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前編
プロローグ
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広島の町は曇っていた。今朝から降った雨の名残が石畳を濡らし、店先の幌が水を滴らせている。夕刊の配達を終えて、家までの最後の下り坂。湿った空気を割くように、自転車のサドルから尻を持ち上げて上体を乗り出す。
そして最後の角を曲がろうとした時、ふと目の端に白く輝く何かを捉えた。その眩しさに思わず目を向け、目を凝らす。通りの向こうに立ち尽くすしていたのは、一人の男だった。
制服を着ていた。黒い詰襟に、眩ゆく光る白の制帽。江田島の兵学校の人間だ、と思った。すぐに分かったのは、密かに憧れていたからだ。まだ若い、たぶん十七かそこら。けれどその立ち姿はあまりにも美しくて、町の喧騒の中にあってもその人だけは凪いだ海のように静かだった。
気がついた時には、ブレーキを握りしめていた。理由なんてなかった。ただ目を奪われたのだ。
こんな綺麗な人がいるのかと思った。人が綺麗というのに、性別など関係ないのか。それはそれは夏の湿った空気の中で、じわじわとこれまでの全てを覆していくような衝撃だった。
彼は何かを探しているようだった。懐から地図を取り出して、くるくる回したりひっくり返したりしながら、周囲を見渡す。それだけの動作が、どうしてこんなに綺麗に可愛らしく見えるのか。まるで大きな引力にでも引かれるように、彼に足が向いた。そしてあと三歩というところまで近づいた時、彼はゆっくりとこちらを見た。視線がぶつかった瞬間、胸がざわめいた。生まれて初めての感覚に、体が震えた。
睫毛の長い、大きな目。どこか涼しげで、それでいて信念を感じる鋭い眼差し。
「……あんた、江田島の海軍学校のお方じゃろ。道に迷うとるんか」
怖がらせないよう、できる限り自然に笑ってみせた。だが彼はほんの少し目を細めただけで、真一文字に結んだ口を開こうとはしない。警戒されているのだろうか。
「どこへ行きたいんじゃ。わしが連れてったるけ、見してみんさい」
そう言って、控えめに地図を覗き込む。視線が気になって、ひどく緊張した。
「……中央郵便局、まで」
怒られるだろうか。そう思った時、彼の少し迷ったような小さな声が空気を静かに震わせた。それがあまりにいじらしくて、思わずハンドルを握る手に力が籠る。
「それなら、こっから歩いて五分じゃ」
並んで歩く間、男は一言も発さなかった。自転車を引くカラカラという音が、じめじめした空気にやけに響く。こういう時、適当な世間話でもして間を繋ぐのは得意な方だと自負していたが、何も聞けなかった。気軽に触れられないような、そういう高潔さがあった。居心地が悪いとは思わなかった。むしろ、この道のりが永遠に続けばいいと思った。
「ここじゃ」
郵便局の前でそう言って彼を見ると、彼は気まずそうに視線を合わせ、わずかに口元を動かした。
「……助かった。感謝する」
相変わらず小さな声だった。たったそれだけが、どうしようもなく心を満たしてゆく。
「人が困っとったら、ほっとけんけえ。……こんな綺麗な人じゃったら、尚更」
少し緊張しながらそう付け足すと、彼は静かに目線を下げた。軍人のイメージとは似つかぬその色白の耳が、微かに赤く染まっなような気がした。いや、それは流石に都合のいい見間違いだったかもしれない。
彼は最後に軍人らしい綺麗なお辞儀をして踵を返すと、そのまますっと扉の方に消えて行った。
あんな人が軍人になって、海に出るのだろうか。そう思うとたまらなかった。名前くらい聞いておけばよかったと、今更になって思った。
夏の夕方の匂い。蝉の鳴き声。制帽の白さと、静かな声。
いつもと同じ街なのに、嫌に世界が色鮮やかに見える。自転車を漕ぎながら少し思い出すだけで、思わず口元が緩んでしまう。
いつかまた会えるのなら、あの人の記憶に、ひとひらでも引っかかるような自分でありたい。できることなら――忘れようとしても、ふとした拍子に思い出してしまうような、そんな存在に。
海軍へ行きたいと言って母親を呆れさせたのは、その日の夜のことだった。
そして最後の角を曲がろうとした時、ふと目の端に白く輝く何かを捉えた。その眩しさに思わず目を向け、目を凝らす。通りの向こうに立ち尽くすしていたのは、一人の男だった。
制服を着ていた。黒い詰襟に、眩ゆく光る白の制帽。江田島の兵学校の人間だ、と思った。すぐに分かったのは、密かに憧れていたからだ。まだ若い、たぶん十七かそこら。けれどその立ち姿はあまりにも美しくて、町の喧騒の中にあってもその人だけは凪いだ海のように静かだった。
気がついた時には、ブレーキを握りしめていた。理由なんてなかった。ただ目を奪われたのだ。
こんな綺麗な人がいるのかと思った。人が綺麗というのに、性別など関係ないのか。それはそれは夏の湿った空気の中で、じわじわとこれまでの全てを覆していくような衝撃だった。
彼は何かを探しているようだった。懐から地図を取り出して、くるくる回したりひっくり返したりしながら、周囲を見渡す。それだけの動作が、どうしてこんなに綺麗に可愛らしく見えるのか。まるで大きな引力にでも引かれるように、彼に足が向いた。そしてあと三歩というところまで近づいた時、彼はゆっくりとこちらを見た。視線がぶつかった瞬間、胸がざわめいた。生まれて初めての感覚に、体が震えた。
睫毛の長い、大きな目。どこか涼しげで、それでいて信念を感じる鋭い眼差し。
「……あんた、江田島の海軍学校のお方じゃろ。道に迷うとるんか」
怖がらせないよう、できる限り自然に笑ってみせた。だが彼はほんの少し目を細めただけで、真一文字に結んだ口を開こうとはしない。警戒されているのだろうか。
「どこへ行きたいんじゃ。わしが連れてったるけ、見してみんさい」
そう言って、控えめに地図を覗き込む。視線が気になって、ひどく緊張した。
「……中央郵便局、まで」
怒られるだろうか。そう思った時、彼の少し迷ったような小さな声が空気を静かに震わせた。それがあまりにいじらしくて、思わずハンドルを握る手に力が籠る。
「それなら、こっから歩いて五分じゃ」
並んで歩く間、男は一言も発さなかった。自転車を引くカラカラという音が、じめじめした空気にやけに響く。こういう時、適当な世間話でもして間を繋ぐのは得意な方だと自負していたが、何も聞けなかった。気軽に触れられないような、そういう高潔さがあった。居心地が悪いとは思わなかった。むしろ、この道のりが永遠に続けばいいと思った。
「ここじゃ」
郵便局の前でそう言って彼を見ると、彼は気まずそうに視線を合わせ、わずかに口元を動かした。
「……助かった。感謝する」
相変わらず小さな声だった。たったそれだけが、どうしようもなく心を満たしてゆく。
「人が困っとったら、ほっとけんけえ。……こんな綺麗な人じゃったら、尚更」
少し緊張しながらそう付け足すと、彼は静かに目線を下げた。軍人のイメージとは似つかぬその色白の耳が、微かに赤く染まっなような気がした。いや、それは流石に都合のいい見間違いだったかもしれない。
彼は最後に軍人らしい綺麗なお辞儀をして踵を返すと、そのまますっと扉の方に消えて行った。
あんな人が軍人になって、海に出るのだろうか。そう思うとたまらなかった。名前くらい聞いておけばよかったと、今更になって思った。
夏の夕方の匂い。蝉の鳴き声。制帽の白さと、静かな声。
いつもと同じ街なのに、嫌に世界が色鮮やかに見える。自転車を漕ぎながら少し思い出すだけで、思わず口元が緩んでしまう。
いつかまた会えるのなら、あの人の記憶に、ひとひらでも引っかかるような自分でありたい。できることなら――忘れようとしても、ふとした拍子に思い出してしまうような、そんな存在に。
海軍へ行きたいと言って母親を呆れさせたのは、その日の夜のことだった。
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