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11:憂鬱だけど憂鬱じゃない雨の日
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祥平は、ペロペロと顔を舐められる感覚で目覚めた。なんとなく、頭が重い。耳をすませてみれば、微かに雨音が聞こえてくる。
雨は嫌いだ。嫌な思い出が、どうしても頭の中に蘇ってくる。
祥平は、母親の顔を殆ど覚えていない。祥平の母親は、祥平が6歳の時に、男をつくって出ていった。母親の顔は殆ど覚えていないが、今でも鮮明に覚えていることがある。『アンタなんかいらない』そう吐き捨てるように言い放った母親の言葉だけは、今でも、しつこい程、祥平の頭の中にこびり着いている。
祥平は、父親との折り合いも悪かった。父親が再婚した新しい母親とも、上手くいかなかった。弟が生まれたら、家の中に、祥平の居場所は無くなった。とにかく、少しでも早く家から出たくて、必死で嫌いな勉強をして、東京の大学になんとか合格して上京した。大学に進学してからは、一度も実家に帰っていない。大学時代は、奨学金を借りて、足りない分はバイトを掛け持ちして、1人で生きていけるように勉強も頑張って、とにかく必死だった気がする。無事に就職ができた後は、ブラックすれすれの会社で、ひたすら仕事ばかりをしていた。休みの日は、エロ漫画を読むか、特に観るわけでもない動画を流して、ぼーっとしていた。たまに彼女ができた時は、それなりに楽しい日々を送っていたが、どんなに性格がいい彼女でも、プロポーズをすることはできなかった。友達もいたが、30歳を越える頃には、皆結婚して、家庭を持ち、自然と疎遠になった。
今ではいつでも明るく元気なドーラは、この世界に来たばかりの頃は、家族が恋しくて、泣いてばかりだったらしい。まだ11歳の女の子だ。それも当然だろう。
祥平は、この世界に来て、日本に、なんの未練もないことに気がついた。仕事自体は嫌いじゃなかったが、パワハラ気質の先輩がいて、そろそろ転職しようかと本気で考えていたし、『恋しい。会いたい』と願う誰かなんて、祥平には誰もいなかった。
そろそろ本気で起きなければいけないのだが、頭がじんわり重くて、動く気が起きない。ペロペロと頬を舐めてくれるピエリーを、ぼんやり天井を見つめながら撫でていると、ぴるるるるっ! とピエリーがいつもより大きな声で鳴いた。
祥平がぼんやりしていると、部屋のドアがノックされ、なんだか慌てた様子のダンテが入ってきた。ヤバい。雇い主より遅く起きるなんて、家政夫的にアウトである。祥平がのろのろと起き上がると、ダンテがすぐ側に来て、祥平の額に硬くて温かい大きな手を触れさせた。
「あ、熱はないね。ショーヘイ。気分は? ピエリーが、ショーヘイの様子がおかしいと」
「あー。ちょっと頭が重いだけです。雨の日はね、ちょっと頭が重くなるんですよ。体質みたいなもんなんで、大丈夫です」
祥平が、へらっと笑ってそう言うと、ダンテがちょっと眉間に皺を寄せた。
「神殿に行ってみるかい? 治癒魔法士に診てもらおう」
「いやいや。本当に大丈夫。神殿にいる時に、一度診てもらったけど、体質だろうってことだったんで」
「そう……じゃあ、今日はお休みだ。私も休みだしね」
「え? いやいや。普通に仕事しますよ。動いてた方が、逆に楽なんで」
「でも……」
「本当に大丈夫ですって。俺、ガキの頃から丈夫で、風邪とかひいたことないし」
「んーーーー。じゃあ、今日は一緒にやろう。私もたまには料理とかしないと、折角覚えたことを忘れてしまう」
「えーー」
「長くやってなくて、勘を取り戻すのに苦労したことはない?」
「あー。まぁ、ありますね」
「だろう? やらずに忘れるくらいなら、定期的にやって、覚えておいた方がずっと楽だ」
「…………そういうことなら……」
「うん。アルモンは私が採ってくるから、先にナータの粥を作り始めてもらっても大丈夫かい?」
「はい」
ダンテが、穏やかに笑って、部屋から出ていった。ピエリーが、どこか心配そうに、ぴるるる……と鳴きながら、ペロペロと頬を舐めてくる。誰かに心配されるのに、祥平はあまり慣れていない。嬉しいとかよりも先に、どうしても戸惑ってしまう。
祥平は、これはいかんと、パシッと自分の頬を両手で叩いた。動いていれば、頭の重みも、嫌な思い出も、意識せずに済む。祥平は、ベッドから下りると、急いで寝間着から私服に着替え、パタパタと脱衣場の洗面台に向かった。バシャバシャと顔を洗って鏡を見れば、なんとなく目が死んでいる男の顔が映っていた。雨の日なんか、本当に嫌いだ。
祥平が台所に行くと、寝間着姿のダンテが、魔導ミキサーでアルモンをジュースにしていた。あの嫌な断末魔は聞こえてこない。今日ばかりは、唯でさえ憂鬱なのだから、正直聞きたくなかったので、素直にありがたい。
祥平がいつもの材料を手早く刻み始めると、ダンテが隣に立ち、大きな卵を熱したフライパンに割り入れた。同じフライパンで、薄切りにしたベーコンみたいな燻製肉も焼いている。ふわふわと香る食欲をそそる温かい匂いに、何故か、ほっとした。
手早くナータの粥を作ると、ダンテが魔導冷蔵庫の中から、ティームを取り出した。ティームは、ちょっと癖がある牛乳みたいなものだ。動物の乳ではなく、ココナッツミルクみたいにとれるものらしいので、豆乳とかの方が近いのだろうか。
ダンテが小鍋にティームを注ぎ、戸棚の中から、赤いものが入った瓶を取り出した。蜂蜜っぽいリーンである。甘くて、栄養価がとても高いらしい。温めたティームに、ダンテがリーンをたっぷり入れた。ふわふわと甘い匂いが漂う。
マグカップにリーン入りのティームを入れると、ダンテがゆるく笑った。
「朝ご飯にしよう」
「あ、はい」
2人で手分けして居間に朝食を運ぶと、祥平は椅子に座って、『いただきます』をしてから、ふわふわ甘い匂いをさせているティームが入ったマグカップを手に取った。ふぅーっと息を吹きかけて、少しだけ温かいティームを口に含めば、柔らかい優しい甘さが口の中に広がった。なんだか、すとんと、肩の力が抜けた。どうやら、意識していなかったが、自分は緊張していたらしい。柔らかい甘さのティームが、とても美味しい。
ゆっくりティームを飲みながら、祥平は、チラッと正面のダンテを見た。ダンテは、今朝も美味しそうにもりもりとナータの粥を食べている。
いつもは食欲も無くなるが、なんだか、急に腹が減ってきた。祥平は、ティームを飲み干すと、スプーンを手に取り、ナータの粥を食べ始めた。今日もちゃんと美味しく出来ている。ダンテが作ってくれたアルモンのジュースも美味しい。
祥平は、残さず全部朝食を食べきった。
一緒に後片付けをしながら、ダンテがちょっと嬉しそうに笑った。
「食欲があるなら、大丈夫そうだね」
「美味しいものは、いつでももりもり食いますよー」
「ははっ。それが一番いい」
祥平を見下ろすダンテの瞳は、どこまでも優しい色をしていた。
祥平は、ちょっと落ち着かない気分になったが、気がつけば、へらっと笑っていた。
温かい食事でお腹の中が温かい。何故か、胸の奥もぽかぽかする感じがする。なんだか、頭の重みも軽くなった気がする。
この日は、家のことはダンテと一緒にやった。
夕方になる頃には、雨はやみ、夕陽でうっすらとした虹ができていた。
雨は嫌いだ。嫌な思い出が、どうしても頭の中に蘇ってくる。
祥平は、母親の顔を殆ど覚えていない。祥平の母親は、祥平が6歳の時に、男をつくって出ていった。母親の顔は殆ど覚えていないが、今でも鮮明に覚えていることがある。『アンタなんかいらない』そう吐き捨てるように言い放った母親の言葉だけは、今でも、しつこい程、祥平の頭の中にこびり着いている。
祥平は、父親との折り合いも悪かった。父親が再婚した新しい母親とも、上手くいかなかった。弟が生まれたら、家の中に、祥平の居場所は無くなった。とにかく、少しでも早く家から出たくて、必死で嫌いな勉強をして、東京の大学になんとか合格して上京した。大学に進学してからは、一度も実家に帰っていない。大学時代は、奨学金を借りて、足りない分はバイトを掛け持ちして、1人で生きていけるように勉強も頑張って、とにかく必死だった気がする。無事に就職ができた後は、ブラックすれすれの会社で、ひたすら仕事ばかりをしていた。休みの日は、エロ漫画を読むか、特に観るわけでもない動画を流して、ぼーっとしていた。たまに彼女ができた時は、それなりに楽しい日々を送っていたが、どんなに性格がいい彼女でも、プロポーズをすることはできなかった。友達もいたが、30歳を越える頃には、皆結婚して、家庭を持ち、自然と疎遠になった。
今ではいつでも明るく元気なドーラは、この世界に来たばかりの頃は、家族が恋しくて、泣いてばかりだったらしい。まだ11歳の女の子だ。それも当然だろう。
祥平は、この世界に来て、日本に、なんの未練もないことに気がついた。仕事自体は嫌いじゃなかったが、パワハラ気質の先輩がいて、そろそろ転職しようかと本気で考えていたし、『恋しい。会いたい』と願う誰かなんて、祥平には誰もいなかった。
そろそろ本気で起きなければいけないのだが、頭がじんわり重くて、動く気が起きない。ペロペロと頬を舐めてくれるピエリーを、ぼんやり天井を見つめながら撫でていると、ぴるるるるっ! とピエリーがいつもより大きな声で鳴いた。
祥平がぼんやりしていると、部屋のドアがノックされ、なんだか慌てた様子のダンテが入ってきた。ヤバい。雇い主より遅く起きるなんて、家政夫的にアウトである。祥平がのろのろと起き上がると、ダンテがすぐ側に来て、祥平の額に硬くて温かい大きな手を触れさせた。
「あ、熱はないね。ショーヘイ。気分は? ピエリーが、ショーヘイの様子がおかしいと」
「あー。ちょっと頭が重いだけです。雨の日はね、ちょっと頭が重くなるんですよ。体質みたいなもんなんで、大丈夫です」
祥平が、へらっと笑ってそう言うと、ダンテがちょっと眉間に皺を寄せた。
「神殿に行ってみるかい? 治癒魔法士に診てもらおう」
「いやいや。本当に大丈夫。神殿にいる時に、一度診てもらったけど、体質だろうってことだったんで」
「そう……じゃあ、今日はお休みだ。私も休みだしね」
「え? いやいや。普通に仕事しますよ。動いてた方が、逆に楽なんで」
「でも……」
「本当に大丈夫ですって。俺、ガキの頃から丈夫で、風邪とかひいたことないし」
「んーーーー。じゃあ、今日は一緒にやろう。私もたまには料理とかしないと、折角覚えたことを忘れてしまう」
「えーー」
「長くやってなくて、勘を取り戻すのに苦労したことはない?」
「あー。まぁ、ありますね」
「だろう? やらずに忘れるくらいなら、定期的にやって、覚えておいた方がずっと楽だ」
「…………そういうことなら……」
「うん。アルモンは私が採ってくるから、先にナータの粥を作り始めてもらっても大丈夫かい?」
「はい」
ダンテが、穏やかに笑って、部屋から出ていった。ピエリーが、どこか心配そうに、ぴるるる……と鳴きながら、ペロペロと頬を舐めてくる。誰かに心配されるのに、祥平はあまり慣れていない。嬉しいとかよりも先に、どうしても戸惑ってしまう。
祥平は、これはいかんと、パシッと自分の頬を両手で叩いた。動いていれば、頭の重みも、嫌な思い出も、意識せずに済む。祥平は、ベッドから下りると、急いで寝間着から私服に着替え、パタパタと脱衣場の洗面台に向かった。バシャバシャと顔を洗って鏡を見れば、なんとなく目が死んでいる男の顔が映っていた。雨の日なんか、本当に嫌いだ。
祥平が台所に行くと、寝間着姿のダンテが、魔導ミキサーでアルモンをジュースにしていた。あの嫌な断末魔は聞こえてこない。今日ばかりは、唯でさえ憂鬱なのだから、正直聞きたくなかったので、素直にありがたい。
祥平がいつもの材料を手早く刻み始めると、ダンテが隣に立ち、大きな卵を熱したフライパンに割り入れた。同じフライパンで、薄切りにしたベーコンみたいな燻製肉も焼いている。ふわふわと香る食欲をそそる温かい匂いに、何故か、ほっとした。
手早くナータの粥を作ると、ダンテが魔導冷蔵庫の中から、ティームを取り出した。ティームは、ちょっと癖がある牛乳みたいなものだ。動物の乳ではなく、ココナッツミルクみたいにとれるものらしいので、豆乳とかの方が近いのだろうか。
ダンテが小鍋にティームを注ぎ、戸棚の中から、赤いものが入った瓶を取り出した。蜂蜜っぽいリーンである。甘くて、栄養価がとても高いらしい。温めたティームに、ダンテがリーンをたっぷり入れた。ふわふわと甘い匂いが漂う。
マグカップにリーン入りのティームを入れると、ダンテがゆるく笑った。
「朝ご飯にしよう」
「あ、はい」
2人で手分けして居間に朝食を運ぶと、祥平は椅子に座って、『いただきます』をしてから、ふわふわ甘い匂いをさせているティームが入ったマグカップを手に取った。ふぅーっと息を吹きかけて、少しだけ温かいティームを口に含めば、柔らかい優しい甘さが口の中に広がった。なんだか、すとんと、肩の力が抜けた。どうやら、意識していなかったが、自分は緊張していたらしい。柔らかい甘さのティームが、とても美味しい。
ゆっくりティームを飲みながら、祥平は、チラッと正面のダンテを見た。ダンテは、今朝も美味しそうにもりもりとナータの粥を食べている。
いつもは食欲も無くなるが、なんだか、急に腹が減ってきた。祥平は、ティームを飲み干すと、スプーンを手に取り、ナータの粥を食べ始めた。今日もちゃんと美味しく出来ている。ダンテが作ってくれたアルモンのジュースも美味しい。
祥平は、残さず全部朝食を食べきった。
一緒に後片付けをしながら、ダンテがちょっと嬉しそうに笑った。
「食欲があるなら、大丈夫そうだね」
「美味しいものは、いつでももりもり食いますよー」
「ははっ。それが一番いい」
祥平を見下ろすダンテの瞳は、どこまでも優しい色をしていた。
祥平は、ちょっと落ち着かない気分になったが、気がつけば、へらっと笑っていた。
温かい食事でお腹の中が温かい。何故か、胸の奥もぽかぽかする感じがする。なんだか、頭の重みも軽くなった気がする。
この日は、家のことはダンテと一緒にやった。
夕方になる頃には、雨はやみ、夕陽でうっすらとした虹ができていた。
応援ありがとうございます!
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