ふむ。じゃあ、妊娠の可能性がでてくるね」
「……あぁ」
「まずは検査をしたいところだけど、今の体調はどんな感じ?たとえば、身体が怠いとか、食欲がないとか、やたら眠いとか、なんでもいいよ。もし、少しでも気になることがあったら教えてくれないかな」
「……特にない」
「じゃあ、気持ちは?」
「……不安」
「そっか。不安になるのはおかしいことじゃないと思うよ。僕も最初の妊娠の時は、とにかく不安だった。何が不安なのか話してみるのと、本当に妊娠しているのかを先に調べてみるの、どっちが君の心が楽かな」
「……検査が、先がいい」
「分かった。一応、僕の家にも簡易のものではあるけれど妊娠しているかを検査できるものがあるからね。急いで準備をしてくるから、それまでは……そうだね。目を瞑っててごらんよ。考えたくなくても、色々考えちゃうだろ?目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をしてみておいてよ」
「あぁ」
ミレーラがすぐに対面のソファーから立ち上がったので、ニルダは温かいミルクをまた少し飲んでから、マグカップをローテーブルの上に置き、目を閉じた。意識をして、ゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
不安がどんどん大きくなっていっている。ニルダは目を閉じたまま、セベリノの顔を思い浮かべた。
ミレーラに検査をしてもらった結果、ニルダはやはり妊娠していた。妊娠3ヶ月になるらしい。目の前が真っ暗になって、ニルダは両手で顔を被って項垂れた。
検査に使ったものを片付けたミレーラが、項垂れているニルダのすぐ隣に、すとんと座った。丸まったニルダの背中を、ミレーラが優しく撫でてくれる。
「ニー。嬉しくないのかい?」
「……分からない」
「何がそんなに苦しいのかな?不安なのかな?上手く話せなくていい。めちゃくちゃでもいい。今、思っていることを全部吐き出しちゃいなよ。僕は、とりあえずはただ聞いているだけ。助言とかは、ニーが欲しいなら、僕なりの助言をするよ」
「…………」
「ニー。焦らなくていい。少しずつでいい。上手く言葉にできないなら、『言葉にできない』って言ってくれたらいい。今のニーの気持ちを聞かせてよ」
ニルダはミレーラの優しい言葉に涙が溢れてしまいそうになるのを、ぐっと堪えて、ボソボソと話し始めた。きっと要領を得ない分かりにくい話になってしまっていた。それでも、ミレーラは最後までニルダの話を聞いてくれた。
話し終えると、ミレーラがニルダの丸まった背中を優しく撫でながら、ミルクを飲むように促してきた。すっかり冷えてしまったミルクを飲むと、ほんの少しだけ、緊張して力が入っていた肩の力が抜けた。
「ニー」
「…………」
「ちょっと遅くなっちゃったけど、まずはおめでとう。君の家族が増えるよ。僕は君もセーべも好きだからね。君達の家族が増えて、素直に嬉しい。うちの子達に弟分か妹分ができるしね。あの子達もルドも、すごく喜ぶ」
「……あぁ」
「仕事に関することは、先にセーべと話してから、一緒に考えたらいいんじゃないかな」
「……セーべが」
「うん?」
「セーべが喜んでくれるか分からない」
「うーん。セーべの気持ちはセーべにしか分からないからなぁ。これはあくまで僕の勘だけど、セーべはものすごく喜ぶ気がするよ。セーべって、ニーが大好きじゃない。ニーの子供なら、めちゃくちゃ可愛がると思うよ」
「……俺に似たら可哀想だ」
「顔が?」
「あぁ」
「まぁ、こればっかりは生まれてみないことには分からないけど、僕はニーの顔も好きだよ。確かに世間一般的には怖いって感じる顔立ちだけどさ。ニーがすごく優しい人なのは、少しでも話せば分かるもの。それに、もし子供がニーにそっくりでも、愛してくれる人はいるじゃない。僕達家族はニーの子供をきっと大切に思うし、可愛いと思うよ。ニーは、セーべとの子供が自分に似ていたら、愛せない?」
「……愛したい」
「ニーだって、自分の家族に愛されてたでしょ。なんとなく分かるよ。愛されたことがなかったら、ニーのように優しくなんてなれないもの。ニー」
「……」
「まずはセーべに子供ができたことを言おう。不安なら、僕が同席するよ。手を握っててあげる。僕は、今は、ニーの身体よりも先に心の方が心配なんだよね。ニーの心の負担ができるだけ少ないようにして、セーべに伝えよう」
「……あぁ」
「ニー。僕の友達。僕は、君が幸せになる為に頑張ることを応援しているし、手助けだってするよ。今回も僕を頼ってきてくれて嬉しかった。ルドに言われたことがあるんだけど、僕はね、結構人間不信の気があるけど、一度自分の懐に入れた人には甘いんだよ。君もセーべも、とっくに僕の懐の中だ。今の職場も、まぁあんまり人間関係は上手くいってると言えないけどさ。僕はふたなりらしいふたなりだから、どうしても好奇の目に晒されててね。セクハラも多いよ。腹が立つことがあったら、ルドに話を聞いてもらって、いっぱい慰めてもらってる。子供達の笑顔で癒やされてる。ニー。きっと、君とセーべなら、そんな風に過ごしていけるんじゃないかな。僕達と同じになる必要なんてない。ニーとセーべだけの、夫婦の形や家族の形をこれから作っていけばいい」
「…………ミリィ」
「ん?」
「ありがとう」
「いいってことよ。僕は君の友達で主治医だからね。セーべは今日は定時上がり?」
「あぁ。その予定だ」
「僕も同席する?」
「…………いや。まずは自分で話してみる」
「そうかい。ほんの少しでも心が辛くなったら、すぐに此処に来るんだよ。此処は君が逃げてきてもいい場所だ。逃げることは恥じゃない。自分自身を守る為に必要なことだ。君がまずしなくちゃいけないのは、自分の身体と心を守ることだよ。それから、君のお腹の中にいる新しい生命を守ってあげること」
「あぁ」
「あ。大事なことを確認してなかった。君は子供を産みたい?」
「…………産みたい。セーべの子を愛したい」
「そっか。それじゃあ、それもセーべに伝えなきゃね」
「あぁ」
ミレーラがニルダの手を優しく握って、ぽすんとニルダの肩に頬をくっつけた。少し低めの体温のミレーラの手から、じんわりと温かいものがニルダの中に広がっていく。
「ニー。大丈夫。僕は君の味方だ。君の幸せの為に、僕ができる最善のことをしよう」
「……ミリィ」
「んー?」
「……俺と友達になってくれて、ありがとう」
「ふふっ。それは僕もだね」
「今夜、セーべと話してみる」
「うん。ニー。『頑張って』と『無理しないで』だったら、どっちの言葉が欲しい?」
「『頑張って』」
「うん。ニー。頑張って。ちゃんとセーべと話し合えたら、思いっきり褒めてあげるよ。君には僕がいることを忘れないで。明日の午前中に往診に行くよ。その時に、セーべとの話し合いの結果を聞くから。君の気持ちや言葉は、ルドにだって言わないから安心して。僕は口が固い方なんだ」
「あぁ」
「ニーが産みたいのなら、これなら妊娠中に気をつけなくてはいけないことを説明しなきゃね。少し長くなるけど、しっかり頭に叩き込んでね。レポートみたいに書き上げて、明日にでも渡すけど、まずは口頭で説明するよ」
「頼む」
「うん。ふふっ。君の主治医は中々に優秀な医者だからね。出産経験者だし。勿論、人それぞれ違う部分が非常に多いんだけどね。それでも君の話を聞いたり、対処できるものには対処するし。どーんと頼りなさいよ」
「ミリィ。頼もしい」
「でしょ?じゃあ、説明をしようか。終わったらご飯を食べよう。ルド程じゃないけど、僕もそれなりに料理ができるんだよ」
「あぁ。ご馳走になる」
ニルダは、ミレーラとくっついたまま、妊娠中にどんな症状がでるのか、注意すべきこと等の話を聞いた。
それなりに長い話を聞き終えた後は、ミレーラと一緒に昼食を作り、二人で食べてから、ミレーラに送られて自宅に帰った。
セベリノがよく座っている居間の窓際に置いてある椅子に腰掛け、庭を眺めながら、ニルダは小さく溜め息を吐いた。
セベリノに話をするのは、やはり不安がある。自分自身が本当に子供を産んで、愛して育ててやれるかという不安もある。しかし、ニルダにはミレーラという頼もしい友達がいる。きっとなんとかなる筈だ。
ニルダはセベリノが帰ってくるまで、庭の花々を眺めて、ぼんやりと過ごした。
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