紅葉色の君へ

朝影美雨

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プロローグ ルサンチマン

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プロローグ ルサンチマン

「人は、万物全てに、意味や、理由や、価値を付けたがる。
 縁に。
 智慧に。
 財産に。
 才能に。
 運命に。
 容姿に。
 力に。
 時間に。
 夢に。
 心に。
 そして――理不尽に。

 五体満足なみんなと、一生動かすことのできない足を持つ僕との。
 恵まれた者と、恵まれなかった者との。
 その、格差とも不遇とも呼べる、理不尽に。
 意味を。理由を。価値を。付けたがる。
 ただひとつ、『命』だけは、除かれて。
 つまり。

 生きることは正しくて。
 生きることは絶対で。
 生きることは全てで。
 意味がなくとも。
 理由がなくとも。
 価値がなくとも。
 生きなければ、ならない。

 僕の生きる意味が。
 僕の生きる理由が。
 僕の生きる価値が。
 わからない僕でも、生きなければならない。



 僕は知っている。

 世界はきっと美しくて。
 人はきっとあたたかい。
 みんな輝くものを持っていて。
 みんな平等に幸せになれる。
 文字や声、歌とか絵、行動、態度、その他あらゆる方法で、あらゆる人がよく言う言葉。
 諦めなければ必ず叶う。
 誰かが必ず見てくれている。
 汗を流した努力も。
 涙を零した夜も。
 必ず、報われる。

 それらは全て。
 詭弁であると。

 僕は知っている。

 世界は、汚れから目を逸らしていることを。
 人は、あたたかくなりたい時だけあたたかいことを。
 掘り出されないと、輝けないことを。
 みんな平等に、不平等であることを。

 手の打ちようがないことを、諦めさせてくれないことを。
 手遅れになってから、見てたことを報告してくることを。
 汗も涙も、救われないことを。

 結局人は。
 自分が一番かわいくて。
 自分が一番かわいそうだということを。

 僕の涙くらいは、きっとみんな知っているには、知っている。
 だけどみんな知らないふりをして、僕から距離を取る。
 考えるのが面倒くさいから。
 仲間から変な目で見られるから。
 すでに決まっていることだから。
 それになにより、楽しくないから。 

 時々、心優しい他人が、困っている僕を助けてくれる。
 助けられる範囲の事を助けてくれる刹那の間、嬉しさや喜びよりも申し訳なさに心が汚染される。
 そうしてばつの悪い笑顔で「ありがとうございました」という僕に、彼らは爽やかな笑顔で「頑張ってね」と言って踵を返す。
 そのあと再び、僕は僕と距離を置く世界に戻って生活する。

「世界は、健常者だけのもの」
 誰もそんなことは言わないが、誰よりなにより、世界がそう言っている。
 十六年間生きてきた僕へ、そんな風に世界は、自己紹介をする。
 残念ながら、歩けない僕は、健常者に属せない。

 今は昔と比べて、健常者に属せない者も生きやすくなってきているらしい。
 法改正や、施設のバリアフリー化や、医学の進化が進んで、昔は行けなかった場所も行けるようになったらしい。
 享受できなかった選択肢を、選べるようになったらしい。

 だったらどうして、未だにみんな、僕を避ける?
 歩けない僕と深く関わることは、この世界では恥なのか?
 歩けない僕が歩行の可否が関係ない行事に、参加されると困るのか?
 
 そんな憤りや悔しさが、あまりに日常にありふれているから、ついに慣れてしまった。
 すると今度は、慣れてしまった自分が惨めになった。
 僕を拒絶する世界に、僕を認めさせたかった。
 そのエネルギーは、もう一滴も残っていない。

 世界と戦うことに挫折した僕は、その矛先を己自身に向けた。
 まず初めに、戦えなくなった弱さを呪った。
 次に、自分の体を呪った。
 最後に、これまでの戦いと動かない足を否定した、僕を。呪った。

 すべてが無駄に思えた。
 戦っていたころは、掲げていたはずの正義や、抱いていたはずの想いに、意味や理由や価値を見出していた。
 それらが全部、亡くなってしまった。
 
 僕が僕であるということを世界に許してほしかったのに、僕が僕であることを僕は赦せなくなった。
 考えれば、許してほしかったなんていうのも、僕を拒絶する世界というのも、極端な被害妄想だったのかもしれないが、今更それがわかったところでどうしようもなかったし、どうでもよかった。
 
 そのうち、生きることが疲れるようになった。
 戦えなくなって、戦わなくなっても、世界の自己紹介は、一言一句変わることはなかった。
 一方的に攻撃され続けるくらいなら、一方的に傷つくくらいなら、逃げてしまえばいい。
 そう思い始めた。


 
 生まれてきた意味を考えた。
 そんなものは無かった。
 生まれてきた理由は簡単だ。
 両親が生殖行為を行ったからだ。
 生まれてきた価値を考えた。
 命の誕生の価値、とでも言い換えようか。
 確かにそれには価値があると僕は思っている。
 だけど、『僕』が生まれてきた価値を考えると。
 見つけることも、こじつけることも、できなかった。
 こじつけることくらいはできると思っていたから、少しだけ驚いたけれど、まぁ、それも仕方のない事なのかもしれない。
 僕は僕の存在を、赦していないのだから。

 それでも今日まで、おこがましくも生きてきた。
 我ながら、こんな境遇でもたくましく生きてきたと思う。
 でも、もう十分頑張ったと思うんだ。
 みんな「頑張ってね」とは言ってくれても「頑張ったね」とは言ってくれない。
 だから僕は自分で言うことにした。
 
 僕は十分、頑張った。

 人生にリセットボタンがあったら、或いは巻き戻しボタンがあったら、こんな結論にたどり着くこともなかっただろう。
 体のHPは眠れば回復するけれど、心のHPは眠っても回復しない。
 カーテンの隙間から射す朝日を浴びるたびに、むしろ、また一日が始まるんだと、HPは削れていった。
 美味しいものを食べたり、好きな漫画やアニメを見たり。
 興味のある本を読みふけったり、ゲームで我を忘れたり。
 そうして少しずつ回復していくHPも、一度外の世界に出てしまえば水泡に帰す。
 見て見ぬふりでかろうじて保ってきた不安定なわだかまりが、雪崩の如く崩れてしまう。
 だけど内に籠って、殻に蹲って、生きていけるほどに、僕の環境は恵まれていない。
 意味も理由も価値も知らずに、ただ生かされるままに生きるために、僕は外に出る。
 生きなければならないから、生きる。

 そんな生活とも。
 そんな世界とも。

 今日で、お別れだ。」



 車いすに乗っていると、自殺の選択肢も限られてくる。
 まぁ、死のうと思えばどうにでもできるのだけれど、僕はなるべく苦しんだり痛かったりせずにこの世を去りたい。
 最期くらい、痛い思いも、苦しい思いも、したくない。
 でも、そう簡単な話でも、ないようで。

 この町には海がない。町を囲む山々も、ずっと遠い。
 川は三本流れているが、十五年前に大洪水がこの町を襲ったらしく、その対策としていずれも高い堤防が築かれている。とても車いすで乗り越えられない。
 
 自分の身長よりも高いところに縄をくくれない。もちろん高台にも乗れない。位置が低くても首を絞めることが出来れば死ぬことが出来るらしいが、その場合時間がかかる。僕としては、即死が望ましい。

 それで線路への飛び込みを選択する僕もどうかと思う。が、しかしもう決めたことだし、もう踏切前に到着してしまっている。なるべく他人を巻き込まないように、まぁ、飛び込む時点で電車に乗っている人は否応なく巻き込まれるのだけれど、人気のないほうの踏切を選んだ。錆びついたシャッター通りと、クモの巣が張り巡らされた空き家の通りに挟まれた踏切なら、僕の血しぶきを見る人も少なくできると思った。
僕を殺してくれる凶器に乗る乗客は、命が亡くなる瞬間を間近に見てしまうかもしれないが、そこは運が悪かったとして諦めてもらう。世界は理不尽なのだから。
 他人の自殺を見てしまうくらいの理不尽であれば、理不尽の中でもまだマシなほうだし。

 僕に降りかかった理不尽に比べれば、それくらいのこと、些事に過ぎないのだし。

 その自嘲を合図にしたかのように。
 踏切は警報音を鳴らしはじめた。

 特に覚悟もないし。
 特に未練もない。
 機械的に不協和音を響かせる踏切による、自動的に下がっていく遮断機の下を、作業的にくぐって線路の上で止まる。いい具合に、線路の凹凸に車いすのタイヤがはまって固定された。
 あとは電車が来るのを待つのみだ。

 一応、辺りを見渡してみるが、人影一つ見当たらない。
 運悪く助けられる、なんてことはないようだ。
 それを狙って、この場所を選んだのだから。

 なかなか現れない黄泉行きの電車を待っている間、どこを見るでもなく呆けていると、ここから五十メートル先の並木の隙間に、赤いブランコが見えた。
 てっきりただの雑木林かと思っていたが、公園だったようだ。

 その公園の赤いブランコが一瞬揺れたような気がしたとき、待ちわびた凶器が、カタンガタンと走行音を響かせて僕に迫ってくるのを認知した。

 数瞬遅れて、雑木林の皮をかぶった公園から、一人の人間が僕の方へ向かって走ってくるのが見えた。
 長髪の赤髪を靡かせて、その人は必死に走ってくる。

 あぁ、きっと僕を助けようとしてるんだろうな。
 余計なことしなくていいのに。
 というかもう、間に合わないでしょ。

 まだ電車のほうが距離は遠いものの、速度を考えると、あの人は間に合わない。
 僕はもう死ぬだけだ。
 救えなかった、みたいな後悔を背負わせるんだろうけれど、もう僕には関係ない。

 生き物がどう思うかなんて。
 死にゆく者が知ったことではない。

 そうして僕は。
 空を仰いで。
 真夏の青を瞳に写して。
 ゆっくりと瞼を閉じた。

 次第に大きくなるブレーキの音が、誰かの荒い息と足音を掻き消して、警報音と混ざったとき。
 僕の体は車いすごと、宙に浮かんで、空を舞った――



 ――はずだった。
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