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焦がれた空
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血と汚物の悪臭がする牢獄に、一人の男が鎖で繋がれていた。拷問の痕が生々しく、今も鞭で打たれ裂けた肌から血が流れている。
バルナバは寒さで痛む膝を擦りながら、水と最低限の治療の道具を持って、牢獄の中に入った。
つい先程まで拷問を受けていた男は意識を失ったままだ。
爪はすべて剥がされ、身体中に鞭を打たれている。足の健を切られているので逃げることもできない男にここまでするとは、上の者は恐ろしい。
バルナバは『怖や、怖や』と呟きながら、男が死なないように、傷口を洗い、薬を塗った。
今は意識が無い男は隣国の将軍の副官らしい。隣国とは戦中だ。
少しでも情報が欲しいのだろう。男が此処に来て10日は経つが、何も吐かないと拷問をしている軍の者達が苛立っていた。
バルナバは牢獄の管理人をしている。管理人というより、後始末係だ。死なせてはいけない虜囚の手当や死んだ虜囚の後始末をしている。昔は軍人だったが、上官殺しの汚名をきせられて、この血と汚物と死の匂いしかしない場所に閉じ込められた。バルナバは冤罪だったと後に判明したが、バルナバが此処の外に出されることはなかった。
あれから三十余年。バルナバは六十を過ぎても、まだ生きている。自害を考えたことがないでもない。だが、死ねなかった。
日の差すことのない地下で、拷問を受ける者達の悲鳴を聞きながら、死にゆく者の手当をして、死体を処理して、ただ惰性で生きている。
男の血で濡れた首元を水で濡らした布で拭ってやっていると、男が低く呻き、ゆっくりと目を開けた。
男の瞳はいつか見た澄んだ青空のような色をしていた。
「痛いだろう。さっさと適当なことを吐いちまえよ。楽にしてもらえるぞ」
バルナバは気がつけば、そう口に出していた。
男は虚ろな目でバルナバを見て、笑うように口を歪めた。
バルナバは今日も男の悲鳴を聞きながら過ごし、拷問が終わると、水等を持って男の元へ向かった。
汚く伸びた髭で分かりにくいが、男はまだ四十にもならないだろう。バルナバの息子が生きていれば、このくらいの歳の筈だ。今は見る影もないが、よくよく男の顔を見れば、端正な顔立ちをしていると、なんとなく分かる。
バルナバがほんの少しだけ丁寧に手当をしていると、男が掠れた声を出した。
「……みず……」
「ん?水が飲みたいのか。すまねぇなぁ。明日の朝まで水を飲ませるなって言われてんだ。明日の昼にはたらふく飲めるらしいぞ。水責めでな」
「……そうか」
「何で何も言わないんだ?何でもいいから言えば楽になれる」
「……仲間は裏切らない」
「その仲間が裏切ることがある」
バルナバは皮肉気に口を歪ませた。バルナバは仲間だと思っていた男に裏切られて此処にいる。『仲間』だなんだと綺麗事を言っても、人間、裏切る奴は裏切るのだ。
バルナバは男の瞳をじっと見た。もう記憶の中にしかない青空だ。この瞳が見れなくなる日も恐らく遠くない。
バルナバはなんだか勿体無いと思った。思ったところで、どうにもならないのだが。
「おめぇさんの目は綺麗だね」
「…………」
「昔見た空の色によく似ている。嫁と初めてデートした日が、よく晴れていて、そんな色だった」
バルナバはろくに反応もしない男相手に、手当をしながら、昔の話をしていた。とりとめのない昔話だ。
子供の頃の話、嫁の話、息子の話、好きだった本の話、常連だった飲み屋の話。
バルナバは男の手当をする度に、そんな話をするようになった。自分でも何故こんな話を男に聞かせているのか分からない。だが、久しぶりにほんの少しだけ『人間』に戻ったような気がしていた。
男が囚えられて二週間程過ぎた。バルナバは拷問を終えた男の手当をしながら、最後の昔話をした。
バルナバが此処にいる理由だ。男はバルナバの話を聞き終えると、静かな目でバルナバを見て、掠れた声を出した。
「俺の国に来るか」
「ははっ!行く前に死んじまうよ」
バルナバは嬉しくて笑った。
その日の夜更け、男は男の祖国の者達によって秘密裏に救出された。
バルナバは腹に刺さった剣を抜いて、ボソッと呟き、笑みを浮かべた。
「最後に俺の空が見れたなぁ」
男はバルナバを殺すなと言ってくれた。バルナバはわざと男の仲間にナイフを向けた。案の定、男の仲間はバルナバを剣で刺した。
バルナバは朦朧とする意識の中で、恋い焦がれた空の色を思い浮かべ、笑うように小さく口を歪めた。
全部上手くいった。バルナバの空は、この地獄から救われた。牢獄そのものの鍵を開けっ放しにしていたのはバルナバだ。自国を裏切った罪悪感などない。ただ、あの空は此処には似合わない。
だから、見逃した。最後にあの空の色が見たくて、もう何もかも終わりにしたくて、バルナバはわざと男の仲間達の前に姿を現した。
バルナバはごほっと血を吐きながら、年甲斐もなく焦がれてしまった空の色を思い浮かべて、彼の幸福を祈った。
(おしまい)
バルナバは寒さで痛む膝を擦りながら、水と最低限の治療の道具を持って、牢獄の中に入った。
つい先程まで拷問を受けていた男は意識を失ったままだ。
爪はすべて剥がされ、身体中に鞭を打たれている。足の健を切られているので逃げることもできない男にここまでするとは、上の者は恐ろしい。
バルナバは『怖や、怖や』と呟きながら、男が死なないように、傷口を洗い、薬を塗った。
今は意識が無い男は隣国の将軍の副官らしい。隣国とは戦中だ。
少しでも情報が欲しいのだろう。男が此処に来て10日は経つが、何も吐かないと拷問をしている軍の者達が苛立っていた。
バルナバは牢獄の管理人をしている。管理人というより、後始末係だ。死なせてはいけない虜囚の手当や死んだ虜囚の後始末をしている。昔は軍人だったが、上官殺しの汚名をきせられて、この血と汚物と死の匂いしかしない場所に閉じ込められた。バルナバは冤罪だったと後に判明したが、バルナバが此処の外に出されることはなかった。
あれから三十余年。バルナバは六十を過ぎても、まだ生きている。自害を考えたことがないでもない。だが、死ねなかった。
日の差すことのない地下で、拷問を受ける者達の悲鳴を聞きながら、死にゆく者の手当をして、死体を処理して、ただ惰性で生きている。
男の血で濡れた首元を水で濡らした布で拭ってやっていると、男が低く呻き、ゆっくりと目を開けた。
男の瞳はいつか見た澄んだ青空のような色をしていた。
「痛いだろう。さっさと適当なことを吐いちまえよ。楽にしてもらえるぞ」
バルナバは気がつけば、そう口に出していた。
男は虚ろな目でバルナバを見て、笑うように口を歪めた。
バルナバは今日も男の悲鳴を聞きながら過ごし、拷問が終わると、水等を持って男の元へ向かった。
汚く伸びた髭で分かりにくいが、男はまだ四十にもならないだろう。バルナバの息子が生きていれば、このくらいの歳の筈だ。今は見る影もないが、よくよく男の顔を見れば、端正な顔立ちをしていると、なんとなく分かる。
バルナバがほんの少しだけ丁寧に手当をしていると、男が掠れた声を出した。
「……みず……」
「ん?水が飲みたいのか。すまねぇなぁ。明日の朝まで水を飲ませるなって言われてんだ。明日の昼にはたらふく飲めるらしいぞ。水責めでな」
「……そうか」
「何で何も言わないんだ?何でもいいから言えば楽になれる」
「……仲間は裏切らない」
「その仲間が裏切ることがある」
バルナバは皮肉気に口を歪ませた。バルナバは仲間だと思っていた男に裏切られて此処にいる。『仲間』だなんだと綺麗事を言っても、人間、裏切る奴は裏切るのだ。
バルナバは男の瞳をじっと見た。もう記憶の中にしかない青空だ。この瞳が見れなくなる日も恐らく遠くない。
バルナバはなんだか勿体無いと思った。思ったところで、どうにもならないのだが。
「おめぇさんの目は綺麗だね」
「…………」
「昔見た空の色によく似ている。嫁と初めてデートした日が、よく晴れていて、そんな色だった」
バルナバはろくに反応もしない男相手に、手当をしながら、昔の話をしていた。とりとめのない昔話だ。
子供の頃の話、嫁の話、息子の話、好きだった本の話、常連だった飲み屋の話。
バルナバは男の手当をする度に、そんな話をするようになった。自分でも何故こんな話を男に聞かせているのか分からない。だが、久しぶりにほんの少しだけ『人間』に戻ったような気がしていた。
男が囚えられて二週間程過ぎた。バルナバは拷問を終えた男の手当をしながら、最後の昔話をした。
バルナバが此処にいる理由だ。男はバルナバの話を聞き終えると、静かな目でバルナバを見て、掠れた声を出した。
「俺の国に来るか」
「ははっ!行く前に死んじまうよ」
バルナバは嬉しくて笑った。
その日の夜更け、男は男の祖国の者達によって秘密裏に救出された。
バルナバは腹に刺さった剣を抜いて、ボソッと呟き、笑みを浮かべた。
「最後に俺の空が見れたなぁ」
男はバルナバを殺すなと言ってくれた。バルナバはわざと男の仲間にナイフを向けた。案の定、男の仲間はバルナバを剣で刺した。
バルナバは朦朧とする意識の中で、恋い焦がれた空の色を思い浮かべ、笑うように小さく口を歪めた。
全部上手くいった。バルナバの空は、この地獄から救われた。牢獄そのものの鍵を開けっ放しにしていたのはバルナバだ。自国を裏切った罪悪感などない。ただ、あの空は此処には似合わない。
だから、見逃した。最後にあの空の色が見たくて、もう何もかも終わりにしたくて、バルナバはわざと男の仲間達の前に姿を現した。
バルナバはごほっと血を吐きながら、年甲斐もなく焦がれてしまった空の色を思い浮かべて、彼の幸福を祈った。
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