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チャプタ―1

君へ向かうシナリオ1

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   第1章

    1

 スタジオの外の休憩スペース、そこで僕は、今回のエロゲーム――通称、エロゲーのキャラクターの役をつとめる女性声優のひとりと向かい合う形で腰をおろしていた。
「一仕事のあとのタバコはやっぱ美味いわぁ」
 子供っぽい顔立ちをした女性、声優の下妻さんが中年オヤジのようなせりふを吐く。一瞬、タバコがビールジョッキとかさなって映った。ファンがこんな姿を見てしまったら、たぶんショックのあまり立ち直れなくなるはずだ。
「程々にしてくださいよ」
 僕は一応、ゲームディレクターという立場があるから苦笑を浮かべながら注意喚起だけはしておく。“声”を仕事にしているけれど、意外に喫煙を平気でする人間が声優には結構多いのだ。
「いやよ、私はアホみたいにタバコいっぱい吸ってさっさと死ぬのよ」
「割と気の長い自殺ですね」
 三十になったばかりでなにいってるんだか、と僕は笑う。
「三〇よ、三〇。オンナはもう死んだも同然なのよ」
「死んでるにしては元気ですね」
「他人事(ひとごと)みたいな顔してるけど、巽さんだってあと三年もしたら三〇でしょ。そのときになって結婚する相手いるの」
 こちらの反応が気に入らなかったらしく下妻さんが半眼になってこちらをにらんだ。
「いや、男は仕事をしてれば三〇はそんなに節目じゃないと思うんですけど」
「不公平よ、そんなの」
 いや、そんなこと僕にいわれても。雑談の域を逸脱しつつある状況に困惑する。半ば強制的に地雷を踏んだらしい、というか踏まされた。
「なにかあったんですか、下妻さん」
「フラれたのよ」
 まるで別れを言い渡した当人を目の前にしているような態度を彼女はとった。うーむ、と心のなかで唸らざるをえない。質問しないと延々先の見えない話がつづきそうだったからしかたがなかったが、厄介なことになってしまった。
「そんなことより、質問に答えなさい。彼女はいるの」
 下妻さんは尋問じみた口調で言葉をかさねる。
「いや、いませんけど」
 こちらの返答を聞いたとたん、ほら見たことか、というような顔つきを彼女はした。
 というか、別に家庭を絶対的に持ちたいとか、ひとりはさびしいとかそういう思いがないから別段独りでも構わない。
「いつからいないのよ」
「専門学校二年でフラれましたから、それ以来ですね」
 素直に答えると、下妻さんは肉体の限界に挑むように目を大きく見開いた。
「嘘でしょ!」
「いや、嘘だとしてなんの意味があるんですか」
「色々、どうなってんのよ」
「いや、必死になって頑張ってたら恋人がどうのなんて暇なかったんですよねえ。専門のときの彼女も、結局それでフラれましたし」
 当時のことを思い出して僕は少し苦い思いを味わう。
「あなた、このままだと本当に独りのままよ」
 悲鳴に近い声を出し下妻さんは首を左右にふった。
「出会いとかないの」
「出会いっていわれましても。かかわってるゲーム会社のひとは男が多いですし」
 まあ、声優は作っているゲームの性質上、絶対に女性が多数を占めるのだけれど。仕事相手という感じで恋愛対象にはなんとなくならない。そこまで考えたところで、あ、とひとつ脳裏にひらめく。かすかな表情の変化に下妻さんは目ざとく気づいた。
「なになに、教えなさいよ」
 喜々としてテーブルの上に身を乗り出しこちらと距離を詰める。
「いえ、そういえば出会い云々というか、同窓会が近いなあ、と“他人と会う機会”という定義で思い出したんです」
「お、いいじゃない。甘酸っぱい思い出で火がつくなんて最高じゃない」
 表情をさらに輝かせる下妻さんを目の当たりにし、これは言わないほうがいいなあ、と僕は思った。
 
 今度の同窓会に、実は中学生の頃に片思いしていた女子が来るらしいのだ。
 ただ、「人付き合いが悪くなった」と級友の一部からは陰口を叩かれている。「冷たくなった」とも。
 もしかして、彼女は変わってしまったのだろうか。自分が好きだった女性から。
 彼女と恋仲になることを望んでいるわけではない。ただ、あの頃の“彼女”と再会したかった。けれど時は着実に流れている。僕だって中学生のころのままではない。あわい期待と不安が入り混じって心を落ちつかなくさせている。

   2

 そして、同窓会当日になった。夏の盆の時期だ。
 熊本市内のホテルのホールには明るい声が満ちている。みながみな晴れやかな顔で昔をなつかしんでいる。
 まあ、必ずしも満面の笑みというわけにはいかないが。
 実際、今の僕もそうだ。
「お前さあ、あの童貞王だった光信(みつのぶ)も婚約したんだぞ」
 地元の友人のひとり、上総隆生(かずさりゅうき)が大仰なおどろきの表情を浮かべて訴える。整った顔立ちに表情の変化が豊かなのが魅力の人間だが、現在の彼の顔に浮かんでいるのは悪魔の笑みだ。
「隆生、ちょっと童貞とか大きな声でいうのは」
 それを話題にそれている当人、結城光信(ゆうきみつのぶ)が眉間にしわを寄せて制止を試みる。小動物じみた顔立ちと押しの弱さが隆生のSの心をくすぐるのか、顔を合わせれば共にいる時間の八割ぐらいは彼にイジられていた。まあ、隆生は程度の差こそあれ他人をからかわずにはいられない性質だし、光信の次にその犠牲になる人間のランキングの二位に僕は入っているから他人事(ひとごと)ではないが。
「なーん、言いよっとやぁ。『じゃあ、今からだから』で電話切っておいて、三〇分後には『良かった』って声を弾ませて電話寄越してくせに。早すぎたい」
「いや、マジでやめて隆生」
 笑みを深くする隆生に光信が悲鳴じみた声をあげた。
 相変わらずだ、と僕は声を立てて笑う。変わらないものに対する安心感に心をつつまれるのを感じた。
 ただ、その奥では不安と期待が入り混じったような思いを抱いている。翔花(しょうか)、今度は参加するってさ、耳の奥に同窓会の知らせをくれた隆生の言葉がふいによみがえった。
 中学生のとき、クラスメートとして彼女と過ごしていたときの“熱さ”はない。けれど、秋が深まりはじめる時期の夏の名残を残す陽射しのような温度の感情が胸にはあった。
「で、お前相手は」
 ひとしきり光信をイジッて満足した隆生がこちらに水を向ける。
「仕事が恋人とか寒い解答はなしだからな」
「お前な、芸人じゃないんだから、オモシロ解答なんてできるか」
「じゃあ、恋人について吐いてもらおうか」
「いもしない恋人について白状できるわけないだろ、どんな手品だ。というか、本気でいない彼女について語りだしたらどうする気だよ」
 こちらが恋人不在なのを承知しているだろうに追及の手をゆるめない隆生に、僕は反撃を試みた。
「おー、よしよしかわいそうにな、ってしてやるよ」
 意地の悪い友人はこちらの頭を雑になでてみせる。
 ほんと、減らず口を叩くよなぁ、僕は反論する気力をなくした。
 だが、そんなこちらの態度など意に介さず隆生は喜々とした表情でさらに口を開く。
 そこに人影が近づいてきた。
「よー、前田さん。ひさしぶりたいねー」
 それに気づいて隆生が視線をそちらに向ける。
 それよりもゼロコンマ三秒ほど早く僕の視線は彼女、前田翔花に吸い寄せられていた。周囲の音が遠ざかり、自分の心臓の鼓動が代わりに大きく聞こえる。底なしの大きな穴に落ちて風を身で切ればこんなふうな感覚だろうか。
 ひさしぶり、とはにかむように笑う翔花に僕は息苦しいような感情に襲われる。
 が、そんなこちらの感慨をぶち壊しにするように、
「ほら、ほら、ミヤマクワガタ」
 彼女は手にさげていたバッグから菓子の箱を取り出して傾け、その蓋をあけて近くのクロスの敷かれたテーブルの上に“中身”を揺すり落とした。
 彼女の言葉通りの、頭の後部の左右が少し突き出た今や稀少となったクワガタが、心なしかちょっと怒ったようすで姿を現す。偶然か、翔花の方を向く姿はそのガサツさに対し抗議しているようにも見えた。
 相変わらずだな――僕と隆生は目線を交わし互いに苦笑する。ひとり、光信だけが、「む、虫」と顔を蒼褪めさせていた。
「なに、相変わらず虫が苦手なの」
 翔花はクワガタをつかんで掲げてみせる。
 彼女に悪意はないのだが、その行為は苦手な人間にとってはより虫が自分に“近づく”ことを意味するからいい迷惑だ。
「そのゴキブリを早くしまってよ」
「ひどい、どこがゴキブリなの。この子は残飯あさったりなんてしないわ」
 光信にとってはゴキブリもクワガタも一緒なのだろうが、昆虫学者を目指している翔花にすれば聞き捨てならないせりふだ、彼女は「よく見ろ」とばかりにクワガタを光信の眼前に突きつける。
 とたん、彼は言葉を失った。それだけなら害はないのだが、さらに目の焦点を失ったと思ったらその場に倒れる。
 へ、と僕、隆生、翔花は床に横たわった彼を前に言葉を失った。

 それから数分後、光信はやっと意識をとりもどした。
 さすがに翔花も反省したらしく、ここに来る途中で拾ってきたという――多分、近くにある寺の敷地の林あたりに棲息しているのだろう――ミヤマクワガタを、呼吸ができるよう無数の穴を開けた菓子の箱にもどしている。
 もっとも、そこに“居る”のがわかっていることだけで嫌らしく、光信は他のテーブルに移ってしまったが。
 それにつづくように、「俺もほかのやつに挨拶してくる」と隆生もはなれていった。そのとき、彼は意味ありげな笑みをこちらだけに見えるよう向けてきた。気を利かすのにもおどけずにはいられないのだから困った奴だ。
「いやー、いくら嫌いだからって気絶するなんておどろいた」
「そういえば、中学のとき教室に出たゴキブリがあいつの顔目がけて飛んでいったことがあって、あのときも卒倒してたよ」
「むう、朝日くんまでクワガタをゴキブリ扱いするの」
 苦笑を浮かべて告げると、彼女はむくれた顔をしてみせる。
 そんなさりげない表情の変化に、心のうちがざわめいた。光信のことがあったおどろきで最初の興奮に似た状態は脱していたけれど、翔花に対する感情はいまだに心のうちにある。
「あくまで、光信が、って話だよ」
 僕の弁解に、「なら、いいや」とあっさりと彼女は機嫌を直した。そして話が飛ぶ。
「ね、朝日くんって今、何してるの」
「うん、ああ」
 相づちを打ちながら、僕はどうしたものかと考えた。
 翔花に会えるかもしれないということに意識を向いてしまって、自分の仕事について他人にどう説明するか、そもそも明かさないのかそういうことを考えていなかったのだ。
「文筆業かな」「文筆業?」
 とっさに出てきた僕の言葉に翔花は小首をかしげる。
「物書きだよ」
 エロゲーのシナリオを書いてもいるから、嘘ではない。まあ、一般的にはそういうふうに形容しないけれど。
「え、やったね。夢だって言ってたもんね、小説家」
 僕の付け足した言葉に、翔花が目を輝かせた。
 え、う、いや、小説家ではないんだけれど。というか、物書きという肩書きも怪しいものだし。
「すごいなぁ。そういえば、東京の専門学校に通ってたもんね」
「今は、空いた時間にそこの講師もしてるよ」
 軽い思考停止状態におちいったせいで、考える前に口が動く。
 言ってしまったあとでしまった、と思った。
 今の言い回しでは、彼女の言葉を肯定したも同じだ。誤解を解かなくては、そう思うのに。
「ほんと、すごいね」
「っていっても、他の学校の半分のギャラしかくれないヒドいとこなんだけどね」
 彼女が連呼する褒め言葉に、つい相手に合わせてしまう自分がいた。
 こちらの明かした事実に彼女は目を弓なりにして笑う。
 やっぱり、女性の表情のなかで笑顔は一番魅力的だと感じた。同時に、もっと見ていたいとも。
「ねえ、どんな作品出してるの」
「いや、作品とかそんな大仰なものじゃないから。中高生向けの、漫画みたいな挿絵のついたライトノベルってやつだし」
 嘘なんてつくもんじゃないってわかっているのに、翔花の笑顔は、僕に生粋の詐欺師のように饒舌に偽りを吐かせる。後ろめたさが急激に胸のうちでふくれあがっていった。それでも、笑顔の彼女と言葉を交わせるという状況には抗えない。
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