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チャプタ―16
君へ向かうシナリオ16
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僕の後ろで音を立てて翔花の住むマンションの302号室の扉が閉まった えーと、思わず胸のうちでつぶやく。
物語のような急展開についていけなくなっていた。
待ち合わせたコーヒーショップに駆けつけると、精神的に少し持ち直したようすの翔花が待っていた。ただ、その目は明らかに赤くなっている。
最初、彼女を事情をぽつりぽつりと語った。
感情的な言葉が混じって話は本筋からたびたびはずれたが、翔花の話を総合すると、担当教授がスキャンダルを起こしてしまったらしい。
しかも、六〇代の彼が、助教授の妻四〇歳に手を出したというのだ。
そのせいで、担当教授は職を追われることになったという。
翔花は担当教授にかわいがられていて――この場合、純粋に助手、研究者を目指す人間として――怒りを持て余した助教授の感情の矛先がどうも彼女に向かいそうな雲行きだというのだ。
研究者として尊敬しており、まさかそんな非道徳的な真似をしているとは思わなかったという精神的なショックを翔花は受けた。さらには、口さがない人間は教授に目をかけられていたという翔花を、彼の愛人であったかのように噂しているという。
過疎化の進んだ村落よりも狭い世界が大学という場所だ。精神的な抑圧は半端なものではない。
だが、なによりも彼女が恐れているのは、
「研究者への道(これ)がなくなったら、わたし何もなくなっちゃう」
ということだった。
そして、彼女のせりふには口にされなかったこういう言葉が頭のほうにあったはずだ。
「前の恋人を亡くした上に」と。
声を高くした翔花の悲愴な顔を見た瞬間、僕の理性は吹き飛ぶ。
「生き甲斐の代わりになんてなれないけど、こうして側にいることはできるから『なにもなくなり』はしないよ」
強い語調で、気づけば訴えていた。
相手から見てよほどの気迫がこもっていたのか、翔花は目を見張る。
あ、やってしまったか、と僕はまたもあせり過ぎたと早くも後悔をおぼえた。
そんなこちらの危惧を、翔花の浮かべたあかるい表情が払拭する。
「うれしい、ありがとう」
彼女はふしめがちになって礼をのべた。
それから、ずっとたあいない話をしながら時間を過ごし、店を移動して夕食を食べた。
そして、店をバーに移して、終電が気になる時間帯になる。
これからの展開が見えなくて落ちつかない気分になりはじめたころ、
「帰らないで」
と翔花が告げたのだ。
そうして、深夜をまわったところで彼女の部屋へと足を踏み入れる運びとなった。
しかも、あれよあれよという間に僕は翔花の1LDKの寝室に立っている。
恋愛経験の浅い僕としてはまったく心の準備ができていなかった。
しかし、それ以上に引っかかることがある。
たぶん、彼女の心にはまだ“前の”彼氏がいるはずだ。
その状態で彼女と寝ることは代用品として翔花に付け入るような行為、そんな躊躇がある。
ただ、ベッドサイドにたたずむ僕を見上げる彼女の、
「あなたまでわたしの前から消えるの?」
とでもいいたげな、すがるようなまなざしを目の当たりにすると「帰る」なんて口にできるはずもなかった。
僕は意を決して彼女へと手を伸ばす。
ひさしぶりのセックスはお世辞にもうまくいったとはいえなかったけど、終わったあとの彼女の顔から翳りが消えていたからとりあえずはよかったのだと思う。
ただ。
「“こういう”経験も小説のもとになるの」
と翔花に告げられた瞬間、僕の中から快感の余韻その他はあとかたもなく吹き飛んだ。
不覚にも、忘れていた。
ゲームディレクター、専門学校の講師のふたつの仕事を兼任しながら、かつプライベートの日々を過ごしていると様々なことを失念してしまう。
重要なことを忘れることさえままあるのだ。
それが今回も起こっていた。
自分は翔花の前では小説家なのだ。
そのことを思うと、あらためて頭を抱えたくなる。
僕の後ろで音を立てて翔花の住むマンションの302号室の扉が閉まった えーと、思わず胸のうちでつぶやく。
物語のような急展開についていけなくなっていた。
待ち合わせたコーヒーショップに駆けつけると、精神的に少し持ち直したようすの翔花が待っていた。ただ、その目は明らかに赤くなっている。
最初、彼女を事情をぽつりぽつりと語った。
感情的な言葉が混じって話は本筋からたびたびはずれたが、翔花の話を総合すると、担当教授がスキャンダルを起こしてしまったらしい。
しかも、六〇代の彼が、助教授の妻四〇歳に手を出したというのだ。
そのせいで、担当教授は職を追われることになったという。
翔花は担当教授にかわいがられていて――この場合、純粋に助手、研究者を目指す人間として――怒りを持て余した助教授の感情の矛先がどうも彼女に向かいそうな雲行きだというのだ。
研究者として尊敬しており、まさかそんな非道徳的な真似をしているとは思わなかったという精神的なショックを翔花は受けた。さらには、口さがない人間は教授に目をかけられていたという翔花を、彼の愛人であったかのように噂しているという。
過疎化の進んだ村落よりも狭い世界が大学という場所だ。精神的な抑圧は半端なものではない。
だが、なによりも彼女が恐れているのは、
「研究者への道(これ)がなくなったら、わたし何もなくなっちゃう」
ということだった。
そして、彼女のせりふには口にされなかったこういう言葉が頭のほうにあったはずだ。
「前の恋人を亡くした上に」と。
声を高くした翔花の悲愴な顔を見た瞬間、僕の理性は吹き飛ぶ。
「生き甲斐の代わりになんてなれないけど、こうして側にいることはできるから『なにもなくなり』はしないよ」
強い語調で、気づけば訴えていた。
相手から見てよほどの気迫がこもっていたのか、翔花は目を見張る。
あ、やってしまったか、と僕はまたもあせり過ぎたと早くも後悔をおぼえた。
そんなこちらの危惧を、翔花の浮かべたあかるい表情が払拭する。
「うれしい、ありがとう」
彼女はふしめがちになって礼をのべた。
それから、ずっとたあいない話をしながら時間を過ごし、店を移動して夕食を食べた。
そして、店をバーに移して、終電が気になる時間帯になる。
これからの展開が見えなくて落ちつかない気分になりはじめたころ、
「帰らないで」
と翔花が告げたのだ。
そうして、深夜をまわったところで彼女の部屋へと足を踏み入れる運びとなった。
しかも、あれよあれよという間に僕は翔花の1LDKの寝室に立っている。
恋愛経験の浅い僕としてはまったく心の準備ができていなかった。
しかし、それ以上に引っかかることがある。
たぶん、彼女の心にはまだ“前の”彼氏がいるはずだ。
その状態で彼女と寝ることは代用品として翔花に付け入るような行為、そんな躊躇がある。
ただ、ベッドサイドにたたずむ僕を見上げる彼女の、
「あなたまでわたしの前から消えるの?」
とでもいいたげな、すがるようなまなざしを目の当たりにすると「帰る」なんて口にできるはずもなかった。
僕は意を決して彼女へと手を伸ばす。
ひさしぶりのセックスはお世辞にもうまくいったとはいえなかったけど、終わったあとの彼女の顔から翳りが消えていたからとりあえずはよかったのだと思う。
ただ。
「“こういう”経験も小説のもとになるの」
と翔花に告げられた瞬間、僕の中から快感の余韻その他はあとかたもなく吹き飛んだ。
不覚にも、忘れていた。
ゲームディレクター、専門学校の講師のふたつの仕事を兼任しながら、かつプライベートの日々を過ごしていると様々なことを失念してしまう。
重要なことを忘れることさえままあるのだ。
それが今回も起こっていた。
自分は翔花の前では小説家なのだ。
そのことを思うと、あらためて頭を抱えたくなる。
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