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チャプター1

お犬様1

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   序章

 友だちが誰ひとりつかまらず退屈を相手取らなくなった幼いユウキは普段、町の足を向けることのないほうへと自転車を走らせた。本当は新しい嫌な“モノ”に出会うかもしれないから常日ごろはしない行動だ。
 これまで目の当たりにしたことのない景色は、民家や田畑でも新鮮で胸が高鳴る。
 冒険心がくすぐられるのだ。アニメの中のようなわくわくする何かが待っているなじゃいかと期待がふくらむ。
 けれども、陽射しが柑橘類に近い色合いを帯び始めたころ、はたと気づいた。
 帰り道はどっちだろう――。
 そのとたん、不安が心に押し寄せた。明るい気持ちがまたたく間に黒く蝕まれた。
 とにかく今まで来た道をもどろう、そう考えて進行方向を変えたもののすぐに景色は記憶のないものに切り替わった。
 焦りが巨大な怪物の舌のように背中をなでる。
 いい加減、ペダルを漕ぐのが疲れたところで、ユウキは参道を見つけた。彼の家は神社だ、心細くなった彼は吸い寄せられるように路肩に自転車を止め、敷地に入って行った。古色蒼然、ありふれてはいるが雰囲気をいいあらわすにはぴったりな言葉だ。
 本殿はかなりの歴史がありそうで、木材の色の黒ずみ具合がそこらの神社とは違う。
『こどもが独りでこんなところに来るのは珍しいね』
 ふいに脳裏に声がひびいた。あきらかに耳を通していない声にユウキは凍りついた。
 誰、幽霊? 声に出さずに叫んだ。
『ふふふ、幽霊が神社にいるわけがないだろう』
 相手は愉快そうな声を脳裏にもらす。
 じゃあ、誰? 神さま? ユウキの無邪気な問いかけに、一拍の間ののちに、
『そうだ、神さまだよ』
 と相手はこたえた。
『ところでね、坊や。実は神さまは困っていてね、すこし手を貸してくれないかい』
 神さまなのに困ってて、助けてほしいの?
『そこは人間も神さまも一緒なのさ』
 相手の言葉に不審をおぼえたものの、ここは神社だ。たしかに邪悪なものが入って来られるとは思えない。
『本殿から見て、左手にしめ縄が巻かれた石があるだろう。その縄を少しはずしてほしいのさ』
 そんなことして、宮司さんに怒られない? 不安を露わにするユウキに、
『怒られないさ、なにしろ神さまのお墨付きだ』
 と相手は応じた。
 なるほど、それなら確かに、とユウキは軽自動車の半分ほどある岩へと近づく。
『それ、その端の部分から』
 確かにゆるんでいる部分があった。指示されるままに、下側に落としていった。
『ありがとう、これで神さまは元気になれるよ』
 どういたしまして、とユウキは元気を取り戻してこたえる。

 それから、神社の宮司が彼の姿を見つけ、ユウキは無事に家に帰ることができた。
 あれは夢だったのだろうか、と月日が経つうちに考えるようになりやがて彼は忘れ去る。

 その影響は十数年後の沖縄へと及ぶ。
 長袖の服を着た男たちは爛と輝く目で周囲を見ながら目線を交わさずに会話した。
「よし、計画の実行を邪魔するものはなさそうだ」「ついに、このときが来たな」「神は偉大なり」
 広大なショッピングセンターの、天井の高い吹き抜けのエントランスに銃声が獰猛な咆哮をひびかせる。
 二十人以上の人間がAK47で武装していた。この突撃銃は比較的口径が高いために腕に当たればそこから先が千切れるなど、致死率の高い銃に分類される。それらを矢印上に展開した彼らは偶然居合わせた買い物客に向かって発砲しはじめた。

   第一章

   一

 高橋祐樹の家は変わった家だ。神社であること自体はさほどの稀少性を持たないが、“願いを叶える犬神”を貸し出す、となると事情は変わってくるだろう。
 犬神といっても、いわゆる犬の首を切る呪術によって願いを叶えるそれではなく、神社で崇め奉られている立派な神が人の願いの成就に手を貸してくれるのだ。といっても、あくまで貸してくれる程度で誰かに害が及ぶような願いには応じない。効果は気休め程度だ。
 よくもまあ人外の力なんて借りようと思うよなあ、と祐樹は思うのだが神頼みは古代からの人の性(さが)だ、神様をレンタルしてくれるとなると結構な人間が田舎の町にある大神神社を訪れる。貸し出しの仕組みは簡単で、木の簡単な札に大神と記されたものを七日間貸し出すというものだ。本当か嘘か、ネコババした人間は呪われるといわれているため今のところ返却率一〇〇パーセントだ。なにしろ神に頼ろうとする人間たちだ、呪いも常人より恐ろしいのだろう。
 ふつうの人間には “いるかどうかもわからない”存在に望みをかけるなんて自分なら考えられない。原因は、幼いころに祐樹が恐ろしい目に数えきれないほど遭ってきたことに起因する。

 神社の参道をくだるや、両手に目を持った女が飛び出してくる。

 夕方に家に帰ろうとしたら、いきなり暗くなりなんだと空を見上げたら巨大な坊主が自分を見下ろしていた。

 体育の時間に燃え退がる車輪に顔がついた化物に追いまわされた。

 祐樹は妖の類が見えるのだ。彼らの大半は害はないが、どうも自分を見て怖がる子どもが面白かったらしく散々に驚かせてくれた。もう一度いうが、それもこれも裕樹が妖怪と呼ばれる存在が見えることに原因があった。あきらかに当人に責任はないのだが、不幸を招き寄せるものを背負っている、それが裕樹が。おかげで、妖怪も含めて超常的なものが心の底から嫌いだ。

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