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しおりを挟むやめて、それ以上言わないで——
そこは、開けないで——
青葉の目が懇願するように海途を見る……。
「あの日、俺がちゃんと待ち合わせ時間に間に合ってたら……青葉はあんな事件に巻き込まれなかった。そうしたら……今青葉はこんな生活してないかもしれない。オークションまでっ……出てっ……」
苦しげに絞り出される海途の声が、青葉が築き上げた壁をガタガタと大きく揺らし始める。
「……そんなの分からないよ。間に合っててもヒートを起こして……橘くんともし何かあったら……橘くんの親御さんが、良く思うはず無いし、結局は私達が一緒に居ることは無かったと思う。私がΩだからこうなってるだけで……誰のせいでも無い」
青葉の体は微かに震える。
動揺を隠すために、はっきりと声を出すように努めた。
海途は表情を隠すように、大きな手で自身の顔を覆う。
その指は、青葉にはよく見覚えがあった。
ピアノを弾く、海途の指……
長く骨張っていて、それでいて滑らかで優しい音のする……——
10年前、何度も目で追った、そのままの指を、青葉はじっと見つめる。
「あいつらがあんな事しなければ……俺が時間通りに待ち合わせ場所に居て対処出来れば……違った未来があったかもしれない……。
言ってよ、青葉……教えてくれよ……何だって……良いから」
海途の顔は、青葉からは見えない。
ただ、その声は、出来る限り落ち着いて青葉に伝えようとしているのは青葉には分かった。
海途は、答えを探している……――
10年前のあの日から
「……もし、とかもう考えなくて良い。 変えられないし、時間も戻せない……」
本当は自分だって何百回とそんな想像をした、今でさえ、呆れる程——
そう海途に言ったら、どうなるのだろう……——
やり直せたら、やり直せるなら……夢にまで見る位に、その、もし——を青葉も本当は想像せずにはいられない。
だが海途が自身を責めていることに、青葉は少し驚いた。
あの時間に合っていたら……——
いや、海途が間に合っても、間に合わなくても……二人は一緒に居られなかったと、青葉はとっくに結論付けていた。
もしかしたら、今よりもっと取り返しのつかない状況にさえ、なっていたかもしれない……——あの頃の青葉がそれに耐えられるとは、今の青葉にさえ思えなかった。
情欲に燃えて本能に抗えなかった若いカップルの行く末なんて……
家族も環境も人生も、どちらにせよ、全ては180°変わってしまったはずだ——
きっと、雨は……嫌いなままかもしれない……—
本当なら、何も起こらなければ、二人でかき氷を食べて夏休みの話でもしていたはず……——
どこへ行く?何をする?そんな他愛も無い話をしていただろう。
ヒートさえ、来なければ……
「……雨、俺も大嫌いだ。だから……予備の傘手放せない。あの濡れる感触も、音も全部……あの日から……。
……なのに……平気なフリすんなよ」
顔を上げた海途は、酷く顔を歪めている。綺麗なアーモンド形の眼は細められ、光が多く入っているように青葉には見えた。
海途が青葉に傘を貸そうとした日——
青葉は差し出された傘を置いて来た。
自分は平気だ——
雨が大嫌いでも、濡れたって大丈夫——
私は、大丈夫——と青葉は何度も何度も自分に言い聞かせて来た。まるでトラウマも何も無い、暗い過去も苦しみも無い、そんな人間のフリをして。
そんなフリをしてれば、自分は強い人間だと思えたから——
周りと同じ、普通の人間だと……——
そうやって青葉は10年間、生きてこれた。
「……あの後、一度だけ橘くんの家行ったよ」
青葉の突然の告白に、海途の目は一段と大きくなる。
「引っ越すって聞いて。……貯めたお小遣い叩いて、電車乗って、何時間も掛かった。もう、引っ越しちゃった後だったけど……」
青葉は少し顔を伏せ、据わった目のままフッと笑みを浮かべて10年前の記憶を呼び起こす。
あの日、焦る気持ちを抑えて電車に乗っていた——
駅まで遠くて汗びっしょりで……遠い県外から直通はなくて鈍行を乗り継いで……
その頃には家庭内に不安な空気が漂って、ピリついてて——
ただ、逃げたかったのかもしれない——……
楽しかった頃の記憶が、確かに存在してたと思いたかった。
だから、電車が酷く遅く思えて苛立った。
早く、この目で確かめさせて——と青葉は電車の窓の外だけを見ていた……
二人の世界が消える訳無い——
自分で目を背けた癖に、青葉は必死になって海途の家を目指していた。
一目でも、その姿が見れたら……——
何かが、変わるかもしれない——
違う未来が、確かに在るかもしれない——そんな僅かな独りよがりの期待を持って……
「……何を求めてたんだろうって……今思っても恥ずかしい。ただの学生に出来ることなんて……何も無い。どうする事も出来ないのに……私がΩだから、それが全部原因。それだけだよ……」
青葉も、本当は分かっていた。
現実は映画じゃ無い。
もっと残酷で、容赦無く、決して越えられない壁は数えきれない程存在する。
いくら足掻いても、変えられない。
だから、海途には、あの時のままの青葉を覚えていて欲しかった。
それしか、もう出来る事は無い——と青葉は海途へ別れの言葉さえ告げずに海途の前から消えた。
Ωだと分かる前の自分のまま、それを海途に仕舞っておいて欲しかっただけなのに……——
けれど、もう海途は10年後の青葉を見てしまった。知ってしまった——
一番見られたく無かった人に、知られてしまった——知られてしまう位なら、全部忘れて欲しかったのに……——
顔は伏せたまま、自らを嘲笑う乾いた笑みが、またふっと漏れる。
あの頃の青葉は、海途の中で確実に過去に変わってしまった
もう存在しない、星川青葉の面影も無く陰鬱で、見窄らしくて惨めな、青葉が大嫌いな青葉に……
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