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序章

目覚め

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呼吸を乱し、何度も足をもつれさせながら私は走る。
恐怖で心臓は激しく鼓動し、震える手足を叱責して動かす。

見通しの悪い夜の森。後ろから、熊が迫っているのだ。
強力な分足が遅いのが救いだが…すぐに意味はなくなる。

何不自由無い貴族の娘に生まれた私が、逃げ延びる術なんてある訳がない。


どうしてこうなったのだろう。涙で視界が滲む、悔しさで頭が熱くなる。


『セレスト。出来損ないのお前はもう要らない』


これは走馬灯というヤツなのか、数時間前まで父だった男が脳裏に浮かぶ。


「はあ、はあ、あっ!?」

考えごとをしていたら、木の根に足を取られて…ああ、もう終わりだわ。

「は…あはは…っ」

立ち上がる気力なんてない。


 グオオオォッ!!

迫り来る鋭い爪が…やけにスローモーションに感じる。
お願い、もしも神様がいるのなら。どうか…苦しまず、一瞬で楽にしてください…。

諦めてぎゅっと目を閉じる。すると…


 ギャアアァッ!!?


え?何今の、断末魔のような声は?



'…こっわ~!わたし生きてる?よかった~…!'


…?頭の中に、誰かの声が響く。
女性で、とても軽快な口調で。どこか…懐かしさを覚えるような。

いえそれよりも、痛みがいつまで経ってもやってこない。
獣の臭いや呼吸音まで消えた…恐る恐る目を開ければ。さっきまで熊がいたはずの場所に…黄金の砂が山となっている…?


'ねえこの身体の持ち主さん、まだ通じないかな…'

?キョロキョロと周囲を見渡すも、私以外の人間はいない。まるで、頭の中に誰かが住んでるみたい。


「…あの。あなたは誰?」

'おっ!んとね~…わたしはもう1人の貴女かな?'

どういう事?私は、私よ?

'説明が難しくてさ…とにかく、どこか安全な場所に行かない?'


私は恐怖でどうにかなってしまったのかもしれない。
でも…少しだけ、寂しさは薄まった。
妄想でも幻聴でもなんでもいい。1人でいたくない…。


「移動するにしても…腰が抜けてしまって立てないの」

'そりゃあんな大熊に追われればね…。じゃ、『バリア』って言ってみて'

「…?『結界バリア』」


大人しく復唱すると…。


キイィ…ン


何…?風で木々が擦れる音。不気味な鳥の鳴き声。川のせせらぎ…それらが世界から消えてしまった。
一瞬で耳が痛くなる程の静寂に襲われたのだ。


'おおすごい。半径50メートルに結界張っちゃったよ!'

「結界…?まさか、魔法?」

'そうだよ。だって貴女は…偉大な魔法使いなんだもの!'




魔法。それは限られた者しか扱えない、奇跡の力。



私…セレスト・ティアニーは伯爵令嬢だ。
ティアニー家は代々優秀な魔法使いを輩出してきた名家で、王室からの信頼も厚い。

魔法を使うのに必要な魔力。これは遺伝して生まれつき体内に持つ。
それが判明するのは生後100日の時。神殿にて検査をするのだ。
だが必ず受け継がれるものではなく、父も祖父も持っていない為、平凡な人間と変わらない。

私だってそうだ。それでも同じく魔法使いの家系の男性と結婚すれば、子に遺伝されるかもしれない…。


それなのに。


「私は…ティアニー家を追い出されたのよ。何故かわかる?」

'……貴女のお母さんが亡くなったから…だよね?'

「そうよ!お母様は…出身は没落しかかっていた男爵家だけど、強い魔力を持つ魔法使いだった。その為父と政略結婚を…それは貴族として仕方のないこと」

だけど先日…お母様は病で亡くなった。
お母様を愛していなかった父は、葬儀が終わった次の日には愛人を家に迎えた!


「しかも、私より2つ下の娘を連れてね…。その子は微量ながらも魔力を持っていたから、晴れて可愛くない娘はお役御免。
父はお母様にそっくりな私を、ずっと嫌悪していたもの。
自分の手で殺すのは流石に後味が悪いから、猛獣が多く棲息するこの森に捨てたのよ!!」

'………………'


はあはあ と、肩で息をする。ああ…本当に、頭がおかしくなったみたい。
どうかしてるわ…妄想相手に。
なんとか身体を動かし、大きな木に寄りかかって一息。


…その愛人は、父が本当に結婚したかった女性。
もう何代も魔法使いが生まれない為、泣く泣く彼女と別れてお母様と結婚した。
衰退しきっているティアニー家は、魔法の名門以外何も無いから。過去の威光を取り戻す為だけに。

だからお母様のことを、愛し合う2人を引き裂く悪女!なんて思っていたのでしょう。
それで生まれた私も、魔力を持っていなかったから…。

「いくら可愛くない娘でも、世間体もあり伯爵令嬢として育ててきた。
でももう終わりね。きっと今頃、私は家出なんかで片付けられているでしょう。
必死に探してるフリをしてると思うと、笑っちゃうわ」

'……貴女には魔法という心強い武器がある。生活には困らないよ'

「ああ…それ。あはは、魔法なんて使える訳ないじゃない。だって私は、出来損ないのセレストだもの。
さっきの熊も、この結界も何かの間違いよ」

'…まあその辺は追々ね。それより寝床を作ろうよ。冷たい地面の上に横になるの、嫌でしょ?'

簡単に言ってくれるわね、本当に…。


「ねえ…あなた、名前は?」

'わたし?'

「他に誰がいるのよ」

もうあなたの正体なんてどうでもいい。ただ、名前が無いと呼びづらいじゃない。


'……眞凛'

「マリン?素敵な名前ね」

'…ありがと。貴女のことも、セレストって呼ばせてもらうよ'




私は母を亡くし、父には捨てられ、熊に殺されかけて。
人生どん底、終わった…と思ったけど。


このマリンとの出会いが、私の運命を変えることになる。
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