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二人の別れ

第029話

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 歩いているうちに、ハービーは一つだけ思い出したことがある。それは、自由に作り替えることのできる体になったのは、完全に自己責任であるということだ。コメットが倒れ、なにかの糸が切れたハービーは、エヒムスからもらったアプリケーションを使った。それによって体に適用されたパッチが、現在のハービーの体を動かしている。
 しかし、そこから先のことは、やはりどうしても思い出せなかった。この能力があれば、体を治すことなどたやすいはずだ。それなのに、ハービーは腕がなくなったまま病院に担ぎ込まれた。記憶のない間に何があったというのか?
 そんなことを考えていたら、いつの間にか目的地に着いていたようだ。ジョセフが先に扉を開けて、部屋の中へと入っていく。ハービーも恐る恐るその後に続いた。
 病室の扉をくぐった先には、様々な機器に繋がれたコメットの姿があった。体の至る所からケーブルやチューブが伸びており、まるでロールアウト前のアンドロイドのようだ。
 近くには一人の白衣を着た男性が立っていて、タブレット端末を操作していた。おそらく医者だろう。二人が近くにやって来てようやく気がついたのだろう。タブレットから目を離し、軽く頭を下げた。
 ハービーはコメットの顔へと目を移す。非常に安らかな顔で眠っており、ゆすってあげればいつものように目を覚ましそうでさえある。しかし、大量につながれたケーブルが、その期待を消し去ってしまう。
「どうですか? コメットの様子は」
 ジョセフが尋ねる。医者は首を左右に振った後口を開いた。
「今は内部残留電源と外部非常電源でかろうじて動いていますが、復帰は困難です」
 あれだけの血が流れ出たのだ。覚悟はしていた。ハービーと同じ人工有機物によるボディの持ち主であるハービーなら、きっと大丈夫だと思ったが、どうやらそれでは間に合わないほどのダメージを負ってしまったようだ。
「僕のせいだ……」
 ハービーは自分を責めた。自分が一人で道具の片づけに行かなければ。あの時、すぐにでも助けを呼んでいれば。あのまま黙ってあの場所で捕まっていれば、コメットが傷つくことなんでなかったのに。
 しかしどれだけ後悔したとしても、もうコメットは帰ってこない。
「万が一の可能性に賭けてこのまま入院を続けることもできますが、どうしますか?」
 医者はけろっとした顔でそんなことを尋ねてきた。彼だって仕事でこのような現場は何度だって見てきたのだろう。ハービーにとって特別なコメットも、彼にとって見ればただのひとりの重篤患者に過ぎない。理屈では分かっていてもそれがとても悔しくて、ハービーは拳を硬く握る。次にむかつくことを言われてしまえば、おそらく殴りかかるだろう。たとえジョセフが止めたとしても。
「お前が決めろ」
 そんなハービーの肩を、ジョセフが叩いた。驚きのあまり視線をコメットからジョセフに移す。
「俺とコメットは、あくまで雇用主と労働者の関係でしかない。だから、俺はアイツの仕事は決められても、人生については決められない」
 そんなことないとハービーは首を振る。まだ一ヶ月とはいえ、右も左も分からない二人を育ててくれたのは他ならぬジョセフだ。少なくともハービーは家族も同然だと思っている。おそらくコメットだってそうだろう。
「家族のことは、せめて家族が決めてやれ」
 ハービーは泣き出しそうだった。誰かの人生を決める権限なんてない。しかし、本人であるコメットはそれを決めることすらできない状態にある。なだ誰が決めるのか? この場で居るヒトを消去法にかけると、残るのはハービーただ一人なのだ。
 ベッドの側に居る医者に目を向ける。目が合った直後、彼は黙って頷いた。あなたが決めて言い。そう言いたいのだろう。催促こそしてはいないが、答えを聞くまで帰さないぞと、そんな圧力すら感じる。逃げるように目線をそらし、ベッドに横たわるコメットに視線を向ける。何度見ても爽やかな寝顔だ。それなのに、もう二度と話すこともできないなんて、残酷すぎる。
「コメット……」
 そっとおでこをなで上げる。その額に、ハービー自身のおでこを重ねた。まだほのかに暖かい。それでも、いつもよりはずっと冷たい。死が、目の前で現実の物になろうとしている。それが辛くて、ハービーは目を閉じた。
「ありがとう、ハービー」
 頭の中に、声が聞こえた気がした。驚きで目を開き、彼女と距離を取る。よく見ると、閉じられた目元から涙が一滴、こぼれ落ちた。それを見てようやく、聞こえた声がコメットの声だったのだと理解した。
 自分にとって都合の良い幻聴だったのかもしれない。それでも、それは彼女からの、別れの挨拶であったようにも感じた。
「……もう、大丈夫です」
 消え入りそうな言葉で、そう言った。もうコメットに治療をしなくてもいい。そして、コメットがいない世界でもどうにか生きていくと。ハービーはそう決めた。
 後ろからジョセフが優しく抱きしめてきた。それと同時に、嗚咽が聞こえてきた。ジョセフが泣いていたのだ。なんで自分よりも先に泣いているんだとハービーは思った。しかしそれに誘われるようにして、涙が溢れてくる。一度溢れれば、それは際限なく溢れてくる。
「……分かりました」
 ハービーの決断に、ようやく医者が返事をした。そしてすぐに、外部非常電源をダウンさせた。
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