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第二章 ミューレ海渡航篇

#10 水竜と決断

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 船長の判断により、リーシャらの乗る客船は緩やかに取舵をとった。
 接近するにつれ徐々にそのシルエットがはっきりしてくる。湖面から突き出しているように見えたのは、転覆した小型船舶の船首だったようで、今にも沈みそうなその上には二人の男性がしがみ付いていた。片手を振りながら懸命に叫んでいる。
 こちらの乗組員の一人が、指示を出した。
「よし! 急いでボートを落とすんだ!」
 すると昇降口付近にいた別の乗組員が手元のロープを手にし、それが引っ掛かっていた留め具を外す。途端、空中に吊られていたボートが落下して飛沫を上げて着水した。続いて昇降口から、巻かれていた梯子をばららっと下ろすと、それを伝って三名ほどの乗組員がボートへ乗り移った。
 そんな迅速な一連の行動を見ていたリーシャは、思わず感心の吐息を零す。けれど脇に立つラトは、彼らの様子には全く目もくれず、まるで何かを探すように水面を凝視していた。
「ラト、どうかした?」
 リーシャが問いかけるものの、ラトはすぐには返答しなかった。不自然さを感じるほど長めの間を置いてから、ようやく小さく口を動かした。
「……やべぇぞ、あいつら早く連れ戻した方が良い」
「いや、だから今助けに行こうとしてるじゃないの。あんたちゃんと見て――」
「違う! 俺が言ってんのは、助けに行ったおっさん達のことだ!」
 驚くほどの勢いでリーシャへ向けられたラトの形相は、これまでにないほど険しいものだった。しかしイマイチ状況の深刻性が吞み込めないリーシャは改めて、もう転覆船へ向かって漕がれ始めたボートと、転覆船から手を振り叫ぶ男達を何度か見比べた。
 何かおかしなところがあるだろうか?
 ――いや、ある。既にこちらの船の乗組員が救助に向かっているというのに、なにゆえまだ彼らは叫び声を上げて助けを求めているのか。
 その時、遭難者の一人が再度、口脇に手を当てて大声を上げた。

「だめだ! お前ら、今はまだこっちに来ちゃだめだ!」

 今まで勝手に助けを求める叫び声だと思っていたものは、実はそうではなかったのだ。彼らは何か危険を知らせようとしている……?
 ラトに遅れて、リーシャもようやくその思考に達したとき、異変は起こった。
 ゴンッ! という硬い物が衝突したような低い音が足元から響き、船が大きく横揺れしたのだ。
「きゃっ!?」
 舷縁から身を乗り出していたリーシャは、その勢いで湖へ投げ出されてしまう。が、その途中でがくんっと停止し、体が湖へ落下することはなかった。寸でのところでラトがリーシャの足首を掴んでいた。
「持ち上げるぞー」
 言って、ラトがリーシャを掴む腕にぐっと力を籠め、眉一つ動かすことなく片手で軽々と持ち上げて見せた。落ちる前と同じようにラトの隣に戻ったリーシャが、ほんの少しだけ頬を染めもごもごと口を動かす。
「あ、ありがと……」
「お前、パンツ見えてたぞ」
「なっ……」
 予想だにしなかったコメントに、リーシャは思わず絶句した。今リーシャが履いているのはショートパンツだ。だからパンツなんて見えるはずが――と思ったら、さっきの自分の格好が脳裏に浮かんだ。
 緩めのショートパンツだと、唯一足下からなら角度によってはギリギリ見えてしまうのだ。
「そういうのはわざわざ言わなくて良いの!!」
「そうか。じゃあ今度から黙っとく」
「そういう問題じゃ――……あれ? 黙っとくなら良い……のか」
 “わざわざ言わなくて良い”と言ったのはリーシャで、ラトはそれに素直に従ったわけであり、この件については確かにそれで終わりのはずなのは確かだ。それなのに何だこの煮え切らない気持ちは……と、頭を燻らせるリーシャの視界の中で、船内から慌てた様子のミィナが飛び出してきた。
「あ、お二人とも! さっきの揺れはいったい!?」
 すると二人が何か答えるより先に、付近にいた乗船客の一人が湖面を指差し、声を荒げた。
「おい! あれ見ろ!」
 声に従ってその男の指の延長線を目で追い、三人はそれを視認した。
 水中から二メトル程の何かが突き出ている。しかもそれは、かなりの速度で波を切り裂き移動していた。おそらくその場にいた全員が、それが背ビレであるという判断を下したことだろう。
 だがあれほど巨大なヒレを持つ水棲生物など、恐らくこのレイクスティアには一種しか存在しない。
「水竜……っ!」
 正式名称、水竜アクエリス。リーシャも実際にその姿を拝むのは、これが初めてだった。
 全長十メトルを優に超す巨躯や強靭な四肢、及び全体的な姿かたちは飛竜や地竜などの他種とあまり差は無い。だが水中での生活に適応するため、彼らは独自の進化を遂げているのだ。手足の指の間には発達した水掻きが存在し、尻尾はより多くの推進力を得るため平たく長い。
 その水竜が今まさに、救助へ向かったボートへと一直線に迫っていく。水竜が泳ぐ速度を上げた気がした。
「あぶないっ!」
 誰かが叫ぶ。もしかしたらリーシャ自身だったのかもしれない。
 背ビレがボートの数メトル手前で完全に水没。
「ギョアアアアッ!」
 刹那、物凄い勢いで飛び出した水竜が、ボートをいとも簡単に吹き飛ばした。砕かれたボートと一緒に、それに乗っていた男達も宙へ投げ出される。水竜の着水により起きた波は、少し離れた場所の客船をも揺らした。
 その光景を目にした者はほとんどが竜を恐れ、もしかするとその偉大さに畏敬の念すら抱いたかもしれない。
 けれど、ラトとリーシャの二人だけは違った。
「……あの水竜、おかしい」
「え?」
 訝しげに眉根を寄せ呟いたリーシャを、ミィナが見上げその言葉の意味を問うと、水竜から目を離さぬままリーシャが早口で説明する。
「そもそもドラゴンっていうのは、戦いを好む生き物じゃないのよ。水竜アクエリスだってそれは例外じゃないわ。繁殖期でもない限り、人を襲うなんてこと滅多に無いのに……」
 その時、リーシャが言い終えるか否かというタイミングで、今度はラトが声を上げた。
「ちょっと見てくる!」
 言うが早いか突然ラトが服を脱ぎ始め、瞬きをするほどの短い間に上半身裸になったかと思うと、いきなり舷縁を乗り越えて湖へダイブした。
「ラトさん!?」
 視界から消えるラトを追って、ミィナが船から見下ろしたときにはもう、水面に白い泡が湧き立つだけ。と、その一部始終を見ていた他の者たちも、驚愕に目を剥いて騒ぎ出す。
「おい、あの小僧正気か!?」
 実際、ミィナもそう思ってしまった。今は一時的に姿が見えなくなった水竜も、その内また襲ってくるはず。そんな湖へ今飛び込むのは、まさしく自殺行為だ。
 なのにリーシャは、こんな時ですら落ち着き払った様子で静かに水面を眺めている。
(リーシャさんには、ラトさんが何をしようとしてるのか分かってるんだ……)
 だからミィナも倣(なら)って、ラトが上がってくるのを見守ることにした。

             ******

 水へ飛び込むのと同時にラトの鼻が感じ取ったのは、水中を微かに漂う鉄っぽい臭いだった。血の臭いである。
 また耳を済ませば、水中でも沢山の音が耳に入ってくる。
 頭上からは自分を心配する者たちの声が。前方からは助けを求める者たちの声が。そして――

『……殺してくれ……』

 悲哀と強い苦痛を帯びたその小さな悲鳴は、すぐ真下の足元から聞こえた。いや、“聞こえた”という表現は、この場合適切ではないかもしれない。
 ラトの心へ直接語りかけるように、響いたのだ。
 水竜アクエリスが水中の深い場所を不規則に泳ぎ回り、苦しげに悶えていた。その腹は痛々しく食い破られて、はらわたの一部が剥き出しになっており、水竜が通過した後には赤黒い霞みの帯が広がった。
 ズキンッと引き裂かれるような痛みがラトの胸に走る。そして、まるでその痛みを堪えるかのようにきつく歯を食い縛り、泡と一緒に言葉を吐き出した。
「……分かった……っ!」

 ぶはっと息を吸ってラトが水面へ顔を出すと、船の乗客たちから小さな歓声のようなものが上がった。
 客船の乗組員が遭難者の救助に向かった際に下ろした梯子が未だ下ろされたままだったので、ラトはそれを伝って素早く船の甲板へ上がった。
「ラト! どうだった!?」
 と駆け寄ってきたリーシャをラトは一瞥し、けれど一瞬だけ答えるのを躊躇ったのか、僅かな間を置いてから口を開く。沈鬱な面持ちだった。
「……あいつ……死にたがってた」
「え?」
「傷を負って苦しんでた。……多分、放っておいても死ぬ」
 きっとその回答がよほど驚くべきものだったのだろう。リーシャは信じられないとでも言うように、口に手を当てた。
「そんな……でも、必ずしも死ぬとは言い切れないんじゃ――」
「内臓が食い千切られてたんだ。直接命に関わる部位じゃねぇからまだ生きてるけど、そのうち衰弱してくる。船を襲ったのもきっと、苦痛に我を忘れてたからだ」
 小さく首を振りながら告げたラトの顔には、諦念の色が浮かんでいた。
 ドラゴンの自然治癒力は、他の動物のそれとは比べ物にならない。例えば腕を骨折したとして、ものの一週間で元通りになるほどである。
 つまりあの水竜が受けた傷は、その治癒力を以てしても回復が間に合わないほど大きなものであるという事だ。
(なら一体どうすればいいの……?)
 その時リーシャの中に浮かんだ疑問は、次のラトの言葉によって呆気なく解消された。
「……俺はあいつを殺す。そう約束したから」
 宣言して、すっと立ち上がったラトの腕をリーシャが掴んで引き留めた。
「殺すなんて……絶対ダメ。他に方法があるはずよ」
「いや、あいつはもう助からない」
「そんなのやってみなきゃ分からないでしょ。何とかして命を救う方法を――」
 そこまで言いかけて、ラトの表情を目にしたリーシャは胸が塞がるような苦しさを覚え、思わず口を噤んでしまった。
 一番辛いのは、他の誰でもなくラトなのだ。ラトにはあの水竜の声が聞こえている。つまりその苦痛を、より一層間近に感じているということだ。
 本当はリーシャにも、ドラゴンが助からない事は分かっていた。
 臓器の損傷は、表面的な外傷とは訳が違う。それに、もしも内臓がただ傷付けられただけなら、まだ回復魔法さえあれば助かる可能性もあった。しかし臓器が食い千切られているという事は、一部が欠損しているという事であり、その場合分断された内臓同士を縫合する必要が出てくるのだ。
 無論、この船に回復魔法が扱える人間や、そんな高度なスキルを持っている人間など都合良く乗船しているはずもない。そもそも、そんな人間が存在するのかどうかすら怪しいところだ。
 だからリーシャも、気は進まずとも頷く外なかった。渋々掴んでいた腕を離す。
「……任せるわ」
 するとラトがこくりと一度首肯して、湖面へと視線を向けた。
「出来れば一撃で送ってやりてぇけど、たぶん俺だけじゃ無理だ……。だからお前の力を、俺に貸してくれ」
「分かった」
 リーシャの返答に一瞬だけラトが満足げな笑みを浮かべたものの、すぐに真剣な表情に戻った。ラトが舷縁に片足をかけ、腰のダガーを静かに抜く。リーシャも急いでゲイルロッド組み立てて構える。
 それからしばしの間、緊迫した沈黙が訪れた。
 きっと、二人がこれから何を為そうとしているのか、完全に理解できた者はその場にいなかっただろう。それでもラトから発せられる只ならぬ緊張感は、周囲の人間を黙らせるに十分な迫力があった。
 ほんの少し――
 波よりも微かであったが、湖面の一点が盛り上がったのをラトは見逃さなかった。
「今だ!」
 叫ぶと同時、船の手すりを蹴った。それとほぼ変わらぬタイミングでリーシャが魔法を発動。
 宙へ跳んだラトの身体を一陣の旋風が包み込み、更に上空へ押し上げる。
「大剣ッ!」
 オールブレイドが白く発光し、ダガーから大剣に姿を変える。それを待っていたかのように、ラトを包み込んでいた風が一斉に武器の刀身に纏わり付いた。
 刹那、水面から青灰色の輝きが飛び出した。
「ギョアアアッ!!」
 まるで巨大な水柱が屹立するが如し。舞い上がった幾千もの飛沫が空を覆う。水の王者がその称号に恥じぬ最期を魅せた真上に、ラトはいた。
 ――ごめんな、このぐらいの事しか出来なくて……。
 と、ラトが胸の奥でぽつりと零した呟きは、もしかしたら声に出てしまっていたかもしれない。ラトはその無力感を噛み締めるように歯を食い縛ると、柄を握る腕に力を込めた。
 大剣が背面にまで届いてしまうほど限界まで身体を絞る。そして、ありったけの力と捻転力を乗せ、全力で大剣を薙ぎ払った。

「閃斬烈波(せんざんれっぱ)ッ!!」

 獣の咆哮のような爆音じみた唸りを上げて、横一文字に振り抜かれた大剣が空間を切断する。纏っていた風が太刀筋に同化し、まさしく風の刃となって放たれた。
 実体のない斬撃――だがそれは確かな重みを持って飛翔し、真っ直ぐに水竜のうなじへ吸い込まれていった。

 湖が、割れた。
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