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チャプタ―6

君へ向かうシナリオ6

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 講師の仕事を午前中で終えた僕は、翔花の所属する研究室がある大学へと向かった。
 同窓会のあとの三次会で大学や研究室、さらに研究そのものに興味があることを示唆したら「一度、見に来てみる?」と誘われたのだ。
 事前に彼女に伝えられていた部屋を求めて大学構内を少し迷い、目的の場所へとたどりつく。
 簡素な扉をノックすると、予想していた彼女の声ではなく別の女性が応じた。
 扉が内側から開けられた。男前な顔をして斜に構えた雰囲気の、白衣姿の女性がそこには立っている。値踏みするような目でしばしこちらを観察し――その無遠慮さは実験動物の気持ちを僕に感じさせた――「小説家の人」とたずねる。
 喉に言葉が引っかかるのをおぼえながら僕は、まあ、と曖昧な声を返した。
「聞いてる、入って」
 歓迎しているわけじゃないだろうけど、反発する気配も感じさせない微妙な態度で彼女はこちらを迎え入れる。
 部屋は雑然としていた。機材や器具といった物が部屋に並ぶ大机やデスクの上を埋め尽くしている。そんな室内の景色の一分と一体化するように、顕微鏡を覗き込んで動かない翔花の姿が部屋の中央近辺にあった。
 こちらが訪問する時間は知っているはずだけれど、彼女が顔をあげるようすはない。それどころか、こちらの出現に気づいた雰囲気さえ示さなった。
 僕は救いを求めるように、扉の近くに立って腕組みする先ほどの女性に視線を送る。が、彼女はそれに気づかないように目線を無視した。
 しょうがない、僕は戸惑いながらも机の島の間を歩いて翔花へと近づいていく。
 手をのばせば届く距離に来たところで足を止めた。未だに翔花の視界にこちらの姿が入ったようすはない。ただ、彼女は必死の、そう必死の形相で顕微鏡を覗き込んでいた。
 見えない屈強な番が背後にいて翔花が少しでもサボろうとすれば鞭を受ける、そんな連想さえ抱かせる鬼気迫る雰囲気を彼女はまとっている。
『あいつ、病気で婚約までしてた彼氏を亡くしたらしいぞ』。
 耳の奥に、隆生の言葉がよみがえった。

 場所は、隆起の実家の自室でのことだ。両親とは幼少期から小学校低学年にかけて受けた虐待、そして高校進学の話に父が発した「金がもったいないから、国立大に進学しろ」という発言をめぐって喧嘩をくり広げた結果、今は赤の他人の状態にある。専門学校の卒業からもはや、五年ほどが経つが以来一度も実家には立ち寄っていない。
 今回も、同窓会に参加するに当たっての宿としたのは隆生の家だった。
 僕が変なのかもしれないが、友人の家のほうが心が安らぐ。親子の情や気づかい、優しさというものがそこかしこに感じられ、他人の自分までも家族の輪のなかにいるように錯覚するのだ。
 それはともかく。
 部屋の電気を消して、隆生はベッドに、僕は布団に入ったところで友人はぽつりともらしたのだ。
「あいつ、病気で婚約までしてた彼氏を亡くしたらしいぞ」
 声には言葉にせずとも憐憫の情があふれていた。
 同時に、なぜこのタイミングにこのせりふを彼が発したのかも理解する。
 当人が聞いてしまうところで話題にできるはずもない。
 それに、不用意に告げてまるで興味本位で明かしたように取られたくない。
 そういった理由が重なって、照明を落として眠りにつこうとしているこの瞬間を選んだのだろう。
 僕はしばし、言葉を選んだ末に結局、
「かわいそうだったね」
 と口にした。
 哀れだな、と言うのはなんだか上からの発言に思える。しかし、ご愁傷様、と隆生に告げてみてもしかたがない。物語を作る仕事にたずさわっていてこんな安直な言葉しか出てこないのが悔しかった。四〇〇字詰め原稿用紙換算で三万二千枚以上文字をつづっていてこの程度とは。
 でも、現実というのはそういうものだ。
 犯罪を誘発するような内容の小説、アニメ、漫画、映画よりも正義や道徳を説いている物語のほうが世の中には絶対に多い。それなのに、若い人間が犯罪を犯したときには言い訳として「○○○という作品に影響された」などといわれてしまう。「×××という作品に触発されて」などと発言し英雄的な行動に走る人間は出てきてくれない。
 躊躇するようなやや不規則な息づかいのあと、
「翔花と付き合うのはキツいと思うぜ」
 隆生は遠慮がちに告げた。
 正直、少し腹が立つ。自分自身、いわゆる“ふつう”の人間の枠からはずれ、ハンデを背負っているような立場だから、“違うもの”を切り捨てるような発言に反発をおぼえた。ただ、友人が気づかいゆえにその言葉を発したことも理解しているから声を荒げるようなことはなかった。
「キツいのは馴れてる」「確かにな」
 僕のおどけた調子の声に、隆生は小さく笑い声をもらす。

「前田さん、来たんだけど」
 翔花に、そっと声をかけた。だが、彼女はなおも反応を示さない。
 うーん、と僕は心のなかで唸り声をあげた。しかたがない。
「前田さん」僕は彼女の肩に軽く触れた。とたん、彼女は顕微鏡から顔をあげてこちらを驚いた顔で見る。
「いや、そんなに驚かれても。僕だよ」
「あ、巽(たつみ)くん」
「いや、だからそんな不意打ちを受けたみたいな反応されても。招待したのは前田さんだよ」
「そうだったね」
 僕の困惑気味の反応に、彼女は誤魔化すように笑いを浮かべた。
「あのさ、集中しすぎだよ。涙出てるよ」「あ」
 その指摘に、翔花はにじんでいた涙をあわてたようすで拭う。なんとなく、目の疲労からというようすではなかった。
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