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〈一幕 直美〉第2話 迷道
2-1
噂なんていい加減。だが可能性の一つだと考えれば、安易に切り捨てられない。こと、我が子に関わるならば。その気持ちは理解できなくもなかった。
「最近、不審者がうろついているんですって」
「白っぽいコートを着て、眼鏡をかけて」
「園のフェンスから少し離れた場所で、じっとうかがって」
「子どもたちが怖がっていて」
美雪が通う幼稚園は個人登園だ。毎日、徒歩十分の距離を送り迎えしなくてはならない。そして、正門脇で開催される井戸端会議にも出席しなくてはならなかった。情報収集のためか、それとも仲間外れを恐れているのか、あるいは何かの空腹感を埋めるためなのか――寒さに震えながらも、母親たちは皆、律儀に参加している。もちろん、私もその一人ではある。だが最近は――特に香世子と再会してからは――、退屈でしようがなかった。
「先生方は何て仰ってるんですか?」
加熱しかけた議論に白けた一言を投げ入れる。それは沸騰した鍋の中、いささか多すぎる差し水となった。
顔を見合わせる母親たち。どうやら、子どもが見たと騒いでいるだけらしい。以前にもあったのだ。警察まで呼んで、結局、誰かの保護者だったということが。疑った人も疑われた人も後味の悪い捕り物だった。
嘘をついているわけではないのだろうけれど、良くも悪くも子どもは大袈裟で思い込みが激しい。狼少年ではないが、噂に踊らされて、いざという時、いい加減な対応をとられても困る。――もっとも、こんな田舎の町で何が起こるというわけでもないけれど。私はこっそり嘆息した。
なあんだ、という気抜けた空気が散満し、次の話題に移ろうかというその時。
「……あら、うちの子は美雪ちゃんから聞いたと言ってましたよ」
と、美雪と同じりんご組の女の子、まりちゃんの母親がおっとりと微笑んだ。
「知らない人を見たって本当?」
午後になって美雪を迎えに行った帰り道、私は隣を歩く小さな頭に呼び掛けた。
左右に田畑が広がる細い道。車が通る心配も無く、ゆったりと歩みを進める。毎日の送り迎えは大変だが、娘と落ち着いて話ができる大切な時間でもあった。
美雪は、きょとんとした表情で私を見上げた。冷気にさらされて、彼女の頬は熟した林檎のように赤い。その頬を膨らませ、唇を尖らせ、
「しらない人じゃないよ。みゆき、しってるもん」
なんだ、やっぱり。私は安堵とも呆れともつかぬ嘆息を漏らす。誰かの保護者が、見慣れぬコートや眼鏡を掛けて幼稚園にやって来た、というぐらいのことなのだろう。明朝にでも、お母さん方に訂正しなくては。だが。
「おきさき様、みゆきに会いにきたの」
「…………?」
「七つの山をこえて、やってきたんだよ」
美雪はさも嬉しそうに笑う。私は眉根を寄せた。
「本当に、知らない人がいたの?」
それとも、お気に入りの物語と現実をごっちゃにしているだけなのか。この間も窓の外に人がいると言っていた。あれは私も美雪も寝ぼけているのだと思っていたが……
小さな丸い肩を掴もうとするが、美雪はいやいやして私の手を振り払う。
「みゆき、しってるってば!」
「ちょっと、美雪」
小さな背中には羽でも生えているのか、美雪は軽やかに駆け出す。いや、ぴょこぴょこと黄色い通園帽を揺らす姿は、どちらかといえばヒヨコか。
鉛色の空、アスファルト、剥き出しの田。色を失った灰色の風景の中、ただ美雪だけが春を先取りしたように明るく、私の目を射抜いた。
◇
『とうとう、いいことをおもいつくと、お妃は、としとった物売りの女にみえるように、おけしょうをし、みなりをかえて、お妃だとは、だれもわからないようなすがたになりました。このかっこうで、お妃は、七つの山をこえ、七人の小人の家へやってくると、ドアをたたいて、声をかけました……』
白い影が窓の外に立っている。
こちらをじっと見つめている。ずっと動かない。ぎゅっと身を縮めている。
その面には、怒りや怯え、嫉妬は見当たらない。
ただ無言のまま、無表情に、無心に、私を見上げて――
貴女は、何を訴えているの……?
「どうしたの?」
「え?」
「ぼんやりして。もしかして忙しかった?」
「ごめん、違うの。ちょっと考え事」
黒々とした瞳が、ごく近い距離で私を覗き込んでいた。我に返って、慌てて手を振ると、香世子は、そう、とあっさり身を離す。こちらの心をいともたやすく波立たせる一方、彼女の眼差しは湖面の静けさを湛えたまま。それに少しのくやしさを感じないでもない。
幼稚園で不審者の話を聞いてからというもの、思考が飛びがちだった。何もこんな時に思い出さなくても良いものを。胸の内で自分を叱り付けながら、未だ不思議そうな面持ちの香世子に笑ってみせる。
彼女とは週に一、二度ほどの割合で会うようになっていた。場所は私の家だったり、買い物がてらショッピングセンター内の喫茶店だったり、色々だ。今日は時間に余裕があったので『Sun room』まで足を伸ばしていた。
「ご主人に怒られた? しょっちゅう出掛けて浮気でもしてるんじゃないかって」
「それこそ、まさかよ。うちの夫は私……というか、家のことに無関心だから」
夫は婿養子ではないが、実質的に私の家に入ったようなものだ。私が二人姉妹の長女なので、将来的には私たち夫婦が両親の面倒をみなくてはならない。その未来への貸しに、今ぐらいは好き勝手にさせてくれ、という思いがあるのだろう。その気持ちは理解できなくもなく、私もあまり口うるさくしていない。無関心でいられるうちが華なのだ。
ふと気付く。そういえば、香世子から届いた年賀状の宛名には、旧姓ではなく、結婚後の姓が記されていた。一体、どうして知ったのだろうか。まあ、表札を見ればわかることかと、尋ねるまでもなく納得する。
「白雪姫の王様みたい。男の人はつくづく駄目ね」
香世子は長い睫毛を伏せて、苦笑を漏らした。お妃の嫉妬にも、白雪姫の危機にも気付かなかった、夫であり、父であり、一度も姿を現さなかった男。
「何が起こっても動かない。舞台にすら上がらない。うちの父もそういう人だわ。学者バカというのかしら。だから、あの人のことにも気付かなかった」
――あの人。香世子にしては珍しい、どこか突き放した口調。おそらく彼女の継母を指すのだろう。
白いお城のお妃さま。二十年以上、近所に住んでいるはずなのに、これといった印象がない。ここ数年は姿さえ見掛けていない気がする。遠目に霞んだ細く美しい人。妙な話だが、どことなく今の香世子に似ていたかもしれない。
ついでというわけではないが――私は前々から気になっていたものの、なんとはなしに訊きそびれていた問いを思い切って投げかけた。
「……香世子。実のお母さんは?」
「私を生んですぐに他界したわ。私は十歳まで母方の祖母に預けられて、父が再婚してから呼び寄せられたの」
――結局、一年で祖母の元に戻ってしまったけれど。
香世子は小さく肩をすくめた。それが二十三年前、私の前から姿を消した時のことなのだろう。実質、自分を育ててくれた祖母も二十歳の時に亡くなったと、香世子は語る。だからかしら、と彼女は続けた。
「いわゆる家族ってよくわからないの。離婚したのもそれが一因なのかもしれないわね」
自嘲が含まれた言葉。想像した以上に、香世子は家族に縁が無く、孤独な人生を歩んでいた。私はなんの配慮も無しに彼女を自宅に招き、家族の愚痴を延々とこぼしていたことを恥じ入る。
「ごめん。全然、知らなくって」
「いやだわ、変に気を遣わないで」
香世子は軽く苦笑する。オーダーしてあったロイヤルミルクティをポットからカップに注ぎ、いつものソルトケースを軽く振りながら、
「でも、羨ましいのは事実かしら。美雪ちゃんは可愛いし、お母さんは明るいし。あなたとお母さんのやりとりって面白いわよね。お互い遠慮がなくて」
「やっぱり難しい? お継母さんとは」
「私もあの人も、人付き合いが得意な方じゃなかったから」
――でも、昔よりはうまくなったと思うわ。
それきり、彼女は白磁に唇を寄せて黙り込む。
指定席となりつつある窓際のテーブル。冬の陽射しに、彼女の耳たぶに乗せられた真珠のピアスが柔らかな光を照り放っていた。シルクのブラウスに、ライトグレイのマーメイドスカート、ターコイズブルーのストール。椅子の背にはいつもの白いコートが掛けられている。
ああ、なんという違いだろう。幼稚園の前でたむろしている主婦たちとはまるで異なる装い。この町において、奇跡のようなその白さに、私は陶然とした。
ふと、香世子はカップを下ろし、上目遣いでうかがうように呟いた。
「……また、あなたのおうちに遊びに行っても良い?」
断られまいか、気後れした子どもそのままの仕草が、私を煽り、掻き立て、揺さぶる。
遊びに行っても良い? そんなの決まっている。
「……いつでも」
いつでも大丈夫。いつでも来て。いつでも待っている。
二十年前のあの日から、ずっとずっとずっと。
溢れそうな気持ちを隠し、想いの何百分の一だけを言葉にして……私はわずかに頷いた。
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