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第110話 エリック・ミューランとエリザベス・ヘア
しおりを挟むエリック・ミューランは、次に出版予定の書物の打ち合わせに王立大学へ来ていた。相手は歴史考古学博士エリザベス・ヘアだ。
エリザベス・ヘアが博士号を取得したのはまだ最近のことだが、年齢はまだ32歳という若き天才考古学者だ。
彼女は現在、「バレリア文明」について研究している。
バレリア文明というのは、メストリルの遥か南方で発見された遺跡の古代文明であるらしい。
数十年前、レーゲン・ウォルシュタートという考古学者がその遺跡を発見し、その中からその文明の「文字」と、遺物の「円盤」を発見したとかいうことだ。
しかしながら、エリックにとっては何のことかさっぱりわからない。
父からは「バレリア文明」に関する書物の出版については先先々代、つまり、父からさかのぼって、3代前の、メストリル王立出版の基盤を築いた頭目、ウェンディ・ミューランの遺志だと聞かされている。
そのレーゲン何某の遺志を継ぐ研究員たち、つまり王立大学の歴史考古学の博士やその仲間たちの研究の成果を世に送り出すのが、この出版会社の使命だと言い聞かされている。
旧メストリル出版が王国からの恒久的援助を受け、王立出版となった折、国家の公示や広報を出版すると同時に、この「バレリア文明」の研究書物の出版も王家からの主命とされているということなのだ。
どうしてそんな、砂にまみれた古代遺跡とやらに王家が執着するのかはエリックにとっては全く興味がない。ただ、この「書物の打ち合わせ」という仕事は大の好物だった。
目的はなんてことはない、打ち合わせの相手がエリザベス・ヘアだからだ。
エリックにとってはそれ一点のみで、この仕事をやっている価値があった。
エリック・ミューラン、この時33歳。
エリザベスとは一つ違いで、年齢も近い。もちろん独身。容姿はそれほど悪くはないが、いまいち垢《あか》ぬけない、普通の青年だ。
そんな男だが、後々はこの王立出版の会頭になるはずの男である。身分は悪くはない。
エリザベスももとはと言えば平民の出身だと言っていた。そういう意味では、同じ平民でも、王立の会社の会頭家のエリックの方が家名としてはやや上級となるだろう。
「ねえ、ベス。どうだいこの後、食事でも――?」
打ち合わせが片付いた後、エリックは満を持してエリザベスに声をかけた。
「エリック、ごめんなさいね。今日はこのあと、研究員たちとミーティングがあるのよ、だから、食事に行っている時間がないの」
あっさりと断られる。
と、その時、教授室の部屋の扉がノックされた。
どうぞ、と気兼ねなしに返答するエリザベス。扉を開けて入ってきたのは、背が高い一人の学生だった。
「ああ、クリス、ありがとう。私ももう打ち合わせ終わったから、支度したらミーティング室へ向かうわ――」
クリスと呼ばれたその学生は、何やら両手に抱えていた資料をエリザベスの机の上に置くと、
「分かりました、教授。それでは先に行って、前説を始めておきます――」
と、そういうと部屋を出ていこうとする。
「ほんとにありがとう、クリス。よろしくお願いね――」
エリザベスはその彼にむかって輝くような笑顔を向けた。
エリックは、エリザベスのそのような顔を見たことはなかった。
「あ、ああ、じゃあ、僕は、もう失礼するよ。次の打ち合わせはまた後日連絡するね。ベス、あまり、無理しなくていいからね」
エリックは少々間が持たないと感じて、立ち上がった。
「はいお疲れ様。よろしくね、エリック」
エリザベスはそう言って笑顔を返してくれたが、さっきの学生に向けたものとは明らかに「ランク」が違う。
エリックは、部屋を出たあと廊下を見やる。
さっきの学生が廊下の先を歩いていく背中が見えた。
エリックは思わずその学生の後を追って、声をかけた。
「き、君――!」
その学生は、声をかけられたことに驚いて、振り返った。
エリックとは身長差が15センチほども違う。自然、その学生がエリックを見下ろすような格好になる。
「はい? なにかお呼びでしたか?」
学生は怪訝な顔でエリックを見下ろしている。
「あ、いや、その、なんというか、僕はエリック・ミューランというものだ。ベスの次の本を出版するために打ち合わせに来ている。あまり彼女に無理をさせないでくれ。彼女はその、頑張り屋なところがあるから、その、なんというか――」
エリックは言いたいことがうまく言葉にできていないことにもどかしく思った。
僕は彼女に好意を持っている。邪魔しないでくれ。とそう言えればどれだけ胸がスッとすることだろうか。
「あ、ああ、ありがとうございます、ミューランさん。僕はクリストファー・ダン・ヴェラーニと言います。先生の研究のお手伝いをしている学生です。先生の研究はとても素晴らしい成果を上げておいでです。どうぞ、その成果を国中、世界中の人たちにお伝えください。よろしくお願いいたします」
そういうと、クリストファーはエリックに深々と頭を下げた。
エリックはこの青年の紳士的な対応に、より格の違いを見せつけられたような気分になるのだった。
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