明敏犀利の蒸気歯車機関(めいびんさいりのスチーム・ギア)Ⅰ

野村だんだら

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2その6

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「まさか機関ランプを盗もうとしていたなんて。あのバカ、いつかきっとドブさらいで機巧を見つけて着服して、絞首台に送られるわよ」
 二階の角部屋の前に既に着いていたミリアは、彼女のエールを持って来た千早の足音に振り返ると、そう愚痴を零した。どういうわけか床に跪いて鍵穴を気にした様子の彼女は、手に細長い金属の棒をいくつも持っている。
「そういう君は、泥棒で捕まりそうだね」
 棒で鍵穴をつつく姿は、どう見ても錠前破りだった。
「あら。これでも掏りと泥棒からは、すっかり足を洗ったのよ?」
「すると、その手にしているものは?」
「これは……ほら、仕事で寝床を借りる時に、たまに使うのよ。わたし、って未成年のいわゆる違法娼婦だし、専ら売春専門で使われている宿なんかは門前払いなのよ。煙たい顔をされるだけならまだマシな方で、オーナーが陰湿だと蹴られるし殴られるし、それはもう酷いんだから。そんな時は、こんな感じで……」
 カチリ、と鍵の開く音がする。「こう、空き家なんかをこっそり拝借する、ってわけ。知ってる? ロンドンって、そこかしこに良い物件があるのよ。古い家だと鍵も単純で開けやすいし」
 得意げに話すミリアは、なんとも逞しいことだ。もちろん褒められたことではないのだが、だからと言って咎めることが正しいとも思えなかった。この程度の悪事を働くくらいでなければ彼女は、この倫敦では生きていけないのだ。
「それで捕まったことは?」
「たぶん、貧民街に居付いている人の大半が、一度や二度は警察の世話になっているわ。わたしの場合は、まだ娼婦としてやって行くだけの、いわゆる踏ん切りを付ける前に、一度だけね。
 あの時は、わたしの掏りが郷紳ジェントリのお坊ちゃんにバレて、追いかけられたせいで道に迷っちゃってね。歩き疲れたから、その日の寝床として空き家に入ったんだけど、そこを中年の警官に見つかって……脅されて、乱暴されたの。馬鹿で無知で悪党だったけどそれでも純粋な子供だった乙女が、『せめて初めてだけは惚れた人に捧げるのよ』と思って後生大事に取っておいた処女を、あっけなく奪われたのよ。あれは、死にたいくらいに最低な気分だったわ。もちろん、妹達を置いてそんなこと、出来るはずがなくてね。だからまあ、これでもあの子達には感謝してるのよ」
 言って、ミリアは肩をすくめた。「で、わたしは晴れて娼婦になったというわけ。ビルも言っていたでしょう? エスクロップが嫌い、って。あれ、下町言葉で警察のことなのよ。たぶん『Polices』の綴りを間違えてる人が作ったアナグラムで『Esclop』なんだけど、あの連中を好きな人なんて、ここには一人も居やしないわ。だって、あいつ等はイースト・エンドの住民をロンドン市民だと思っていないんだもの。思っていたなら、十二歳になってすらいない娘っ子に、あんな酷い事を出来るはずがないんだから」
 過去の陰鬱な体験を語りながらも笑ってみせたミリアの横顔は、悲壮な感情が表情にまるで出ていなくて。そのことは、彼女を、却って酷く痛々しく見せていた。
「なんて言うか、その……ごめん」
「日本人、って可笑しいのね。ミスター・マサズミは何も悪くないでしょうに。どうして謝るの?」
 心底可笑しそうに笑って、ミリアが扉を開けた。「へぇ。ここの部屋、けっこう広そうね。下のパブは何度も使っているのに、全然知らなかったわ」
 コレットが下宿していたらしい、部屋を覗いて感嘆の息を漏らしたミリアは、続けて「仕事で使ってみようかしら」と思案顔になっている。彼女の「仕事」についてこの場で触れるのは、たぶんあまり得策ではないので、千早は、ひとまず部屋を眺めることにした。
 主の居ない部屋はもちろん暗い。入口の脇にバルブの類は見当たらないことからすると、照明はオイルランプのようだ。
「ミリアは、機関ランプは持ってないよね?」
「旧式の安物でも十とか二十ポンドからなのよ。幼い妹達が不自由しないよう仕送りをしている、年端もいかない街娼がそんなお金持ちだと思うの? それとも、マサズミの国がそんな理想郷なの?」
「まさか。訊いてみただけだよ」
 千早は、袂から取り出したマッチを擦って、テーブルの上に出ていた灰皿に投げて入れる。続けて、メモ帳から白紙のページを二枚千切って、これで火を大きくすれば、暗かった部屋も照らされた。
 部屋の床面積は、八畳より少し広い程度だ。マギエラと借りている下宿に比べたなら当然だが狭い。とはいえ、一人で暮らすにはもちろん充分で、キッチンスペースには蒸気焜炉も設置されている。イースト・エンドという立地は家賃が安いはずで、仮に千早が暮らすとしたならきっと文句は出ないだろう。
 簡素なマントルピースの下には、薪の燃えカスが残っている。千早は、まだ下宿で暖炉に火を入れたことがないのだが、この様子だとコレットは寒がりのようだ。
「あのコレット女史が使っていた割には、なんだか質素ね。まあ、警官と機巧師が全部持ち去っただけなのかもしれないけど」
 そう言うミリアは、窓際のベッドに腰掛けている。そうしてシーツの上に皿を置いて、しばらくチップスを食べていた彼女は、ふと何やら気が付いた様子で食事の手を止めた。
「何か見つけたのかい?」
「綺麗な金色をした、長い髪をね。お尻に敷いていたんだけど、暗いせいか今まで気付かなかったわ」
 立ち上がって、「ほら」と示すミリアの指先をたどれば、なるほど。束と言うほどではないが中々な量の頭髪が、ベッドの上にまとまって落ちていた。
「コレット女史は写真でしか知らないけど、この感じだと、自分で切ったのでもなければ、首か肩の辺りをナイフか何かで切り付けられたんじゃないかしら」
 金髪をひとつ摘まみ上げて、ミリアが言う。ミリアの亜麻色をした髪は彼女のヘソの辺りまであるが、落ちていた頭髪はそれよりも長い。身長差を鑑みても、コレットを襲った何者かが肩より上を狙ったことは間違いなさそうだ。
 まともに首を切られたとなると、相当な出血になるはずだが……。
 灰皿の上で、メモ用紙をもう二枚燃やす。
「ぱっと見て分かる血痕は無さそうね」
 火で照らした程度では、重傷ないし致死的な血の量ならばともかく細かな飛沫程度の血痕は見つけようがない。今の、この状況を今朝の新聞記事と照らせば、コレットは大した怪我をしていないか、あるいは衣服に血が吸われるようなヶ所を、例えば肩や胸元等を切り付けられたと考えていいだろう。
 しかし、そうだとすると……、
「切り付けられたコレット・マグヌスが慌てて部屋を飛び出してそのまま一階のパブまで駆けたとして、騒ぎにならないなんてことが……ひいては彼女を切り付けた犯人を、その場に居合わせた客達が取り押さえない、なんてことがあると思うかい?」
 取り押さえて、私刑を加えて、警察に引き渡して、そうして事件の幕が下りれば、コレットが失踪することもないはずだ。けれど、現実の彼女は行方不明である。
 思えば、コレット・マグヌスに付けられたレディ・マリーゴールドの愛称は、憧憬の念が窺えもする敬称だ。だから当然、常連客の中には彼女に憧れを抱いていた者もいたのだろう。そんなローズマリー・レーンに咲く一輪の花が、今まさに手折られんとする状況で、喧嘩自慢だという貧民街の客達が黙ったままというのは、千早はいささか妙なことだと思う。
「じゃあ、この後でビルに訊いてみる? 何か騒ぎがあったなら、アレはたぶん又聞き程度には知っていると思うけど」
「うーん……。いや、その必要はなさそうだね」
 客達が犯行に干渉しなかった理由に、ひとつ思い至った。
 部屋で休んでいたコレットが凶刃に出くわしたとして、逃げ道としての戸口には、刃を持った犯人が立っていただろう。そのような状況で彼女が逃げる先は、およそひとつしか残されていない。
 窓に近付いて目を凝らせば、年季の入った木製の窓枠には、木の繊維に染みて乾いただろう血が、真っ黒な手形となって残っていた。
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