私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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「……」
 
 いつからか降り出した雨の、ひんやりした空気が締め切った海途の部屋へ伝わり始めていた。
 
 
 
 永瀬が何を言いたいか、分かる……——
 海途のスマートフォンを握る手に自然と力が籠った。
 
 
 そこまで詳しく青葉の様子を伝えるのには、必ず理由がある。
 どんな情報でも良いと四方を歩き回っていた海途相手に、いくら晴臣が親切心を出していたとしても——
 分かるだろ?——とも晴臣は海途には言わない。
 
 それが旧友故の、せめてもの気遣いなのかもしれない、と海途は思った。
 
 
 これ以上、青葉を苦しめるわけにはいかない、そう考えれば、当然だ——
 と海途も理解した。
 
 もし、また10年後の海途が目の前に現れれば、青葉はもう一度出口の無い問いの中へ閉じ込められてしまう。
 二人で、ようやく終わらせられた過去が、生々しい経験と共に蘇ってしまうかもしれない——
 癒されないトラウマとややこしく複雑に絡み合った鎖の中で、答えを導き出そうとすればする程、青葉はまた10年……もしかしたら、それ以上苦しむだろう。
 
 
 ほんの少しのきっかけが——
 またいとも容易く青葉を底の見えない暗闇へ突き落とす——
 
 
 今回と同じ事が起きない保証は無い。
 
 また……青葉が、もし——
 
 そんな身を裂く不安に駆られても、出来る事なぞ何も無いのも知っていた。
 
 
 海途はαで、青葉はΩ——
 それは変えようが無い。
 
 
「……俺が……αの俺が、青葉にこれ以上……」
 
 
「——橘が青葉をどう思ってるかなんて、俺とっくに知ってるんだけどさ」
 
 海途の言葉を、晴臣は不意に遮った。
 
 
 
「だから……それを伝えられない苦しみも、ある程度は分かるつもり。
 いや、まぁ俺と橘の立場は色々と違うけどさ……。伝えることも、認める事も出来ないけど。……そうするしか、俺も青葉の側には居られないから」
 
 晴臣の声は、先ほどと打って変わって溢れ出そうな感情を、それでも最大限滑らかに紡いで発せられているようだった。
 
 
 
 ——海途は、α故青葉のトラウマを癒やすことは叶わない。
 それは青葉がΩである事を受け入れ切れない以上明白だ。
 
 αともΩとも明かさぬ内に強烈な恋に落ちた若い2人——
 純粋な思いが通じ合ったのか、それとも性質故に惹かれ合ったのか、それさえ明確な根拠を示せない。
 
 青葉の言う〝あの頃〟のままの2人を、お互いに閉じ込めておければ……——
 αでも無くΩでも無く、ただ2人にしか分かり合えない時間があったと信じれれば……——
 
 いや、そう海途も信じたかった。
 
 出来ないと分かっていても、ずっと探していた。無数の砂の中にあるたった一粒を探すような、途方もないものに執着していた。けれど、いつしか自分はそれを止め、何食わぬ顔で生きてこれたのだ。
 
 
 青葉に再会してから、何も告げず先に手を離す方がどれほど身を削られ覚悟が必要なのか、海途には分かった。
 
 青葉は、海途がとっくに諦めたものをいまだに探していた。
 
 だから、やっと2人で結末を見届けれたのに……——
 
 今の青葉は記憶を無くし、混乱と絶望の隙間にある微かな希望や理想に狼狽え心身を消耗し続けているだろう。
 
 
 
 海途というトリガーが現れたら、一体次はどんな事が起こるか……
 そのリスクは取れない——
 海途も、晴臣と同じ認識だった。
 
 
 
 晴臣は、誰よりも青葉の近くに居る。
 それこそ幼い頃から現在に至るまでの青葉を知る唯一の存在だ。
 けれど、晴臣が抱いている想いをもし青葉に告げれば、関係がすぐに崩れるのは明白だった。
 少しでもリスクがあるなら、距離が離れてしまうなら、晴臣は喜んでそんな想いに蓋をした。消えてしまった青葉が、突然目の前に現れた時、晴臣はもう絶対に青葉を失うわけにはいかないと決めたのだ。
 
 けれど、もし自分がαなら……——
 変えられた未来もあったかもしれない——
 青葉の気持ちを無視して、青葉の隣で晴臣にそんな思いが過ったのは一度や二度では無かった。
 
 もし、Ωの苦しみから解放出来るなら——青葉が昔のように屈託ない明るさを取り戻せるかもしれない——
 
 そんな現実離れした妄想を、晴臣は無理に止めもしなかった。
 それは、あらゆる意味で、決して叶いはしない——
 
 いつも、青葉の隣に居たのは……——
 晴臣は、それをとうの昔に知っていた。
 
 
「……青葉は自由に生きて、ただ、一緒に居たいやつと、一緒にいるだけで良いのになっ……」
 そうポツリと溢した晴臣には、かつての青葉と海途の姿がはっきりと目に浮かぶ。
 
 
 どんな景色の中でも、その場所だけは内側から発光するように柔らかで、けれど誰も入り込めない空気を纏っていた——
 
 妬みも悔しさも、正直どうでも良くなる——
 
 それは、幼い頃から知る青葉が、晴臣の知らない顔で、この上なく幸せそうに笑っていたから——
 
 青葉の屈託の無い笑顔と、それを見て目尻を下げ、照れ隠しをするようにして口角を上げる海途——
 
 あの場所に、2人がああしている姿に、晴臣もなぜか釣られて顔が緩んだ。叶わないと知っていても、それで良いと思った——
 
 お互いを見つめる二人のその光景が、余りに美しく思えて、ずっと見ていたかったから……——
 
 
 
 
 
「俺は……青葉に生きてて欲しいから。
 俺は、それでも、生きてて欲しいんだよ……」
 
 晴臣の声が、意図せず小さく震える。
 
「……分かってるよ、永瀬」
 
 それ以上、海途は何も言う事が出来なかった。晴臣が、それでも海途の気持ちを汲んで自身を気遣ってる事にも触れられない。
 
 
 自分が青葉の人生と、代われる訳もない癖に——ただ生きて、と海途は青葉に真正面から言えるだろうか。 
 
 αがΩに言える言葉じゃない——
 
 けれど、もし伝えられるなら、海途は青葉に伝えてみたかった。
 
 もう大丈夫
 何も心配しなくて良い
 
 
 俺が……——
 
 10年前も、もし、そう言えたなら……——海途は一瞬目をギュッときつく閉じる。
 
 
 
 
 
 
〝橘くん!〟
 
 背中越しに、海途を呼ぶ10年前の青葉の声を、海途は今も鮮明に覚えている。
 白い肌に、薄ら赤くなった頬——
 瑞々しく弾けるような笑みを浮かべて、艶やかな長い髪を揺らし、海途が振り返れば、青葉はいつも真っ直ぐ海途を見ていた。
 
 
 もし、戻れるのなら——
 あの細く華奢な体を、躊躇なく抱き締めに行く——
 
 恐れずに、ただ、真っ直ぐ——
 
 
 救い様の無い現実を、そうやって未だ過去のやり直しで慰めている。
 
 
 何をすれば、これから先の未来が変えられるのか——
 
 どんな代償を払えばいいのか——
 
 決して、全ては手に入れられない——
 
 自分はやはり、与えるので無く、奪うことでしか青葉に手を伸ばす事が出来ない——
 
 
 この体に流れる血は、
 どちらか一つしか、選べない——
 
 
 徐に、海途は空いているもう片方の掌を眺める。
 青葉に、何度も触れた手——
 温もりを感じたくて、距離をもっと縮めてみたくて、この上なく高揚した、初恋の記憶——
 
 この手で、煽られるままの情欲に任せ、何度も異なる肌の上を滑らせてきた……——
 
 そして、その手は理性で覆った膜を突き抜け、透けた本心も露わに青葉にも伸びた——
 
 
 
 人生で最も嫌悪した人物と同じように、自分も手を伸ばしたじゃないか……——
 
 
 もう、とっくに分かっていた。
 一つしか、選べない。
 
 
 この手は、もう既に醜く、薄汚れいるのだから——
 
 
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