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チャプタ―68

チャプタ―68

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 市右衛門は足音高く移動した後(のち)、あと一間で槍の刃圏内という場所に達したところで新陰流の歩法へと切り替えた。“転”――突き出される敵の槍を避けて死角へと回りこんだ。背後まで距離を詰める必要はない。
 刃風一颯(はかぜいっさつ)、穂先が首を鮮やかに薙いだ。そこに、太刀で足軽が斬りかってきた。体を開いて躱す――刹那、旋回した石突が相手の顎を下から猛打していた。この時代、武士であれば往々にして槍の扱いにも通じているのだ。卒倒する敵を尻目に、血が滾(たぎ)って滾ってしかたがない市右衛門は、炯々と目を光らせて次の獲物に襲いかかる。
“転”――刺突。これで避ける暇すら与えずまた一人斃(たお)す。電撃的迅さで穂先を斜めに引き上げる。この動作で、脇から繰り出された槍の一撃が呆気なく払われた。これで体勢を崩した相手を刺殺。
 殺、殺、殺、殺、殺――槍が折れれば柄を使って棒術で戦い、敵の獲物を奪って振るう――殺、殺殺殺殺殺……。

 全身が重い。最初に思ったことはそんなことだ。鼻から流血しているのかというほど濃い血臭がしている。
 だが、すぐにそれが錯覚だと分かった。返り血を浴びすぎ、甲冑、衣装が血にぐっしょりと濡れているせいだ。
「若、お気を確かに!」己をすぐ近くで呼ばわる者の姿に気づいた――平兵衛だった。
 正気を取り戻した、それを認めて市右衛門を今まで拘束していたらしい清次郎がこちらの胴にまわしていた腕を解く。
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