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3:決意
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ジャックは自宅のベッドの上で、モーリスの家がある方向に向かって土下座した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
呪文のように謝罪の言葉を繰り返しながら、ジャックは手の中のシコティッシュを強く握りしめた。ついに、モーリスをおかずにオナってしまった。やっちまった感が半端ない。
いつもは、半裸の男の写真が盛り沢山の筋トレ雑誌でシコシコ抜いている。ゲイ向けのエロ本なんて、とてもじゃないが買えないし、筋トレ雑誌でも割と抜ける。モーリスの好みは線の細い身体つきの男だが、意外とそういう男の写真も載っていたりする。細マッチョというやつである。ガチムチの筋肉だるまには興味がないが、数少ない細マッチョな裸体を求めて、『月刊筋肉』という雑誌を毎月買っている。ちなみに、雑誌に載っている筋トレをやったことなど一度もない。
トレイシーがモーリスの家に住み始めて、そろそろ4ヶ月が経つ。毎週のように休みの度にモーリスの家に行き、そのままモーリスの家に泊まることも多い。いつも、トレイシーが寝る時間まで3人で遊び、トレイシーが寝た後は、モーリスと2人で少しだけ酒を飲みながらお喋りをしている。
特にここ1ヶ月程、モーリスと2人でいると、胸がドキドキして堪らなくなってきた。笑った時にできる目尻や口元の皺が可愛く思えて、ゴツくて太い指や血管の浮いた手の甲にときめき、腕毛が生えた筋肉質な太い腕にキュンキュンしてしまう。分厚い胸板に飛び込んでみたいし、太い腰を抱いて、硬そうなデカい尻に頬擦りをしてみたい。完全に末期である。
ジャックは何度か恋をしたことがある。どの恋も告白すらできずに、時間と共に静かに消えていった。今回の恋もそうなるのだろうが、如何せん、会える頻度が今までの片思い相手よりもずっと多く、距離感もなんだか近い。たまに、モーリスに頭を撫でてもらえる時がある。そんな時は、胸が高鳴りすぎて心臓が口からえれっと出てしまいそうな気がする程、どうしようもなくときめいて、嬉しくて堪らなくなる。
ジャックは大きな溜め息を吐いて、ベッドにごろんと寝転がった。手に握っていたシコティッシュを適当に放り投げ、ずり下ろしていた寝間着のズボンとパンツをちゃんと穿き直す。
ぼーっと天井を見上げながら、ジャックは考えた。このまま、モーリスに何も言わずにいて、トレイシーが自分の家に帰った後は、以前の単なる職場が同じだけの関係に戻るのがきっといいのだろう。心が軋む気がするが、きっとそれが一番いい。
しかし、どうしてもそれを嫌がる自分がいる。モーリスとトレイシーとずっと一緒にいたい。トレイシーとは一緒に暮らせない日が来るかもしれないが、せめてモーリスと一緒にいたい。トレイシーが自分の家に帰ったら、モーリスはまた1人になる。モーリスは男前だから、本人が望めばすぐに恋人とかできそうな気がするが、できることなら、モーリスの隣にいるのは自分がいい。
モーリスと一緒に料理をして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、触れ合って、パズルのピースみたいにピッタリと嵌まるような関係になりたい。一緒に幸せになるための努力をしてみたい。
ジャックは数日間考えに考えて、一つの結論を出した。
モーリスに告白をして、玉砕しよう。ジャックの骨を拾ってくれる人なんていないが、きっといつか切ない思い出に変わってくれる筈である。
モーリスにフラれたら、モーリスの家にはもう行けない。折角仲良くなった可愛い教え子兼小さな友人であるトレイシーには申し訳ないが、モーリスへの想いを抑えつけて蓋をするのも、そろそろ限界な気がする。いっそモーリスに引導を渡してもらった方がいいと思う。
折角好きになれたのになぁと寂しくて胸が苦しくなるが、モーリスだってジャックなんかに好かれても迷惑なだけだろう。ジャックは地味でチキンな取り柄もないヘタレ野郎だ。
トレイシーもいるモーリスの家では、流石に告白なんてできない。フラレたら、その場で泣いてしまう自信がある。懐いてくれているトレイシーには、ちょっとだけ格好つけたいジャックなのである。
ジャックは、モーリスに自分の家に来てもらう為に、なんとか適当な理由を捻り出した。
------
ジャックはガチガチに緊張しながら、門の所でモーリスが出てくるのを待っていた。手汗と背中の汗がヤバい。これから人生初の告白をしてフラれるのだと思うと、今すぐバックレたくなる。明日は、ジャックは仕事が休みだ。モーリスにフラレた後にどれだけ泣いても大丈夫だ。多分。
ジャックは既に泣きそうになりながらも、モーリスが門の所を通りかかるまで、数時間大人しく待っていた。
すっかり暗くなり、腕時計を見れば、深夜に近い時間帯になっていた。今日はモーリスは仕事が忙しいらしい。
1人で留守番をしているトレイシーが、なんだか心配になってくる。家政婦兼子守りの老婦人は通いなので、トレイシーが夕食を終えたら帰宅する。今、トレイシーはあの広い家に1人だ。モーリスにフラれる為にひたすら待っていたが、どんどんトレイシーのことが心配になってくる。トレイシーはまだ8歳だ。詳しい事情は知らないが、まだまだ甘えたい年頃なのに親元から離れていて、モーリスがこうして帰りが遅い時は一人ぼっちで過ごしている。
ジャックの両親が離婚した時は、ジャックは11歳だった。母はジャックを養う為に、昼間は喫茶店で働いて、夜はバーで働いていた。ジャックは1人で留守番をすることが多く、母が頑張っているのは自分の為だと分かってはいたが、どうしても寂しかった。母が家に居る時は本当に嬉しくて、母と一緒に料理をするのが大好きだった。疲れている母に少しでも美味しいものを食べてほしくて、図書館で料理の本を読みあさって、家で作れそうなものに挑戦していた。
1人でいる寂しさは、とてもよく分かる。ジャックはトレイシーのことがどうしても気になり始め、少しだけ迷ってから、モーリスの家へと向かった。モーリスにフラれるのは、また後日でいい。少しだけトレイシーの様子を見に行こう。トレイシーは多分寝ているだろうから、預かっている合鍵を使って、ちょこっとお邪魔するだけだ。トレイシーが家に1人の時は、基本的に家の鍵をかけて、誰が来ても絶対に玄関のドアを開けないようにと、モーリスが言い聞かせている。モーリスが不在の時は、ジャックはいつも預かった合鍵で、モーリスの家にお邪魔している。
ジャックは小走りでモーリスの家へと向かった。
モーリスの家の近くを走っていると、居間がある辺りから明かりが漏れていた。カーテンの隙間から光が見えているので、どうやらトレイシーはまだ起きているらしい。
ジャックは息を切らせながら走り、モーリスの家の玄関のドアの鍵を開けて、家の中に入った。
真っ直ぐに居間に行くと、寝間着姿のトレイシーがソファーの上でお山座りをして、小さくなって俯いていた。
ジャックがトレイシーの名前を小さく呼ぶと、トレイシーがパッと顔を上げて、ジャックを見た。トレイシーの顔がくしゃっと歪み、ポロポロと涙を零し始めた。ジャックは慌ててトレイシーに駆け寄った。
「トレイシーちゃん」
「……おにいちゃん」
「1人で寂しかった?」
「……おじ様、最近ずっと帰りが遅いの」
「うん」
「お仕事、大変なのは分かるの」
「うん」
「……でも、1人はやだ」
「うん。1人は寂しいね」
ジャックがトレイシーの身体をやんわりと抱きしめると、トレイシーがジャックの首に両腕を回して、本格的に泣きじゃくり始めた。ジャックはトレイシーの背中を優しく撫でながら、トレイシーが自然と泣き止むまで、ずっとトレイシーを抱きしめていた。
泣き疲れて眠ってしまったトレイシーを膝に乗せたまま、ジャックはぼんやりと考えた。トレイシーとは赤の他人だ。トレイシーの家庭のことにあまり首を突っ込み過ぎるのはよくないだろう。しかし、トレイシーはジャックの可愛い教え子であり、小さな友人だ。何か、ジャックにできることはないだろうか。
カチ、カチ、と静かな居間に壁時計の針が動く音が響く。トレイシーの穏やかな寝息も聞こえている。
小さな友人に笑顔でいてもらう為にジャックができることを、ジャックはモーリスが帰ってくるまでずっと考えていた。
------
モーリスはイライラと何度も舌打ちをしながら、全速力で自宅へと走って帰った。ここ数日、どうにも仕事が忙しくて、中々トレイシーの側にいてやれない。朝もゆっくりできないし、帰宅できるのはトレイシーが寝た後だ。これではトレイシーを引き取った意味がない。トレイシーに寂しい辛い思いをさせたくなくて、モーリスの家に来てもらったのに、モーリスがトレイシーに寂しい思いをさせてどうするのだ。部隊長をしている以上、責任がある立場で、どうしても仕事が忙しい。今は遠征や長期任務を断っているが、そろそろ断り続けるのが難しくなってきた。
トレイシーを兄の家に帰したくない。兄の家に帰ったら、トレイシーに構ってやらずにトレイシーをちゃんと見てやらない兄と、トレイシーを邪険に扱う義姉がいる。つい先日、義姉が男の子を出産した。跡取りができたと、兄やモーリスの両親は大喜びで、義姉も生まれたばかりの息子を大変可愛がっているそうだ。乳兄弟でもある今でも親しい使用人から聞いた。
今、トレイシーが自分の家に帰っても、きっと辛い思いをするだけだ。だから、トレイシーを帰したくない。しかし、モーリスでは、ずっとトレイシーの側にいてやることができない。短い期間限定だからと許されていたが、そろそろ仕事の方が厳しくなってきた。自分自身に苛立ってしまって仕方がない。トレイシーが生まれた時、モーリスは本当に嬉しかった。小さな小さな姪が可愛くて仕方がなかった。モーリス自身は自分の子供は望めない。女には全く勃起しないから、子供をつくるなんて絶対に無理だ。だからこそ、生まれたばかりの小さな可愛い家族が愛おしかった。
モーリスはギリギリと歯軋りをしながら、漸く着いた自宅の玄関先で急いで制服のポケットから鍵を取り出し、鍵を開けて家の中に入った。
居間の方から廊下に明かりが漏れていた。もしかして、トレイシーがまだ起きているのだろうか。
モーリスは小走りで居間へと向かい、居間に入って、驚いて目を丸くした。ジャックがトレイシーを抱っこして、ソファーに座っていた。
モーリスに気がついたジャックが、自分の唇に人差し指を当てて、静かにするようにと合図をしてきた。
モーリスは静かにジャックとトレイシーに近づいた。トレイシーはジャックに抱っこされて、規則正しい寝息を立てていた。なんだか少し目元が腫れている気がする。モーリスが無言でジャックの目を見ると、ジャックが囁くような小さな声で話しかけてきた。
「遅くまでお疲れ様です」
「あぁ。ありがとう」
「モーリス部隊長」
「なんだ」
「明日から此処に住んでもいいですか?」
「……は?」
「僕は基本的に残業がなくて、休みも決まっています。夕方には帰れるし、朝早くに出勤しなきゃいけないってことはないです。……トレイシーちゃんが自分の家に帰るまで、此処に住ませてもらいたいなぁと」
「…………」
「差し出がましいというか、余計なお節介ってことは分かっています。でも……1人は寂しい」
ジャックがトレイシーの頭を慈しむような手つきで撫でながら、寂しそうな顔で呟いた。
モーリスはじっとジャックを見つめた。ジャックがトレイシーのことを可愛がってくれているのは、よく知っている。ジャックがトレイシーを心配して、申し出てくれたことなのも分かる。正直に言えば、有り難い申し出だが、流石にジャックにそこまでしてもらうのは気が引ける。
モーリスはどうしようかと目を彷徨わせ、トレイシーの寝顔を見た。
トレイシーは多分泣いていたのだろう。いつ頃にジャックが家に来たのかは分からないので、どれだけトレイシーが泣いていたのかは分からない。
ジャックに抱っこされて寝ているトレイシーの寝顔は、とても穏やかで、安心しきっているような感じだ。
モーリスは自分が情けなくて、下唇を強く噛んだ。トレイシーを泣かせてしまった。寂しい思いをさせてしまった。既に頼りきっている気がするジャックに、更に気を使わせてしまった。軍では、部隊長だとそれなりに持て囃されているが、モーリスは無力だ。
眉間に深い皺を寄せているモーリスに、ジャックが静かに声をかけた。
「モーリス部隊長」
「……なんだ」
「お願いです。僕の小さな友達の側にいさせてください」
「……本当にいいのか?」
「はい」
「言っておくが、俺はゲイだ。軍で噂になっているのは知っているだろう。トレイシーの為とはいえ、俺の家で暮らしたら、お前も面白可笑しく噂されるかもしれねぇぞ」
「……僕もゲイです」
「……マジか」
「マジです。全力で隠れですけど。……噂されるのは、正直に言えば嫌ですけど、トレイシーちゃんが寂しいのも嫌なんですよね」
「……お前、お人好しって言われないか?」
「んーー。たまーに?」
「ジャック」
「はい」
「俺はお前に絶対に手を出さない。お前が不快なことはしない。……だから、トレイシーと俺を助けてくれないだろうか」
「はい。僕ができるだけのことをやります」
真っ直ぐにモーリスを見返してきたジャックの瞳は真剣で、モーリスはなんだか泣きたくなった。
モーリスが本当に大事に思っているトレイシーの為に、そこまでしてくれるジャックの優しさが堪らなく嬉しい。
モーリスは不細工な笑みを浮かべて、ジャックと握手を交した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
呪文のように謝罪の言葉を繰り返しながら、ジャックは手の中のシコティッシュを強く握りしめた。ついに、モーリスをおかずにオナってしまった。やっちまった感が半端ない。
いつもは、半裸の男の写真が盛り沢山の筋トレ雑誌でシコシコ抜いている。ゲイ向けのエロ本なんて、とてもじゃないが買えないし、筋トレ雑誌でも割と抜ける。モーリスの好みは線の細い身体つきの男だが、意外とそういう男の写真も載っていたりする。細マッチョというやつである。ガチムチの筋肉だるまには興味がないが、数少ない細マッチョな裸体を求めて、『月刊筋肉』という雑誌を毎月買っている。ちなみに、雑誌に載っている筋トレをやったことなど一度もない。
トレイシーがモーリスの家に住み始めて、そろそろ4ヶ月が経つ。毎週のように休みの度にモーリスの家に行き、そのままモーリスの家に泊まることも多い。いつも、トレイシーが寝る時間まで3人で遊び、トレイシーが寝た後は、モーリスと2人で少しだけ酒を飲みながらお喋りをしている。
特にここ1ヶ月程、モーリスと2人でいると、胸がドキドキして堪らなくなってきた。笑った時にできる目尻や口元の皺が可愛く思えて、ゴツくて太い指や血管の浮いた手の甲にときめき、腕毛が生えた筋肉質な太い腕にキュンキュンしてしまう。分厚い胸板に飛び込んでみたいし、太い腰を抱いて、硬そうなデカい尻に頬擦りをしてみたい。完全に末期である。
ジャックは何度か恋をしたことがある。どの恋も告白すらできずに、時間と共に静かに消えていった。今回の恋もそうなるのだろうが、如何せん、会える頻度が今までの片思い相手よりもずっと多く、距離感もなんだか近い。たまに、モーリスに頭を撫でてもらえる時がある。そんな時は、胸が高鳴りすぎて心臓が口からえれっと出てしまいそうな気がする程、どうしようもなくときめいて、嬉しくて堪らなくなる。
ジャックは大きな溜め息を吐いて、ベッドにごろんと寝転がった。手に握っていたシコティッシュを適当に放り投げ、ずり下ろしていた寝間着のズボンとパンツをちゃんと穿き直す。
ぼーっと天井を見上げながら、ジャックは考えた。このまま、モーリスに何も言わずにいて、トレイシーが自分の家に帰った後は、以前の単なる職場が同じだけの関係に戻るのがきっといいのだろう。心が軋む気がするが、きっとそれが一番いい。
しかし、どうしてもそれを嫌がる自分がいる。モーリスとトレイシーとずっと一緒にいたい。トレイシーとは一緒に暮らせない日が来るかもしれないが、せめてモーリスと一緒にいたい。トレイシーが自分の家に帰ったら、モーリスはまた1人になる。モーリスは男前だから、本人が望めばすぐに恋人とかできそうな気がするが、できることなら、モーリスの隣にいるのは自分がいい。
モーリスと一緒に料理をして、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、触れ合って、パズルのピースみたいにピッタリと嵌まるような関係になりたい。一緒に幸せになるための努力をしてみたい。
ジャックは数日間考えに考えて、一つの結論を出した。
モーリスに告白をして、玉砕しよう。ジャックの骨を拾ってくれる人なんていないが、きっといつか切ない思い出に変わってくれる筈である。
モーリスにフラれたら、モーリスの家にはもう行けない。折角仲良くなった可愛い教え子兼小さな友人であるトレイシーには申し訳ないが、モーリスへの想いを抑えつけて蓋をするのも、そろそろ限界な気がする。いっそモーリスに引導を渡してもらった方がいいと思う。
折角好きになれたのになぁと寂しくて胸が苦しくなるが、モーリスだってジャックなんかに好かれても迷惑なだけだろう。ジャックは地味でチキンな取り柄もないヘタレ野郎だ。
トレイシーもいるモーリスの家では、流石に告白なんてできない。フラレたら、その場で泣いてしまう自信がある。懐いてくれているトレイシーには、ちょっとだけ格好つけたいジャックなのである。
ジャックは、モーリスに自分の家に来てもらう為に、なんとか適当な理由を捻り出した。
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ジャックはガチガチに緊張しながら、門の所でモーリスが出てくるのを待っていた。手汗と背中の汗がヤバい。これから人生初の告白をしてフラれるのだと思うと、今すぐバックレたくなる。明日は、ジャックは仕事が休みだ。モーリスにフラレた後にどれだけ泣いても大丈夫だ。多分。
ジャックは既に泣きそうになりながらも、モーリスが門の所を通りかかるまで、数時間大人しく待っていた。
すっかり暗くなり、腕時計を見れば、深夜に近い時間帯になっていた。今日はモーリスは仕事が忙しいらしい。
1人で留守番をしているトレイシーが、なんだか心配になってくる。家政婦兼子守りの老婦人は通いなので、トレイシーが夕食を終えたら帰宅する。今、トレイシーはあの広い家に1人だ。モーリスにフラれる為にひたすら待っていたが、どんどんトレイシーのことが心配になってくる。トレイシーはまだ8歳だ。詳しい事情は知らないが、まだまだ甘えたい年頃なのに親元から離れていて、モーリスがこうして帰りが遅い時は一人ぼっちで過ごしている。
ジャックの両親が離婚した時は、ジャックは11歳だった。母はジャックを養う為に、昼間は喫茶店で働いて、夜はバーで働いていた。ジャックは1人で留守番をすることが多く、母が頑張っているのは自分の為だと分かってはいたが、どうしても寂しかった。母が家に居る時は本当に嬉しくて、母と一緒に料理をするのが大好きだった。疲れている母に少しでも美味しいものを食べてほしくて、図書館で料理の本を読みあさって、家で作れそうなものに挑戦していた。
1人でいる寂しさは、とてもよく分かる。ジャックはトレイシーのことがどうしても気になり始め、少しだけ迷ってから、モーリスの家へと向かった。モーリスにフラれるのは、また後日でいい。少しだけトレイシーの様子を見に行こう。トレイシーは多分寝ているだろうから、預かっている合鍵を使って、ちょこっとお邪魔するだけだ。トレイシーが家に1人の時は、基本的に家の鍵をかけて、誰が来ても絶対に玄関のドアを開けないようにと、モーリスが言い聞かせている。モーリスが不在の時は、ジャックはいつも預かった合鍵で、モーリスの家にお邪魔している。
ジャックは小走りでモーリスの家へと向かった。
モーリスの家の近くを走っていると、居間がある辺りから明かりが漏れていた。カーテンの隙間から光が見えているので、どうやらトレイシーはまだ起きているらしい。
ジャックは息を切らせながら走り、モーリスの家の玄関のドアの鍵を開けて、家の中に入った。
真っ直ぐに居間に行くと、寝間着姿のトレイシーがソファーの上でお山座りをして、小さくなって俯いていた。
ジャックがトレイシーの名前を小さく呼ぶと、トレイシーがパッと顔を上げて、ジャックを見た。トレイシーの顔がくしゃっと歪み、ポロポロと涙を零し始めた。ジャックは慌ててトレイシーに駆け寄った。
「トレイシーちゃん」
「……おにいちゃん」
「1人で寂しかった?」
「……おじ様、最近ずっと帰りが遅いの」
「うん」
「お仕事、大変なのは分かるの」
「うん」
「……でも、1人はやだ」
「うん。1人は寂しいね」
ジャックがトレイシーの身体をやんわりと抱きしめると、トレイシーがジャックの首に両腕を回して、本格的に泣きじゃくり始めた。ジャックはトレイシーの背中を優しく撫でながら、トレイシーが自然と泣き止むまで、ずっとトレイシーを抱きしめていた。
泣き疲れて眠ってしまったトレイシーを膝に乗せたまま、ジャックはぼんやりと考えた。トレイシーとは赤の他人だ。トレイシーの家庭のことにあまり首を突っ込み過ぎるのはよくないだろう。しかし、トレイシーはジャックの可愛い教え子であり、小さな友人だ。何か、ジャックにできることはないだろうか。
カチ、カチ、と静かな居間に壁時計の針が動く音が響く。トレイシーの穏やかな寝息も聞こえている。
小さな友人に笑顔でいてもらう為にジャックができることを、ジャックはモーリスが帰ってくるまでずっと考えていた。
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モーリスはイライラと何度も舌打ちをしながら、全速力で自宅へと走って帰った。ここ数日、どうにも仕事が忙しくて、中々トレイシーの側にいてやれない。朝もゆっくりできないし、帰宅できるのはトレイシーが寝た後だ。これではトレイシーを引き取った意味がない。トレイシーに寂しい辛い思いをさせたくなくて、モーリスの家に来てもらったのに、モーリスがトレイシーに寂しい思いをさせてどうするのだ。部隊長をしている以上、責任がある立場で、どうしても仕事が忙しい。今は遠征や長期任務を断っているが、そろそろ断り続けるのが難しくなってきた。
トレイシーを兄の家に帰したくない。兄の家に帰ったら、トレイシーに構ってやらずにトレイシーをちゃんと見てやらない兄と、トレイシーを邪険に扱う義姉がいる。つい先日、義姉が男の子を出産した。跡取りができたと、兄やモーリスの両親は大喜びで、義姉も生まれたばかりの息子を大変可愛がっているそうだ。乳兄弟でもある今でも親しい使用人から聞いた。
今、トレイシーが自分の家に帰っても、きっと辛い思いをするだけだ。だから、トレイシーを帰したくない。しかし、モーリスでは、ずっとトレイシーの側にいてやることができない。短い期間限定だからと許されていたが、そろそろ仕事の方が厳しくなってきた。自分自身に苛立ってしまって仕方がない。トレイシーが生まれた時、モーリスは本当に嬉しかった。小さな小さな姪が可愛くて仕方がなかった。モーリス自身は自分の子供は望めない。女には全く勃起しないから、子供をつくるなんて絶対に無理だ。だからこそ、生まれたばかりの小さな可愛い家族が愛おしかった。
モーリスはギリギリと歯軋りをしながら、漸く着いた自宅の玄関先で急いで制服のポケットから鍵を取り出し、鍵を開けて家の中に入った。
居間の方から廊下に明かりが漏れていた。もしかして、トレイシーがまだ起きているのだろうか。
モーリスは小走りで居間へと向かい、居間に入って、驚いて目を丸くした。ジャックがトレイシーを抱っこして、ソファーに座っていた。
モーリスに気がついたジャックが、自分の唇に人差し指を当てて、静かにするようにと合図をしてきた。
モーリスは静かにジャックとトレイシーに近づいた。トレイシーはジャックに抱っこされて、規則正しい寝息を立てていた。なんだか少し目元が腫れている気がする。モーリスが無言でジャックの目を見ると、ジャックが囁くような小さな声で話しかけてきた。
「遅くまでお疲れ様です」
「あぁ。ありがとう」
「モーリス部隊長」
「なんだ」
「明日から此処に住んでもいいですか?」
「……は?」
「僕は基本的に残業がなくて、休みも決まっています。夕方には帰れるし、朝早くに出勤しなきゃいけないってことはないです。……トレイシーちゃんが自分の家に帰るまで、此処に住ませてもらいたいなぁと」
「…………」
「差し出がましいというか、余計なお節介ってことは分かっています。でも……1人は寂しい」
ジャックがトレイシーの頭を慈しむような手つきで撫でながら、寂しそうな顔で呟いた。
モーリスはじっとジャックを見つめた。ジャックがトレイシーのことを可愛がってくれているのは、よく知っている。ジャックがトレイシーを心配して、申し出てくれたことなのも分かる。正直に言えば、有り難い申し出だが、流石にジャックにそこまでしてもらうのは気が引ける。
モーリスはどうしようかと目を彷徨わせ、トレイシーの寝顔を見た。
トレイシーは多分泣いていたのだろう。いつ頃にジャックが家に来たのかは分からないので、どれだけトレイシーが泣いていたのかは分からない。
ジャックに抱っこされて寝ているトレイシーの寝顔は、とても穏やかで、安心しきっているような感じだ。
モーリスは自分が情けなくて、下唇を強く噛んだ。トレイシーを泣かせてしまった。寂しい思いをさせてしまった。既に頼りきっている気がするジャックに、更に気を使わせてしまった。軍では、部隊長だとそれなりに持て囃されているが、モーリスは無力だ。
眉間に深い皺を寄せているモーリスに、ジャックが静かに声をかけた。
「モーリス部隊長」
「……なんだ」
「お願いです。僕の小さな友達の側にいさせてください」
「……本当にいいのか?」
「はい」
「言っておくが、俺はゲイだ。軍で噂になっているのは知っているだろう。トレイシーの為とはいえ、俺の家で暮らしたら、お前も面白可笑しく噂されるかもしれねぇぞ」
「……僕もゲイです」
「……マジか」
「マジです。全力で隠れですけど。……噂されるのは、正直に言えば嫌ですけど、トレイシーちゃんが寂しいのも嫌なんですよね」
「……お前、お人好しって言われないか?」
「んーー。たまーに?」
「ジャック」
「はい」
「俺はお前に絶対に手を出さない。お前が不快なことはしない。……だから、トレイシーと俺を助けてくれないだろうか」
「はい。僕ができるだけのことをやります」
真っ直ぐにモーリスを見返してきたジャックの瞳は真剣で、モーリスはなんだか泣きたくなった。
モーリスが本当に大事に思っているトレイシーの為に、そこまでしてくれるジャックの優しさが堪らなく嬉しい。
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