41 / 45
〈終幕 美雪〉第10話 証明
10-3
駆け出すといっても、左足はギプスのつっかけ――サンダル履き。大した速度が出ないとわかっていたが、それでも精一杯に急ぐ。
「香世子さん!」
石段の下へと叫ぶ。けれど雪に吸い込まれてしまうのか届かない。石段を降り、ハイヤーが進んだ方向へと曲がる白い影が、辛うじて見て取れた。
「待って、置いてかないで、」
受験生に〝滑る〟は鬼門。注意を払ってしかるべき。一段一段を慎重に降りる。でもはやくはやくはやく。だっておいつかれてしまったら。
石段の踊り場に差し掛かった時、それは起こった。踊り場は広いけれど、一旦、石段が途切れて土がむき出しになっている。降り立ったと思った瞬間、予測していたよりも前へと左足が出て、その拍子に留め具が外れてサンダルが飛んでいってしまう。当然バランスを崩し、重力に反して体が一瞬浮いたと思った刹那、急速に尻から地面に引き寄せられた。そのまま尻と腰を強打し、呼吸が止まる。
「……あ、」
あまりの痛みに、呻きが漏れた。白い邸で階段を滑った時同様、視界に黒い紗がかかる。けれど、幸いというべきか、尻から落下したということ、地面が土だったこともあり、今回は単なる打ち身で済みそうではあったが。
仰向けのまま痛みを堪えていると、制服のスカートからじわり冷たく湿った感触が這い上がってきた。行きに香世子さんが教えてくれたぬかるみの上に落ちたのかもしれない。起きあがろうと手をつくが、腐った落ち葉にぬるりと滑る。泥に浸かったスカートとコートが重い。こんなことをしている間に、追いつかれてしまったら。
――あれは手負いの獣。手負いの獣は危険だ。死に物狂いで喰らいついてくる。
サンダルはどこに消えたのだろう。仰向けの体勢のまま、腹筋の要領で頭を少しだけ浮かせて可能な限りを見渡すが、見当たらない。この際、ギプスのまま歩くのも已むを得ない。
枝葉をすり抜けた雪が睫毛に積もり、視界を白く澱ませる。沈殿する雪に埋もれ、窒息する錯覚を覚えた。
左右に身じろぎして、まだしも痛みが少ないほうへと身体をひねり、上半身を起こす。早く早く早く、立ち上がらなけりゃ。
と、ふいに辺りが暗くなる。もう日暮れ? 夜が来て、狼がやってきた? 背筋に怖気が走る。叫び出しそうになる、瞬間。
「サンダル、下まで落ちてきていたわよ。ずいぶん元気の良いシンデレラだこと」
ぼてり、と、いとも無造作に。蹲ったすぐ脇、男性用のいかついサンダルが落とされた。
顔を上げれば、こちらを見下ろす香世子さんがいた。戻ってきてくれたのだろう。安堵に緩みそうになるが、同時に不可思議だった。私は耳を澄ませていた、狼の気配を察知できるよう。靴音は聴こえなかったはずなのに。
降りしきる雪を防ぐためだろう、香世子さんは白いマントのフードを被り、白一色で身体を覆っていた。だから余計に唇の紅が鮮やかだった。ちらり垣間見えた口腔内のキャンディーもなお艶めいて。
「新森茉莉さんとはお話しできた?」
香世子さんの問いに、ぶんぶんと首を横に振る。
「……帰る。香世子さんと一緒に私も帰る!」
「どうして? さっき指切りげんまんしたでしょう」
また、あの眼だ。私を縫い止める漆黒の兎の眼差し。気圧され、言い澱むけれど、なんとか一息で言い切る。
「まだ心の準備ができてなくて。受験が終わったら必ず話すから、必ず。でも今日は、香世子さんと帰る!」
「あらあら」
駄々っ子の言いように、香世子さんは苦笑する。その様子に安堵した。きっと多分、私のわがままは聞き入れられる。今まで通りに。
彼女が纏う処女雪で織り上げたかのカシミアを掴もうと、手を伸ばした。ひらり、風にひるがえってそれはあと少しのところで指をすり抜ける。でも、あともうちょっと――
「だめよ」
半歩、香世子さんは後ろへと下がった。さりげなく、優雅に、でも確実に。ワルツのステップ、手が届かなくなる距離分を正確無比に踏んで。呆気にとられて見上げる私をとても優しげな声が撫ぜる。
「一緒には帰れないわ」
「なんで、」
「だって美雪ちゃんときたら泥だらけ。そんな汚らしい格好では、ハイヤーに乗せられない」
――お前はドレスもないし、踊れもしないじゃないの。
舞踏会へ行きたいとの懇願をはねつけるシンデレラの意地悪な継母を思わせる台詞だった。表情は柔和に微笑んでいるのに。そのアンバランスさに混乱させられる。
「転んでしまったのね。可哀想に痛かったでしょう。でも、なにをそんなに急いでいたの?」
口調はあくまで甘く優しく、慈愛に満ちている。だのに、手は差し伸べられない。距離を保ったまま、彼女はただ私を見下ろしていた。
「まるで飢えた狼に追われていたみたいに」
雪風に嬲られた髪がぴしりと頬を叩く。
危険だと直感した。
逃げなければ、本能が囁く。けれど、同時に私の本能は美しい歳上の人から逃げられない。香世子さんが私を見つめる。私だけを。その、恍惚に逆らえない。
「……ねえ。美雪ちゃん、どうして神社から逃げ出したの?」
どくり、と血の塊が通っていくように、こめかみの辺りが熱く脈打った。
彼女は降りしきる雪の下、暴き出そうとする。耳を塞いでも、首を振っても、頭を覆っても、透き通った声音はどこまでも追ってくる。
――でも。香世子さんは狼ではない。だったら。
「逃げ出したわけじゃない。まだ、心の準備ができてないだけ」
私は年上の女性を見据え、もう一度繰り返した。未だぬかるんだ地面から立ち上がれない。グリム童話『マリアの子』――処女マリアと相対する娘のようでもあった。
聖母であるマリアは貧しいきこりの夫婦の娘を引き取る。娘は天国で結構な暮らしをさせてもらうが、ある時マリアとの約束を破り、追求され、とうとう天国から追い出されてしまうのだ。
けれど、私は嘘なんかついていない。だから香世子さんから目を逸らさない。
歳上の美しい人はわずかに苦笑する。そして何事か呟いた。血は争えない――聞き違いかもしれない。文脈が読めない。意味がさっぱりわからないから。
「新森茉莉さんと気まずいのはわからなくもないわ。だけど、そんなにも気まずくなったのはどうしてかしら?」
それこそ秋から繰り返し話してきたはずだった。幼馴染である茉莉が三年になって、クラスの女子とトラブルを起こし、孤立してしまった。私は茉莉が引っ越すまでその事態の深刻さに気付かなかった。親友だったにも関わらず。
「だから、」
「美雪ちゃん、新森茉莉さんに嘘をついていない?」
再度説明しようとするこちらの言葉を、さらりと彼女は遮った。
「例えばそうね。十五の女の子なら、恋愛とか、友人とか。でも、やっぱりこの時期にふさわしいのは、進路かしら」
――志望校について、とか。
目を見開く。香世子さんは昔流行っていたドラマの風変わりな刑事のように、軽く腕組みし、人差し指を頬に当ててみせた。
処女マリアは約束を破った娘を問い詰めるが、娘は否としらっばくれ続けた。抜き差しならないところまでくると娘はとうとう嘘を告白して、許される。けれど、私は嘘なんかついていない。許される必要なんかない。だから、このやりとりはまったく益がない、無効だ。
気を遣わせるのが嫌だから、N西女に進路変更したことを言ってないだけ。誰の他でもない香世子さんからそれを嘘と言われるのは心外だった。理解してくれていると思っていた。私は衝動のまま叫ぶ。なぜなら、これは正当な怒りだから。
「違う、嘘なんかついてない!」
「ええ、そうね」
こちらの剣幕を受け流すかのように香世子さんはあっさり頷く。
「〝嘘〟ではない。でも、N西女に変更したことは伝えていない。けど、新森茉莉さんが引っ越す以前、どの高校に進学するか二人で相談しなかった?」
「…………」
「例えば、二人で一緒にT高校に通おうね、とか」
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。