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2その10
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夜、部屋の照明をすっかり落としてソファーで横になっていると、ふと近くでマギエラの声がした。
「チハヤ。起きて……る、かしら?」
「……寝てるよ」
「もう、起きてるじゃないの」
呆れたふうな声に続けて、そうした声の近くで機関ランプに明かりが灯った。右手に持った照明をテーブルに置いて、マギエラが椅子に腰かける。
「ええと、少しだけ……その、お話ししない?」
なにやら声音といい口調といい、それから表情までもが随分としおらしいマギエラだ。まあ、殺されかけたともなれば無理もないだろう。キーン夫人の言う通りだ。思えば彼女は、身体は機械でも心は年端もいかない少女なのだ。
すると千早は、マギエラの性質について認識を改めると共に反省もしなければならないのかもしれない。もちろん、その上で彼女の心情を慮れば、とても無下になど出来ないのだった。
「……朝に差し障らない程度に頼むよ」
「それじゃあ……あのユーゼンのテヌグイについて、その……名前を、ね。教えて欲しいと思ったんだけど、訊いてもいいかしら?」
同居人の睡眠を邪魔して最初に訊くことがそれとは。余程、手拭いの絵柄が気に入っていたのだろうか。
「桜だよ」
「サクラ……」
ほっ、と息を吐く音が小さく聞こえた。「どんな娘なの? サクラは可愛い?」
どんな娘、って……ああ、なるほど。知りたかった名前はそっちだったか。
「桜は手拭いに描かれていた花の名前だよ。あれを贈ってくれた娘は千颯と言ってね。三つ下の幼馴染なんだ」
「チハヤ……え? その子、女の子なのにチハヤと同じ名前なの?」
「同じじゃないよ。僕は千早雅純で、その子は御巫千颯。彼女の千颯はギブンネームだから」
「……あのねぇ、チハヤ」
はぁ、と大きなため息のマギエラだ。「あなた、どうにもギブンネームとファミリーネームの順序が無茶苦茶よ。チハヤ・マサズミ、って名乗れば誰だってチハヤの方をギブンネームだと思うわ」
「あれ? でもミリアはマサズミ、って呼んでくれてるけど」
「それは、あの子の仕事がああいう仕事だからよ。交友関係が広いもの。きっとチハヤの他に日本人の知り合いがあるのだわ」
またぞろ、大きなため息だ。「それにしても、マサズミがギブンネームだったなんて……。言っておきますけど、今さら呼び方を変えたりなんてしないからね?」
「それは構わないよ。急に変えられても違和感があるだろうし」
「少しは構いなさいよ……」
肩をすくめて、心底呆れたとでも言いたそうなマギエラだ。機関ランプを持って彼女は、千早の寝転がっているソファーの傍らに来ると、肘掛けに腰を下してから、ぽつりと穏やかに口を開いた。
「それで、そのチハヤ・ミカナギは、どんな娘なのよ?」
御巫千颯は、黒髪の美しさを際立たせる淡雪のような肌に、澄んだ鳶色の瞳が印象的な少女なのだが、なんとなく、マギエラが知りたいのはそういう外見の話ではない気がした。
「小さくて泣き虫で色々とどんくさいけど、声が澄んでいて、唄と料理が上手いかな。それと、年に数回だけ披露する巫女舞を踊る姿が、とても凛として綺麗な子だよ」
「ミコ、マイ? 踊る? その娘、踊り子なの?」
「うーん、ちょっと違うかな。巫女の神楽舞は、いわゆる遊女の踊りとは伝統も格式もまるで違うものだから、そんないかがわしいものではないよ」
とはいえ、巫女という存在が宗教的な意味合いを剥奪された、明治の禁断令があってから既に久しいため、これに娯楽の一面があるのを否めないのも事実だろう。神事らしい役割の一切を禁止された現代の巫女神楽は、伝統芸能として生き残りを図っている最中にあるのが現状ではあるものの、古来よりの堅苦しい舞踊のままでは、客寄せにもならないのが現実なのだ。
「千颯のことは、言うなれば家事手伝いが一番適当だろうね。というのも、御巫の家は代々神職の家系で、千颯の家は神社なんだ。舞の他には、降霊術とか占星術の類に秀でた才能があるみたいで、遊び感覚でしている簡単な予知とか夢占い、それと恋占いがよく当たる、って近所の女の子達からは評判かな。女学校にも通っているし、聡明な子だよ。たぶん、英語は僕よりも出来るんじゃないかな」
「そりゃあ、あなたの英語は自己紹介すらまともに出来ていないものね。チハヤより、その子が留学した方が良かったんじゃないの?」
鼻で笑われた。「それで、そんなに褒めてチハヤはその娘が好きなの?」
結局、マギエラが一番に訊きたかったのはそれなのだろう。困ったものだ。
「好きとかそういう軟派で浮ついた気持ちは、日本男児に相応しくないよ」
マギエラが色恋の話に夢中になるのはいかにも年頃の乙女らしくて結構なことだが、心底楽しそうな顔をしてこれに千早を巻き込むのだけは勘弁して欲しい。
「あら。それじゃあ、サクラのテヌグイは頂いても構わないわね。十ポンドでいいかしら?」
「待って、どうしてそうなるんだい。十でも二十でも譲らないよ」
「なーんだ。必死になって、やっぱり好きなんじゃないの」
思わず声を荒げた千早をクスリと笑っては、したり顔になるマギエラだ。
してやられた。こうなっては、認めないのは却って見苦しい。ため息が出る。
「……英国留学に行くと決めた僕のために、千颯は静かに泣いてくれたんだ。行かないでと止めるでもなく、春にはこれで花見をしてください、って僕に桜の手拭い贈ってくれた。気遣いの出来る良い娘だよ。もちろん可愛いとも思う」
親の決めた相手だと言うのにあのように慕ってくれて、それで気持ちに応えたいと思えなかったなら、そんな奴こそは日本男児の風上にも置けない軟派者だろう。
ふと、マギエラが立ち上がる。
「あらまぁ、開き直ったふうにのろけちゃって。続きを話すならまた明日にしてよね」
おやすみ、と上機嫌に言ってマギエラが機関ランプを消す。人を揶揄うだけ揶揄っておいてなんとも勝手なことだが、彼女の不安な気がまぎれたのなら、まあ、それも良かろう。
夜が静かに更けていく。
「チハヤ。起きて……る、かしら?」
「……寝てるよ」
「もう、起きてるじゃないの」
呆れたふうな声に続けて、そうした声の近くで機関ランプに明かりが灯った。右手に持った照明をテーブルに置いて、マギエラが椅子に腰かける。
「ええと、少しだけ……その、お話ししない?」
なにやら声音といい口調といい、それから表情までもが随分としおらしいマギエラだ。まあ、殺されかけたともなれば無理もないだろう。キーン夫人の言う通りだ。思えば彼女は、身体は機械でも心は年端もいかない少女なのだ。
すると千早は、マギエラの性質について認識を改めると共に反省もしなければならないのかもしれない。もちろん、その上で彼女の心情を慮れば、とても無下になど出来ないのだった。
「……朝に差し障らない程度に頼むよ」
「それじゃあ……あのユーゼンのテヌグイについて、その……名前を、ね。教えて欲しいと思ったんだけど、訊いてもいいかしら?」
同居人の睡眠を邪魔して最初に訊くことがそれとは。余程、手拭いの絵柄が気に入っていたのだろうか。
「桜だよ」
「サクラ……」
ほっ、と息を吐く音が小さく聞こえた。「どんな娘なの? サクラは可愛い?」
どんな娘、って……ああ、なるほど。知りたかった名前はそっちだったか。
「桜は手拭いに描かれていた花の名前だよ。あれを贈ってくれた娘は千颯と言ってね。三つ下の幼馴染なんだ」
「チハヤ……え? その子、女の子なのにチハヤと同じ名前なの?」
「同じじゃないよ。僕は千早雅純で、その子は御巫千颯。彼女の千颯はギブンネームだから」
「……あのねぇ、チハヤ」
はぁ、と大きなため息のマギエラだ。「あなた、どうにもギブンネームとファミリーネームの順序が無茶苦茶よ。チハヤ・マサズミ、って名乗れば誰だってチハヤの方をギブンネームだと思うわ」
「あれ? でもミリアはマサズミ、って呼んでくれてるけど」
「それは、あの子の仕事がああいう仕事だからよ。交友関係が広いもの。きっとチハヤの他に日本人の知り合いがあるのだわ」
またぞろ、大きなため息だ。「それにしても、マサズミがギブンネームだったなんて……。言っておきますけど、今さら呼び方を変えたりなんてしないからね?」
「それは構わないよ。急に変えられても違和感があるだろうし」
「少しは構いなさいよ……」
肩をすくめて、心底呆れたとでも言いたそうなマギエラだ。機関ランプを持って彼女は、千早の寝転がっているソファーの傍らに来ると、肘掛けに腰を下してから、ぽつりと穏やかに口を開いた。
「それで、そのチハヤ・ミカナギは、どんな娘なのよ?」
御巫千颯は、黒髪の美しさを際立たせる淡雪のような肌に、澄んだ鳶色の瞳が印象的な少女なのだが、なんとなく、マギエラが知りたいのはそういう外見の話ではない気がした。
「小さくて泣き虫で色々とどんくさいけど、声が澄んでいて、唄と料理が上手いかな。それと、年に数回だけ披露する巫女舞を踊る姿が、とても凛として綺麗な子だよ」
「ミコ、マイ? 踊る? その娘、踊り子なの?」
「うーん、ちょっと違うかな。巫女の神楽舞は、いわゆる遊女の踊りとは伝統も格式もまるで違うものだから、そんないかがわしいものではないよ」
とはいえ、巫女という存在が宗教的な意味合いを剥奪された、明治の禁断令があってから既に久しいため、これに娯楽の一面があるのを否めないのも事実だろう。神事らしい役割の一切を禁止された現代の巫女神楽は、伝統芸能として生き残りを図っている最中にあるのが現状ではあるものの、古来よりの堅苦しい舞踊のままでは、客寄せにもならないのが現実なのだ。
「千颯のことは、言うなれば家事手伝いが一番適当だろうね。というのも、御巫の家は代々神職の家系で、千颯の家は神社なんだ。舞の他には、降霊術とか占星術の類に秀でた才能があるみたいで、遊び感覚でしている簡単な予知とか夢占い、それと恋占いがよく当たる、って近所の女の子達からは評判かな。女学校にも通っているし、聡明な子だよ。たぶん、英語は僕よりも出来るんじゃないかな」
「そりゃあ、あなたの英語は自己紹介すらまともに出来ていないものね。チハヤより、その子が留学した方が良かったんじゃないの?」
鼻で笑われた。「それで、そんなに褒めてチハヤはその娘が好きなの?」
結局、マギエラが一番に訊きたかったのはそれなのだろう。困ったものだ。
「好きとかそういう軟派で浮ついた気持ちは、日本男児に相応しくないよ」
マギエラが色恋の話に夢中になるのはいかにも年頃の乙女らしくて結構なことだが、心底楽しそうな顔をしてこれに千早を巻き込むのだけは勘弁して欲しい。
「あら。それじゃあ、サクラのテヌグイは頂いても構わないわね。十ポンドでいいかしら?」
「待って、どうしてそうなるんだい。十でも二十でも譲らないよ」
「なーんだ。必死になって、やっぱり好きなんじゃないの」
思わず声を荒げた千早をクスリと笑っては、したり顔になるマギエラだ。
してやられた。こうなっては、認めないのは却って見苦しい。ため息が出る。
「……英国留学に行くと決めた僕のために、千颯は静かに泣いてくれたんだ。行かないでと止めるでもなく、春にはこれで花見をしてください、って僕に桜の手拭い贈ってくれた。気遣いの出来る良い娘だよ。もちろん可愛いとも思う」
親の決めた相手だと言うのにあのように慕ってくれて、それで気持ちに応えたいと思えなかったなら、そんな奴こそは日本男児の風上にも置けない軟派者だろう。
ふと、マギエラが立ち上がる。
「あらまぁ、開き直ったふうにのろけちゃって。続きを話すならまた明日にしてよね」
おやすみ、と上機嫌に言ってマギエラが機関ランプを消す。人を揶揄うだけ揶揄っておいてなんとも勝手なことだが、彼女の不安な気がまぎれたのなら、まあ、それも良かろう。
夜が静かに更けていく。
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