Maitri~愛の返報~

草刈絢衣

文字の大きさ
1 / 2
Azul

trompe-l'oeil/騙し絵

しおりを挟む
 気が付いたら、オレはいつもの公園にやってきていた。

 どうしてここにきたのかは覚えていない。確認したいことがあったのか。それとも聡一郎(オレの幼馴染で、いま家に泊めてくれている)とケンカして、飛び出たのか。定かではない。

 この公園に来たことで、自分の周りがモノトーンになっていることを自覚した。なんの色もない。薄暗く、冷たい。

 でも、この桜だけは違った。そこだけが鮮やかにオレの目に映る。ほのかな暖かさに包まれているかのような錯覚に見舞われる。けれどふいに桜から視線をそらせば、そこはもう、色のない世界だ。

 こんなふうになったのはいつ頃からか、覚えていない。ずっと前からこうなのか。つい最近からなのか。

 聡一郎の家にいるときも、確かにあまり色を感じなかった。それは自分が薄暗い部屋にいるからだとばかり思っていたのに、そうではなかったらしい。

 オレは虚しさを吐き出して、桜を見上げた。

 まだなにも纏っていない桜の木は、凛としている。

 去年見た、咲き誇っていたときとおなじようなやわらかさで、独特の香りが風に孕んでいそうだった。

 ここに来たところで、なにも打開できないことは知っている。

 あれから何度こうしただろうか。地面に影を落とさなくなるまで、手足の感覚がなくなるほど冷たくなるまで、まるで縋るようにここで待っていた。

 そうしたからといってなにが変わっただろうか。

 実際にはなにも変わっていない。それどころか、どんどん袋小路に陥っているようにさえ思える。

 自問自答しようにも、さまざまな思考と感覚で構成された海に飲み込まれてしまったかのように、なにも解らなくなる。

 オレは両手で顔を覆って、身体を屈めた。

 オレの中にある鬱々とした得体の知れない気持ちは、いつまで経っても消えない。

 そこから抜け出せないということだけがはっきりとオレの眼前に突きつけられたような気がして、吐き気がした。

 溜息を吐きながら空を見上げると、次々と雫が降りてくるのが見えた。

 公園の街頭がその光景をやけに神秘的に演出している。滴に光が溶け込んで、とてもキレイだった。

 地上に降りてきた雨は土に混じって、たくさんの水溜りを作っている。

 晴れた日にはまた空に上がっていって、雨が降ったらまたこんなふうに降りてきて、時は違うかもしれないけれど、またおなじ場所に巡り合うこともできるだろう。

 人間にはリセットが利かないから、この雨のように空に還ってしまえるのが羨ましいとさえ思う。こんなにも悲観的になっているのは、きっと――。

 そこまで思った時だ。

 オレと雨とを、なにかが遮った。

 同時に、雨が地面に降りることを阻まれた、小さな悲鳴が聞こえてくる。

 いままで聞こえなかった雨の音が、車の音が、うるさいくらいに鳴り響く。

 なにが起こったのかわからなかった。

 髪を伝って落ちてくる滴が邪魔で、それを手の甲でぬぐったときだった。

「風邪ひいちゃいますよ」

 ふわりと、優しい声が振ってきた。

 聞き覚えのない、でもどこか懐かしい声だ。

 驚いて顔を上げると、そこには男の子が立っていた。高校生くらいだろうか? 随分線が細いし、髪も真っ黒だ。

 呆然と彼の顔を見つめる。誰かの顔をまじまじと見たのはどのくらいぶりだろうかと自問したくなるくらい見つめていたと思う。

 だからだろう。彼が困ったように笑った。

 真っ青な空のように透明で、とても澄んだ目をしている。ほかの人よりも少し茶色がかっているそれからは、何故か目を逸らすことができなかった。

 彼の目に映っているオレは、とてもひどい顔だ。

 まるで縋るような目だった。オレは自分のその目を見て、自嘲気味に笑った。

 なんて顔だ。情けない。オレは自分で決断したんじゃなかったのだろうか。それなのに未だそのことに囚われているだなんて、煮え切らないにも程がある。

 いままではとても静かで、凪いでいた心に、赤が孕んだ波が押し寄せてくる。オレは自分の心に生まれた気持ちを握りつぶすかのように拳を作った。

「もうすぐ、雨が雪に変わるそうですよ」

 けれどそれは、すぐに穏やかな波に変わっていった。

 彼がショルダーバッグから出したスポーツタオルをオレに差し出してくる。

 これで雨粒を拭けというのだろう。オレに躊躇する余裕さえ与えない。いや、この好意を無にしてはいけないような雰囲気に包まれて、オレは慌ててそのタオルを受け取った。

「あ、ありが、とう」

 そのタオルは、彼とおなじでふわふわしていて、肌触りがよかった。おろしたてのものなのか、手入れがしっかりしているのか、ほつれひとつない。

 感触を確かめるように拡げて、やわらかいそれですっかり濡れてしまった髪や顔を徐ろに拭き始めると、彼がそっと笑うのがわかった。

 顔立ちは幼いけれどしっかりとした顔つきだ。やわらかさと温かさを両手に持っているような、とても変わった雰囲気を醸している。

「傘、よかったら、使って下さい」

「‥‥え?」

「もうすぐ迎えが来るので、なくても大丈夫なんです」

 言って、彼が笑う。

 とても形容しがたいものだった。

 優しいとも、明るいとも、柔らかいとも違う。

 その場の空気が、温度が一瞬にして変わってしまうほどの存在感。

 それはオレにとってだけなのかもしれないが、ただただ、圧倒された。

 オレはその傘を手に取るべきかどうか考えた。彼がオレの方へと傘を寄せてくる。それでも手に取る素振りを見せなかったからだろうか。彼はオレの手を取ると、そっと傘を握らせた。

 見ず知らずの人間に傘を貸すなんて、お人よしもいいところだ。そう言ってやろうかと思った。でもオレの口からその言葉は出て行かない。それどころか、二の句を継ぐことすらできなかった。

 次の言葉を発せないままに、向かいに停まった車がクラクションを鳴らして彼を呼んだ。彼はオレに一度頭を下げて、踵を返した。

 その足取りにオレは目を瞠った。

 右足が悪いらしく、引きずるようにして歩いていく。

 不規則な音。歩き方。それは、オレの意識を彼に向ける要素にしては十分すぎるほどだった。

 オレはとっさに、彼の袖を掴んでいた。

 彼が不思議そうにオレを見つめる。

 特になにかが言いたいわけではない。けれど、彼がここを去ってしまったら、またモノクロの世界に戻ってしまうんじゃないか。そんな懸念が、オレにそうさせたのかもしれない。

 ああ、どうしようもないのに、まだ抗おうとしている。どうすればいいかわからないまま抗ったって、なんにもならないのに。

 オレが、オレ自身が解決しなければならないことなのに、なんだっていつもこうして甘えてしまうんだろう。彼にはまったくもって関係ないことじゃないか。

 そう思ったら、するりと彼の手を離していた。

 彼は一瞬、なにかを言いかけた。けれど急かすように鳴らされたクラクションに誘われて、行ってしまった。不規則な足音だけが耳につく。オレはそれが離れていくのを聞きながら、拳を握りしめた。

 そのときに気づいた。傘を持つ自分の左手が妙に温かいことに。

 寒さに手が震えている。厚手の赤いパーカーも、色を変えるほどぐっしょりと濡れている。

 さっきまで――彼の声を聞くまで、あの雰囲気に触れるまで、気がつかなかった感覚が、徐々に蘇ってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

前世が教師だった少年は辺境で愛される

結衣可
BL
雪深い帝国北端の地で、傷つき行き倒れていた少年ミカを拾ったのは、寡黙な辺境伯ダリウスだった。妻を亡くし、幼い息子リアムと静かに暮らしていた彼は、ミカの知識と優しさに驚きつつも、次第にその穏やかな笑顔に心を癒されていく。 ミカは実は異世界からの転生者。前世の記憶を抱え、この世界でどう生きるべきか迷っていたが、リアムの教育係として過ごすうちに、“誰かに必要とされる”温もりを思い出していく。 雪の館で共に過ごす日々は、やがてお互いにとってかけがえのない時間となり、新しい日々へと続いていく――。

欠けるほど、光る

七賀ごふん
BL
【俺が知らない四年間は、どれほど長かったんだろう。】 一途な年下×雨が怖い青年

【完結】後悔は再会の果てへ

関鷹親
BL
日々仕事で疲労困憊の松沢月人は、通勤中に倒れてしまう。 その時に助けてくれたのは、自らが縁を切ったはずの青柳晃成だった。 数年ぶりの再会に戸惑いながらも、変わらず接してくれる晃成に強く惹かれてしまう。 小さい頃から育ててきた独占欲は、縁を切ったくらいではなくなりはしない。 そうして再び始まった交流の中で、二人は一つの答えに辿り着く。 末っ子気質の甘ん坊大型犬×しっかり者の男前

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

僕たち、結婚することになりました

リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった! 後輩はモテモテな25歳。 俺は37歳。 笑えるBL。ラブコメディ💛 fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

処理中です...